千五百年の愛の終わり
縁は歯噛みして、梁を糾弾する。
「呪ったのが私一人なら、まだ許せたかもしれない。だけど君は鹿苑旭を巻き込んだ。酒巻虎徹、鳳アンナ、泥亀伊吹、芦屋啓介。それから、ただ芸術祭の最終日に来ていただけの大勢の人たちを……」
地獄絵図と化した一回目の十月三十一日。大勢が怪異に殺される光景は、芦屋もまだ覚えている。縁は百鬼夜行が始まってすぐに死んだから覚えていないのかもしれないが、それが自分のために起きた惨劇と知って、当然に憤っていた。
「絶対に許さない。死に逃げなんてさせるものか」
だが、禊の見立てが正しいのなら梁はまもなく死ぬのだろう。深く絶望している梁にとっては死など望むところなのだろうし、結局のところ、後悔させたり更生させることは不可能ではないかと、芦屋は思った。
禊も芦屋と同様の疑問を覚えたようで、釘を刺すように口を開いた。
「縁。ルールはルールだ。その龍は必ずここで死ぬ」
「わかってる……わかってるよ。だから、見方を変えさせる」
縁は梁のそばへと寄った。
「梁飛龍。君に授けられた『厄払いの絵画』には、苦しめられた以上に、助けられたことも事実だ。君が私を守ってくれていたことも、嘘じゃないんだろうと思う。だけど、」
梁のかけていたひび割れたサングラスを縁はとった。銀色に変化した目を丸くして、梁は縁を見つめている。
「いまから、私は君にとてもひどいことをする」
縁は一度嘆息すると、顔を上げて言った。
「千五百年前に張僧繇が君にかけた呪いを、私が解こう」
「僧繇が、私を、……呪った?」
梁は困惑した様子で縁の言葉を反芻する。
「張僧繇が君を最高傑作と言ったのは、本当に、文字通り、君こそが最高傑作だったからだよ」
縁は梁の反応には構うことなく、淡々とした調子で、梁が理解したいと願った僧繇の最後の言葉の意味を、あっさりと断じてみせる。しかも、特に深い意味などないと。
梁は不快そうに眉根を寄せた。
「……そんなはずはない。私の他にも、僧繇はいくつも傑作を描いた」
「命を得たのは、君と片割れだけだ」
梁の目が驚きに見開かれる。
「張僧繇の異能が、『全力で描いた絵に命を吹き込むもの』だというのなら、僧繇は普段から実力を抑えて絵を描いていたはずだ。僧繇は仏教絵師であり宮廷画家。皇帝の命令で絵を描く人間だったのなら、全ての作品に命が吹き込まれては困るだろう」
芦屋は縁の言い分に納得する。
縁自身、『厄払いの絵画』の性質との兼ね合いで、人間をモデルに描いた作品を公の場で発表することを避けざるを得なかった。赤いテクスチャが浮かんだり消えたりするのだ。公にしている作品がそんな変化をしたら大騒ぎになるだろう。
張僧繇が『全力で描いた絵に命を吹き込む』タイプの異能者であるなら、縁よりもよほど作品に対する向き合い方には慎重になるはずだ。なにしろ、皇帝に請われて馬鹿正直に作品を全力で描いてしまえば、壁画はただの壁になり、絵はただの紙に戻ってしまう。
「皇帝の望む作品は〝作品の抜け殻〟であってはならない。たぶん、手を抜かざるを得なかったと思う。他人には『素晴らしい作品である』と認識させはするけど、自分で納得する作品なんて――張僧繇が全力で作れた作品なんて、ほとんどなかったはずだ」
そして、どんなに他人からの評価が高くても、手を抜いて描いた作品を、作家自身が『最高傑作』とは呼ぶことはない。
「だから、『画竜点睛』の逸話となった出来事は、偶然が重なった結果生まれた、張僧繇が全身全霊をかけて腕を振るう貴重な機会でもあったのだと思う」
あらかじめ龍を四体描いていて、二体に瞳を入れてももう二体が残ること。どうしても瞳を入れろと請う人々。皇帝の面目を守るために瞳を入れても良い状況。要素が重なり、僧繇は全力で腕を振るう機会を得た。
その機会を、僧繇は逃さなかったのだろう。
「張僧繇がいかに嬉々として、瞳を入れたのか私には想像がつく。きっと、他のどんな作品を作った時より達成感があっただろうね。自分の持てる力を十全に出し切って、その成果は命を持って目の前に飛び出してくるんだ」
縁の推測は梁の語りともつながる。最後に画竜点睛の逸話を梁に向けて語った僧繇の、愛しんで懐かしむような物言いは、それこそ全力で創作に臨めたときの数少ない宝物のような思い出を口にしていたから、ではないだろうか。
「それに、張僧繇は画竜点睛の伝説が後世に残ることを、生前から予期していたんじゃないか?」
縁は軽く目を伏せて推察する。
「張僧繇が生きたのは後世まで作品が残りにくい時代だ」
