絶望は獣を殺す
【芦屋啓介】
「張僧繇の生に触れたことが私の瑞獣としての在り方を決定づけた」
立膝を立てて、梁飛龍は静かに語る。
「私が力を注ぐのは芸術に才ある者が好ましい。――芸術の道を往く人間に関わっていなければ、実際に手を動かして創作することの叶わない私の目は、容易に曇る」
張僧繇は梁に、最高傑作である理由を明かさなかったが、芸術に触れ続けていればいつかはわかると言った。その言葉を、梁は信じることにしたと言う。
「僧繇の最期の言葉は、どうも世辞や方便で言っている様子ではなかったのだが、私には理解できなかった。僧繇の言葉に従ったとして、……人の心を、怪異の王で瑞獣たる龍の私が理解できるかは定かでないが、それでも、」
それでも理解したいと、思ったのだろう。
だが、梁は自嘲するように笑った。
「……ふふ、いや。いまの私が瑞獣など名乗るのはいささか烏滸がましいか。真に心を砕き幸福であれと望んだ人間を、私は幸福にできた試しがない」
「どういう意味?」
月浪縁が促すように尋ねると、梁は昏い眼差しで答える。
「僧繇の望みは名声ではなく、自身の作品が永く後世に伝わること。しかし現代に僧繇の絵は一枚たりとも残っていない」
僧繇は梁に自分の作品は天命に任せて、ことさらに守るなと言ったはずだ。
「……約束だったんだろ?」
芦屋啓介が尋ねると、梁は「そう、約束だった」と頷く。
「本当は、作品を守ってやりたかった。……約束だから、僧繇の望みを優先したが。……宗教弾圧や戦争は容赦なく、僧繇の作品を焼き、砕き、破壊した」
梁は吐き捨てるように言う。
僧繇は仏教絵師だ。その作品は寺院に収蔵されたり宗教色の強いものだったりする。となれば、時代の流れで破壊されることは、ある。
「確かこの国にも少し前に似たようなことがあったな?『廃仏毀釈』と言ったか? 唐の時代にそれと似たようなことが起きた。どさくさに紛れて僧繇の絵を自分のものにしてしまおうと目論んだ好事家が絵を引き剥がして収蔵し、結局一代や二代限りで失くしてしまっている」
明治の初めに日本で行われた廃仏毀釈のことを梁は引き合いに出した。これが〝少し〟前のことかどうかはともかく、時代が進んでも人間のやることが大差ないことは確かだ。廃仏毀釈では、多くの仏像や仏具が焼かれた。
「信じるものの違いは人や人が作った文化を焼くほどのことなのだろうか? 私には理解しかねる」
梁は不思議そうに述べると、なおも続ける。
「僧繇が仕えた梁国の皇帝は武帝だが、これの息子の元帝は亡国に際して十四万を越える書物に火を放って、その中に飛び込んで死のうとした。女官に助けられて元帝は助かったが書物は燃えた。中には僧繇の作品もあった。あの男、呆れたことに文化と心中するつもりだったらしい。そのくせ死に損なった」
くつくつと肩を震わせて、低く嘲笑った。
「……私も、あの愚かな男と変わるまい。私の元となった壁画が崩れたとき、ともに朽ちるものと思っていたのに、私は生き延びてしまった。多くの人が『画竜点睛』の逸話を語ったおかげで私の怪異としての強度はなお磐石になり、依代が崩れた程度ではなにも損なわれない。……私は張僧繇の作品として死ぬ機会にも恵まれなかった」
梁は落胆に顔を伏せた。
「結局私が叶えられた望みというのは『天寿を全うするまで絵を描かせてくれ』という一つきりで、僧繇自身の命を削って叶えたそれが僧繇を幸福にしたのかどうか、」
梁は結論を出すことを恐れるように言葉を切った。黙って話を聞いている縁へと、言葉の矛先を向ける。
「……縁。私は君のことも苦しめた」
縁は軽く目をすがめて、問いかける。
「君、私のことを張僧繇に寄せようとしたでしょ」
芦屋は思わず縁の顔を注視した。縁の顔は不思議なほど凪いでいる。
「君の語りから察するに、張僧繇は異能者だ。絵画に命を吹き込む異能。……創作を通して力を発揮するタイプの」
「そうだ。禊に出会い、縁の加護を願われたときから、絵にまつわる力を与えようと決めていた。私の望みを叶えるために」
梁の望みとは、張僧繇が梁飛龍を最高傑作と呼んだ理由、その意味を知ること。
「私と、張僧繇を比較しようとしたんだな?」
「そうすることでしか、僧繇がなにを思っていたか知る術はない」
縁を、僧繇と同じように創作を通して力を発揮するタイプの異能者にすることで、僧繇を知ろうとしたのだ。
芦屋は拳を固く握りしめて、覚えた怒りを噛み殺す。縁自身は極めて冷静に梁の話を聞いているので、芦屋が怒る筋合いでもない。
梁は気まずそうに首を横に振った。
