泥亀伊吹の語り:萌芽
【泥亀伊吹】
私が鹿苑先輩の作品と出会ったのは、高校生になったばかりの頃。
当時の鹿苑先輩はまだ『キュービ』名義で活動していた。あとから鹿苑先輩に聞いたところによると、父親がそれなりに有名な美術関係者だから親の七光りだと言われるのが嫌で〝鹿苑〟という名字が表に出ないよう、ペンネームを使っていたらしい。
その日はドラマの撮影だった。
私は高校生の天才画家、という設定だ。作品を作ることだけに没頭していて、周囲を少し見下しているような、冷たい感じのする女の子を演じることになっていた。
事前に高校生作家が描いた絵を使って撮影すると聞かされていたけど、私はたいして気にも止めていなかった。……実際にその絵を見るまでは。
スタジオに入ると高校の美術室を再現したセットの真ん中に小道具として置かれたB3サイズの絵が、私の目に飛び込んできた。
そんなに大きな絵ではない。なのになぜか目を惹いた。鮮やかな色で塗りたくられた牛骨がその場の空気を支配している。
骨は死に近いモチーフではあるけれど、その絵は色彩が鮮やかだから暗く感じることも重く感じることもなかった。クイズ番組に出た時に見たメキシコのお祭りのような、死を明るく受け入れて悲しみを笑い飛ばすようなエネルギーを感じて、私は、その絵から目が離せなくなっていた。
「キュービくんの絵、目立ちますね」
スタッフが苦笑して言った。彼が言う通り、キュービの絵が背景に映ってしまえば演者よりも絵の方に目を奪われてしまいそうだ。監督が困ったように頭をかいた。
「まいったな」
「外しますか」
監督とスタッフの会話に私は反射的に割り込んでいた。
「ダメです」
……普段なら、絶対に他人の会話に口を挟むなんてことはしない。
話していた監督とスタッフは当然、周囲にいた人たちも珍しそうだったり不思議そうだったりする顔で私を見ている。こういう場面は苦手だ。私がなにを言うかを測られているような気がして。だから、少し言い淀んだ。
「私が、」
けれど、それでも言わなければいけないと思った。
「私がこの絵に負けない演技をします。絵を外さないでください。お願いします」
長く芸能界にいたけれど、撮影のときに私が監督に意見を言ったのはその日が初めてだったと、夢中になって演技をした後に、気がついた。
そのときの演技は周囲から「よかった」と褒められたし、話題にもなったみたいだ。
その回の放送を見た脚本家が台本を差し替えてまで私の出番を増やしてくれたので、マネージャーがとても嬉しそうにしていたのも覚えている。
私の演技が褒められるようなものになったのは、たぶん、そのときの私が絵に引っ張られたからだと思う。
雷に打たれたような衝撃、溢れ出る色彩とエネルギーを感じる作品を見て、私は瞬時に「この絵を描いた人」のことを想像していた。
――どういう気持ちで描いた? どういう意図でこの色を使った? モチーフに牛骨を選んだのはなぜ? 描いている途中は楽しかった? それとも上手くいかない場面もあったのだろうか? 完成させたときは、達成感に満ちていた?
役作りをする際に考えるようなこと全ての答えが、絵から伝わってくる。
『なにより強い絵にしようと思って描いた。この絵に人の目を集めたい。見た人間を絶対素通りさせたくなかった。牛骨は生命の終わり、死のメタファー。明るい色彩で絵の具を塗りたくるように使ったのはいずれ迎える旅立ちが暗いのは嫌だから。作品を作るのなんて楽しいに決まってる。辛いとか面倒とかうまくいかないと思うこともあるけど〝楽しい〟が全部を塗り替えていく。完成させた時は最高の気分だった!』
脚本を読んで『天才』の役作りはしていた。
天才高校生作家タカノアヤの人となりも充分頭に入れた上で現場に臨んできたつもりだった。
でも現場にあった〝本物の天才の作品〟が私により深く、より強く、役に対するインスピレーションをくれた。作品から強い衝動のようなものを感じ取って、私はそれに応えたいと思ったのだ。
これまで感じたことのない感情と体験だった。
だから、ドラマの撮影が終わった後、私は小道具に使った牛骨の絵を、無理を言って譲ってもらった。そんなに安い買い物ではなかったけど、給与の大半は仕送りとセキュリティの良い部屋に使うだけだからなにも問題がない。
その後も私は暇を見つけると『キュービ』のことを調べた。本名も顔もわからない。一つ年上の男性だということは教えてもらったけれど、SNSでもあまり私生活を書き込むタイプじゃなかったから私はキュービの事を何も知らなくて、それがなんとなく、不服だった。
仕事の帰り、マネージャーの運転する車に乗せてもらうとき、キュービがSNSに載せている作品を眺めるのが日課になった。画面越しでも良い作品だと思ったけれど、もっとたくさん、本物を間近で見てみたい。作品集とか出さないのだろうか。と思っていると更新通知が届いた。
