五角審判の間:鏡面霊廟
暖簾の向こうは白黒の宮殿――いや、霊廟だった。煌びやかな鏡細工が施された棺が一つ、部屋の正面に置かれている。
床は黒く、柱は白く、壁の一部と天井は鏡張りだ。特に天井は宝石のカットに似た複雑な形をしており、縁と芦屋の姿を万華鏡のように映し出していた。人の気配がなく、厳かな雰囲気の部屋だ。
正面にある棺の奥にある、巨大な黒い滝の音が立てる音が部屋に響いているのもこの部屋が人工的なのかそうでないのかわからない要因の一つだった。ただ、明らかに怪奇現象が起きていた。
部屋の中心部を除いて、中国語と思しき墨文字が星空を模したような鏡細工を施した天井から雨のように降り注いでいるのだ。文字は黒い墨の池に溜まっていくのである。
池には紙できた蓮の花が浮いており、文字が落ちるたび跳ねた墨で汚れていたが、不規則な飛沫が複雑な模様に見えて美しかった。
池に気を取られていると、気配を感じた。だが、振り返るとなにもない。
千羽鶴がパタパタと音を立てながら文字の雨の隙間を飛んでいるのを目の端にとらえた瞬間、芦屋の体が、浮いた。
「なっ……!?」
足元を見ると、絡みつく蛇の赤い瞳と目が合った。威嚇音と共に口が開いて鋭い牙が露わになる。芦屋の顔から一気に血の気が引いた。
自分になにが起きているのか全くわからなかった。
巨大な白蛇に巻きつかれ宙吊りにされたと芦屋がわかったのは、壁の鏡に映る自分の姿を目視したからだ。蛇の尻尾は巨大な黒い亀の尾と繋がっている。
ヤバい、と思った瞬間、どこかに叩きつけられた。
「っ痛ぇな……!」
「芦屋くん?!」
縁の声がやけに鈍く聞こえる。
芦屋がハッと体を起こすと、鏡に映る自分の姿が見える。足元が透明なので位置関係も把握できた。ここは、巨大な亀の甲羅の上に置かれた、巨大なガラスの砂時計の中だ。
砂時計の中身は芦屋だけで、上を見上げても砂の類はなく、空っぽだ。とりあえず砂が上から落ちてくることはないのですぐさま命の危険があるわけではなさそうだが、閉じ込められたのは確かである。まずい状況であることに変わりはない。何度かガラスの壁に体当たりしてみるが、びくともしない。
「芦屋くん! 大丈夫か!?」
叫ぶ縁の横にある鏡から、手が伸びているのが見えた。
「月浪、鏡から離れろ!」
パッと縁が鏡から距離を取ると、鏡の表面から手の次に顔が、胴体が、足が生えて、一人の人間の姿を作りだした。
「『中華百鬼夜行へようこそ』。……これで四度目になるのかな?」
中華風の衣装を着た月浪縁の顔をした女が、ニヤニヤ笑いでこちらを見ていた。
「……趣味が悪いな、泥亀さん」
縁が嫌悪感も露わに呼びかけると、女は持っていた黒い扇子で口元を覆い隠した。赤いラインが引かれた目を弓なりに細める様は、月浪縁そのものである。
「あは。やだな。ちょっとしたジョークじゃないか。そんなに怖い顔しないでよ」
だが、泥亀と呼ばれても女は否定しなかった。
それにしても縁と顔も喋り方も瓜二つの女だが、格好は異なる。本物の縁はスタジャンと長めのプリーツスカートなのに対して、鏡から現れた女はミニスカートの黒いチャイナドレスに白い膝丈のボリュームのあるレースのプリーツスカートとパニエを合わせている。中華風のロリータファッションのような雰囲気だ。
またその女も、梁、酒巻、鳳のように異形へと変貌していた。首元、ノースリーブから除く腕、膝下から露わになった素肌は銀色の鱗に覆われている。扇子を持つ手の爪も黒く尖っており、人の手足ではなく、爬虫類めいた印象を覚える。
縁は自分と同じ顔をした女に辟易した様子で腕を組む。
「正体を悟られても化けたままというのは、往生際が良くないぜ」
