百鬼夜行・とらとら
前回同様お化け屋敷に足を踏み入れた瞬間に火を吹く龍舞が始まるかと思っていたが、今回は展示台に置かれた羅針盤のようなものがスポットライトに照らされているだけの部屋に出た。
スモークが炊かれている黒い空間はスポットライト一つが天井に確認できるだけで、壁がどこにあるかがわからず、異様な雰囲気である。やはり、振り返ってもそこにあったはずの入り口が、ない。
芦屋は屈んで、もっていた月浪禊の名刺に足の補助を祈る。フッと名刺を縁取っていた紋様が剥がれて、芦屋の足に絡み付いた。これで事故以前と同じように走れるようになるのだから不思議である。
「芦屋くん、できるだけ私のそばから離れないで」
「……了解」
芦屋は縁の横に並び、二人で展示台の前に立った。
よく見れば置かれていたのは羅針盤とは似て非なるものだ。龍、虎、鳳凰、霊亀、麒麟――五つの獣が彫刻された、ダイヤル式の円盤である。
縁がダイヤルに触れて、右回りに針を動かしていく。指し示したのは〝虎〟だ。
スポットライトが瞬きをするように点滅したかと思うと、部屋の様子が変わっていた。
「これは……」
芦屋は思わず声をあげる。
東美怪奇会はかつて香港にあった巨大なスラム街、コンクリートの迷宮とも言われた九龍城砦を模したデザインをお化け屋敷のセットの一部に取り入れていたのだが、いま、芦屋と縁の目の前に広がる光景はセットというにはあまりにも真に迫りすぎていた。
トタン屋根と思しき天井。雑多に張り巡らされた電線。古びたチラシが貼られたコンクリートの壁と床。アパートのように一定の間隔で存在する錆びた鉄の扉。乱雑に配された電飾看板……。薄汚れた廃墟を赤いネオンが照らし出している。
だがここは九龍城砦とは異なり、構造としては円形の高層マンションのようだ。縁と芦屋が居るのは最上階の廊下にあたるだろうか。芦屋の左手にある手すりの下を覗き込むと、吹き抜けから階下が窺える。階下のところどころに個性的な電飾が配されていて面白い。だが、一番下の階は暗くて見通せなかった。風が吹き込んで芦屋の短い前髪を揺らす。
思わず見入っている芦屋に、縁が周囲を見回して言う。
「私たちが作ったお化け屋敷をもとに、空間を再構成したって感じだな。コンクリートの柱はベニヤじゃないし、ところどころある扉も本物だ。すごい汚れてるけど自動販売機もある。でもほら、壁に貼られたチラシを見てみなよ」
「『東美怪奇会主催 中華・百鬼夜行』……これ、サークルの宣伝チラシか」
よく見ると、壁に貼られた他のステッカーだの落書きだのにも見覚えがある。
「怪異の気配も人の気配もないな。……とりあえず、下に向かおう」
確かに死にかけの電飾が立てる耳障りな音と、どこかの配管から漏れ出した水が一定間隔でひたひたと音を立てるほかは静かで、一つ一つのフロアを下りながら見て回る縁と芦屋の立てる足音がやたらに響くばかりだ。
「月浪はさっき、虎を円盤で差したように見えたが、あれはどういう意図で選んだんだ?」
「梁会長に憑いたのが龍なら、酒巻さんに憑いているのは虎だと思って」
縁は端的に言い、自分でも少し詳細を端折りすぎたと思ったのか階段を降りながら付け加える。
「日本でクリエイターに取り憑く怪異と言えば、〝虎〟なんだよね」
「『山月記』か?」
東美怪奇会のメンバーではあるが、妖怪だの神話だのの類には疎い芦屋である。しかし、『クリエイター』と『虎』の組み合わせで思い浮かぶ話があった。
国語の教科書にもしばしば取り上げられる、中島敦の『山月記』だ。
「そう。あれは元々中国の『人虎伝』、もっと遡ると『李徴』っていう中国の唐の時代に書かれた伝奇短編小説が元になっていて、かの中島敦作『山月記』は翻案にあたる。オマージュっていうかパクリっていうか、半分二次創作に近いものではあるんだけど」
「言い方」
あまりにも語弊がありすぎるだろと突っ込む芦屋に縁はいつものニヤリ笑いを浮かべて「ごめんごめん、つい」などと軽口を叩いている。状況の割に、余裕そうだ。
階下から風が吹き込んで、芦屋は内心「違うな」と考えを改める。こんな怪異がいつどこから現れてもおかしくない状況では軽口を叩いてアイスブレイクを図らないとやってられないのだ。
そして縁は芦屋の内心を知る由もなく、『山月記』の解説を続ける。
「中島敦は翻案の仕方が上手かった。『人虎伝』とも『李徴』とも異なる、オリジナル要素を付け加えた。李徴子が虎になった原因を臆病な自尊心、尊大な羞恥心、そしてそれ故に切磋琢磨しなかった怠惰であるとした。つまり、芸術家が陥りやすい苦しみ、精神状態と狂気を、人が虎になる理由――獣に堕ちる理由に選んでいる」
