酒巻虎徹の山月記の虎
【芦屋啓介】
酒巻は縁の宣戦布告じみた言葉に、警戒するように虎の尾を大きく揺らした。
「酒巻さん。君は虎のままだと鹿苑旭に一生勝てない。なぜなら君は自分で勝手に負けにいってるから」
縁は遠慮なく、酒巻が勝てない要因を言い募っていく。
「酒巻さんがずっと勝った気がしないのは鹿苑くんが同じルールで動いてないと思うから。鹿苑くんが勝負の土俵に立ってくれないと思うから。自分のやっていることが独り相撲としか思えないから。……違う?」
縁の言葉を酒巻は否定しなかった。おそらくは、できなかったのだと思う。
「だったら宣戦布告をしろよ」
縁が厳しく言った。
「鹿苑くんと勝負をするなら、『おまえが気に食わない』って鹿苑くんに直接言って、あいつを同じ土俵に立たせるのが筋でしょう」
酒巻の外見は口元以外は虎の毛皮が侵食していて、ほとんど虎の獣人と化している。怯えと見栄とが混ざった声で、酒巻は笑う。
「……ハ。なんやそれ。できるわけないやろそんな……」
「笑って誤魔化すなよ。私にはできて鹿苑くんにはできないのか?」
縁がピシャリと言うと、酒巻は黙る。
「鹿苑くんには勝てないってわかってるから? それとも自分が鹿苑くんを意識してるって、鹿苑くんに気取られるのが嫌なの?」
縁の話を聞いて気づいたことがあった。芦屋は思わず呟く。
「『山月記の虎』……」
山月記の虎――李徴子が虎になった理由は〝臆病な自尊心〟と〝尊大な羞恥心〟。
中途半端な自信があるせいで自分より才覚がある人間がいることに怯み、優劣をつけるのを怖がって切磋琢磨することを嫌がった。
そのくせ恥をかきたくないから尊大に振る舞う。
酒巻虎徹が鹿苑旭に真っ向勝負を挑めないのは、同じ土俵で戦ったら負けて恥をかくとわかっているからだ。それでも意識することをやめられない。だが意識していると鹿苑に気取られるのも嫌なのだ。
これもまた、〝臆病な自尊心で、尊大な羞恥心〟だ。
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心が李徴子にもたらしたのは、他者との交流を拒む孤独だ。孤独は視野狭窄を招いて、不毛な自問自答を繰り返させる。その末路が虎への変貌」
縁は酒巻の目を見て、真剣に言った。
「『山月記の虎』の怪異に憑かれた人間は〝切磋琢磨ができない〟ルールを課される。だから、いまの状況は勝負以前の問題なんだよ」
ただ、酒巻は李徴と明確に違うところがある。酒巻は鹿苑と自分の実力の差を感じ取っていたから正々堂々と挑むことができなかったが、勝負をしたいとは思っている。つまり、切磋琢磨を望んでいる。
しかし、いま酒巻は山月記の虎に憑かれ、李徴と同じように虎になろうとしている。
それはおそらく、酒巻の望むところではないのだ。
「鹿苑くんや私を殺したところで一時的に溜飲は下げられても、酒巻さんの敗北感は絶対に拭えない。完全に虎になってしまったら、挽回できるチャンスはもう、ない」
酒巻は鹿苑との勝負のやり方を考えあぐねているうちに、中華百鬼夜行に巻き込まれたのかもしれない。プライドを傷つけた鹿苑や縁を殺すことで溜飲を下げることができると勘違いしたのではないだろうか。でも、結局それでは意味がないのだ。
縁は冷徹に宣言した。
「そのままだと君は負けっぱなしの独り相撲で終わっちまうけど、それでいいわけ?」
完全に虎に変貌しかかっていた酒巻の顔から、毛皮が引いた。青ざめた皮膚があらわになる。
このループには求める勝利がないと、そこで初めて気がついたらしい酒巻は駄々をこねる子供のように首を横に振った。
「負けっぱなしで終わるのは、絶対に、嫌や」
「なら、君の虎をここに呼ばなくてはならない」
縁は酒巻に手のひらを向けた。
「君の望み通り〝とらとら〟をやろう。ただし、今度の和藤内は芦屋くんではなく、君だ」
酒巻は虎を「呼べない」とは言わなかった。衣装として持っていた槍にチラリと目を向ける。
「俺に槍を振り回せって言うんか」
「いいや? 呼び出した虎相手にどう振る舞おうと好きにすればいい。だが、相手は虎だから襲いかかってくるかもしれない。君は見たくもないものを見るのかも。でも」
縁は真顔で酒巻を挑発する。
「自分の心のうちに棲む虎一匹を飼い慣らせない人間が、鹿苑旭に勝てると思うか?」
挑発を受けて、酒巻は鼻で笑った。
「せやな。なら、俺の呼んだ虎がそっちを襲う可能性も分かってるんやろな?」
酒巻の忠告に、芦屋は縁の横顔を見る。だが、縁は眉ひとつ動かさず、ただ黙って酒巻の動きを待っていた。沈黙は、肯定に他ならない。
酒巻は苦虫を噛み潰したような顔で応じた。
「……どうなっても知らんけど、それで、ええな?」
「いいよ」
今度こそ言葉にして頷かれて、酒巻はいよいよ虎を呼ぶ気になったようだ。
酒巻は梁と同じように、指でフレームを作るようにして印を組んだ。緊張した様子で、口を開く。
「『来い。俺の、……酒巻虎徹の〝山月記の虎〟』」
酒巻の背後に煌々と光っていたネオンがブゥン、と鈍い音を立てて、動いた。