「まあ、そうだね。ルールは守ろう」
女は扇子で完全に自身の顔を覆い隠したかと思うと、パン、と音を立てて扇子を閉じる。
「こちらの顔なら満足ですか」
声と顔が変わった。
縁が指摘した通り、泥亀伊吹その人だ。
「私の顔をした相手と喋るよりはだいぶマシだな。そちらの顔の方がきれいだよ」
泥亀は普段のTシャツとデニムのような簡素な格好でもかなり目立つ美人だが、化粧と絢爛豪華な衣装を合わせるとほとんど絵画の中から飛び出してきたような現実味のない佇まいである。国の一つ二つ傾けていてもおかしくはない。
ただ、瞳孔が蛇の目のように縦に細く、金色の瞳に変わっていることと無表情の美貌が合わさって、恐ろしさの方が勝っていた。
「そうですか? まあ、どうでもいいです。さっさと終わらせましょう」
泥亀は手に持った扇子で自身の手のひらを軽く叩きながら言う。
「月浪先輩がこの部屋から出るために取れる選択肢は四つ。私が呪う理由を言い当てるか、私から怪異を祓うか、この中の一人が死ぬか、十八時まで待って構内に残る全員と心中するか。……後半二つの選択肢を選んでしまうと最初からやり直し、ですけど」
泥亀は縁に向けて気だるそうに目を向けた。
「月浪先輩と芦屋先輩が虎と鳳凰を祓ったせいで、大幅に呪いのリソースが削られているんですよ。そんなに人も死んでいないからこの空間を維持するのも大変なんです。だから……」
泥亀がパン、と音を立てて扇子を手のひらに叩きつけた瞬間、部屋に降り続けていた墨の文字が空中に静止した。
「省エネで月浪先輩を苦しめることにしました。最小限のエネルギーで最大限の効果を。エコですよね?」
扇子を開いた泥亀が、下から上へ、空中を撫でるように扇子を煽ると、芦屋の足元に影ができる。
それまで降り続けていた墨の雨が、砂時計の砂の代わりに芦屋の頭上に注がれるのだと気づいた瞬間、芦屋は自分の身体を再びガラスの壁に打ち付けていた。破れる気配はないが、そうせずにはいられなかった。
このままでは、芦屋は墨の雨に溺死する。
縁も芦屋と同じ結論に至ったらしい。
「泥亀さん! 芦屋くんは関係ないでしょ! 彼をいますぐあそこから出して!」
縁が叫ぶように言うと、泥亀は軽く首を傾けた。髪飾りの白いタッセルが艶やかな髪と一緒にさらりと揺れる。
「なにを言ってるんです? これは呪いで、しかも中華風のアレンジを加えていますけど、〝百鬼夜行〟ですよ。対象をとびきり苦しめるためのプランをとことんまで用意したお祭り騒ぎ。怪異が列をなして行うパレード。……月浪先輩なら知ってるはず」
泥亀は縁の前を素通りすると、鏡細工の棺に腰掛けて足を組む。膝下を覆う銀色の鱗が鏡と同じくギラリと光った。
「普通〝百鬼夜行に遭った人間は死ぬ〟んですよ」
縁はぐっと奥歯を噛んだ。
「芦屋先輩を助けたいなら、私が呪う理由を言い当てるか、私から怪異を祓えばいい」
扇子で口元を隠す泥亀が、先ほど縁の演技をした時と同じように、蛇の瞳を弓なりに細めて、笑った。
「その方法を見つけるところまでが、あなたの役割じゃないんですか、月浪先輩?」
縁は泥亀には答えず、なるべく芦屋の様子を確認しようと思ったのか亀のそばに駆け寄りながら、芦屋に向けて声をあげる。
「芦屋くん! 足元はまだ確認できるか?!」
「……なんとか!」
水が溜まってはきているが砂時計もそれなりの大きさがあるのでまだ余白は残されていた。縁は続けて問いかける。
「その亀の甲羅に変わったところはないか?!」
亀の甲羅全体に芦屋が目を向けると、模様が刻まれていることに気がついた。
