張僧繇の祝福ー灯火ー
四十を過ぎると武官としての役目を解かれ、張僧繇は郡を治めること、書庫の管理が主な仕事になった。僧繇は武芸に秀でているくせに、梁の前では武芸を面白くないと言ってはばからなかったので「せいせいするな!」といつものように呵々大笑し、数年は政治と絵の仕事をして悠々自適に過ごしていた。
息子を含めて、弟子をとって絵を教えることもあったが、弟子のいずれも僧繇ほどの腕前にはならなかった。理由は明白だ。
『張僧繇の筆には霊がある』――歴代名画記に記されたとおり、僧繇の並外れた画力や、皇帝をはじめとする人を虜にする作品の魅力というのは僧繇が生まれついて有していた霊能の才覚が必要不可欠で、普通の人間には真似ができないものだったのだ。
いま思うと、五十代に差し掛かっていた僧繇は衰えを察していたのかもしれない。梁に可能な限り自身の知恵や技術を伝えようと躍起になっていたきらいがある。そして、僧繇が危惧したとおり、その日は来た。
眼病――現代でいうところの緑内障を、僧繇は患ったのである。
よく冷える、冬の夜のことだった。
僧繇は寝室に梁を呼び出して、自身が眼病に冒されていることを告げたあと、静かに問いかけた。
「龍、これは俺の天命なのだな?」
寝台に体を半分預けたままの僧繇に、梁は頷いた。
「龍、おまえは俺に約束したな。『死ぬまで絵を描かせてくれる』と」
「……その言葉は、いまでもおまえの心からの望みか? 心変わりはないのか?」
「なに?」
僧繇は一度訝しむように眉根を寄せたが、梁の沈んだ顔を見ると、やがて全てを察したようだった。険のとれた顔で尋ねる。
「医者に聞いたところによると、俺の目は徐々に視野が欠け、おおよそ五年をかけて最終的に失明するという。……龍。これを覆す方法はあるか」
梁はしばし言い淀んだが、僧繇の無言の問いに負けて渋々答える。
「あるには、ある」
「そうか。俺の命と引き換えか?」
僧繇の言葉に弾かれたように顔を上げた。
「なぜ、わかった」
「なぜって。まあ、普通に考えたらそのくらいしないとつり合わんだろうと思ってな」
梁は奥歯を噛んだ。僧繇の命を削るのは嫌だった。ただでさえ人間の寿命は短い。
最初に会ったときは、命を対価に目を治せば僧繇の望みは容易に叶えられると思っていたのに、いまは心底やりたくない。
むしろ、別の願いならどうだ、と梁は必死に提案する。
「僧繇、目を治して、さらには永遠の命を得る方法だってある。そちらを選ぶのは、どうだ?」
僧繇は息を呑んだ。だが、白いものが混じり始めた髭を撫でて、冷静に問う。
「それは、何と引き換えになるんだ?……俺の異能か? それとも、人であることか?」
僧繇の指摘は正しかった。
張僧繇から絵画に命を吹き込む異能をとりあげ、人間であることをやめさせれば、怪異に変じさせれば、僧繇は長く生きる。梁と同じか、それ以上。
だが、僧繇は首を横に振った。
「龍、提案は嬉しいが断るよ」
「なぜだ?」
「提案を呑んでしまえば俺は、おそらくおまえが『永遠の命に値する』と信じた俺ではなくなるだろう。……それでは意味がないからだ」
「よく、わからない。おまえは、おまえだろう」
梁の言葉に、僧繇は悲しそうに笑った。それからきりりと顔を引き締め、声を張る。
「描いた絵に本当に命が宿る。周囲で奇妙奇天烈な怪奇現象ばかり巻き起こる。わけのわからん力を授かってしまったと天を恨めしく思ったこともあるが、この異能と生きて死ぬ、人間であり絵描きの俺こそ俺なのだ! 俺の願いはいまでも変わらん!」
それは自分の命を削る願いだというのに、僧繇の顔にはなんの迷いもなかった。
「『天寿を全うするまで絵を描かせてくれ!』」
黙り込んだ梁に、僧繇は苦笑して丸窓の外に目を向けた。
「たとえ両手が失せたとしても両足で筆は握れる。両手両足が欠けても口で筆は咥えられる。しかし目はな、換えが効かん。瞳を描き込まれて命を得たおまえにならわかってもらえるだろうが、」
僧繇は梁を見据えて笑う。
