変わらず好きなもの
【芦屋啓介】
「芦屋先輩、私がなにかを手に入れてるように見えましたか。だったら、……それって一体なんなんですか?」
泥亀伊吹は自嘲を含んだ笑みを浮かべながら、芦屋啓介に問いかける。もう涙は止まっていたが、頬は流した涙に濡れている。泥亀の顔は変わらず美しくはあったが、痛々しさのほうが勝っていた。
「私、失恋したんですよ。恋をして、浮かれて、楽しかった。生きてきてこんなに幸せなことがあるのかと思ったこともあったけれど、失ってしまえばなにも残らない。母には『美大なんかに行ってバカじゃないの』って怒られて、マネージャーが応援してくれたはずの学生生活を心から楽しむことができなくなって、私は、結局誰の期待にも応えられない……」
「それは違う」
だが、芦屋は首を横に振った。なにも手に入れていない、なんてことはないはずだ。
「泥亀、マネージャーに言ったことは本当に、嘘か?」
「え?」
「『歳を取っても俳優でいたい』って言ったのは、ただの方便なのか?」
『美大に行けばもっと面白い俳優になれる』と言った鹿苑旭の言葉で泥亀は進路を決めた。その言葉をきっかけに恋にも落ちた。
芦屋も友人の葉山英春と出会ったことで進路を決めたことがあるからわかるが、恋はともかく、進路に関しては選ぶのは自分なのだ。
「鹿苑の言葉に従ってみようと思ったのは、あいつのことを好きだと思った気持ち以上に、泥亀自身が『そうしてみたい』『信じたい』と思ったからじゃないのかよ」
自分で自分の進路を選ぶと言うことは、自分の人生の舵取りをするのと同じだ。選択すること自体にも意味があると芦屋は思う。
だから、『歳をとっても俳優でいたいから、美大で演技や舞台に関係するデザインを学ぶ』と、泥亀自身が決めたことは、絶対に無駄にはならないはずだ。
それに、と芦屋は泥亀を見る。芦屋も、本当は学費を親に頼りたくはなかったけれど、無理だった。泥亀がどれだけ大変だったかも、想像はつく。
「泥亀は、もっと、自分を信じていいよ。親なんか関係ない。だっておまえ、自分で美大の学費工面して入ったんだろ? もうなんかそれだけですごいし、尊敬するよ、俺は」
世辞でも方便でもない芦屋の言葉に、泥亀は立ちすくんだ。
戸惑っている様子の泥亀に、縁が声をかける。
「泥亀さんは、どうして鹿苑くんのことを好きになったの?」
泥亀は、少々ムッとした様子で縁を睨む。
「……さっきも言ったじゃないですか、私が頑張っていることに、気づいてもらえた気がしたからですよ。認めてもらえた気がしたからです」
「泥亀さんの頑張ったこと、認めてもらえて嬉しかったことは、なに?」
「それは、」
なにかに気がついたように瞬いて、泥亀は言葉を呑んだ。
縁は泥亀が呑んだ言葉を引き受けるように、口を開く。
「泥亀さんは演技が、俳優のお仕事が好きなんだよね? たぶん、ずっと昔から」
芦屋は、ハッと泥亀の方を見る。
当たり前のことだから口にするまでもないと思っていたが、泥亀は、自分が俳優の仕事を好きなことさえ、自覚していなかったのかもしれない。
「泥亀さん。君は鹿苑くんに会って変わった。自分に自信を持ちたいと思って行動した。でもそれは鹿苑くんの言いなりになったからじゃない。泥亀さんが、自分で決めたんだよ」
縁は芦屋の言葉を補うように、続ける。
「きっかけは恋心かもしれない。でも、たとえ恋に破れたとしても、苦しいのだとしても、自分で決めたことで前には進めたんじゃない?」
言葉と共に、泥亀へと歩み寄る。
「芦屋くんが言った通りだ。君が方便のつもりで口にした『歳を取っても俳優でいたい』『自分で進路を決めて自分の稼いだお金で学費を支払うことができたら、自分自身に自信が持てる』という言葉を、これから〝本当のこと〟にすればいい」
泥亀は怯えたように首を横に振った。
「私に、そんなことができるわけない。……だって、私はいつも、間違ってばっかりで、いまだって、月浪先輩のことも、芦屋先輩のことも、傷つけた……」
「できるよ」
そっと、縁が泥亀の手を取って、目を見て、断言した。
「泥亀伊吹ならそれができる。だって君は俳優だから。虚構を真実に変える力を持った人だから」
泥亀の目から、再び一筋涙がこぼれる。
縁は眉を下げて、優しく問いかけた。
「それを踏まえて、……やっぱり、鹿苑旭とは出会わなければよかったと思う?」
泥亀はブンブンと首を横に振った。絞り出すように呟く。
「……思わない」
縁の手を握り返して、泥亀は声を震わせながら言い募る。
「告白したとき、あんな言い方されて、……ひどいと思った。私、すごく悲しかったし、……傷ついた」
「うん。そうだね」
縁が頷くと、泥亀は「でも」と言葉を翻した。
「でも、……でも、私はまだ、鹿苑先輩の作品が好き」
心からの言葉を一つ一つ口に出すたびに、泥亀の服が変わっていく。
「見ると私も頑張ろうと思える。失恋したあとも、鹿苑先輩の絵はずっと好きなまま、色褪せなかった。飾るのをやめようと思ったこともあるけど、できなかった」
髪飾りは空に溶け、中華風の衣装は縁と芦屋とお揃いの東美怪奇会のスタッフジャンパーに変わる。白いワンピースはお化け屋敷の主演としての衣装だ。
「……私はやっぱり、鹿苑先輩の、ファンだから」
施されていた化粧がスッと引いて、素顔の泥亀伊吹がそこにいた。異形から人へと戻ったのだ。
縁がハンカチを手渡すと、泥亀は素直に受け取って涙を拭いた。
落ち着いたところを見計らって、縁は泥亀に問いかける。
「泥亀さんは中華百鬼夜行の術士では、ないね」
「……ええ。違います」
泥亀はいつも通り、愛想のかけらもない無表情に戻っていたが、ほんのりぎこちなく不器用な性質が顔に現れているように見えた。印象が変わると、見え方も変わるものである。
縁は難しい顔で尋ねた。
「誰が術士かも、いつから自分が取り憑かれていたのかも、わからない?」
俯いて考える素振りを見せた泥亀だが、酒巻や鳳と同様に、こくりと頷く。
「はい。心当たりはありません。……ただ、私が鹿苑先輩に失恋したのだと知っていたのは、鹿苑先輩本人だけ、だと思います」
つまり、泥亀の弱みにつけ込むことができるのは他ならぬ鹿苑本人しかいない。だが、泥亀は目を伏せて首を横に振った。
「でも、鹿苑先輩は誰かを呪ったり、呪いを利用した作品を作りたいとは思わない。むしろ、自分の作品で傷つく人に対してどう責任を取れるか真剣に考えたり、大掛かりな作品については安全性に誰よりも気を配る人です。鹿苑先輩は術士じゃないと思います」
そこまで言うと、泥亀は苦く笑った。
「……結局は私が、そう思いたいだけですけどね」
ドン、と一度、部屋が大きく揺れた。次のループへの移行が始まるのだ。
部屋が崩壊するのと共に、雨が降り始めた。黒い墨の雨は泥亀と、芦屋と縁を隔てるように降り注ぐ。
「月浪先輩、芦屋先輩」
泥亀は少し言い淀んたあと、雨音にもかき消せないよく通る声で言った。
「ありがとうございます。取り戻せて、よかった」