「……誓って言うが、『禊の依頼を受けて、縁に充分な加護を与えた上で、私にも利がある』。そのつもりで授けた力だった。まさか厄払いの絵画の力を与えたことで縁が思うように絵を描けず、怪異を示唆する赤いテクスチャが浮かぶたびに苦痛を覚えることになるなど、夢にも思っていなかった。ずっと」
梁は本当に申し訳なさそうに、頭を下げる。
「ずっと君に、謝りたかった」
チグハグだ。
縁を大事に思っているが殺そうとする。苦しめるが、心からの愛情を示そうとする。
……おそらく梁が怪異だからだろう。感覚も視点も異なる梁のことを真から理解するのは難しいのかもしれない。
だが、縁はずっと、梁の話を聞いて、なにかを考え続けている。おそらくは、〝呪い〟を解くための糸口をずっと探しているのだ。
「最初は、禊の依頼をこなしながら、縁と張僧繇と比べるために力を注いだ。ずっと縁を見ていた。見ていればわかる。君は幸福に値する人間だ。そのように成長した」
梁は眩しそうに縁を見つめる。
「授かった力を他人のために使う。そのために、他の全てを投げ打って創作に没頭し、自分の未熟を恥じて克服しようともがく。困難に立ち向かう。――その姿勢を美しいと思う。創作者としても、いまを生きる命としても。……君は、私の憧れそのものだ」
本当はここまで入れ込むつもりはなかったのだと梁は言う。
人と関わり過ぎれば毒になると、僧繇と死に別れた際に嫌というほどわかっていたのだと。龍と人は寿命が違う。普通、人は必ず龍よりも先に死ぬ。情を移せばつらいことはわかり切っている。だから、人とはそのつもりで関わるようにしていたのだと。
「禊との契約は期限も短い。二十年間、縁を守り力を授けるだけなら死に別れる心配もなく、言葉を交わすことがなければ情を移すこともないと、愚かにもたかを括っていた私は、結局縁を愛してしまった」
覚えた愛情は当初の懸念通り、毒になった。
梁が最初は好都合に思っていた禊との契約は疎ましいものになっていく。
正体を明かせなければ梁にできることは限られるので、縁が苦しんでいても面と向かって助けることもできない。だから歯痒くてたまらない。
怪異のもたらす苦難に涙する縁を励ますことも、血の滲むような努力を認めて支えてやることも、契約に縛られた梁にはかなわないから、もどかしい。
そして、梁は契約の盲点をつくような行動を取り始めたのだ。
「正体を明かすことがなければよい。せめて言葉を交わすことができないかと考えて、私は人の姿をとった。美術大学、特に東美怪奇会なるサークルは大変に活動しやすかった。創作に励み怪異を好む人間との会話は心地よく、楽しい。……とても楽しかった」
「いずれは終わる時間と承知の上じゃなかったの? 築いた関係をなぜ自分で壊すような真似をした?」
「もともと、『厄払いの絵画』を縁に完全に引き渡すにあたって、私は東美怪奇会の成果物を使った試練を与えるつもりではあった。だが、……このように、惨たらしい趣向を凝らしたのは、いまだ腑を焦がすような怒りゆえだ。しかしそれも、元はといえば私の浅はかさが招いたことでもあるだろう」
梁は後悔を露わに呟く。
「私は縁を麒麟の筆に、引き合わせるべきではなかった」
『引き合わせた』とはどういうことか。芦屋が困惑に首を傾げると、梁は淡々と口を開く。
「麒麟の筆を作ったのは私の片割れだ」
「……は?」
芦屋と鹿苑旭がほとんど同時に驚愕の声をあげる。
縁は眉根を寄せた。
「瑞獣は、創作することができないのでは?」
「普通なら。だが、瑞獣に課されたルールを守った上で作られたものは例外となるらしい」
「どういう……」
「麒麟の筆の性質上、『瑞獣は人間に試練と恩寵を与える』のルールを一応は守ってはいるだろう? 『寿命と引き換えに優れた作品を作らせる』――寿命の減少は試練にあたり、結果生まれる優れた作品は恩寵とも言える」
屁理屈なのではなかろうか、と思ったが、確かに、ルールを破っているわけでは、ない。
「私の片割れはルールの抜け穴を突いて自分の思い通りに振る舞うのが、やたらに上手いのだ」
梁も自分の片割れに対する呆れを隠しもしない。
「アレは瑞獣のくせに人間が嫌いだ。どうやら千五百年経っても反抗期が終わっていないらしい。『人が芸術品を扱うように、俺も人間を扱おう』と言って瑞獣の天命を遂行したがらない。天罰スレスレの行動を取る。人間の汚点・欠点ばかりに目を向けて露悪的に振る舞う愚か者だ」
「私もアレの気持ちが、全く理解できないわけではないが」と、梁は続けた。千五百年も生きていれば、人間の欠点も嫌と言うほど目の当たりにしてきたのだろうと思わせる一言だった。
「しかし麒麟の筆はダメだ。芦屋啓介には以前話したが、私は麒麟の筆が嫌いだ。身内の恥だ、あんなもの。放置していてはよろしくない。そこで一策を講じた。縁を麒麟の筆の最後の使用者である青背一究の展示に向かわせ、麒麟の筆との接点を作る。一度関わりができれば縁の霊媒体質は必ず麒麟の筆を縁の周囲に呼び寄せるだろう」
