百鬼夜行・書の奔流
「ダメだ!」
間髪容れずに縁が叫ぶ。
「なにを考えてるんだ君は! バカじゃないのか!?」
「……おまえに言われたくねぇよ。月浪がいつもやってることだろ」
芦屋が静かに言うと縁は痛いところをつかれたという顔をしたが、すぐに気を取り直した様子で言い募る。
「名刺を使えばいいじゃないか!」
「名刺の残りは五枚しかない。俺の足の補助と記憶の担保に一枚ずつ必要だから、一回のループで最低でも二枚はいる。……まだ鹿苑とは話もできてないんだぞ」
泥亀が芦屋の言葉にうつむいた。口を開きかけて、やめる。動揺を隠すような所作に見えた。
芦屋は泥亀の反応を怪訝に思いながらも縁との話を続ける。
「名刺を使ってガラスが破れる保証がない以上、無駄遣いする訳にはいかない。一度ループして泥亀の『奪われた言葉』を調査すれば、次は必ず霊亀を祓えるはずだ。ここで名刺を無駄打ちするか、二枚失っても確実に仕留めるかなら、後者の方がリスクは少ない」
「ふざけるな! 自分が死ぬのも考慮に入れろよ!」
「入れない」
縁がなにか怒鳴っているのは聞こえてくるが、芦屋は意図的に無視して降り注ぐ黒い水を注視する。もう水かさは芦屋の胸のあたりまで届いている。
(この中に入ってたのが月浪だったらたぶんこの辺でアウトだよな。なら入ったのが俺でよかったのかもしれない)
それなりに身長があるのでなんとか足もまだついているが、このペースだと二、三分で足も取られてしまうだろう。そうなったら掴まるところもないので、終わりである。
(月浪の手前、啖呵切ったはいいものの、溺死か。溺死。……こう、ジワジワ来るのが、嫌だな)
一思いにスパッとやってもらった方がまだマシかもしれない、と芦屋は天井を見上げた。
相変わらず墨が滝のように注ぎ込まれていた。その飛沫がガラスの壁面に飛んで歪な点描画を描いている。
(いや、待て。この飛沫、なんか変だ)
芦屋は目を細めて飛沫にピントを合わせる。重なって読めないところが多いが、透明な水飛沫の中に黒い文字の塊のようなものが入っている。芦屋はガラスに指を這わせて、水滴を――文字を伸ばした。
『俺はいい仕事する人間が□□だからさ』
指で伸ばされた文字の塊は文章になった。芦屋はどんどん水滴を伸ばして文字の塊を解きほぐし、読んでいく。潰れて見えないところもあったが、これこそが泥亀の奪われた言葉であるという根拠のない確信があった。
『外見□□□と□□□振る舞い、演技□□□、その他諸々の全部があんたの努力で』
『□□先輩は、俳優は技術職だって言う。私の仕事が、結構□□なのだと。私の仕事を□□□□□みたいのだと。私が□□□□□□ことに気づいてもらえたと思った。自分のことを、□□□もらえた気がした』
『鹿苑□□から私の家に絵が送られてきた』
『私の部屋にあってもきらきらと□□ていた』
どんどん水かさが増していく。足もつかず、空気がほとんどなくなったあたりで水と文字を飲んでしまった芦屋は目を瞬く。
呑んだ言葉のせいか、泥亀が抱いていた感情が自分ごとのように感じられて、芦屋は半分溺れかけながら、口をひらいた。
「泥亀は……、鹿苑のことが、好きだったんだな」
その言葉がトリガーになった。
凄まじい音を立てて、ガラスの砂時計が、割れた。
芦屋は墨の滝に背を押されるようにして亀の背から転がり落ちる。
咳き込みながら強かに打ち付けた腰をさすって立とうとすると、縁に胸ぐらを掴まれた。
「なにやってんだよ! ほんとに、君は……!」
目を真っ赤にした縁が柳眉を逆立てているが、正直芦屋はそれどころではない。
「ちょっ、待、息、ゲホッゴホッゴ……ッ!」
「…………」
縁はむせる芦屋に「こいつ意外と平気そうだな」という顔をする。
「はーッ、すまん。やっと落ち着いてきた。息が。で、なんだ? 泣くほど心配しましたって話か?」
「奥歯抜けるまでぶん殴ってやりたい」
わざと茶化してみた芦屋であるが、縁の返答は本気だった。平手打ちくらいは覚悟していたもののこの怒りようだとおそらく拳が飛んでくる。しかもたぶん複数回。
