張僧繇の祝福ー春光ー
「龍、明かりを灯してくれ」
その声がするたび梁は僧繇のまぶたから息を吹き込んで病を一時的に回復させた。
張僧繇は、本当に今際の際まで筆を取った。公私を問わず昼も夜も筆を手放さなかった。そのせいで眼病は進み、その度に梁に治させた。自らの命を引き換えにして。
寿命を削るので、当然のように僧繇は老け込んでいく。元々は歳の割に若く見える男だったのにみるみる衰えていった。
「張僧繇、おまえの息子は二人とも、おまえほどの技量を持たなかったな」
「そう言ってやるなよ。おそらくは次の王朝で権勢を振るう二人だぞ」
しかし梁の力を介しているせいか、僧繇の霊感と先見の明は眼病が進むごとに冴えていった。
また、どれほど老いて調子を崩そうとも絵に関して精彩をかくことはなく、工房では常に梁を傍に置いて作業を続けた。
線を引く。面を描く。世界の全てを画面に表す僧繇の技は驚くほど鮮やかで、梁はこの技が失われることが惜しくて惜しくてたまらなかった。
命を削って絵を描く僧繇を前に、つい、口が滑りそうになる。
「私が……」
――私がもし、絵を描くことができて、技術を継ぐことができたなら、私のことも弟子にしてくれたか? 父と呼ぶのを許してくれたか?
尋ねかけて梁はやめた。
そんな現実には叶わなかったことを尋ねたとしてなんの意味があるだろうか。目の明かりと命を引き換えにしたせいで余命いくばくもない男に、負担をかけたくない。
だから、梁がその望みを口にしたことは、一度もなかった。
※
僧繇が最後に描いたのは龍だった。
小さな絵だった。
「おまえを描いた日のことを近ごろよく思い出す」
僧繇は工房で筆をとりながら語り始めた。
春になって気候が良いから、体の調子もいいのかもしれない。声に張りがあった。
「描きはじめからすこぶる調子がよかった。筆のノリが尋常じゃないから、俺が描いていると言うよりは描かされているような気がしたぞ。半分を過ぎたところで『こいつらは生きているな』と思った」
梁は僧繇の手元を覗き込む。
相変わらず老人とは思えない筆捌きだ。震えもなく、美しい描線を描いている。
「白龍全員、四頭ともだ。で、困った。かなり困った。どう考えてもおまえたち、完成しても壁に残ってくれるようなヤツらじゃなかろう。なんたって龍だし。でも俺は陛下の命で、仕事で描いてるんだ。『金陵・安楽寺に相応しい龍図をよろしく頼む』とお願いされている。いなくなられちゃ困るのだ」
僧繇は当時のことを思い出してか、少し筆を止めて目を細める。
「しょうがないから『瞳を描いたら龍は飛んでいくから描けません。描かないのではなく描けないのです』と、正直に言った。至って真面目に」
「誰も信じなかったのだろう」
「おうとも。信じなかった。まるで乱心者を見るが如くの白い目で見られるし、『大嘘吐き』『最後の最後で失敗するのが怖いんだろ』『未完作家』『三流画家』などと散々煽られ、罵られた」
「……おまえにそれを言うのはよほどの度胸があるか、バカだな」
僧繇相手によくもそんなことを言えたものだと梁が半ば引き気味に言うと、僧繇もわざと俗っぽい言葉遣いで応じる。
「正直外野の反応にめちゃくちゃムカついたので瞳を描き入れたところもある」
僧繇にはそういう、負けず嫌いというか大人気ないところもあった。
「大体、そんなことを言われて黙って引き下がったなら陛下の威光が翳るだろう。好き勝手言われているのを放置したら俺の首が飛ぶわ。俺が公に描く絵というのは陛下の許しを得て描いているものだから、俺には相応の責任というものがあるのだ」
だが、僧繇は自分の職務を弁えている人物だった。武帝に長く重用されたのも、仕事人、宮廷人としての如才のない振る舞いが買われてのことである。
「俺は絶対に、陛下の期待に応えねばならん」
僧繇はそれが自分の役目なのだと語り、いよいよ目を描き入れた時のことを口にした。
「瞳を描き入れると、雷雲が立ち込めた。それまで晴れていたのに嵐のように雨が降り、二つの稲妻が壁を直撃すると、それに呼応するようにおまえ達が壁から飛び出してきた。そのときの聴衆の間抜け面とその後の手のひら返しときたら! まー、心の底からスカッとしたわい! ははははは!」
「おまえ、その物言いは狸親父のようだぞ」
梁が大笑する僧繇を咎めると、僧繇は「すまんすまん」と軽く言って筆を進める。
