ごめんなさい、お幸せに。
「さよなら、蓮...」
少し、俯き加減で彼女は、そう、言葉を吐いた。
『さよなら』と言う君が、俯きながら寂しそうな表情を見せるのは、少し卑怯じゃないだろうか。
君の後ろに立つ見知らぬ男性...新しい彼氏なのか、将又もう1人の彼氏なのかは分からないけど、ただ、昨日今日の間柄では無さそうだと言うくらいは、流石に俺にでも理解出来てしまった。
どちらが、どう、だなんて今更にしてどうでも良いのだけれども、傍から見たら俺がそうなんだろうなって事くらい理解している。
あゝ、勇者よ。
死んでしまうとは情けない!
正確には、俺の方が間男のような感じだろうか。
腕を組んでラブホの入り口から立ち去る2人は、とうの昔に街中の人混みに溶けて行った。
「クッソしんどい...でもちゃんと我慢した俺、偉い。
女難の相出てるって、祖母ちゃんが言ってたけど、真実だったわ。
ていうかさ、俺って、そんなに魅力無さげかな?
そこんとこどう思うよ、後輩ちゃん?」
突然の彼女だった女の浮気現場遭遇から今の今まで空気と化していた、俺の隣に立つ女の子、と言うと『もう立派な淑女です!』と返してくる、一つ歳下の、高校の部活の後輩。今は、大学に通う俺と同期生(俺が一浪したから)。
「え〜っと、私、何かやっちゃいましたっけ?」
「おぉ、その台詞が聞けるとは!」
「まぁ、冗談はさて置き、私が隣に居る事が多かったのも元彼女さん的にはいけなかったかも?
後、先輩は魅力的ですよー」
成程ね。
確かに、後輩ちゃんは同じ学部だし、取っている授業も被る事が多いから、良く一緒に行動している。
でも、元カノだってその事は理解してたし、寧ろ3人でよくランチしてたよな?
だから呆れたとか?
いや、だからって浮気は無いだろ。
やっぱりどう考えても、元カノが悪い。俺に愛想を尽かしたのなら、きちんと別れてから次の恋愛を始めるのが、人として当たり前だろう。
まさか、新しい彼氏の〈お試し期間〉が終わって、天秤にかけられた結果俺が捨てられたとか?
「棒読みサンクス。
まぁ、後輩ちゃんは悪くないよ。今回の件は全面的にアイツが悪い。
そして、そんな女に騙されてた俺も反省しなきゃ、だな」
マジで。良い勉強になったわ。人を見る眼をもっと養えって事だな。後、年寄りの有難い御忠告には耳を傾けましょう、って話。
「そうなのでしょうか?確かに浮気する人の気が知れませんが...その、先輩は、辛くないのですか?裏切られて」
「まぁ、その、何と言うのが正しいのか分からないけど、勿論俺だって普通の男だからな。付き合っていた彼女に裏切られたら辛いさ。というか、彼女に限らず少なからず親交のある人に裏切られたら、フツーに病むぞ?」
今回の件は少し前兆みたいなモノも感じていたから、平静を装っていられるだけで、人間、そんなに強くない。
いや、寧ろ俺は打たれ弱い部類の人間だ。
「そうなんですね...。あんまりショックそうな表情をしてないので。先輩は強いなって」
「そう見えるだけでめっちゃ凹んでるわ。
...まぁでも、まだ後輩ちゃんが隣に居てくれたから気が張れてたってのもあるわな」
「それって...いえ、何でもないです...」
あぁ、少し口説いてるみたいだったかな。
後輩ちゃんには、こんな場面に立ち会わせた俺が言うのもおかしいけど、素敵な恋愛をして欲しいと心から願ってる。
きっと、良い男性との出会いがあるはずだから。
「変な空気にしちゃったな。
後輩ちゃん、駅まで送るよ。ご飯食べる約束はまた後日にしよう」
「はい。今日は止めておきましょう。また今度誘って下さい」
最寄りの駅まで他愛もない話をしながら歩く。
