張僧繇の祝福ー天命ー
僧繇は梁を自身の工房まで案内すると、梁のために机と椅子、紙と筆、硯と墨を用意してくれた。
「まずは模写からやるのがいいだろう。何事も優れた作品を倣うことから始めるのだ」
「手本となる絵は……おまえの作か」
梁は僧繇の描いた絵を食い入るように眺めた。墨で山を描いているのだが、輪郭線を引かずに、墨の濃淡と面を正確に捉えることで遠近を見事に表現していた。
「なんだ、不服か?」
いつまでも筆に手をつけない梁に僧繇は腕を組んで首を傾げる。
「いや。おまえは風景も描くのか、と思った。これは……輪郭線を描かない技法だな? 花鳥画でよく使われているの
を見るが風景画では珍しいのではないか? 私は初めて見た」
「よく知っているな?」
「そうでもない。現に、風景画にも使われる技法とは思わなんだ。いい絵だと思う。おまえは風景も得意なのだな。外を巡る際におまえの絵もいくつか覗いてみたが、描いていたのは人物と神仏の姿絵が多かったろう」
梁国の武帝は熱心に仏教を信仰している。僧繇は仏教絵師だ。寺院壁画を多く描いていた。
僧繇は梁の物言いに苦笑して答えた。
「俺はなんだって描くとも。世界の全てを表してみたいと思って筆を取って今に至る絵描きだからな」
「強欲な物言いをするのだな」
ずいぶん露悪的な言い方だと指摘すると、僧繇はなにか気恥ずかしそうに小さく微笑んだあとわざとらしく大声を上げて、梁に筆を持てと促した。
「俺のことはいいから! ともかく描いてみろ!」
「……わかった」
梁はいささか緊張していた。もちろん絵を描こうと試みるのは生まれて初めてだった。しかし、いざ筆を取ろうとした段で、思わぬことが起きた。
筆が、梁の手から逃げるのだ。
「……おい、ふざけてないできちんと握ったらどうだ」
「違う。私が転がしているのではない!」
僧繇は怪訝そうな顔をしてヒョイ、と筆をつまみ上げた。
「別段変わったところのない、普通の筆だがなぁ。……ほれ」
「ありが、」
梁が礼を述べながら差し出された筆を手に取ろうとした瞬間のことだった。
バキバキバキッ! と、音を立てて筆の軸が飛び散った。木片とまとめられていた筆先が床にばらけて落ちる。
「おい! 大丈夫か、龍。怪我はないか?!」
心配そうに声をかけてくる僧繇を気にかける余裕は梁にはなかった。
天啓があった。
この世界の理をまざまざと思い知らされていたからだ。
「……張僧繇、残念ながら、私はおまえの弟子にはなれないようだ」
梁の手から筆が逃げ、逃げきれないとわかると壊れた理由は、この世界ではなにかを創作するということが、人間にのみ許された行為であるからだ。
龍である梁に創作は許されない。梁は絵を描くことができないのだ。
「……そんなことがあるか?」
僧繇は、憤っていた。
「『創作が人間のみに許されたこと』というのは、わからんでもない。森羅万象、ありとあらゆる生き物たちの造形、性質に美しさや意味を見出し、愛で、後世に残すべく筆を取ろうとするのは確かに人間がやることだ。だが!」
憤る理由はわからない。
だが、梁を怒っているわけではないことはわかる。
梁が絵を描くことができない、その事実を、梁より先に悲しみ、怒っている。
「おまえはこの世を美しいと思い、筆をとりたいと願った! おまえは龍とはいえ、これは人と同じ心の動きではないか?! おまえはおまえが見た美しいものを言葉で私に伝えたろう! それができてなぜ絵を描くことが許されない!?」
一通り咆えるように言ったあと、僧繇は軽く首を横に振って、呟く。
「そんなことはおかしい。……理不尽だ」
だが、それが理だった。あらかじめ天から定められたルールである。
梁は椅子から立ち上がると、僧繇に向けて頭を下げた。
「手を煩わせて、すまなかった」
そのまま立ち去ろうとした梁の肩を掴んで、僧繇は低く言う。
「……龍、どこへ行く。おまえは俺の弟子だ。勝手は許さん」
燃えるような眼差しを梁に向け、力強く言い切るのだ。
「たとえおまえが描けずとも俺の知識は全て教える。俺の技術の全てをおまえに見せてやる。だから、ここに残れ」
梁は、生まれた時と同じように瞳の奥が熱を帯びるのを不思議に思う。
涙こそ出なかったが、温かな気持ちが胸を満たした。
僧繇が梁のために心を砕いてくれたのだとわかって、嬉しかった。けれど。
「……なぜ、描けないとわかった私にそこまでする?」
