月浪禊の圧倒
亀裂の前に月浪禊の名刺を縁取る紋様が赤く浮かび上がり、ガラスが壊れるような音を立てて、空間が、割れた。
ハイヒールを鳴らして長身の女が一人現れる。自分と並んで目線が上になる女性を芦屋は初めて見た。
その人が空間を蹴破ったのだと気づいたのは、ねばつくような猫撫で声が全てを嘲笑うように名乗ってからだった。
「ご機嫌よう。喜べ諸君。月浪禊が参ったよ」
ふくらはぎのあたりまでスリットの入った黒いパンツスーツを着こなし、足首、手首、首の隙間から鎖を模したアクセサリーが金色の光を放つ。
迫力のある、生命感に満ち溢れた人である。
赤い口紅が引かれた唇が、酷薄な形につり上がった。
「お母さん……!」
縁に呼ばれて、禊は真ん中で分けた長い黒髪をかきあげながらこちらに顔を向ける。
縁の母親で、日本でも指折りの霊能力者――月浪禊の登場に、芦屋は軽く息を呑む。
この母娘、顔はそこまで似ていないのだが、笑ったときの雰囲気や所作はよく似ていた。
「首尾は上々と言ったところだな。それに免じて私の名刺を湯水のように使ったことは大目に見てやってもいい」
禊は縁、芦屋、鹿苑へ順に目を向け、近寄ってそれぞれの肩を叩いた。
「二回、一回、……四回。君、名前は?」
鹿苑へぴたりと視線を合わせると禊は首を傾げて問いかける。
「し、鹿苑旭……」
禊に顔を覗き込まれて、鹿苑は珍しくたじろいだ。
「そうか、鹿苑くん。〝麒麟児の君〟――君が一番気の毒だったねえ」
シャン、と鈴の音が鳴る。
禊の背後から麒麟が姿を現した。
三メートルはあろうかと言う巨体だ。足元に金から赤へのグラデーションがかった雲をまとい、五色の鱗が歩くたびに煌めく。麒麟は優雅に髭を靡かせて、真っ直ぐ鹿苑に近寄った。
「えっ? なに?! ぅおっ!?」
鹿苑は麒麟が顔を寄せてくるのに怯えて後ずさるが、麒麟はぐいぐいと鹿苑に体を寄せた。猫が飼い主の足元にまとわりついているような感じに見えて、「好かれてるんだな」と芦屋は納得するも、鹿苑としてはライオンのような猛獣が突然じゃれついてきたのと変わらない感覚だろう。ひきつった顔で縁と芦屋を窺う。
「ちょっ、芦屋! 月浪! どうしたらいい……!?」
「懐かれてるんだ。気にするな」
「麒麟は鹿苑くんを傷つけたりしないよ。撫でてあげれば?」
「ほんとぉ……?」
情けない声を上げた鹿苑は恐々とではあったが、麒麟の顔をそっと撫でた。麒麟はけぶるようなまつ毛で縁取られた目をうっとりと細め、しばらくすると満足した様子で鹿苑から距離を取った。
それから麒麟は縁に向けて頭を垂れる。縁は目を丸くすると、眉を下げて頷いた。
「……うん。わかってるよ。私が触るのはダメなんだよね?」
鈴の音が一度鳴って答えた。
瞬間、青白い閃光が麒麟の方向に飛んでくる。
麒麟の前に魔法陣のような、複雑な紋様が浮かんで稲妻を打ち消した。
稲妻が来た先を見れば、梁の手元でパチパチと白い火花が散っていた。
悲嘆と憎悪と憤怒が入り混じった鬼の形相で、麒麟を睨んでいる。
「■■■■■■■■――!」
梁の口から唸りにも金属音にも似た音が発せられた。人間では到底発することのできない声だ。だが麒麟に向けられたなんらかの罵倒であることは不思議とわかる。
麒麟は梁を一瞥すると目を細め、首を払うように一度大きく振ると、フーッと長い息を吐いた。
こちらも梁に対して呆れと侮蔑の混じった返答をしたのだということがなんとなく理解できる。
