張僧繇の祝福ー邂逅ー
【梁飛龍】
ことの始まりを振り返るならば、……それとも私が生まれた梁の時代まで遡るべきか。
千五百年の時を経て記憶に多少の落剥はあるが、それでも、私の生みの親とも言うべき張僧繇と出会った日のことは、とてもよく覚えているのだ。
※
梁国を興した男は武帝である。
武帝は儒学・玄学・文学に精通した知識人であり、自分で本まで書いている。身分の低い者であっても知識と教養に富んだ人間を重んじ、宮中に作られた庭園『華林園』や皇帝の生活空間である『内省』にあらゆる知識人を招いて、文化事業を展開した。
梁飛龍が宮城に足を踏み入れることができるのも、武帝が文化人たちを集めているからである。
身なりを人間、特に文人の格好に寄せて暗示をかければ、たちまち女官が親切に宮中を案内してくれた。
女官に話を振ると、嬉々として応じてもくれる。
「張僧繇さまは宮中書庫の主人のようなお方ですわ。噂に違わぬ、描く絵に不思議な力のあるお方です」
自分を描いた男がどのような評判か知りたくて尋ねると、張僧繇を表すのによく知られたことばかりが返ってくる。が、すぐに女官は嘆息して付け加えた。
「……そのせいか性格の方も少々変わっておられますが」
「と言いますと?」
女官は声に深い呆れの色を乗せて梁に答える。
「絵を描くことに頭と心の全てを持っていかれているせいで、世間一般の幸福というものに毛ほども興味がないのです。なにしろお二人いる小さなご子息と話す時でさえ、やれ筆の扱いはどうだ、やれ墨の濃淡はどうだと書画芸術の話しかなさらぬと言うのです。変わり者ですわ」
「芸術探究の一環ということもあって弟子を取る気はおありのようなのでご安心を」と一言付け加えた女官に、梁は「なるほど」と適当に返した。
気のない返事でも満足だったらしい女官は不思議そうに首を傾げて、続ける。
「けれどあの方、そのほかにあまり欠点らしい欠点はございませんのよねえ。見目も悪くはありませんし。絵画制作の他のお仕事もちゃんと真面目にこなします。と言いますか、僧繇さまはかなり頭がキレますよ。宮中書庫にある数多の書や画の全て、位置や内容を把握しているのではないかしら?」
「『どこそこにあるあれこれを持ってきなさい』と言う指示を、僧繇さまはなにも参照なさらずに指図しておられましたもの。万を超える書物が収められているのに、ですよ……」と、女官は少々の畏怖を滲ませながら言う。
「陛下の方針もあって、乱暴な方ではなく、頭の良い方に将軍職をお任せすることになりましたでしょう? 陛下自身が武芸に覚えのあることですから、私などは『そういうものなのかしら?』と思うばかりでしたけど、僧繇さまは『なら剣技もそれなりにこなさなくてはなりませんね』と答えて、乗馬から剣技から軍略から、武官として必要なことを一通り修めてみるみる逞しくなられましたから」
立板に水を流すようにして僧繇のことを洗いざらい話し、女官は最後に所感を正直にまとめた。
「なんと言いますか『やると決めたらやる』お方なのですよね。いつも快活に笑って請われたことをヒョイヒョイとこなしていくのですけれど……」
梁が黙って女官の言葉を吟味していたからか、暗示のかかりが弱まったのか、女官はふと我に返った様子で小首を傾げた。
「あら? わたくしったら、いつになくお喋りじゃありませんでしたか?」
「いいえ。そんなことはありませんよ」
梁は微笑んで女官の瞳を覗き込む。
「あなたは実に粛々と仕事をなさいました。助かりましたよ。ありがとう」
「……そうよね、そうでした」
事実、梁の目的地である宮中書庫の前に到着していたし、張僧繇の人となりも窺い知ることができた。感謝を述べた梁にうつろな目で女官は頷くと、書庫の扉を開く。
「張僧繇さまにお目どおり願います。お弟子さまになりたいと仰せの、高貴な方がお越しです」
書庫は広く、それでもなお文字と画で溢れている。