「なんだ? ……甲羅の溝の代わりに変な模様がある! 点字に似てるか? 白と黒の丸が規則的に並んでるように見える!」
「おそらくは『洪範九疇』の図だな。天から授けられた法典……なら、やはり」
芦屋の言葉を聞いた縁は口元に手をやって考えるそぶりを見せると、泥亀に顔を向けた。
「泥亀伊吹、君に憑いているのは〝河図洛書〟の霊亀だ」
縁は自分を落ち着かせるように息を吐くと泥亀に憑いた怪異の正体を暴いていく。
「河図は黄河に現れた竜馬の背に、洛書は洛水から現れた霊亀の背に描かれた幾何学図形だ。河図は『易経』のうち〝八卦〟の元に、洛書は『書経』の〝洪範九疇〟の元になった、という伝説がある」
『易経』『書経』のどちらも儒教の経典である。
縁は伝説から怪異の行動原理を推理した。
「大河から出た神獣に授けられた図書が河図洛書だ。人間への祝福として現れるべきものがいま、こうして呪いに転じていると言うことは。それが文字を司る神獣の反転であるなら。……この怪異は『言葉を奪う』のではないか?」
それまで目を閉じていた亀の目がパチリと開いたのを、芦屋は鏡越しに見た。その目が縁を一瞥すると、元々笑っているように見える口元が、はっきりと口角を上げた。
「正解だ」と言っているように見える。
「では、私が『奪われた言葉』とは、なんです?」
泥亀が冷や水を浴びせかけるように問う。
「それがわからないなら、芦屋先輩を助けることはできませんよ」
もう、砂時計の中に注がれる水は芦屋の太もものあたりまで注がれていた。
縁の顔に焦りが見える。
「泥亀さんの中で、大切だと思っていた感情や記憶だとは思う。だから芦屋くんを溺死させるくらいの言葉の奔流がいま、ガラスの砂時計の中に注がれている。……君、自分の心を人殺しに利用されているのに、どうしてそんなに平気でいられるんだ!?」
いつもなら、感情的になったとしてもすぐに平静を繕って見せる縁が泥亀を怒鳴り、怒りを隠そうともしない。
「さぁ、なにしろ奪われてしまっているので。いまの私にはなにがそんなに大切だったのか、わからないものですから」
対する泥亀は焦る縁に下から冷ややかな一瞥をくれるばかりだ。
縁が冷静だったなら、泥亀からヒントを自分で引き出して自分の持っている怪異の知識と合わせながら、泥亀の奪われた言葉を推測できるはず。だが、芦屋が人質になっている状況では集中できないのかもしれない。
「くそっ……!」
完全に自分が足手纏いになっていることを自覚して芦屋はガラスの壁を拳で叩いた。
降り注ぐ墨の雨が腰ほどまで溜まっている。
ここで自分まで焦っては元も子もないと、持っている手札と状況を、芦屋はもう一度確認する。
月浪禊の名刺は残り五枚。お化け屋敷に足を踏み入れる際に確認した通り、これは極力使いたくない。
呪いを解くためには、呪う理由、呪いのルール、そして呪う怪異の正体を解き明かさなくてはならない。
縁は泥亀の呪いのルール――『言葉を奪う怪異であること』と、怪異の正体『河図洛書の霊亀であること』を解き明かしているが。肝心の、泥亀が縁を呪う理由がわからない。おそらくその理由は〝泥亀が奪われた言葉〟に関係している。
そこまで考えて、芦屋はパッと顔を上げた。
「泥亀。ループの条件を確認させろ。十八時まで待つか、呪う理由を言い当てるか、怪異を祓うか、この部屋にいる人間が一人死ねばいいんだよな?」
泥亀は芦屋の問いにすんなりと応じる。
「はい」
「『この部屋にいる人間が一人死ねばいい』というルールなら、その一人は、呪いの対象者……月浪じゃなくてもいいんだな?」
「もちろん」
縁が泥亀の答えを聞いて蒼白な顔で芦屋を見やった。
「だったら、今回は俺が死ねばいい」