激昂した梁が口を開いたところで、芦屋の目の端で金の鎖が煌めき、ジャラリと鳴った。
鎖が巻きついた拳が、梁のこめかみを殴打した。
その衝撃で、梁の体が五メートルほど吹き飛ぶ。
凄まじい轟音を立てて珊瑚の玉座に突っ込んだ格好になった梁の体に、禊は追加で三発ほど強かな蹴りを入れた。
突然の目を覆うような暴力に麒麟が嫌そうに、怯えた様子で後退って鹿苑の背後に隠れようとした。
禊が長髪をかき上げながら気だるげに口を開く。
「私の前で雷を出すとか、おまえ、馬鹿じゃないのか?」
禊の拳に繋がっている金の鎖は梁の首から伸びている。禊は口角をあげて、咳き込む梁を冷ややかに見下ろした。
「人の姿をしたおまえに会うのは二十年ぶりかな、墨で描かれた白い龍――〝画竜点睛の龍〟よ」
「禊……! いったいどういう了見でその四つ脚を連れてきた?!」
「黙れ。いまのおまえが了見を語るな」
恐ろしく冷酷な声で命令すると、梁は口の端を拭いながら禊を睨む。
「麒麟は自らが恩寵を与えた人間を何度も殺されるのが我慢ならなかったようだ。大層ご立腹でねえ。故に、私に全面協力してくれたよ」
禊は鹿苑の背後に隠れた麒麟に視線を流して笑う。
「それに引き換えおまえときたら、私が美大に来れぬよう、あらゆる妨害を仕掛けてくれたわけだが。……結局は儚い延命措置だったな? 小賢しく七面倒臭い真似をされたおかげで、私はすこぶる機嫌が悪い」
禊は梁の首を片手で掴んで無理やり立たせると、その顔を覗き込んでわざとらしく悲嘆を装う。
「はあ、それにしても、ひどいじゃないか。娘を守る契約を私と結んでおきながら、娘を呪うだなんて……。私は悲しい」
梁は口を利くのも嫌そうに禊から顔を背けるが、禊が「目を逸らすな」と命令すれば、逆らえないらしい。強張った顔で禊に向き直る。
「おまえ、いつだか私に言っただろうに。『瑞獣たるもの才覚を授ける人間を幸福にすることこそ本懐である』『きっかけはどうあれ、私は縁を幸せにしたいのだ』と」
禊は肩を震わせ、少女のように高らかに笑った。
「うふふっ! よくもまあ、臆面もなく言ってのけたよねえ。私は胸を打たれたから、一言一句、全てを覚えているんだよ……」
優しく甘ったるい声で囁いた禊の手が梁の横面を張り飛ばした。
倒れ込んだ梁を見下ろして禊は鎖を一巡、拳に巻き取る。
「龍風情が戯けたことを」
虫を見る目だった。
「思い上がりも甚だしい。怪異の分際で片腹痛い」
呟く禊の声には一切の感情が載っていない。それなのに震えるほど恐ろしかった。
禊は一呼吸おくと、淡々と言う。
「私は確かに『縁に恩寵を与えろ』と言ったし、おまえも契約を遵守した。だから多少の私情は見逃しもした。縁の自衛の手段に『絵を描かせる』という作業を噛ませたことも大目に見てやったわけだが、……ああ、私は大変後悔している。もう少しきちんと躾けてやらねばならなかったようだ」
身体を起こし、立膝をついた梁の顔が嫌悪と屈辱に歪んだ。禊は嬲るように甘ったるい声を作る。
「縁が厄払いの絵画を描いた際に現れる赤いテクスチャ。あれはおまえが描いていたんだろう? 画家の真似事がそんなに楽しかったか? え?」
「……おまえにわかるものか。君臨の業の女」
「この私に理解を求めるのか? 生憎だが憐憫も同情も在庫切れだ、愚か者」
禊の袖から鎖が音を立てて床に落ちる。落ちた鎖がぐにゃりと形を変えた。