どうして僧繇が心を砕き、優しい言葉をくれるのかがわからない。僧繇にはなんの利点もないはずだ。描けない、技術を継承することのできない弟子など、普通はいらないだろう。
「おまえが描き表したいと思ったものを、俺も見たいと思った。おまえの視点はおまえにしかないものだからな」
僧繇は分かりやすく教えてくれた。なるほど、と思う。
初めは梁の言っていることもろくに理解してくれないので不安だったが、僧繇は人に教えることが上手いのだろう。そして、なおも言い募る。
「自分で描くことができないのなら、人を使って描かせればよかろう。俺とか、他の見込みのあるやつでもいい。そいつに天啓を与えておまえが描き表したいものを作らせればいい」
僧繇は柔軟だった。
「悪くない案だ」
梁がポツリと呟くと、僧繇は破顔して、それから梁の肩を軽く叩いた。
「だが。おまえには知識がない。龍だからな。瑞獣としてなにか天才を嗅ぎ分ける特殊能力とかがあるのかもしれんが、龍が選ぶような天才だけが良い作品を描く、わけでもなかろう。おまえ自身が目利きになって悪いことはない。人間が絵を描く際にどういう技法を扱い応用がきくかも知って損はなかろう。おまえ、そういうの、嫌いじゃなさそうだしな」
会ったばかりだと言うのに、僧繇は梁の性質を見抜いていた。
「なに、やりようはあるさ!」
梁は笑う僧繇に、微笑み返す。
張僧繇は気持ちの良い男だった。
※
梁は僧繇から絵を学ぶ。絵の見方。善し悪し、多種多様の技法など、実際に筆を握らなくても良い授業を受けて、梁は目利きになっていく。
僧繇が絵を描く姿を間近で見せてもらうこともあり、梁は言葉を多くやりとりする講義よりもそちらを好んでいた。
僧繇は墨、絵の具が垂れないよう、跪いて這うように筆をとり、真っ白だった画面の中に、たちまち命を吹き込んでいく。
風景を描かせれば山には草木が芽吹き、空に雲が流れ、空気の温度さえ感じさせる。川のせせらぐ音さえも聞こえるようだ。
人を描いたなら血が通っているのがよくわかる。老いも若きも、男も女も、どんな人間であっても紙の中に顕現させる。
いかなる怪奇現象よりも不可思議で美しい魔法である。
こんなふうに、思うがままに描けたらきっと楽しいのだろう。と、梁は思う。僧繇はそれなりに愛想の良い男でよく笑っていたが、筆を手にとり画面に向かうときはことさら、愉快そうに笑みを浮かべた。
その僧繇にも退屈そうに見える瞬間はある。
「おお、龍か」
庭で木剣を振っていた僧繇をぼうっと眺めていると、梁に気付いた僧繇はパッと表情を明るくした。
「以前から思っていたのだが、剣を持つとき、おまえは笑わないのだな」
梁の疑問に、僧繇は「面白くもないのに笑えるはずもないだろう」と言う。
木々の作る木漏れ日の爽やかさに反して、どんよりとした表情だった。
「剣は面白くないか。ゆくゆくは将軍になるのだろうに」
「面白くない。俺は剣より筆を取りたい。しかしだな、面白いからといって絵ばかり描いてはいけないのだ。俺はそういう家の生まれだから。陛下の秘書としての仕事をしたり、好きでもない剣を振ったり、郡を治めるために知恵をつけたり人の話を聞いたりと、いろいろやらねばならんことがあるのだ。だが本音を言えば……」
それまで厳めしく、真面目腐った態度でものを言っていた僧繇はだらりと格好を崩して軽薄な声を上げた。
「あぁー! 剣なんぞ放り出してなんでもいいから描きたいなぁー!」
梁はまた始まった、と僧繇がクダを巻くのを眺める。
いい大人が駄々っ子のようである。美しく整えられた張家の庭園で木剣を持った汗だくの大男が喚いている。全くそぐわない光景だった。
「陛下も絵の仕事だけを俺に振ってはくれんかな? 先日王子の顔を描いたばかりだが。あれは王子の顔を見に行くのに馬車を使うから物見遊山になるのがよかった。軍略のことも考えておけと言外には言われてるにしてもだ。やっぱり風景は面白い。風景画は好きだ。でも次は寺の装飾の仕事などがいいなぁ。派手に贅沢に画材も使えるだけ使って好き勝手描けるし、あれは楽しい。あれがいいな。なんか寺とか新しく建たんものかなぁ?」
要約すると「好きなことだけをして生きていたい」ということである。
「おまえ……わがまま言いたい放題だな」
呆れる梁に、僧繇は太い声で笑うばかりだ。
「はっはっは!」
「世に名高い霊感ある天才画家〝張僧繇〟の名が泣くぞ」
「はぁ? そんなに世に名高いのか? 俺の名が?」
なぜだか僧繇は不思議そうにも嫌そうにも見える顔をした。