「この両目は画家・張僧繇の生命そのものだ」
燃えるような瞳で僧繇は言う。
「目を失って生きることは俺にとってなーんも意味がないのだ。だから、龍。俺の寿命を削ってでも、この目の光を絶やさぬように、できるのだろう?」
それはほとんど命令に近い問いかけだった。梁が僧繇を大事に思っているならばこの願いを、聞き届けないわけには行かないことを僧繇は知っていたのだと思う。
「できる」
梁は答えた。
「だが、……だが、やりたくない」
「すまない。やってもらわないと俺が困る」
僧繇は頑なだった。どうにかして命を削らずに済む方法はないかと、梁は思索をめぐらせ、ポツリと呟く。
「……私が理を破ればいいのか?」
対価や試練なしに目を治してしまうのもいいのではないかと思った。天命に逆らえばおそらく梁は死ぬが、それで僧繇が生きられるなら別に構わない気がした。
瑞獣は、人間を幸福にするためにあるのだ。
「ダメだ!」
だが、僧繇は梁が何を思っているのか即座に見抜いて寝台から飛び起き、怒りの声を上げた。
「許さん! 絶対にダメだ!」
あまりの剣幕にたじろぐ梁の肩を掴んで、鬼の形相で言い募る。
若い頃、武芸に秀でていた頃の面影があって、老いてもなお恐ろしく見えた。
「俺の許可なく、勝手に恩寵を与えようとするな! そんなことをしたら、俺は最期の最期までおまえを恨むぞ。おそらく筆も鈍るはずだ。それでは本末転倒じゃないか!」
「なぜ筆が鈍る? なにも欠けることなくおまえの目は再び明かりを取り戻し、絵に集中できるようになるのでは?」
当然の疑問を口にすると、僧繇は梁の肩を掴んだまま、うつむいた。
「そうはなるまい。俺は……」
僧繇はなにか言いかけて、やめた。
どうしてか苦しそうで、弱々しくも見えた。
だが、顔を上げた僧繇は厳しい顔で、強く梁のことを見つめる。
「俺は、おまえの犠牲で目に光を灯すことを望まない。そんなのはあまりにも狡い。卑怯だ。己の人生で払ってもいい犠牲というのは己の範疇にあるものだけだ。俺が払うべき対価をおまえに肩代わりさせてしまっては、俺は己を唾棄すべき卑怯者であると思い知る羽目になるだろう。……そうなれば、画の六法の均衡が崩れる」
よく、わからなかったが、梁が命を捧げることで、僧繇の筆が乱れるのだと言うことはわかった。そう言われてしまうと、梁にはできることがない。幸せにしたい相手を不幸にするのは本意ではない。
「絶対にやめてくれ」
「…………」
もう、他に道はなかった。
「俺は最期まで描き続けたい。最期の最期までおまえの師でありたいのだ。頼む」
深々と首を垂れた僧繇に梁はしばらく立ち尽くしていたが、なんとか口を開く。
「承った。……目をつむって両手を出せ」
梁は差し出された僧繇の手を取る。
無骨な手である。
剣を振るい、まめだらけにしていたときもあった。だが、梁はこの手こそが数多の命を生み出した手であると知っている。ときに現実を超えるほどの美しいものを生み出した、魔法の手。それを握り、梁は短く吐息をこぼす。
僧繇の目に唇を寄せた。僧繇はみじろぎしたが、梁が手を強く握りしめるとおとなしくなった。
病に冒され消えかかった火を、龍の息吹を通じて、僧繇の命を燃料に大きく灯す。
「もういい。目を開け」
梁が声をかけると、僧繇は恐る恐る目を開いた。瞬いて、おぉと感嘆の声をあげる。
そして僧繇は、梁の足元に額ずいて、泣き出した。
「ありがとう。……ありがとうな。龍」
梁が瞳を得てから二十二年の月日が経っていた。
梁は泣き崩れる僧繇の肩を抱き、その背をさすりながら奥歯を噛んだ。梁まで情けなくて泣きたいような心地になる。
試練を与えなければ恩寵を施せない。対価に相応しいものしか与えられない。本当はなんの見返りもなく与えられるならばそれが一番よかったはずだ。ルールを越えられない、己の無能が腹立たしかった。
なにより、瞳を得たことを後悔したのは、この日が初めてだ。
心の底から、このような光景は見たくなかった。




