Eyes on you/瑞獣の恋
【怪異・瑞獣の一つ】
縁の友人を怪異の一つが傷つける事件が起きた。縁の友人は大ケガをして記憶を失ったという。厄払いの絵画を事前に描いていたからこそ、縁の友人の命は助かったのだが、縁はそれを喜ばなかった。友人が記憶を失ったことを気に病んで、なにかに取り憑かれたように、飲み食いも忘れて絵を描いた。
その集中は私ですら圧倒させられるものだったから、人間から見ればより一層鬼気迫るものに見えたのだろう。東京の大学に通っていた兄の健は心配して帰省し、縁の部屋を訪れた。
縁は絵を描く手を止めず、筆を走らせ続けている。振り返らずに健に言った。
「兄さん、イチカちゃんのこと、聞いた?」
「……記憶障害なんだろ?」
健が気遣わしげに言うと、縁は淡々と応じる。
「そう。校外学習のバスに、私にしか見えない大蛇が突っ込んできた。私も含めて他のみんなは軽傷で済んだけど、イチカちゃんだけ、ケガがひどくて。……中学に入ってからの記憶が全部、なくなったって」
縁の手が止まる。筆洗にアクリル絵の具のついた筆を乱暴に入れて、そのまま、うつむいた。
「私ね、『厄払いの絵画』を描いたから安心してた。いくら霊媒体質でも、あらかじめ厄払いの絵画を描いておけば誰も死ぬことはないだろうってタカを括ってたんだ」
膝の上に置いた手を握りしめて、縁は低くつぶやいた。
「いまは、本当にバカだったと思う。『死ななければ大丈夫』なんて、そんなわけないよね」
「……縁は、精一杯やれることをやったよ」
健は当たり前のことを当たり前に言ったが、縁には響かなかったようだ。頭を横に振った縁は、自身の描いた絵に手を置いて、その甲に懺悔するように、額を置いた
「イチカちゃんは、分け隔てがなくてすごくいい子だったよ。私が怪異絡みの事件に巻き込まれているとすごく心配してくれた。ちょっと怖いもの知らずなところはあったけど、優しくて、……私のことを気味悪がったりしないで、ふつうの友達みたいに、仲良くしてくれた」
震える声で、なにもかもを呪うように、縁は吐き捨てた。
「イチカちゃんの記憶が失くなったのは、どう考えても私のせいだ」
健がなにか慰めの言葉を発するよりも早く、縁は決意を固めていた。
「だから、……もう、許さないよ。こんなこと」
「許さないって……。縁、おまえ一体どうするつもりなんだ?」
「絶対誰も巻き込まない。私のせいでケガをさせるのも記憶がなくなるのも、許せないし、許したらダメだ」
眉根を寄せて、健は首を横に振った。
「気持ちは、わからんでもないけど。……なら実際どうする? 向かうところ敵なしの母さんでさえ、全部の仕事を思い通りに完遂させてる訳じゃない。怪異に死に逃げされるような形で手打ちにすることだってあるんだ。縁はどうやって、許しがたい怪異に落とし前をつけさせる気なんだ?」
「『厄払いの絵画』の能力をフルで使う」
縁の言葉に、健は縁の部屋を見回した。
部屋のほとんどが描いた絵と画材で埋まっている。縁はこの部屋で寝るか描くかのどちらかしかしていない。縁がどれだけ心血を注いで、厄払いの絵画を描いてきたのか、この部屋を見れば美術に疎い人間でもわかるはずだ。
健は痛ましげに目を眇めた。
「……これまでだって、使ってきたじゃないか」
「これまで以上にやるんだよ」
縁はようやく健を振り返った。涙に頬は濡れていたが、もう泣いてはいない。
「被害者が被害者になる前に、私が怪異の起こす事件に介入する。そのために、まずは私が知り合う人間を全員描く」
健は信じられないものを見るような目を縁に向けた。
「厄払いの絵画は私が納得した絵にしか効果が出ない。なら、私はこれから心から納得できる絵しか描かない。傑作しか描けないくらいの作家になればいい」
「おい、美術に疎い俺でも無茶苦茶なことを言ってるのはわかるぞ。そんなの、無理難題もいいところだ」
健が諫めるのに対して、縁は首を横に振った。
「それが怪異どもに抗う唯一の方法だって言うなら、私はどんな無理だって通す」
描いた絵に手を置いて、縁は告げた。
「全部祓ってやる。私が頑張るだけなんだから、できないってことはないでしょ」
縁の友人だった少女の肖像画は、これまで縁が描いた絵の中で一番の出来栄えだった。絵の中で穏やかに笑う少女に反して、縁の顔は怒りと決意に固くこわばっていたが、その瞳は抜き身の刃のように、鋭く輝いて見えた。
「やってやるよ。もう決めたの」
人間が、身命を賭して自身の我を通すと決めた時の煌めきがそこにあった。
しかもその煌めきは、他者を守ると決意したことで生じた、あまりに幼く、愚直で、傲慢で、純真で、高潔な、美しい光だった。私は――。
私はおそらくこの時に、月浪縁に恋をしたのだ。