梁自身が語った通り、戦争や弾圧が起きれば美術品は略奪されることもある。現代のように美術館や博物館があるわけじゃないから美術品を保存・研究する技術も足りない。
「そんな中で、君は伝説になった。当たり前のように、千五百年後の現代の日本に生きる人間が画竜点睛の逸話を知っている」
縁の言葉に、力が篭った。
「『たとえ作品そのものが滅びても』」
梁の目が驚嘆に見開かれる。
芦屋の目には、縁の姿に、誰か、別人の姿が重なって見えた気がした。
「『身分を越え、国を越え、時を越え、一つの作品を大勢の人間が夢想し、想像の筆を走らせたなら、作品は作家の手をも離れ、永遠を生きるだろう。……作家として、これほど喜ばしいことはない』」
梁は呆然と呟く。
「……僧繇の言葉だ。私の落剥した記憶の一つを、語りで、引き寄せたのか?」
以前も、似たようなことがあった。悪霊と化した梶川密と相対した一件。縁が真実を掴んだとき、井浦影郎が殺される瞬間が再現されたことがあった。
梁飛龍が語り、月浪縁が読み解くことによって、張僧繇の心が浮かび上がる。
縁は喉を押さえながら、頷く。
「君は間違いなく、張僧繇の最高傑作だ」
縁は再び断言する。それに、梁が異を唱えることはなかった。
「きっと、君が生きているだけで張僧繇は幸せだったよ」
縁の顔に、同情の色が浮かんだ。
「君が弟子入りを申し出てくれたときは、とても嬉しかったと思う。芸術から生まれた君が、芸術を学びたいと願い出るのは、『描いてくれてありがとう』と言われたのと同じ心地がしただろう。……それは作家として、どれほど嬉しいことだろう」
縁は作家として、張僧繇の心を紐解いていく。
「きっと、長く生きてほしいと願わずにいられないほどの、喜びだったに違いない」
ああ、と芦屋の口から感嘆のため息が溢れた。
『梁に長く生きてほしい』と、僧繇は願った。そのために遺言のような言葉を残した。
「だから張僧繇は『芸術を続けてさえいれば、いつかわかる』と言ったんだ。君が張僧繇の心を理解しようと思うあいだ、必ず生きてくれると信じたから」
最初は祝福だったのだ。梁飛龍を大切に思っているからこそ、長く生きてほしいと思って、自分の言葉を生きるためのよりどころにさせた。
それが、千五百年の時を経て、呪いに変わった。
愛情が、相手を幸せにするとは限らない。
「……いまさら」
梁の目からはらはらと光るものが落ちた。床に落ちるとカツン、と小さく音を立てる。薄い透明な鱗だった。いま、梁の瞳は金色に輝いている。
「今更気づいても、遅いじゃないか。呪いに命を注ぎ込んだ私は、もう、死ぬさだめだと言うのに。長く生きてほしかっただなんて、そんな……」
張僧繇の隠された望みは『梁飛龍に長く生きてもらうこと』だった。
だが、いまになってわかっても、梁はその望みを叶えることができない。
「自暴自棄になって死を選んだことを、後悔しながら死ぬ。それが、自分の命を捨ててでも誰かに呪いをかけた君への、応報だ」
冷たい声で、縁は梁に言い捨てる。
縁の言っていた「ひどいこと」というのは、これだったのだ。
だが、縁は硬く目をつむると、震える声で告げる。
「……ずっと私を守ってくれていたのに、気づいてあげられなくて、ごめん」
梁は謝罪した縁に目を丸くすると、眉を下げて、穏やかに微笑む。
梁自身が語った張僧繇の、慈しむような笑みはこのような感じだろうかと芦屋は思った。
「……禊。どうやら私は腐っても瑞獣の一つのようだ。試練に打ち勝った者には恩寵を与えなければならない。いささか派手に力を使うが、大目に見てくれ」
玉座に腰掛けた禊を見上げて梁は言う。
「死に花のつもりか、怪異のくせに」
「許せ」
禊は冷ややかな目を向けたが特に咎め立てようとは思っていないようだった。
「くだらん。私の許可など求めるな。どうせ死ぬのだ。好きにしろ」
「……おまえは芸術を解さぬ野蛮な暴君だが、粋に通じるところがあるのだよな」
禊は梁の評に「放っておけ」と短く吐き捨てた。
梁は緩やかな所作で立ち上がる。すると、五角審判の間が変化し始めた。
深海を思わせる水の色が徐々に明るくなり、透明な装飾に色が入る。死んでいた竜宮城が息を吹き返すように、鮮やかに色づいていく。
「『呪術・中華百鬼夜行の主人として、千五百年を生きた瑞獣・龍として、月浪縁を祝福しよう。祭りの終わりに立ち会う人間のすべてにこの龍の走馬灯をお目にかけよう!』」
それは口上だった。溢れんばかりの色の洪水が壁を破って雪崩れ込んでくる。
「私の見た、うつくしいものすべてを、君に」
優しい声で梁が縁に声をかけたのを、芦屋は最後に聞いた気がした。