「ちなみに『人虎伝』で李徴が虎になる原因は突然病気になって発狂したから、だ」と掘り下げた縁に、芦屋は「言っちゃなんだがそれだと普通というか、特筆するようなことはないよな」と頷いて、アイスブレイクに乗った。
「〝臆病な自尊心と尊大な羞恥心〟……これがまあ、本当に普遍的な創作者の心理を捉えているのは芦屋くんも知っての通り。現代日本のクリエイターにも刺さりまくって引用・オマージュ・元ネタにされるくらい共感を呼んでいるわけだから、やっぱり教科書に載るような話の出来はいいし、中島敦がすごい作家であることを疑う余地は全くない。そして教科書に載るってことはこの話、有名でしょ?」
縁は人差し指を立てて言う。
「知名度が高い怪異は強いし、人間に取り憑きやすい。私も美大に入ってから、何度か虎を祓っている」
「なら、祓い方に覚えはあるんだな」
芦屋はなんとなく安堵していた。なんでもそうだが、起きた問題に対処する際、以前に似たような問題をクリアしていると余裕を持って解決できるものである。
だが、芦屋と裏腹に縁の顔に少しの疑念が浮かんだ。
「うん。でも、わからないこともある」
縁は柳眉を困ったように下げている。
「酒巻さんに呪われる理由が謎なんだよね。私、彼と特にこれといって深く関わってないから」
「そんなこと言い出したら、梁会長だってそうだろ」
そもそも、月浪縁は霊媒体質に他人を巻き込むまいと対人コミュニケーションを必要最低限に抑えていた。縁本人はやや捻くれた性格とはいえ、人当たりと愛想は悪くないのだが、友人らしい付き合いをしている友人がほとんどいない。
だから縁は本来、人から命を狙われるような、そこまで恨まれるほどの密な付き合いを全くしていないのである。……不憫にもほどがある。
芦屋の物言いから若干の哀れみと同情を感じ取ったらしい縁は機嫌が悪そうに目をすがめた。
「……まあ、そうだね。サークルの中ではそこそこ話す方ではあったけど、梁さんにも恨まれる理由はない。というか、そもそも私は誰にもなにもしてないよ。呪われる心当たりなんかないですよ」
「だろうな」
余計なことを言わずにただ頷いた芦屋に縁はため息を一つこぼすと、真面目な顔で目を伏せる。
「それに酒巻さんが呪うならたぶん私じゃなくて……」
「そっちは心当たりあるのかよ。誰だ?」
「鹿苑くん」
縁が鹿苑の名前を口にした瞬間、ぶつん、と音を立てて廊下を飾り立てていたネオンが消えた。
「……月浪、」
「わかってる」
束の間の暗転はすぐに終わった。白熱灯が明滅する。
そこはもう、九龍城砦を模した高層マンションではなかった。
鉄板の床、配管や電線の通る天井に変わりはないが、照明はやけに白く明るい。
縁と芦屋のいる廊下を挟んで両手側に約三メートルずつ竹林が広がっている。
とはいえどうやら室内ではあるらしい。竹林の突き当たりの壁自体が白く光っていた。植物工場――もっと言うと室内での大麻栽培場のような雰囲気だ。
出口と思しき扉は前方に確認できた。一方通行だが、距離としては百メートルはあるだろうか。
芦屋が状況把握に努めていた、その時だった。
――ふふ。ふふふ、うふふふ……。
クスクス笑う女の声が辺りに響いたかと思うと、三味線の音と、唄が始まる。
――せんりぃ 走るよな 薮のなぁか 皆さん覗いて ごろうじまぁせぇ。
縁と芦屋の背後、竹藪の葉が動いている。
縁と芦屋は様子を窺いながら、廊下を早足で進む。
「芦屋くん、名刺は絶対手に持って。……この唄はたぶん〝とらとら〟だと思う」
「〝とらとら〟って、なんだ?」
縁に言われた通り、スタジャンのポケットから名刺を手に取りながら尋ねるが、その間にも唄は途切れず流れていた。
――金のぉ はちまき たすきぃ わとうないが えんやらやぁっと 捕らえし けだものは。
女の声が段々と低く、男の声に変わっていく。三味線の音と手拍子、男の嘲笑うような唄が部屋中に反響していた。
縁が短く舌打ちした。
「ヤバいな。解説してる暇ないんで結論から言うと、おそらくいまから虎が来る。……芦屋くん、槍で応戦頼みます」
「は!? なんで槍?!」
「そういうルールなんだよ。いや、鉄砲でもいけるとは思うんだけど……っ、走って!」
――とらとぉら とぉらとら。
走りながら芦屋が背後を確認すると、竹藪の中から影が一つ、二つ踊り出た。
――とらとぉら とぉらとら。
身体は白熱灯と同じく白く輝いているが、縞模様にあたる部分の皮膚は溶け、黒い肉が露出していた。現れたのは異形の虎だ。金色の瞳と芦屋の目が合った瞬間、虎が、吠えた。
後ろから迫り来る虎から全速力で逃げる。芦屋は前を走る縁に声を張り上げた。
「月浪! 槍とか銃とかどこにあるんだ! あいつらゾンビっぽいのに足速いぞ!」
――とらとぉら とぉらとらぁ。
――ふっ、くくく。ははは。あはははは!