リロードボタンを押すと、表参道の画廊の写真が表示される。キュービは『フレーム』というタイトルの個展を開くのだという。
私は、絶対に行きたいと思った。
スマートフォンを握りしめたままマネージャーに尋ねる。
「羽鳥さん、あの、……個展ってどんな格好で行けば良いと思いますか。例えばなにか、ちゃんとした……ドレスコードとかあるんですか?」
「へ?」
車を運転していたマネージャーは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
「普通の格好でいいと思うけど。個展って、キュービくんの個展だよね? 時期は? 場所どこ?」
私がスマートフォンの画面にある情報を読み上げてると、マネージャーは「うーん」と難しそうに唸った。
「表参道か。いや、ちょっとスキャンダルになりかねないか? 目立つもんな伊吹。騒ぎになる? 意外と平気か? どうだ?……不安だ。送迎したい」
自問自答するマネージャーに、私はよほど不安そうな顔をしていたらしい。ミラー越しに目が合ったマネージャーがハッとした様子で明るい表情を作った。
「……あ! 大丈夫!『行くな』って言ってるわけじゃないから、ちょっと待ってね。でも絶対一人で行っちゃダメだから! その代わり先方にアポ取るからね!」
マネージャーは早口でまくしたてた後、脳内で段取りを組んだらしく一人で何度か頷いた後、弾んだ声で言った。
「上手くいけばキュービくんとゆっくり喋れると思うよ」
「……え?」
うまく言葉が飲み込めなくて問い返すと、マネージャーはニコニコしながら答える。
「ファンだもんねー、伊吹。聞きたいこととかちゃんと用意しとくといいよ」
そこから帰るまでの記憶がない。
キュービと喋る。
私はそのことで頭がいっぱいになっていたのだ。
※
表参道の大通りから外れた、コンクリートでできた立方体のような建物がキュービが個展を開くギャラリーだった。
学校から直接雑誌の撮影に向かって、その帰りだから結局なんの変哲もないブレザーの制服姿で赴くことになってしまったのがなんとなく不満である。
マネージャーは「駐車場で待っているから帰る時に声をかけてほしい」と言って着いてきてはくれなかった。心細いようなありがたいような気持ちで、私はギャラリーの扉を開いた。
「あ、〝タカノアヤ〟じゃん。どーも」
明るい声で役名を呼ばれて心臓が跳ね上がったような気がした。
キュービは肩につくくらいの薄茶色の髪を輪ゴムで括りながら、床に置かれたダンボールを足で避けてこちらに挨拶に来た。
「〝キュービ〟です。すいませんね。一般展示は終わってていま搬出前なんだよ。だから入り口付近が梱包材やらなんやらが散らかってんだけど」
高校生作家だと聞いてはいたけれど、実際に制服姿で出迎えられると作品とのギャップを感じて戸惑う。本当に若い。
キュービに、ブレザーとネクタイの制服は似合わなかった。襟元が窮屈なのが苦手なのか、ネクタイの結び方にもやる気が感じられずだらしなく着崩している。
「まあでも、あんた割と顔が売れてるから他人がいない方がいいのかな? そのつもりであんたのマネージャーは連絡とってきたんだろうしな」
「……ワガママを言って、すみません」
マネージャーがどういう言い方をしてアポイントを取ったのかはわからないが、普通の展示時間よりも後に入れてもらえたのだから、なんらかの融通を利かせてもらったのだろう。うつむいた私に、キュービはひらひらと手を振って気安く応じた。
「いいよ。だってあんた俺の作品との共演者じゃん。しかも撮影後は『牛骨』買ってくれたんでしょ? ありがとな。天才画家の役、よかったよ」
「ドラマ、観てくれたんですか」
気恥ずかしいような嬉しいような、怖いような気持ちで恐々とキュービを窺う。
「うん。俺の作品出すって言うから一応目は通した。でもまさか本当に使われるとは思ってなかったな」
「え?」
「だって目立つだろ、あの絵」
言っている意味がわからなくて困惑する私に、キュービは頭をかいて説明する。
「生島さん……なんか美術のエラい人と監督の手塚さんの二人がいたく気に入って買ってくれたのはいいんだけどさ。アレ、個展の目玉にしてやろうってすっげえ気合い入れて描いたヤツなんだ。どんな名作と並んでも見劣りしない、強い絵にしたくて『した』わけよ。そんなん絶対背景に溶け込むわけないし『小道具としてはどうなの?』って内心思ってたんだけど。意外となんとかなってたね」
本気で意外そうに言うキュービに、私は反射で呟く。
「なんとか、したんですよ」
口にしてしまってから、絶対にいまのは聞こえただろうと思った。ザッと血の気が引いてキュービの顔を見れなくなった私に、聞こえてきたのは笑い声だった。