七枝刀が金色に輝く。
禊は梁へ無慈悲に告げた。
「おまえは殺す。八つ裂いてから火に焚べる」
無言の梁へ、禊は驚くほど美しい笑みを浮かべる。
「望み通りのはずだ。なんせ私に逆らった怪異の顛末はいくつか聞き及んでいただろう?」
「お母さん」
それまで黙って成り行きを見守っていた縁が、口を挟んだ。
「なんだい、縁。いまさら止めようってか? おまえ、その様子じゃ二度死んでるのだろうに、コレにかける温情があるのかい。だいたい遅かれ早かれコレは消滅するよ」
縁の目は驚きに見開かれる。芦屋と鹿苑も思わず梁を注視した。
梁は死の予告に動揺もなく、立膝をついたまま、魅入られたように禊の七枝刀を見つめている。
「当然だろう。依代の壁画はとうに失く、『画竜点睛』の伝説――いわば概念に縋りついて千五百年を生きたのに、天命に逆らってその力を呪いに注いだならコレは消え失せる」
禊は冷淡な目を梁へ向けたまま、縁に道理を解いた。
「おまえを呪った時点で、おまえと心中するか、一人で死ぬかのどちらかしかコレには道がなかったんだよ」
「……彼に契約を持ちかけたのはお母さんなんでしょう?」
縁は禊に問いかける。
「瑞獣である彼の性質を利用するだけ利用して、都合が悪くなったら一方的に消そうとするのはあまりに無体だ。それに彼が、こうなることを最初からわかっていたというのなら、……彼は死にたいのだと思う」
「だから、なんだ?」
禊の疑問に、縁は平淡な声で応じた。
「『死にたがっている怪異を、そのまま死なせても意味がない』と言っている」
そこに怒りの色はない。けれど、慈悲の色もなかった。
「これは私が解くべき呪いだ」
縁は真剣な面持ちで言い切ると、固く目をつむって続ける。
「お母さん。これ以上あなたに頼ってしまったら、私は私を許せない」
「生意気なことを言うようになったねぇ、おまえ……」
嘆息すると、禊は小さくつぶやいた。
「しかしまあ、一理はあるのか?」
禊はそばにあった珊瑚の玉座に当然の如く腰掛けると、女王らしく肘置きに頬杖をついて笑う。
「いいだろう。全部完膚なきまでに潰す方が手っ取り早いが、解くと言うなら解いてみるがいい」
禊は麒麟に目配せして手を叩いた。麒麟は鹿苑と縁、そして芦屋に向けて頭を垂れると、煙のようにその姿を眩ませる。
「お手並み拝見」
縁は一度大きく息を吐いて、立膝をついたまま縁を見上げる、梁に向き直る。
「梁飛龍、怪談をしよう」
縁の提案に、梁の目が瞬く。
「君には君自身のことを語ってもらう。〝瑞獣〟という怪異である君が生まれ、私と出会い、厄払いの力を与え、私を呪うに至った経緯を。その最中に君がその目で見たものを。感じたことを。私に教えてほしい」
梁は苦笑する。
「……呪いをかけた相手に呪いを解くヒントをくれと、臆面もなく言っているようなものだが?」
「それの何がいけないの?」
縁は首を横に振って、至って真面目に問いかける。
「君は私と話したかったはずでしょ。君自身の話をしなさい。私は君のことを、何も知らないんだから」
「……ふふふ」
梁は穏やかに縁へ尋ねた。
「私に千五百年の出来事を振り返れと言うのだな。長い話になるけれど、構わないか?」
「望むところだよ」
頷いた縁に、梁は「ことの始まりを振り返るならば、」と前置きして、始めた。
怪異・瑞獣の一つ『画竜点睛の龍』――梁飛龍は、語る。




