人間不信
【芦屋啓介】
「それで、鹿苑は黙って見送ったのか?……入神彼方のやったことは『未必の故意』だ。普通に、裁かれるべきことだろ」
未必の故意とは、自分の行動で被害が発生する可能性はあると思っていて、それでも構わないと考えている心理状態のことを指す。これが立証されれば当然、罪になる。
だが、鹿苑は芦屋の問いに力なく首を横に振った。
「……見逃したわけじゃねえよ。ただ、告発するにしても事故の被害者に話通さないと筋が違うだろ。そう思ってたら、入神彼方は飛行機に乗る前に被害者の連絡先を俺に渡してきた」
「は?」
芦屋は怪訝の短音で返した。入神の行動の意図が全く読めない。鹿苑は苦笑して頷く。
「意味わかんねえよな? でも、被害者に直接会ってわかった。……肝心の被害者が入神彼方の信望者みたいになってたんだ。しばらく話をしたけど、とにかく『入神彼方の不利になるようなことは望まない』って強く言い張った」
「な、んだよ。それ」
にわかに信じがたいことだが、鹿苑は大真面目に言う。
「入神彼方は、……この言い方すげえ嫌いだけど、〝天才〟だ。あの人なら作品で人ひとりたぶらかすことくらい、簡単にできる」
事故の被害者が、自分の足を奪った作品とその作家に魅了される感覚は、芦屋には全く想像できない。
だが、その場合鹿苑が新たに声を上げることは難しかったのかもしれないとは、思う。
一度解決した事件をもう一度調べるのはたいてい関係者の誰かが納得していないときだが、今回事件の関係者は全員納得している。そして鹿苑の立場は、言ってしまえば部外者だ。
「それに、いったんは『入神彼方に非がない』って結論が出てることも引っかかった」
「……入神が公の場で、鹿苑に話したことを証言するとは限らないか」
入神の『未必の故意』を証明する物的証拠はない。鹿苑に自白した入神だが、公の場で同じことを口にする保証も、なかった。
鹿苑は暗い眼差しで頷いた。
「そう。証拠がねえの。空港での会話を録音してたわけでもねえし、むしろ展示計画書とかの物的証拠だけ見りゃ事故の責任の所在は完全にギャラリー側にあるわけよ」
傷んだ茶髪をかいて、鹿苑は乾いた声で言う。
「それに、やっぱ俺もまともじゃねえんだろうな。どっちかって言うと『防げたはずのことを防げなかった方が悪い』と思ってる部分がある。……もちろん、俺も含めて」
「鹿苑に、事故の責任はないだろ」
芦屋が首を横に振ると、鹿苑は小さく笑って眉を下げる。
「こればっかりは気持ちの問題だからよ。事実がどうとかはあんま関係ないんだわ」
黙り込んだ芦屋に、鹿苑は話を続けた。
「それから調子を崩してスランプになった。なにを作っても駄作だ。『一生ついていきます』とか調子のいいこと言ってた連中も潮が引くように離れていった。ギャラリーにも『来季は契約しません』なんて言われてさ。活動できなくなったからしょうがないんだけど」
「……ファンのことも怖くなった。足を失っても作家を信望するヤツを見ちゃうと、やっぱ、怖いよ。俺の作品で取り返しのつかないことになる人間の可能性を目の前にお出しされたような感じで。……だって、俺にも入神彼方と同じことは、たぶん、できるから」
鹿苑は苦しげに言うと、軽く頭を横に振った。
「……結局のところ人間不信になったんだよな。他人も自分も信じらんなくなった。なにが正しくて間違ってるのかよくわかんなくて」
鹿苑のファンだった泥亀伊吹は、キュービの活動は一年間止まっていたと語っていた。おそらくは、このスランプが原因だろう。
「悔しいけど、入神彼方の言ってたことは全部が間違いじゃなかった」
苦しそうに言う鹿苑に、芦屋は眉をひそめた。
芦屋も美大生なので、入神の動機には思うところがある。
