中華百鬼夜行・解呪
「だって、まさかこの期に及んで死にたくなくなるとは思ってなかったんだ。生きることに飽きて疲れたこの僕が、まだ生きていたいと思うようになるなんて。それだけが本当に、誤算だった」
諦めたようにポツリと、梁はこぼした。
「縁と生きてみたかったなぁ」
縁は一度唇を引き結ぶと、わざと大げさにため息をついてから不遜に言ってのける。
「その手の恨み言なら次会ったときに聞いてやる」
「え? 次、って……?」
キョトンとした様子で、梁は首を傾げた。その仕草は、千五百年を生きたとは思えないほど幼い。
「君は死なない。『画竜点睛』の伝説が滅びない限り、君が本当の意味で死ぬことはないだろう」
梁飛龍は、張僧繇の最高傑作であり、画竜点睛の伝説を依代にした神獣であり、その化身なのだ。
多くの人から画竜点睛の逸話が忘れ去られない限り、完全に消滅することは、ない。
たしかに梁飛龍として生きた千五百年の記憶はここで消えて誰にも引き継がれることはないのかもしれないが、少なくとも縁は梁を覚えているし、これからも覚えていたいと思っている。
「だって、張僧繇が君にかけた呪いを解くだけでは、私がもらった恩寵に、まだつり合わない気がするんだ。だから、」
結構勇気がいることを口にしなければいけないので流石に一息にはいえなかった。しかし縁は改めて覚悟を決めて、言い切った。
「だから私は君を描く。もしも私が張僧繇をも凌駕する龍の絵を描けたなら、たぶん、また会えるんじゃないか?」
それがこの、千五百年近く生きて苦しんだ梁飛龍と全く同じ龍なのかはわからないが。それでも。
「私は君を忘れないし、また会えると信じて描く。それでもう一度会ったとき、君に二十年間、助けて貰ってた分のお礼を言うよ」
梁は半ば呆然と縁を見つめ、困惑を滲ませたまま問いかける。
「……それは、いま言ったようなものなのでは? というより、どうしていまは言わないの?」
「何度も言うけど、今回私はともかく、大勢の人を巻き込んだでしょ。あれはダメ。絶対許せない」
一度目のループで大勢が死んだ。鹿苑に至っては四度死に、芦屋もあわや溺死寸前のところまで追い込まれた。酒巻も鳳も泥亀も、強制的に自分の心のうちを曝け出すはめになり、存在を消去されかけた。
「謝られたってすぐには呑み込めないし割り切れないよ。……表現することを許されなかった君に、創作者への羨望があったことはわかるけど。だからって殺したり傷つけて利用してもいいわけがないでしょ」
梁は反論しない。縁の言うことを黙って聞いている。縁はふう、と深呼吸をして、静かに続けた。
「でも私は君に、感謝すべきことだってたくさんあるのはわかるから。時間を置いて、ほとぼりを覚まして、それから言うことにしました」
宣言した縁に、梁は納得したらしい。
「なるほど」と頷いていた。けれど、まだ怪訝そうに縁を窺ってもいる。
「張僧繇を越えるって、本気?」
縁は軽く目を泳がせたが、それでも伊達や酔狂で口にしたことではないので、梁を見つめて、言った。
「何年かかるかはわかんないけど、やるって決めたら私はやる」
いや、さすがにすぐには無理かもしれない。なんなら十年、二十年はゆうにかかる可能性もある。と、自分で言っておきながら妙に弱気になった縁はボソリと付け加えた。
「あの、だいぶ待たせるかも。……おばあちゃんになってたらごめん」
再会したと思ったら龍の体感で一瞬のうちに縁が死ぬこともあり得る。
「それはなるべく避けたいのだけど……」と唸る縁に梁は瞬いて、眩しいものを見るように目を細めた。
唇を引き結んで、波を蹴飛ばし抗うように砂浜まで足を進めると、縁の前まで歩み寄り、強く抱きしめた。勢い余ってたたらを踏んだ縁が「おい、ちょっと……」と抗議の声を上げるが、梁は縁の文句には答えない。
「そういうところだ」
「な」
なにが? と聞こうとした縁を遮って梁は、
「誰もが無理だと思う難題に挑戦する気概」と告げた。
そこから、こんこんと言葉が溢れ出した。
「自分の力を迷わず他人のために使う」「他人の苦痛に寄り添おうとする」「悲嘆に暮れる人には温かな解釈と言葉をかける」「何事にも努力を惜しまない姿勢」「理不尽に対して気丈に抵抗する強さ」「なにより、描くことが大好きで、とても楽しそうに筆をとるところ」
全部。全部が好きだ、と小さく聞こえた。
「絵を描いているときの縁が一番すてきだ。本当に描くことを愛しているのだとわかる。いつだって真剣に描く対象と向き合って描いているから、縁に描いてもらえるモチーフやモデルはどれだけ幸福なのだろうと、私はいつも、そう思って……」
言葉が途切れる。
「縁が、描いてくれるんだな? 本当に? ……私を?」
声が震えている。
「……ダメだ、言葉にならない」
空が白みはじめた。梁は、泣いていた。泣きながら笑っている。
梁はなんとか、振り絞るように口を開いた。
