運も才能のうち
怪異を祓うときは基本的に口を挟まず、縁に任せておいた方がことはスムーズに進むことを知っていたのだが、どうしても我慢できなかった。
『厄払いの絵画』――月浪縁のもつ異能は、運命を変える力を持つ。
モデルにした人間に怪異がもたらす災いの程度と性質を予告し、災いを軽くする。
だが、そのために赤いテクスチャが作品に浮かび、また怪異がモデルに与えたダメージは絵に反映されるため、縁は怪異のもたらす災いから絵を守ために、死に物狂いで奔走する羽目になっていた。
基本的にはモデルにした人間の安全を優先させてはいたものの、作家として縁は絵が歪み、汚れることを当然嫌っていたし、厄払いの絵画のせいで人間をモデルとした作品を公にすることを避けていた。その上、
「月浪は自分が霊媒体質だからって、自分が怪異と引き合わせてしまったかもしれないからって、人間を助けるために作品を作らなくちゃいけないって必死になった。……自分の作品に人の命がかかってる。そんなプレッシャーにさらされ続けて、もう自分は死んでもいいとまで思い詰めたこともあるんだぞ」
縁の霊媒体質に抵抗するだけなら、『厄払いの絵画』である必要はなかったはずだ。作家として作品を大事にしたいと思う気持ちと、人として人を助けたいと思う気持ちを天秤にかけさせるような力である必要はなかった。
芦屋は怒りに拳を握る。
「絶対に、違うやり方があっただろうが……! おまえ、なんでこんなやり方にしたんだよ?!」
「縁が麒麟の筆に魅入られて自らを殺めようとした件を言っているのなら、あれは私にとっても大変不愉快な出来事だった。しかし、そうだな」
梁はしばし考えるそぶりを見せたが、静かに笑みを作った。
「芦屋啓介。君に、私にとって才能とは何かを説明しよう」
指を二本立てて梁は滑らかに言葉を紡いでいく。
「たとえば、絵画の才能に絶対必要な条件は、私が思うにこの二つ。『絵画を制作することで自他問わず人を幸せにできること』『作品制作を継続できること』だ。……『幸せ』は『利益』と言い換えてもいいが、こちらの言い方のほうが私は好きだ」
怪異のくせに、妙にピュアなことを言う。芦屋は怪訝に眉をひそめた。
「どれだけ技術があろうが、他者から評価されようが、作品制作のプレッシャーに負けて破滅的な生き方を選んだり、クオリティのために誰かの犠牲が必要になったり、作ることを止めてしまう人間には才能がない。たとえ人より技術習得に時間がかかっても、人の倍以上修練すればいいのだ。それが可能で、制作過程に幸福を得られて、他者をも幸福にする絵画を作成できるのであれば、その人物には才能があると言えるだろう」
梁は声を潜め、囁くように断言した。
「そして本物の天才とは、普通の人間ならば潰れるほどのプレッシャーやハードルを跳ね除けて才覚を発揮し、自分と大勢の他者を幸福にする者のことを言う」
謳うように、梁は続ける。
「天から与えられた力を十全に使いこなしてこその天稟。天から与えられた試練を乗り越えてこその天賦だ」
「割と人間は才能に対するハードルが甘い。成果だけで判断するのはちょっとどうかと思う」と、呆れたように呟くと、梁は手を叩いて話を戻した。
「さて、私が禊から課されたオーダーは『月浪縁が成人するまでに、怪異に抵抗できるような力をつけさせること』。だから私は縁を本物の天才に育て上げる必要があった。私は瑞獣。もともとは優れた王のもとに現れる獣――であるならば、私が寵愛した人間は必ず優れた力を持つ。もちろん才能には程度がある。私が縁に与えるべきは、最も深い愛と、最も難しい試練だった」
黙って話を聞いている縁に、梁は手のひらを向ける。
「幸い、誘導するまでもなく、縁は幼い頃から絵を描くことを好きになってくれた。技術を覚えるのも知識を蓄えるのも苦にならない子だった。素養があった。でもそれだけでは全く足りない。『幸福』を生み、創作を『継続』する切実な理由が必要だ」
梁は銀色に濁る目を細めて、
「瑞獣である私は、もちろん理由を補うことができる」
縁に与えた苦痛は意図的なものであると、
「もしも縁が絵を描くことで他人を助けることができるなら」
自分から、認めた。
「きっと縁は絵を描かずにはいられない。描くのをやめたりはしないだろう。縁はとても優しくて、強い子だから」
一見すると縁に動揺は見られない、だが、その指が一度小さく震えていることに気づいた芦屋はぎりり、と奥歯を噛んだ。
「そういう理由で私は縁に厄祓いの力を与えた。これで質問には答えられただろうか」
「ふざけるな……! 人をなんだと思ってるんだ!? 潰れたらその時はその時だとでも言うつもりかよ!」
「自他問わず運命の舵を操作できるような傑物でなければ、血の呪いに打ち勝つことなど到底できない」
芦屋が苛立ちに声を荒らげると間髪を容れず梁はピシャリと言い切った。
「才能を伸ばすのは切迫――いわゆるプレッシャーだ。優れた作品を生み出さねばならないという使命感と切実さを生むのに、これほど適したものはない」
「おまえ……!」
冷徹に聞こえる言葉は、どうしてか梁が梁自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「何より、私は縁ならきっと乗り越えられると信じていた。現に、こうして潰れかけても立ち直ってみせたじゃないか」