たしかに、美大の中で、成果物が優れてさえいれば素行を不問にする傾向は肌で感じることもあった。しかし、これは人による。
卒業制作で優秀賞に値する作品が設営中、他者の備品を無断借用していたことが発覚してレギュレーション違反で優秀賞取り消し処分になった例もあると聞く。美大関係者の全員が全員、優れた作家の素行を不問にするわけではない。
美大の外を見れば、美術作品を投資の対象にすることが流行している。結果、とんでもない高値がつけられることもある。
ただ、投資の対象になるような作品というのは一部の作家の一部の作品だ。元々作者が有名であるとか、歴史的に価値があるとかでない限り、投資の対象になる機会はない。ここに食い込むことのできる作者は実力が大前提にしても、コネクションや政治力がものを言う。芸術作品の評価に富と権力がついてまわるのはいつの時代も変わらない。
だが、たとえコネや政治力があったとしても、作品そのものがある水準にまで達していなければ評価を得ることはできない。最後の最後にものを言うのは、作家の腕だ。
だいたい、と芦屋は腕を組んだ。
「入神がどれだけいまの美術を取り巻く現状を憎んでいようが、事故を誘発するような展示の仕方はダメに決まってんだろ。入神のやってることになんの正当性もありはしねえよ」
「ハハ、出たよ、芦屋のド正論」
そんなことは鹿苑も百も承知のはずだ。案の定、鹿苑は乾いた笑いを浮かべて、頷く。
「だよなぁ?」
「……おまえ、そこからよく立ち直ったな」
どう考えても高校生が背負うしがらみではない。
本人の言うように人間不信になってもしょうがないし、描くこと、作ることが恐ろしくなって無理もない。
芦屋が同情を交えて言うと、鹿苑はわざとらしく肩をすくめる。
「まあ時間はかかったな。まずなにも描けなくなったから。だから、観る方に回った。東京全部の美術館とかギャラリーを制覇する勢いで巡ったし、展示『slash』の記録も何度も見返して、ずっと自問自答してた」
鹿苑のうつむいた顔に、痛んだ髪が影を落とした。
「なんで、入神彼方は、腹を割って話してくれたのか」
「どういう意味だ?」
「だってそうだろ? 適当に誤魔化すことだってできたと思うんだよ。『気のせいだ』って、『あれはただの事故だ』って、一言言えば俺はたぶん、あらゆる疑問を呑み込んで、簡単に『そうなんですか』で終わらせたと思う。でも……、入神彼方はそうしなかった」
たしかに入神が完全犯罪を目論んだのなら、鹿苑の疑問を適当にごまかせばよかったはずだ。
「そもそも、展示設計図を俺に見せてくれたことだっておかしいんだよ。アレを見せなきゃ、俺だって未必の故意に気づかなかった。だから、やっぱり、」
鹿苑は筆を持たない左手で、長い前髪をぐしゃりと掴む。
「彼方さん、誰かに止めて欲しかったんじゃねえのかな」
芦屋はなにも言えなくなった。
「入神彼方の復讐は、たぶん既存の価値観――入神彼方曰くの作品制作至上主義――をどこまでもコケにすること。入神彼方自身が既存の価値観に染まり切った悪辣な振る舞いをして、憎かった相手になりきって、自分を含めた世界全部を思いっきり利用して踏みつけて小馬鹿にしてる」
入神の動機を分析する鹿苑の顔は影になっていまだに見えない。
「だから、入神彼方は否定して欲しかったんだと思う。憎んでいるものになりきった自分を。……だけど、俺は、間に合わなかった」
しばらくの沈黙のあと、深く息を吐いた鹿苑は顔を上げ、芦屋に向けて諧謔みを帯びた笑みを作る。
「ただ、いつまでも俺が間に合わなかったことを引きずってる間に、入神彼方は次の『/01』を作るかもしんねえじゃん。だとすると、結局、俺が入神彼方に引導を渡すしかねえんだよ。入神彼方の怒りに、最初に気づいたのは、俺なんだから」
憔悴していた鹿苑の目に、光が差した気がした。