梁は僧繇に頭を垂れながら周囲を観察する。過ごしやすい場だと思った。よく整理されている。
武帝から書の編纂を命じられた人間がいるのか、墨の芳しい香りが鼻先をくすぐっていった。
梁は自分を描いた男の顔をちらりと覗く。男は広い机を挟んで椅子に座り、卓上に指を組んで梁のことを眺めている。
金陵・安楽寺の壁から飛び去った時には僧繇の顔など一瞥もしなかったからまるで印象など残っていなかったが、こうして改めて窺い見ると龍を描いたくせに虎のような容貌の男である。
女官の言っていた通り鍛えているらしく体格は立派だ。髪と眉は濃く太く、目が大きい。棚を避けて設けられた窓から差す陽の光が当たると髪と瞳の色が濃茶色から琥珀色に透けて見えた。
張僧繇は眩しいのか、梁を警戒しているのか、目をすがめながら口を開いた。
「……事前になんの連絡ももらっていないのに、なんでかとんとん拍子にことが進んでこうして面談することになっている。普通は取りつがないはずの女官があっさり君を通しているし、忙しかった仕事も部下と同僚が請け負ってくれると言う。本日やることが君との面談しか無くなったというわけだ。偶然にしては出来すぎている気もするのだが」
「ご縁があったということでしょう」
梁は調子の良いことを言って思い切りしらばっくれた。
僧繇はしばしの沈黙ののち、疑念のこもった声で尋ねた。
「とりあえず、頭をあげなさい。名前と、私の弟子になりたい理由を話してもらおう」
「梁飛龍と申します」
ここぞという時を見計らって顔を上げた。梁の顔を見ると大体の人間が親切にしてくれるので、僧繇もきっとそうだろうと思っていたからだ。
「金陵・安楽寺に描かれた四白龍の絵を観覧していたく感動し、是が非にでも張僧繇さまから絵を習いたく、馳せ参じた次第です」
しばらくしても返事はなかった。
訝しく思って僧繇の反応を見ると、食い入るようにこちらを見つめて唖然としている。
――思っていた反応とはいささか異なる。
「……おい。ちょっと待て」
本気の困惑を返されて梁は首を傾げた。
「私、……なにか、気に触るようなことをいたしましたか?」
といっても梁がやったことといえば、それこそ顔を見せて挨拶しただけである。まさかこの顔が気に入らないというわけでもあるまい。
だが、僧繇は畏怖と警戒、驚愕の混ざった顔で椅子から立ち上がった。
「それ以前の問題だ。……おまえ、なぜここにいる?」
「おっしゃる意味がわかりかねますが」
「わからないのはこっちの方だ。正直全く理解が追いついていないのだが、おまえ、」
僧繇は唾を飲み込んで、梁を指差した。
「おまえ、俺が描いた龍だろう」
人間に、正体を暴かれたのは初めてだった。それも、一見して見破られるなど。
梁は少なからず衝撃を受けて、思わず震える声で尋ねた。
「なぜ、わかった?」
「なぜって。……いや、そうだよな。普通はわからないと思う」
僧繇は首を軽く横に振って腕を組んだ。自分を落ち着かせるように大きく息を吐くと、梁を、見る。
「おまえの身なりは人間と変わりない。なんなら結構な美青年だ。おそらく、俺がおまえの作者だからか? 顔を見た瞬間、金陵・安楽寺にて瞳を描き、完成させた二対の龍のうちの一つであると、わかった」
口元を無骨な手で覆って、僧繇は目をすがめた。
「すまん、流石に動揺している。なんでか知らないが俺の描く絵は霊感を帯びるらしく、奇妙奇天烈な怪奇現象に事欠かないのだが、描いたものが弟子入りに来たのは初めてだ」
僧繇は、はぁ、と深いため息をこぼした。
「……で、だ。本意を聞こうじゃないか。龍よ、おまえ一体なにをしに来た?」
「なにをしに、というと?」
梁は僧繇が何を懸念しているのかわからず首をひねる。
僧繇は「なんと言ったものか」と言葉を慎重に吟味しているようだった。
「龍、というのは瑞獣であるから縁起が良いのだろうが、……荒ぶったりもするだろう。川を氾濫させたりとか、大雨洪水を起こしたりとか。天変地異を起こす気なら勘弁願いたいので、どうにか交渉できないだろうか?」