青い顔になった芦屋に、縁は半眼で「本気にするなよ。やるわけないだろ」と言いながら乱暴に胸ぐらから手を離した。
「まだ、私が月浪先輩を呪う理由までは分かってないですよね?」
泥亀が縁に問いかける。淡白な口調であるが、こちらに揺さぶりをかけようとしているのがありありとわかった。しかし、縁はもう、揺らがなかった。
「芦屋くん、泥亀さんは鹿苑くんに自分の気持ちを伝えたかどうか、わかる?」
縁の質問の意図を察した芦屋は、渋々言った。
「……泥亀は鹿苑に告白してると、思う」
「なら、理由は想像つくよ」
縁は泥亀から目を離さずに静かに告げる。
「泥亀さん、君はこの部屋に来たとき、私の姿をしていたね。正直、どうしてなのかわからなかった。だから、人が自分から進んで演技をするとき、特に『誰かと成り代わりたい』と思うときがどんなときなのか、想像してみることくらいしかできないんだけど、」
縁は指を二本立てた。
「私ならこんなときだ。『自分の理想と思しきポジションに他人が置かれているとき』『自分自身に全く自信がなくなるくらい、打ちのめされているとき』このどちらか。……あるいは両方」
そこまで言うと、縁はなぜか不可解そうに首を傾げながら芦屋の方に目を向ける。
「私は鹿苑くんとは……まあ、ふつうに友だちか? 友だち判定で間違いないかな、芦屋くん?」
「なんで俺に聞くんだよ。いいだろダチってことで」
確かに縁は人と一歩引いた距離を保っているし、鹿苑もだいぶ人付き合いに癖がある人物ではあるが、鹿苑と縁は東美怪奇会の中でもよく話している。芦屋から見てこの二人は気が合うと言うよりも、物事の優劣や良し悪しを判断する視点が近い印象があった。
「ていうか月浪は鹿苑と一番対等に話せてるように見え、る……」
芦屋は口にして、気づく。
それが理由だ。
「だから、泥亀さんは私の顔をして現れた。そうでしょ?」
縁の問いを、泥亀は否定しない。
「泥亀伊吹。君の気持ちは――恋心は、鹿苑旭に受け入れてもらえなかったのでは?」
縁の指摘に泥亀は目を閉じ、小さくため息をこぼした。
「……この部屋で私は嘘が吐けない。嫌なルールですね」
再び目を開いた泥亀の瞳は蛇の目ではなくなっていた。腕や膝下に浮かんでいた鱗も引いている。
「はい。そうです。私は鹿苑先輩に恋をして、破れて、月浪先輩と鹿苑先輩を呪いました」
これで次のループに移行する条件は整ったはずだ。しかし、〝河図洛書の霊亀〟は未だに部屋の真ん中に鎮座して、うたた寝するように目を閉じている。
怪異はまだ祓えていない。
亀と蛇の怪物を横目に見ながら縁は言う。
「泥亀さんの奪われた言葉はまだ取り戻せていない。君自身が取り戻すのを拒んでいるでしょ」
「……ええ。いまとなっては私に必要なものだとも、思えないので」
泥亀の答えに、縁は痛ましげに目を細めた。
「人ひとりを溺死させるほどの言葉が、……泥亀さん。君の中にあったのなら、取り戻すべきだと私は思う」
「なぜですか?」
心底不思議そうに首を傾げ、泥亀はそれまで座っていた棺から立ち上がり、自身の胸に手を当てる。レースのプリーツがふわりと揺れた。
「私、この鏡の霊廟に来てからとても、楽です。恋心を封じて弔ってから心も身体も軽いんですよ。私は私の役割を果たしていればよくて、余計なことを考えず済む」
「君が君の言葉で殺したかったのは、芦屋くんじゃないでしょう」
泥亀は軽く瞬いて、黙る。
「泥亀さん。いま、君の心が軽いのは、君の言葉が君以外の誰かに利用されているからだ」
「どうして月浪先輩が苦しそうなんですか? ……取り戻せば苦しむとわかっているものを、私に取り戻せと言うんですか」
「君の言葉も苦しみも、君だけのものだと思うからだ。それがこうして利用されているのは、……ひどいよ。とてもひどいことだと思う」
恋心を呪いに利用した術士への怒りに縁は奥歯を噛んで、泥亀を説得しようと試みる。
「このままじゃ誰も永遠にループから抜け出せない。ずっと君自身の言葉や気持ちを取り戻せずに、この霊廟に留まり続けることになるんだ。……本当に、それでいいの? 鹿苑くんだって君の預かり知らないところでシステマチックに死に続けるんだぞ」