「ありがとう。いまこのひと時を迎えるために、私は千五百年を生きたのだ」
縁は黙る。腕は垂らしたままでいる。なにも応えてはやらない。
許してはいけないことはわかっていた。
けれど、ほんの少し、千五百年もの間、一人の画家と芸術を心から慕い続け、その心を理解したいともがいた龍が報われた瞬間があったのなら、それはそれでいい気がしていた。
梁は縁のつむじに唇を寄せ、息を吹き込んだ。
吐息を通して、霊力のほとんどを縁に明け渡すように、梁は縁を祝福した。
縁は驚いて思い切り梁を突き飛ばし、距離を取る。
「……なに、いまの」
髪を抑えながら何が何だか分からないと問いただす縁に、梁は微笑んで答える。
「『厄払いの絵画』のルールを変更した。〝赤いテクスチャ〟が剥がれたとき、必ず縁の絵は元に戻る」
梁飛龍から贈られた縁の異能『厄払いの絵画』。いままでは厄を予告する〝赤いテクスチャ〟が剥がれると、怪異がモデルに与えたダメージが絵に反映され、ときに惨たらしく変化することもあった。
それが、失くなる。
「作品をいつも慈しんでくれた縁なら、喜んでくれる……と、思うのだが、すまない。龍なので、人間の感覚や感情の機微については疎く、自信がな、」
「ありがとう」
梁が弁解し始めたのを遮って、縁は食い気味に言った。
「これはいま言うべき、〝ありがとう〟だった」
言い訳のように付け加えた縁に、梁は穏やかに目を細めた。
縁は頭頂部を抑えて、ジト目で梁を睨む。
「……ただ、本当に君のやり方はどうかと思う」
「え? なにが?」
きょとんとした顔で首を傾げられたので、縁は深々とため息をこぼす。
怪異と人間の感覚に差があるのは仕方のないことだ。それにしたって、と縁は腕を組んで言った。
「次に会ったときは〝人間との適切な距離感〟をみっちり教えてやるから覚悟することだね。……君はなんというか、距離の詰め方がおかしいというか、〝近い〟よ。いろいろと」
「ははは!」
縁が真面目に言ったことのなにがおかしかったのか、心底愉快そうに梁は笑う。
「さて、せっかく描いてくれるというのなら、格好良く描いてもらわねばな。怖がらせるのは本意ではないので、最後まで見せるか迷ったが」
梁は片手で顔を隠した。
「ほんとうの、私のことを見てほしい」
途端に強い海風が吹いて、縁は思わず目をつむる。
そしてもう一度目を開けたとき、そこにいたのは青年ではなかった。
龍だ。
頭から尾の先までは三十メートルをゆうに超える。鼻先からツノの先端までは三メートルほどあるだろう。
威容に圧倒されて縁は息を呑む。厳かなだけでなく、美しい獣だった。
白い鱗は光を反射して螺鈿のような光沢に煌めき、青みがかった銀色のたてがみがそよ風に靡いている。金色に輝く瞳が縁を捉えると、うっとりと目を細めて、縁の手に顔を寄せた。ほのかに温かく、生きている。
縁の瞳から涙が溢れた。
一人の絵描きが生みだした――張僧繇の最高傑作である画竜点睛の龍は、命の終わりが間近にもかかわらず、こんなにも眩く輝く。
その姿を目に焼きつけようと、縁は涙を拭って、龍を見た。
龍は手に頭を擦り付けるようにして、縁を窺い、喉を鳴らす。笑ったのだと縁は思った。
龍は名残惜しむようにゆっくりと縁から離れ、高らかに一声鳴いた。教会で鳴る鐘の音に似ている。
それが別れの挨拶だった。
砂浜の砂を巻き上げて、飛び立った龍は朝焼けの空に溶けていく。
姿が見えなくなるまで見送ると、縁は深く、ため息を吐いた。
胸の前、指でフレームの形を作る。中華百鬼夜行の術士と依代が組んでいた印を、縁は真似た。
「『ただいまより、略式で解呪の儀を執り行う、解明者の名は月浪縁』」
以前禊に教わったやり方である。大掛かりな呪いはきちんと手順を踏んで、解き明かしたことを確認することで完璧に解くことができると聞いていた。
「『呪いのルール――中国神話に語られる霊獣、龍、虎、鳳凰、霊亀、麒麟を中心に行う時間遡行式〝百鬼夜行〟』」
パキン、と音を立てて空間に亀裂が入る。縁は異変に構わずに続けた。
「『呪いの対象――麒麟の恩寵を受けた者。月浪縁と鹿苑旭』」
「『呪いに至る動機――四つ。〝月浪縁が麒麟の恩寵を受けたため〟〝月浪縁に術士の正体を知覚させたかったため〟〝呪いという形で、瑞獣の身では許されない創作を行うため〟』」
縁は一度唇を引き結んだが、気を取り直して声を張る。
「……『〝月浪縁を祝福するため〟』」
「『呪いの首謀者、術士――怪異・瑞獣の一つ。〝画竜点睛の龍〟梁飛龍』
「『これを持って呪術式の解明とする』」
縁は一呼吸おいて、印を崩した。
「『百鬼夜行、解呪』」
音を立てて、空も、海も、砂浜も、その空間を構成する何もかもが砕け散り、白い光の中に縁の身体が投げ出された。抗いがたい眠気に似た感覚が五感を鈍らせていく。
縁はその感覚に身を委ね、目をつむった。
夜は終わり、朝が来た。