そうすれば、と梁は後悔を滲ませながら言う。
「きっと縁は麒麟の筆を壊してくれるだろうと、期待した」
これまでの会話での梁の思考は理解不能な面も多かったが、麒麟の筆の破壊を期待したのだという梁の言い分を、芦屋はなんとなく納得していた。
確かに縁は麒麟の筆を使った作家・青背一究のことを全く評価していなかった。人間の寿命を消費して優れた作品を作らせる麒麟の筆を怪異、危険物、この世にあってはいけないものだと見なして壊そうとしてもおかしくはない。実際、今回は麒麟の筆と再び合間見えてほどなく、禊の護符で燃やしている。
前回はタイミングが悪かったのだ。縁の関わった事件ではじめて人死にが出たこと、スランプに陥ったことなどから縁は精神的にかなり参っていた。そのため、麒麟の筆に取り憑かれてしまったのだろう。あれは本当にレアなケースだったと思われる。
「だから、本当に想定外だったのだ。まさか縁が麒麟の筆に憑かれるなんて思ってもみなかった。ミイラ取りがミイラになってしまったので、私は本当に、かなり、とっても、焦った」
「そんなことを言われても困るんだけど」
しかし縁の困惑も当然だ。勝手に期待されて勝手に焦られてもどうしようもない。だが梁は縁の困惑をあっさりと無視した。
「あろうことか、縁は自ら死のうとまでした。本当に、嫌だった。しかしそんな、急を要する事態でも契約は私を縛る。縁を直接助けることはできない。禊に助力を請うたが、その女は様子見に回った。……自らの出る幕ではないと」
禊は玉座に腰掛けたまま軽く目を閉じて梁の話を聞いていたが、自分の名前が話題にあがれば無視できなかったようだ。気だるそうに目を開ける。
「縁自身の力で解決可能なことに、私が口を出すのは過保護だろう」
「おまえはいつも縁を、千尋の谷に落とすような真似ばかりする」
「娘を信じているからだ」
禊は強く言い切った。
「娘は、本当にどうしようもなくなったとき、必ず私を頼るだろう。頼られたなら味方になる。助けもする。そのときまでは信じ抜く。それが親というものだ」
並外れて厳しい母親なのだろうということは、縁から伝え聞く禊の話や、電話越しの禊の態度から察していた。
だが、おそらく禊は縁を厭わしく思っているわけではない。
「……私には耐え難い。そんな風にはとても思えなかった。気が気でなく、芦屋啓介に助言をせずにはいられなかった。そしてその末に、縁は麒麟の恩寵を受けた」
梁の声が憎悪に低く沈む。
「あのときの全身の、鱗が逆立つような感覚は忘れがたい。腑を焦がすような妬ましさと自己嫌悪が私を灼いた。いまもなお私は灼かれている。千五百年もの間私に巣食っていたどす黒い病が、火傷から一気に噴き出したようだった」
梁は眉根を寄せて、千五百年の生き方を振り返り、吐き出すように言葉を紡ぐ。
「私は張僧繇の弟子になれず、親と慕うこともできず、作品として死ぬことも叶わず、僧繇の今際の際の言葉の意味を千五百年かけても理解し得ず」
「月浪縁と出会い、僧繇の言葉の片鱗を捉えられるかもしれない期待に浮かれ、月浪禊と、君に正体を明かさない契約を交わし、縛られ」
「祝福のつもりで与えた力で、心から愛した君を苦しめ」
「君が苦境に立たされているとき自ら助けることも叶わず、たとえ私が居なくなろうとも、君は麒麟の寵愛を変わらず受ける。きっと私のことなど気づきもしない。……この生に、いったいなんの意味があるのだ」
強烈な自己嫌悪。自殺願望。
――人間の心を理解したいと願った龍は、千五百年をかけて、絶望したのだ。
「真に大切な者を幸福にすることのできない瑞獣に、永遠を生きる価値はなく、どうせ死に行く命ならば、せめて私は私として月浪縁、君と相見えたかった。言葉を交わしたかった。憎まれても恨まれても構わない」
縁に認識されないまま、契約に従って正体を明かさず離れることが、耐えられなかったのだと語り、梁は縁を見つめる。
「これまで何一つ、思い通りになったことなどない私の、唯一の望みはいま叶った」
中華百鬼夜行の主人は自らの目的を吐露し、縁の黒い瞳の中にいる、傷ついた自分の姿を見たのかもしれない。暗い喜びに澱んだ目を細めた。
「君の瞳の中に、私がいる。……これで良い。これが叶えば死んでもいい」
語りの進行を妨げることなく、梁の話を聞いていた縁は手のひらを硬く握りしめ、悲しみと怒りの混じった複雑な表情を浮かべたが、口から溢れたのは純粋な怒りに満ちた言葉だった。
「……独りよがりもいい加減にしろよ、怪異」