「……くく。そうだな。あんたが画面を保たせてた。他の役者は俺の絵に喰われかけてたけど、あんたがビシッと張り合ってたな。だから浮いて見えなかった。そんくらいはわかるよ」
褒められたのだと気づいて、引いた血の気が引いた以上に戻ってくる。
ただ、失礼なことを言ってしまった印象を塗り替えたくて、私は用意してきた質問の一つをキュービにぶつけた。
「あの、なんでキュービってお名前なんですか? キツネが好きなんです?」
キュービの目がきょとんと丸くなっているのを見て、これを言うタイミングはいまではなかったとやはり口に出してから気がついた。
「ええと、キツネは別に好きでも嫌いでもないな。ペンネームは単に本名もじりだよ。俺の本名『鹿苑旭』って言うんだけど」
転がっていた油性ペンと段ボールの切れ端を拾って、キュービ――鹿苑先輩はさらさらと自分の名前を書いた。右上がりの『旭』の文字を油性ペンで差して言う。
「この『旭』の字が、ほら『九』と『日』にバラせるだろ。それを繋げて読んで『キュービ』ってわけ。わかりやすくない?」
「なるほど」
会話が終わった。無言が痛い。
私は焦って口を開いた。
「わたし、」
言うべきことと言いたいことが混線した。とりとめもないことが口から飛び出る。
「あなたの絵の前だと、半端な演技ができなくなる」
「へえ?」
面白そうに鹿苑先輩が眉を上げた。
「つまり気合いが入るってこと? じゃ、この中であんたが一番気合いの入る絵を選んでみなよ。それが俺の一番力入れて描いた絵なら譲ってやるから」
戸惑う私に、鹿苑先輩は会場に向かって腕を広げて見せた。
「一種のゲームだよ。俺は何回か個展をやってるんだけど、その時々で一番気合い入れて描いた絵は売らないでおいて、『どうしても』って強く望まれるか、俺が渡したいと思った相手に押し付けることにしてんだよね。まあ、いらないなら、別に」
「いります」
食い気味に遮って、私は改めて個展の会場を見まわした。
作品のサイズはまちまちで、大きい絵も小さい絵も、小さめの立体作品もあった。画材も多様だけれど、どの作品も個展のタイトル通り〝フレーム〟をすごく意識していた。『枠があるから枠を破ることができる。枠があるからこそ自由に描ける』というのが、テーマだったのかもしれない。
一つ一つ、時間をかけて作品を見る。どれも素敵だと思った。
フレームから滴るほどのパワーがある。けれど、こうして見るとドラマで使われた牛骨の絵は本当に、叫ぶような存在感と強さを表現していたのだともわかる。展示会場にある絵はもう少し落ち着いていたり、あるいは遊んでいるような印象を受けるものも多い。
ふと展示の中ほどに置かれていた三つの小さな絵の連作に、私は目を奪われた。『連作・朝/昼/夜』とタイトルが付けられている。正方形のほとんど単色の画面に、細く繊細な銀色の線がフレームを描いている。どうしてそう見えるのかはわからないけれど、私には宝石のカットに見えた。明るい青と赤、黒のほとんど単色で塗られているはずの三つの画面が光って見える。絵の具だから実際には光を反射するはずもないのに、不思議だった。
最後まで見てもその絵のことが頭から離れなくて、ゲームのことなんて半分忘れて入り口に戻ると鹿苑先輩がひらひら手を振って「おかえり」と言った。
「あんたずいぶん作品のことじっくり見るんだね。おもしろ。で、どれが一番よかったよ?」
私は迷わずに『連作・朝/昼/夜』を選ぶと、鹿苑先輩は「ふむ」と納得したように声を漏らして、言った。
「あんたさ、進路とか決まってんの? 大学とか行く気ある?」
「どういう意味?……ですか」
脈絡がよくわからない問いかけに面食らってタメ口になりかけて、慌てる。けど、鹿苑先輩は気に留めたそぶりもなく、あっけらかんと言い放った。
「美大とか行けばいいのに、と思って」
正直、美大はおろか、進学するなんて考えたこともなかった。というより、自分の将来のことなんてほとんど考えたことがない。目の前のことをこなすことで、いつも精一杯だったから。
なにを思ったのか、鹿苑先輩はそれまでと打って変わって真面目な顔になった。
「あんたの演技、俺の絵が出てくる場面からグッとギアが入ったみたいに良くなった。いま選んだ作品も、この中一番思い入れがある絵をピタリと当てた。見る目がある。でもあんた、あんまり素の喋りが得意じゃないし自分の思ってること相手に伝えるのがヘタだよな。それ、役者としてはどうなの?」
「ぅ……」
全く反論できない。
絶句した私に、鹿苑先輩は言いすぎたと思ったのか、軽く目を泳がせる。
「あー……偉そうに言っといてなんだけど、俺は演技のことは門外漢だ。でも表現者ではあるからちょっとわかることがある」
気を取り直したように、鹿苑先輩は私を、見た。