現れた影は芦屋と縁を襲った虎たちよりも一回り大きく、色も反転している。
白く発光する縞模様の下、腐った黒い肉を引き摺りながら酒巻の前に躍り出た獣が、低く唸る。
槍を持った酒巻の手が人のものへと変わっていた。徐々に酒巻の体を覆う毛皮の部分が少なくなり始めている。――酒巻は人に戻ろうとしている。
縁が酒巻を煽るように虎を指差し、口上を述べた。
「さぁ、君の虎が出てきたぞ。この虎を打つにしても刺すにしても、君がやらねば意味がない。生かすか、殺すか、飼い慣らすか。酒巻虎徹はどうしたい?」
「俺は、」
虎の咆哮が部屋に響いた。
酒巻の言葉を遮って、虎はジリジリと距離を詰める。酒巻は虎と、対峙した。
虎が低く唸りながら酒巻を睥睨する間も、黒い肉が腐り落ちている。溶けた肉の隙間から骨が見える部分さえあった。ヘドロのような体液が糸を引きながら滴り落ちて、ひどい臭いを放っている。縞模様だけがネオンであった頃の名残か白く輝いていて、そのおぞましい容貌をありありと照らしていた。
酒巻は槍を構えながらも虎を観察しているようだ。虎から視線を外さず、その動向を窺っている。酒巻の顔は恐怖と嫌悪に青ざめていたが、同時に、悲しそうにも見えた。
脅かすように虎が酒巻へと一歩近づいた。怯んだ酒巻の構えた槍が振れ、槍の刃先が虎の頬を掠める。虎が頭を振って距離を取るのと同時に、酒巻は声を上げた。
「痛ッ……!?」
見れば、酒巻の頬にも血が滲んでいた。
酒巻は槍を右手に持ち、虎の動向を窺いながらも、左手で頬に触れる。
虎が酒巻を睨んでいる。
酒巻は血のついた自身の手と虎とを見比べると、心底嫌そうに眉根を寄せた。
「……ああ、そう。ほんまにおまえ、山月記の、……俺の、虎なんやね」
虎は嘲笑うように吼えた。
「ハハ、俺の言ってることも分かるんか。おまえ、かしこいなぁ。それで、」
酒巻は喉の奥から乾いた笑いをこぼすと、
「……見るに堪えへん。おまえは醜い」
そう言って、涙した。
酒巻の手から、槍がこぼれた。わざとそうしたようにも見えた。
虎を相手に武器を捨てた酒巻が心配で、芦屋が思わず前に出そうになるのを、縁に止められた。「黙って見てろ」と小声で言うので、仕方なく、その場にとどまる。
丸腰になった酒巻は虎に向けて、震える声で語り始めた。
「……藝大教授の息子に生まれて、生まれた時から美術芸術の類に、息をするように触れてきた人間が誰より優れた才能の持ち主で、そいつが、俺が行きたかった藝大への進路蹴っ飛ばしたって知って、俺は、そいつにだけは負けたくないって思った」
虎の耳がぴくりと揺れ、唸る声が小さくなった。
「恵まれた環境で育った人間に、……そうじゃない人間が勝つ術があって欲しいと思った」
酒巻は自分の発した言葉に苦笑して軽く頭を振る。取り繕ったのを恥じるように、床へと目を落とした。酒巻が視線を外しても虎は動かず、じっと耳をそば立てているように見えた。
「いや、もっと単純に……妬ましかった。親父が、美術を進路に選ぶことを当たり前のように口にしたり、自分の作品を見てこうした方がいいとか、ああした方がいいとか言ってくれる環境は、……羨ましい」
酒巻が涙ながら、腑を割くように言葉を連ねるたび、虎の肉が落ちる速度が上がる。縞模様の光が弱くなる。酒巻の顔が、険しくなった。
「鹿苑が憎い。あいつは思ったよりも悪い奴じゃないってわかってもなお憎い。人となりを知った上であいつの仕事を見れば見るほど敵わないことを思い知らされる。俺はたぶんあいつの眼中にも入ってない……」
酒巻は歯を食いしばるようにしたあと、感情を爆発させるように、叫んだ。
「結局、……結局っ、全部俺の独り相撲や! 頼まれもしないのに、勝手に俺が意識してるだけの、くだらん……! それがつくづく嫌になって、鹿苑以上に、俺は俺を嫌いになるんや……っ!」
自嘲と自責の入り混じった、魂の叫びだった。
「他人を妬んで、すごいと思った才能を、素直に称えられない! なんて俺はさもしい人間なんやろ……! ほんまは、どんなに頑張ってもっ、天才を実力でねじ伏せることができない! そういう俺がっ、俺自身が! 一番不甲斐ない! 情けない! 憎い……!」
胸を掻きむしるようにして、酒巻は咆える。
「ほんまに、悔しい……!」
虎の、金色の瞳孔が収縮する。
「……でも、勝負の土俵に持ち込みもしないくせに自己嫌悪を拗らせて気ィ揉んでたって、そりゃ無駄だわな」
鼻を啜った酒巻が滑稽そうに笑うと、虎はほとんど白い骨を晒しているばかりになっていた。どろりとした黒いヘドロのような体液は床に広がって酒巻の足を浸したが、酒巻は構わなかった。
「もっと、なりふり構わずやればよかった。ダサかろうがカッコ悪かろうが関係ない、今度こそ、」
自虐するような笑みのまま、酒巻は弱っていく虎に向けてトドメの一言を、放った。
「『プライドを捨てて、正々堂々鹿苑旭に、真っ向勝負を挑んだるわ』」
虎が黒い煙を上げて、消えた。
ひどい臭気も体液の跡も霧散し、あとにはなにも、残っていない。




