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5. 教皇は、自身または教会法が課した罰を除いて、どのような罰をも赦免できない。

贖宥状(しょくゆうじょう)は「罪を赦す」ものではなく「罰を免ずる」ものである。これはマルチンさん一人の考えではなく、贖宥状を発行した教会の前提であった。つまり「免罪符」は誤訳で、「免罰符」であったのだ。

「人が人の罪を許すことはできない」との発想は、人の子が罪を許す故事の反転であろう。


マルコによる福音書2章

5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。

6 ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、

7 「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。

8 イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。

9 中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。

10 しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに言い、中風の者にむかって、

11 「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。

12 すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。


教会及びマルチンさんの発想は、「神の子」とは名乗らず「人の子」と断っているナザレのイエスが手厳しく非難した律法学者の言い分そのままで、なぜ鵜呑みにしなければならないのか筆者には理解できない。

「ハンムラビ法典」では数ある罪に対して報いるべき罰を定め、功績に対して報いるべき報酬を定め、それ以上は求めない。罪を贖ってなお、罪の赦しを神に求めよとは、過大請求もいい所ではないか。

こんなにも神を畏れた一因は、死後の恐怖にあるのだろう。


第3幕第1場

ハムレット:…

…わざわざ重荷を担う馬鹿があるものか、

うんざりする暮らしに不平を鳴らし、汗水垂らし、

死後の恐怖とやらがなかったなら。

知られざる国、その境から

旅人一人も帰らざる、意志を揺さぶる、

人をして、抱える病気に耐えしむる

見知らぬあの世へ飛ばされるより?

HAMLET: ...who would fardels bear,

To grunt and sweat under a weary life,

But that the dread of something after death,

The undiscover’d country from whose bourn

No traveller returns, puzzles the will,

And makes us rather bear those ills we have

Than fly to others that we know not of?


有名な To be, or not to be... に続く台詞の一部で、あれを「生きるべきか、死ぬべきか」と訳してしまうのはどうかと思う。それを言うなら「殺すべきか、生かすべきか」だろう。自分が死ぬつもりでいて「死後の恐怖がため、人は汗水垂らして働くのだから」などと言うのでは意味がない。

仏教徒のような「生まれ変わり」を認めない以上、死後の地獄落ちはより恐怖には違いない。特に新教徒は煉獄を認めないから、天国へ行けなければ地獄落ち、罪責は最後の審判まで終わりなく続く。そもそも当時のヨーロッパは土地の生産性が低く、収穫率はデンマークで3倍に満たず、イングランドで6倍程度に過ぎない。我が国は大正時代で50倍、メソポタミアでは大昔から既に80倍に及ぶ。トマトやじゃがいも他、新大陸由来の農産物も少なくないのも、それ以前の貧しさを物語る。気象条件の差は、信仰如きでカバーできるものではないようだ。この世に於ても良い暮らしができないのに、死んでも終わりなく責め苦が続くとなれば、いい所がない。奢侈を極めたと言っても、今日と比べれば存在する商品自体が限られ、建築以外はたかが知れている。人々が死後の冥福を求めたのも無理からぬところであろう。しかし、福音書は万人の冥福を保証しない。


ルカによる福音書16章

19 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。

20 ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、

21 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。

22 この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。

23 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。

24 そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。

25 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。

26 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。


金持ちは特に理由もなく、死後は黄泉の火炎に焼かれて苦しみ悶える。そういう決まりになっていると知れば、世の金持ちは皆震え上がるであろう。

この硫黄臭い火炎に焼かれるイメージは、そっくりシェイクスピアにも引き継がれている。


第1幕第5場

幽霊∶もうすぐ時間だ、

黄泉(よみ)苦艱(くげん)の炎に

我と我が身を捧げねばならぬ。

GHOST: My hour is almost come,

When I to sulphurous and tormenting flames

Must render up myself.

幽霊∶我こそは、そなたの父が怨霊、

運命(さだめ)られしは夜を彷徨うべく、

日中は火中に閉じこめられて

生きているうちに犯した罪を

焼き浄められるべく。

GHOST: I am thy father's spirit; 15

Doom'd for a certain term to walk the night,

And for the day confin'd to fast in fires,

Till the foul crimes done in my days of nature

Are burnt and purg'd away.


sulphur は「硫黄」、直訳すると「硫黄臭い苦艱(くげん)の炎に」となり、黄泉(よみ)には火山の匂いがつきまとう。

しかしこれは処罰というより「浄化の焔」ではないか。ヒンズーの火神アグニは、ラテン語 ignis の語源でもあり、各家庭の(かまど)を司る火炎であると同時に浄化の力でもあった。日本の山伏(修験者)が修める護摩炊きも、密教を介して伝わったアグニの祭式が元になる。煉獄の火も、元は同じ意味であろう。妬み深いアブラハムの神が、異教の神の名を嫌ったにせよ、祭式の意味まで歪めるのは如何なものか。処罰免除を咎めるマルチンさんにして、何故か「人を苦しめるだけの罰とは違うのではないか」「罪を清める浄化ではないか」とは言わないのが、筆者には納得行かない。天国へ至るには苦痛を味わえと言うのなら、ただのマゾヒストである。

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