哄笑と、虎の鳴き声が部屋に響き渡る。つい先程までいた場所に虎が飛びかかって鉄の床が凄まじい音を立てた。焦りと恐怖で冷汗が止まらない。
「母さん、お願い。お母さん! 『〝和藤内の槍〟を芦屋くんに!』」
縁が月浪禊の名刺を額に当てるようにして念じ、そのまま後ろにいた芦屋へ名刺を投げた。名刺を縁取る赤い紋様がするりと空中に浮かび上がり、シュルシュルと赤い槍の形になって芦屋の手元に降ってくる。芦屋が槍をなんとか捕まえると、縁が叫ぶ。
「槍を当てさえすればなんとかなるはず!」
「ほんとかよ……!」
芦屋は高校時代に触ったゲームの武将の構えを真似て、槍を振った。
槍の刃先が触れると虎は黒い霧となって霧散する。が、竹藪から次々に虎が現れるのでキリがない。芦屋はしんがりを務めながら縁に文句を言った。
「月浪! せめて刀じゃダメか?! 槍の扱いわっかんねえんだけど!」
「ダメなんだよ槍か鉄砲じゃないと! 似たようなもんだろ、刃がついた武器なんだから!」
「全然違ぇ!!」
なぜか槍か鉄砲にこだわる上に縁があまりにも雑な認識をしているので芦屋は声を荒らげる。
「まず槍は重いんだよ! ぶん回すだけで結構大変だし!」
刀よりも長さがある分、当然重量は増す。遠心力に体が持っていかれそうになるのを堪えて、芦屋はこちらに飛びかかってくる虎を薙ぐようにして槍を当てた。
「槍は刀とリーチ! リーチが違う! 全然わからん! いまは当てりゃいいだけだからなんとかなってるけど! 正直おまえを巻き込みそうになるから怖いんだよ!!」
先を行く縁に槍が当たっては困るので気を遣う。おそらくもっと効率的に槍を振るフォームなどもあるのだろうが、槍を習ったことのない芦屋がいま、かろうじて参考にしているのが三国志だの戦国乱世をモチーフにしたゲームなので全く実践に堪えるような動きではない。
ヤケクソで虎に槍先を当て続ける芦屋だが、先を行く縁は感心した様子だ。やけに落ち着いている。
「……とか言いながら結構使いこなしてるじゃん。芦屋くん、運動神経すごいな」
「拍手してんじゃねぇ!!」
芦屋が槍の柄を着いて振り返ると、それまで場違いな言動をしていた縁が焦った様子で声を張り上げた。
「地面に槍をついてはダメだ!」
縁がなぜそうも焦るのか芦屋にはわからなかったが、槍を着いたことがトリガーになったのはわかった。藪の中から虎が十頭、芦屋に向けて一斉に飛びかかってくる。
「『芦屋くんを補助して!』」
縁が再び名刺を投げる。赤い紋様が浮き上がり芦屋の全身に巻き付くと、芦屋の体がフッと軽くなった。体の自由を奪われたことに気付いたのは、芦屋の手足が恐ろしく素早く、巧みに槍を扱い出してからだ。一振りで十頭もの虎をまとめて薙ぎ払った。
どう考えても普段の芦屋のできる動きではなかった。
襲いかかってきた十頭をなんとか倒したところで体の自由と、ものすごい反動が戻ってくる。
出口に辿り着いた縁が扉を開き、芦屋とともに次の部屋へ移動すると、ガンッと閉じたはずの扉に虎が体当たりをしてきたのがわかったが、その感覚も扉がなくなると同時に消える。
膝に手を当てて息を弾ませた縁がすまなそうに、芦屋に目を向ける。
「〝とらとら〟のルールを最初に説明できればよかった。ごめん」
「それは本当にそうなんだけど、状況的に仕方なかっただろ。でも……すごい筋肉痛なんだが」
禊の名刺に補助されて槍の達人のような動きをしてからと言うもの、ちょっと歩くだけで全身に鈍い痛みが走る。
「ループすれば治るよ」
あっけらかんと宣うので、「こいつは本当に俺に対して申し訳ないと思っているのか」と縁のことを怪しく思って半眼になった芦屋である。
だが、縁がある一点を見つめて息を呑んだのを見て、芦屋もそちらに目を向けた。