「いや、月浪、それは的外れだ」
芦屋は思わず口を挟んだ。
「……泥亀が鹿苑を大事に思った気持ちは全部あの亀のバケモノが持っていってる状態だから、いまの泥亀にとっては鹿苑がどうなろうと知ったことではないんじゃないか?」
「ええ。割と、どうでもいいです」
縁は唇を引き結ぶ。芦屋は文字を飲んだ時に感じた胸を焼くような感触を思い出して、言葉を選んだ。
「泥亀。降ってくる言葉から俺がそう感じただけで実際どうかはわからないが、おまえは多分鹿苑に、めちゃくちゃに傷つけられたんだと思う。それに対してショックを受けているのはわかったが、怒ってるのか悲しんでるのかまではわからなかった。まだ気持ちの整理もつかないうちに、怪異に取り憑かれたんじゃないのか?」
泥亀は沈黙で応えた。おそらくは芦屋の推測が、正しいのだろう。
「それでも、おまえが鹿苑のことを本当に好きだったことも伝わってきた。その気持ちが泥亀を前向きに動かした部分も、その後の人生に多大に影響を与えたところも、きっとある。それは、鹿苑がおまえをこっぴどく振ったところで、無くならないものじゃないのか?」
泥亀に芦屋の言葉が届いた感触はいまのところ全くない。それでも芦屋は伝えようとする。
「だから泥亀の言葉が奪われたままなのはちょっと、……俺は、嫌だな。手に入れたものまで失くしてしまうのは、もったいないと思う」
「私にも、手に入れたものがあった……?」
泥亀は初めて眉をひそめて不快を示した。それは、芦屋や縁に対しての嫌悪感ではなく、自己嫌悪だった。
「霊亀がそばにいるようになってから振り返ると、私の行動は浅はかで、愚かで、馬鹿馬鹿しく思えます。なにかを手に入れていた実感は全くないんですけども」
「それは言葉を奪われているからだろう」
芦屋がキッパリ言い放つと、泥亀はうつむいて、つぶやく。
「……私は、いつも間違ってばかりです」
泥亀は自身の白い指先を見つめる。
「でも、手に入れたものがあると言うなら、それがなんなのか、知りたい、かもしれません」
「なら、語ればいい。私たちが聞き手になろう」
縁が泥亀に向けて、口を開いた。
「君の言葉を取り戻す鍵は、君自身が持っている」
「……そうですね」
泥亀が顔を霊亀へと向ける。うたた寝をする亀と蛇の怪物がパチリと目を開けた。泥亀の視線が気になるのか、尾の蛇まで首をもたげて泥亀を見つめ返した。
泥亀は指でフレームの形を作ると、口上を述べる。
「『戻せ。〝河図洛書の霊亀〟……私の言葉を私の元へ』」
亀の目の色が、変わった。
黒から金に変化する。瞳孔が絞られて縮まるのと同時に、芦屋がガラスの砂時計を破って流れたままの墨の滝が、ぎゅっと小さな蛇の形に凝縮された。そのまま、スルスルと亀の背から降りてくる。真っ直ぐに、泥亀の元へと向かった。
泥亀はしゃがんで黒い蛇に向けて手を差し出した。差し出した手に絡みついた蛇は右腕から泥亀の顔へと向かう。蛇が身体をつたうのと同時に立ち上がった泥亀は、黒い蛇と目を合わせたかと思うと、ため息を一つこぼして口を開き、その蛇を、飲み込んだ。
「ぅぐ……ッ、ゲホッ……!」
霊亀が霧散して姿を消したのと同時に、泥亀が膝から崩れ落ちた。喉を押さえて苦しげに咳き込む泥亀に、芦屋は動転しながら泥亀の元に駆け寄る。
「おい!? だ、大丈夫か?!」
泥亀の顔色は真っ青だ。吐かせたらおそらくまずいのだろうが、どう対処するのが正解なのかわからない。水とか飲ませるべきなのか、そもそもこの空間にある水を飲ませても大丈夫なのか、と滝へと目を配らせた芦屋の肩を縁が軽く叩いた。「ここから先は自分に任せろ」と言わんばかりだ。
「泥亀さん、具合はどう?」
ブンブンと首を横に振って睨む泥亀に「当然だ。よくはないよね」と縁は空疎な同意を返す。
「言葉の蛇を飲んだのなら、吐き出すのもやはり言葉だよ。語ることで楽にはなれるけど……泥亀さん、話せる?」
泥亀は縁に向けて目をすがめたかと思うと、諦めたように、こくりと頷いた。
私立東京美術大学・演劇デザイン学科一年、泥亀伊吹は語る。