「当たり前だろう。私を生んだ『画竜点睛』の逸話は国を越えて広まり、金陵・安楽寺には参拝客が後を絶たないと聞く」
「それはめでたいし嬉しいことだ。しかし、うーん……」
僧繇は腕を組み、虎のような体躯をまるめて唸る。なにやら考え込んでいたらしいが、最終的に太い眉をハの字にして困惑まじりに笑って見せた。
「俺の名は別に広まらなくてもいいんだが」
「なぜ?」
梁は首を傾げる。名前なんて広まろうが売れようが困るようなものでもないだろう。むしろ僧繇の才覚の証明のようなものではないか。
だが僧繇は、梁が疑問を持つことこそ意外だと言わんばかりに瞬いた。
「なぜって。絵の評価は絵だけでやればよかろう。誰が描いたからすごいとか、誰が描いたから価値があるとか、そんなの関係ないだろう。見ればわかるのだから絵を見ろ、絵を。名が売れるとどうしても名で評価するやつも出てくるから、嫌だな」
「確かに生活が荒れていたり心乱れていてはよい絵など描けない。それはそう。だが昨今の、絵描きの人格だの生まれだのばかりに絵の価値を定める風潮が、俺はどうも好かないのだ」と僧繇はぼやく。
南朝・梁国では『気韻生動』――芸術に風格と気品、生命感が溢れていること――を第一に重要視する画論『画の六法』に基づいて評価された。この風格と気品というのは努力で身につけることができず、芸術家が生まれついて持っているものなのだともいう。元々芸術作品を評価する条件に『作家が君子であること』が求められている時代でもあった。
だが、梁はますます疑問に思う。
「そうなのか? 人間の判断基準が私にはよくわからないが、おまえは人格面でも高く評価されているだろう」
僧繇の世間的な評価はすこぶる高い。
なにしろ『画の六法』の全てを修めているなどと囁かれている。一に作者の人格からくる生命感。二に骨格を成す筆使い。三に的確な形をとること。四に適切な色彩を施すこと。五に画面の構成の巧みさ。六に模写の技術。この六つのうち一つを極めるのも難しく、まして兼ね備えている画家は稀にしかいないと言うが、張僧繇こそはその稀なる画家だと評判だ。
つまり、一般的な見方をすると僧繇は聖人君子であるらしい。
梁には本当によくわからない。僧繇は確かに気持ちの清々しい男だと思うが、非の打ちどころのない人物とは思わない。非の打ちどころのない完璧な男は「好きなことだけして生きていたい」と人前で駄々を捏ねまい。
梁の釈然としない感じを見てとったのか、僧繇はくつくつと肩を揺らして答える。
「そりゃあ猫を被っているから当然だ。隙など見せるものかよ」
「隙だらけの男がよく言う……」
「ははは! 見せる相手を選んでるだけのことだぞ、そんなのは」
なにか聞き捨ててはならないことを僧繇は言ったような気がしたが、梁が口を開く前に僧繇は話を先に進めてしまった。
「とにかくだ。名声なんかどうでもいい。俺は俺の名より絵の方に長生きしてほしい。後世の人間がおまえの兄弟の龍の絵を見て『いい絵だなぁ』と思ってくれるのが理想だ。そしてその時に『これを描いたのは張僧繇なる画家であり……』といった説明・情報は不要なのだ。邪魔と言い換えてもよい」
「そういうものか?」
「そういうものだ。少なくとも、俺にとってはな」
このとき僧繇は付け加えるように、妙に弱気なことを言った。
「それに、名声ばかりが高まると実物を見た時に肩透かしになることもあるだろう?」
「おまえの絵に限ってそんなことが起きるとは思えないが」
梁が間髪容れずに言うと、僧繇は瞬いて、太い眉をハの字にして笑った。
「……龍は本当に俺の腕を信じてくれているのだな? ありがとう。しかし、そんなことはあるのだ。人の空想の方が俺の才覚よりも豊かで、美しく、優れていることはザラだ。ザラ。……んん?」
僧繇はふと言い淀んだ。口元に手をやって、なにに思い当たったのか梁の顔を見て、目を見開いている。
梁は当然、訝しんで尋ねた。
「なんだ? 私の顔になにかついているか」
「ああ、いや。絵画よりも優れた空想があるならば、作家が空想を喚起するモノを作り、それが残れば、もしかして空想ごと作家の作品としてもよいのか? と思った。うん。……なるほど」
勝手に納得している僧繇がそのあと、なにかつらつらと梁に語って聞かせたこともあったように思うが、梁はあまり覚えていない。覚えているのは若い頃の張僧繇との会話とやりとりは概ね愉快で、楽しかったのだという、曖昧な思い出ばかりである。