発想が飛躍している。
梁は困惑しながら首を横に振った。
「よくわからないのだが。……なぜ急に天変地異などという話になるのだ? 私はおまえの弟子になりたくて来たのだが」
「は?」
僧繇は鳩が豆鉄砲を食ったかのような顔で、短音で問い返した。
「だから……。最初から言っているだろう。張僧繇、おまえの弟子になりたくてここに来た。私は絵を習いたい」
「なんで?!」
僧繇は大の男らしからぬ素っ頓狂な声をあげるし、理解が遅いので本当に弟子入りするべきか否か、梁は一瞬再考したが、人間には丁寧に説明してやらねばならないのかもしれないと思い至り、目を伏せる。
絵を習いたいと思った理由。これを正確に表すのは難しいことでもあったが、梁は確かめるように、言葉を選んだ。
「おまえに瞳を描いてもらったとき、……それまで壁の中でジッと行き交う人の声を聞き、雨の冷たさ、風のそよぎを感じることしかできなかった私は、瞳を得た途端に溢れ出した色彩の洪水に溺れ、もがきながらこの世に這いずり出た」
轟く雷鳴。叫ぶ人の声。体を打つ雨の冷たさ。そのどれよりも瞳から得る情報が刺激的だった。灰色の空に光る稲妻。強い光と影と色。
「無我夢中で飛び回るうちに、私を取り巻くその洪水がとても心地よいものだと気がついた。与えられたばかりの瞳から雨の雫のようなものが次から次へと滴り落ちた。何かに掻き立てられるように咆哮をあげた」
――生まれるとは、こういうことかと思った。
「そうして感じた世界は、美しかった」
梁は自分が知らず知らずのうちに笑っていることに気がついて、気を取り直すように咳払いをした。人間に思っていることを正直に話すのは、少々の気恥ずかしさがある。
「三日三晩世を巡って、特に人の、書画芸術の類が気に入った。聞けば、絵画に命を吹き込むような腕の人間は滅多にいるものではなく、この時代ではおまえの他にないと聞く」
そして「そもそも」と梁は声を弾ませた。
「私には瞳を貰った恩がある。ならば私はおまえに絵を習いながら恩を返すべきだろう。そばにいればおまえに困りごとがあったときにすぐさま助けてやることもできるしな。知っての通り私は瑞獣・龍であるから、願いがあるなら聞き届けてやれるぞ。まあ、試練が要ることもあるが」
胸に手を当てて「ありがたく思え」と僧繇に言う。人間なら感涙して喜ぶべき申し出だろう。しかし、僧繇はよく事態を呑み込めていない様子で、梁の言ったことを反芻するばかりだ。
「……おまえ、絵を描きたいのか?」
「そうだ」
「この世を美しいと思ったから? 人の芸術を気に入ったからか?」
「さっきからそうだと言っている」
「本当に理解が遅いが、大丈夫なのだろうかこの人間は」と梁は呆れを通り越して不安になってくる。
だが、僧繇は、ポカンとした顔で梁を見つめると、次第に頬を緩ませて、凛々しく寄せていた眉間をほどくようにして笑った。慈しむような笑みだった。
初めて向けられる種類の顔だな、と梁は思う。
人間は梁の顔を見ると、見惚れたり、うっとりしたりすることは多くあったが、このような顔を向けられたことはない。どういう類の感情なのかは、よくわからなかった。
悪い気はしないので、悪感情ではないということだけは、わかる。
僧繇は穏やかに、噛み締めるように言った。
「そうか。願いを聞き届けてくれるか。なら、……龍よ。俺の願うことは一つだ」
打って変わって僧繇は、強い眼差しで、梁を射貫く。
「『天寿を全うするまで絵を描かせてくれ』」
梁は瑞獣としての目で僧繇の運命を見る。
その望みは、たやすく叶えられるだろうと思った。
「お安い御用だ」
このとき、梁はまだ何も知らなかった。
安請け合いしたことを、梁は永遠に後悔し続けることになるのだということも、人間と深く関わるのが瑞獣にとっていかに毒になるかということも。