飲食店が立ち並ぶ繁華街は、ネオンが綺羅綺羅と弾けていて。騒めく通りのすれ違う人混みの賑わいが、心なしか俺の心を落ち着かせてくれていた。
次は、楽しく飲みに来たいな、と。
程なくして地下鉄の出入り口に着き、後輩ちゃんを無事に見送った。
明日は講義の無い日(だからこその今日の食事だったのだが)なので、ぽっかりと予定が空いてしまった。
徒歩圏内のマンションに一人暮らしの俺には、終電の概念は無い。今日は外食の予定だった為、冷蔵庫には食材のストックも寂しく、かといって今からスーパーで買い出しをして作るような気力も無い訳で。
「少し飲んで帰るか」
ふらふらと、目的地を探しながら歩いていると、明るい通りの奥、一本裏に入った所で良さげな店を見つけたので、暖簾を潜った。
「いらっしゃいませ」
あまり広くはないが、小綺麗なカウンターメインの店内。
一つだけあるテーブル席には熟年のご夫婦らしい客が和やかに食事していた。カウンター席は疎らで、俺は『お好きな席へどうぞ』、という店主の言葉に従いL字型の三席しかないカウンターの一番端に座る。
「何を飲まれますか?」
渡された温かいおしぼりで手を拭きながら、ドリンクメニューを拝見していると、
「今日のおすすめの地酒、ですか」
「ええ、今日は愛知の酒蔵の酒で“花野の賦”です」
「では、それをグラスで下さい。後、軽く摘めるものをおすすめでお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
少しだけ待つと、おすすめの地酒と、お通しの小鉢が配膳されたので、頂きます、と呟いて箸を進めた。
「美味しい...」
お酒も小鉢も、その後に出てきた料理も。
華美なものでは無かったが、一つ一つがシンプルに美味しい。丁寧な仕事振りが分かる料理だった。
「ありがとうございます。もう少し、召し上がりますか?」
「あ、はい。後一皿くらいなら食べれそうです」
「では、ご用意しますね」
そう言って店主は料理を作り始めた。
何気無く、カウンターから覗く店主の手元を見ながら日本酒をちびちびと飲む。
お洒落なカクテルや生ビール、酎ハイにハイボールを飲む事はあるが、日本酒は馴染みがないのでゆっくり味わって飲む。
中々、美味いじゃないの。和食には日本酒、なんて当たり前のように聞こえるかも知れないが、そんな当たり前が、今はこの上無く美味しく感じる。
あぁ、そうか。
思いの外、ダメージを受けていたんだな。
そう思えるくらいに、この料理やお酒が心に沁みているんだな、と実感する。
当たりだったな、と思いつつ箸を置く。
食事の余韻に浸りながら、少し乾いていた心が潤った感覚を覚えていると、カウンター内の店主と目が合った。
「お客様、初めてですよね?」
「あ、はい。ふらっと見つけて入りました。とても、美味しかったです」
「ありがとうございます」
少し、会話を楽しんでから会計を頼んで席を立つ。
「またのお越しをお待ちしております」
「また寄らせていただきます。ご馳走様でした」
良い店に出会えた事に感謝し、店を出ようと扉に手を掛けると、テーブル席のご夫婦の声を拾う。
「美味しかったですね、先輩」
「懐かしい呼び方だなぁ。確かに美味しかったよ、後輩ちゃん」
「あらあら、まあ。若い頃を思い出しますね」
あはは、と仲の良い優しい会話を背に店を出る。
俺は。
...そんな気持ちを持っちゃ不謹慎だと自分に言い聞かせていたのにな。
悪いのは俺の方だったかも、と思えるほどには、後輩ちゃんに気を許していたな。
ごめんなさい、元カノさん。
不誠実だったのは、俺だったかも。
さっき言えなかったけど、お幸せに。
「今度、後輩ちゃんと来るかな」
そんな呟きは、繁華街の雑踏に飲み込まれていった。
御一読頂きありがとうございました。