「おまえたちが去ると雷雲も霧消し、青空が広がった。遠くで白い龍が二頭、雷雲を引き連れ青天を駆ける様がよかったな」
僧繇は遠い目になって、心底からの感嘆の声を漏らした。
「あれは、美しかった」
梁は、僧繇の目の明かりが乏しくなっていくのがわかって、唇を噛んだ。
「んん? なんだ。今日は暗くなるのが早い。龍、明かりを灯してくれ」
「ダメだ」
「龍」
梁は首を横に振った。
「もう灯せない」
もう最低限の寿命しか残っていない。この命を目に吹き込めば、僧繇は死んでしまう。
梁の胸に、途方もない自己嫌悪が去来する。
「私はおまえに、なにも返せなかった。瞳を貰ってこの世の美しいものを見せてもらった。その恩を返したくておまえの弟子となろうとしたのに、おまえの技術をつなぐことはできなかった。私が優れた弟子となれば、それがおまえにとっては幸せなことだと、私にはわかっていたのに」
瞳から、涙が次々滴り落ちる。
「人を幸福にするのが瑞獣の龍である私の役割なのに、無条件におまえの目に光を灯すことも寿命を伸ばすこともできない。悔しい……! 私はおまえを幸せにできなかった!」
「そう思うか?」
僧繇の声はどうしてか無機質に聞こえた。
「ならば龍。一つだけ頼もう。俺の作品の行く末は天命に任せろ。おまえはなにも介入するな。無理に守ろうとしなくていい」
「……なぜだ?」
「作品の価値と運命は俺やおまえのような個ではなく、世が決めることだからだ。後世に残る天運を持つ絵ならばおのずと残る。そうでないなら残らん。残念だが仕方のないことだ」
僧繇は傍にいる梁の手を探り当てて、温かな声で言う。
「だが……おまえはきっと残るだろう。他のなにが失われても、おまえだけは」
真っ白になってしまった太い眉、その眉間をほどくようにして、いつかと同じように慈しむように笑った。
「おまえは俺の最高傑作だから」
嬉しいと思った。けれど、信じられないとも思った。
「……嘘だ」
「嘘じゃない」
僧繇は首を横に振るばかりだ。
「わからない。おまえの絵はどれも優れていたじゃないか」
『花』『鳥』『水怪』『虎』、梁以外の『龍』、『神仏』、なにより『多種多様の人物画』。僧繇の生み出した傑作は山ほどある。
「私が生まれてからもおまえはずっと研鑽し続けていた。歳を重ねるごとに技量も上がった! 私が特別なわけじゃないだろう!」
それなのに、とりわけ自分が優れている理由が思いつかなかったのだ。
「……なのに、どうして私をそんなふうに呼んでくれるんだ?」
「おまえが芸術に関わり続けたなら、いつかわかる日が来る」
いつもは梁のわからないことをきちんと、理路整然と教えてくれるはずの僧繇は、この時だけはなにも具体的なことを教えてはくれなかった。
「龍、このままじゃ未完の絶筆になっちまう。画家・張僧繇の最後の仕上げを、おまえに見せたい」
盲いているはずなのに、燃えるような眼差しで梁を見る。
「俺の目に光を」
梁は涙を拭うと、僧繇の手をとり、まぶたに息を通して力を注ぎ込んだ。
僧繇は最期の力を振り絞って龍の瞳を描き込む。
全盛期に描いた金陵・安楽寺のものとは規模が違う。小さな龍だ。梁と同じような力など持ちうるはずもない。しかし、それでも龍は龍として、覇者としての貫禄を損うことがなかった。
それは画面の中にいた時も、瞳を描かれて画面から抜け出したあとも変わらなかった。
はは、と、らしくもなく僧繇は吐息をこぼすように静かに笑った。
「俺も衰えたなあ。昔のようにはいかないが……。ごらん、龍」
空中を指差した僧繇の声が柔らかく響いた。
「ちょうどおまえはこんなふうに、空を駆けていたんだよ」
白い鱗が光を反射して七色に光る。
身体に巻きつく雲が、火花のような雷光を咲かせては消えていく。
梁は思わず見惚れて、視線で龍を追いかけた。
小さな龍は僧繇と梁の二人の間を旋回すると、雲を掴んで空を駆け、溶けるように消えていった。
カラン、という乾いた音がして梁が僧繇の方を見やった時には全てが終わっていた。
僧繇の手から筆が転がり落ちていた。画竜点睛の逸話を再現したために、龍が抜け出した後の画面は白く、なにも残っていない。
春の、日差しの麗らかな朝に張僧繇は死んだ。
最期の最期まで生命を燃やし、傑作を描き切って、亡くなった。
『天寿を全うするまで絵を描かせてくれ』
梁飛龍が叶えられた願いは一つだけ。
叶えた願いが張僧繇を幸福にしたのかどうか、梁飛龍には、わからない。