梁は縁に向けて誇らしげに手のひらを向けた。かと思うとだらりと腕を下げる。
「だが、その立ち直り方がいけない」
それまでやたら愉快そうだったのと打って変わっての無表情だ。そうすると容貌が強調されてますます異形であることが際立つ。
「どうして縁は麒麟なんかの恩寵を得たんだ? どうしてそれで筆に精彩が戻った? 私の寵愛を受けていながら」
「…………」
芦屋は先ほどからなんとなくおかしいと思っていたことを、そろそろスルーできなくなってきていた。
「逆鱗を撫でられるのと同じくらい耐え難い苦痛だ。可愛さ余って百倍憎い」
「……おい、おまえさっきから言葉選びがおかしくないか?」
梁が向ける縁への言葉、馴れ馴れしいを通り越して異常である。
「私の恩寵と麒麟の恩寵、両方得ようだなんて節操がないにも程がある」
「いや、だから……」
「少なくとも一度は殺さねばと、思った」
さらりと言ってのける梁に、芦屋は顔をしかめた。
「そうでなければ、縁が麒麟の寵愛を受けたときに、私がどれほど不愉快極まりなく思ったか、理解しないだろう。全身の鱗が逆立つ心地だ。腑が焼け落ちるほどの心地だ。私がこれまでどれほど縁の為に心を砕き、時間を割いて、慈しんだかを知らないで。横からノコノコと現れた麒麟の姿を縁が目にかけ、敬意まで払った。……こんな仕打ちを受けて、私が正気でいられるとでも?」
そして、うっすらと感じていた違和感が徐々に輪郭を伴っていく。芦屋の予感が正しければ、梁は、おそらく……。
「……私が瑞獣の君に、不義理を働いたから腹を立てて殺そうとした? 目をかけてやってるのに気づきもしない恩知らずと思ったのかな?」
「違う。そうじゃない。理解しがたいが、こいつはたぶん月浪のことが好きなんだと思う」
縁は「急になにを言い出すんだこいつは」という目で芦屋を見るが、芦屋自身には半信半疑ながらなんとなくの確信があった。
「この『中華百鬼夜行』が月浪に対しての作品なら、泥亀をああいう形で登場させたのは月浪への好意の表現、……なんじゃないかと」
梁を窺いながら芦屋が恐る恐る言うと、梁はあっさりと頷いた。
「河図洛書の霊亀は『言葉を奪われたことの示唆』じゃなくて『叶わぬ恋への焦燥』という言い方の方が近いかもしれないな」
それまで無言だった鹿苑がギョッとした様子で口を挟む。
「自分で言うこと? え? というか、もしかしなくても泥亀と俺で一悶着あった件、ここにいる皆さんご存知なの?」
鹿苑が絶望的な表情を浮かべているのを芦屋は無視した。
梁が認めたことの衝撃の方が大きかったからだ。
「やっぱり、そうなんだな? そうか。自分で言っておいて半信半疑のところがあったんだが。いや、マジか……?」
芦屋は混乱のあまり思い浮かんだことをそのまま言った。
「好きな相手を殺そうとするなよ」
その場にいる全員が誰もなにも言わなかった。
芦屋は絶句している縁を見やる。
縁の霊媒体質のことは知っていたが、それでも縁が自分から怪奇現象に首を突っ込んでいる節があると思っていた。正直に言うと若干、自業自得の気があると。けれど、こんな風に、知らぬ間に怪異から好意を寄せられた結果こんな目に遭うなら、それは本当にしんどいだろう。
そして芦屋の知る限りではあるが、縁に好意を寄せてくる相手は作品を作る為に他人の創作意欲を吸い取ろうとする吸血鬼のような井浦影郎だったり、単純に縁を呪い殺そうとしてくる梁飛龍のようなどうしようもない男ばかりではないか。
「俺が言うのもなんだけど、月浪、男運ねぇなあ……」
本当に気の毒である。
「芦屋くん、うるさいよ」
縁は眉間を揉みながら低い声で言った。
「そこは……、そこは一度置いておくとして」
「後回しにされてしまうのか、私の好意は」
「ちょっと黙っててくれないかなあ!」
縁は梁を怒鳴りつけると、深く深呼吸をして気を取り直した。
「……酒巻さんが言っていた。術士の目的は『作品自体を作ること』にあるのではないかと。私もそれには同意見だ」
縁の指摘に、梁の顔色が変わった。
「瑞獣は……いや、怪異は創作活動ができない。そういうルールがあると、母から聞いたことがある。だけど」
縁の顔に、同情の色が浮かぶ。
「『作る人が好きだ』と言った君の言葉は」
いつかのループで、梁が短く語った言葉が芦屋の脳裏にもよぎる。
『生きるために必ずしも必要じゃない、余分とも言える「作品」が、人の生活を彩る。誰かに寄り添うことがある。なにかを残したいと思う気持ちが作品を通して人から人へつながることもある。ときおり人間が生きる限られた時間すら超越して、作家が死んだあとでさえ、生きている人間の心を揺さぶることもある』
確かに、あれは嘘でも方便でもなかったと思った。胸に響いた言葉だった。
「君が美術を志した理由は、本物だったと私は思う。だから、君はやっぱり、作品を作るためにこの呪いを編んだんじゃないのか? 私に与える試練だという名目で呪いを編めば、君にも作ることができるから」
梁が何か言いかけたそのときだ。
女の声が割り込んできた。
「ああ! なるほどなるほど! それでこの龍は身の程知らずにも私に逆らったというわけだな!」
なにもないはずの空間に亀裂が入った。




