第27話 語り手の逆転
【芦屋啓介】
芦屋啓介は呼吸さえままならない緊張感から解き放たれて、麒麟が姿を消したと同時に深く息を吐いた。
梁飛龍から縁の生死が危ういという話を聞いた後、財布に入れておいた月浪禊の名刺をポケットに入れて、鹿苑旭の行動を見張った。
縁が麒麟の筆を欲しがっているのなら、いずれは鹿苑に接触するだろうという当たってほしくなかった予測は的中してしまったが、ギリギリのところで麒麟の筆に縁が触れるのを防ぐことはできた。
まさか本物の生きた幻獣・麒麟と出くわす羽目になるとも思っていなかったが、芦屋の目的は達成された。月浪縁は生きている。
床にへたり込んだまま、鬼の形相で芦屋を睨んでいるが、無事だ。
「やってくれたな」
地を這う声で縁は言う。口元に笑みは浮かんでいるがいつもの余裕はない。芦屋は見下ろしたまま、問いかけた。
「おまえ、死にたかったのか」
「……そうだよ」
予想していた答えではあった。それでも本人の口から聞くと、衝撃は大きい。
縁は芦屋の顔を見て片眉を上げる。
「自分が余命宣告されたみたいな顔をするんだね、芦屋くん」
皮肉めいた言いように「なぜ」と小さく呟く。
「わかんないかな? 私の怪談に巻き込まれるようになってもう一年くらい経つけど、ほんとにわかんない?」
芦屋は口をつぐむ。縁と行動を共にする時間が増えてからぶち当たった怪奇現象の中に、それらしい答えなんていくらでもあった。
しかし、それでも。
「それでも描き続けてきたのがおまえだろうが、なんで今更死にたくなった。そんなに蓮根の八つ当たりが堪えたのか」
「八つ当たりだったと思う?」
縁は静かに問いかけた。芦屋は頷く。
「月浪はできることをできる限りやった。その結果どうにもならないことがあるのは……しょうがないだろ」
芦屋の言葉に、縁の顔が強張った。
「仕方がないわけない」
床に置いた縁の拳が固く握られて白くなる。
「仕方がないなんて言葉で飲み込める訳がないだろ。ひとが一人死んでるんだよ。私ならなんとかできたかもしれないことで」
「おまえはどれだけ傲慢なんだよ」
芦屋は冷静に言い放った。前々から思っていたことだった。
「月浪の、厄払いの力は確かにすごいよ。だけど、ちょっと霊能力が使えるくらいで何でもかんでも上手くいくわけがない。そんなことは神様にでもならなきゃできない」
「だから神の力を借りようとした」
芦屋を遮って、縁は淡々と言う。
「神獣・麒麟の死骸で出来た筆は、使い手の思い通りの作品を生む手助けをする。だったら私が描いた人間全部を、怪異がもたらす死から遠ざけることだって出来るはずだ。私の命と引き換えで、何百何千の人の苦痛を取り払うことが出来るなら、お釣りがくる……はずだったのに」
縁が麒麟の筆を求めた理由は、芦屋にはヤケクソの自己犠牲としか思えなかった。そんなのは不健康だし、無茶苦茶だと言いたかった。
しかし、縁はもはや芦屋が何か言いたげなことにも気づいていない。自問自答の延長に、芦屋との会話を使っている。
「麒麟の筆は移動した。たぶん、私が簡単に手出しできないくらいには遠くに」
ぎりり、と歯噛みして、縁は吠える。
「ふざけるな、諦めてたまるか。やっと見つけたんだ。私が納得できる、終わり方を」
「どうしてだ」
芦屋は有無を言わせぬ強さで尋ねた。
井浦影郎を死なせたことに責任を感じているのはわかる。けれど、縁は、黙って自分の腕を磨き「次こそ死なせない。今度は守る」と、闘志を燃やして創作に臨む人間ではなかっただろうか。
そうでなければ、これまで出会った人間を恐るべき精度で描いて描いて描き倒すようなことはしないはずだ。あまつさえ厄払いの絵画の副作用から作品を守ろうと奔走するような人間が、創作において捨て鉢になるのはおかしい。
芦屋は、縁のある種の負けず嫌いな気質を信頼していた。
だから、疑問がある。
「どうしてそこまで麒麟の筆に執着する? そんなことをしなくても、月浪なら厄払いの絵画の力を磨いて、誰かを助けることだってできるはずだ。葉山と俺のことはそうやって助けたはずだろ?」
「描けないんだよ」
芦屋は、縁の言葉をうまく飲み込めなかった。戸惑う芦屋に、縁は苦く笑う。
「梶川を祓って、私は人を描けなくなった」
縁は、呆然と自分を見つめる芦屋の視線から逃げるように俯いて、独り言のように呟く。
「あの日からずっと考えてた。私にはもっとできることがあったのかもしれないって」
縁が口にしたのは、紛うことのない本心だった。
「蓮根くんから、井浦さんのことが嫌いだから、手を抜いたんじゃないかって言われて『そんなことはない』って、すぐに言えなかった。確かに私は、一生懸命じゃなかったかもしれないと思った」
その本心が後悔と懺悔と弱音だったことに、芦屋は耐えるように拳を強く握りしめた。
「芦屋くんの言う通りだよ。〝厄払いの絵画〟の力は万能じゃない。それでも私に与えられた特別な力で、才能ってやつなんだ」
芦屋のことを気遣ってか、縁はおどけたように肩をすくめて見せる。
「だから私はそれ相応の振る舞いをしなくちゃいけない。持って生まれた力にあぐらをかいて、のうのうと生きるだなんてこと、誰が許しても私自身が許せない。なのに私は、油断したんだ」
縁の顔からだんだんと表情が抜けていく。
「油断して、死なせた」
ポツリと、呟いた言葉が倉庫内に反響する。その言葉が栓だったのかもしれない。堰を切ったように、縁の口から自分自身への失望がこぼれ出した。
「私は私に与えられた才能に見合う能力がないのかもしれない。私は自分の才能のツケを払うだけの能力を、努力や技術で得ることはないのかもしれない。そう思ったら、筆が、迷うようになった。どんどん手が、動かなくなっていくんだ……」
芦屋は口を開きかけて、閉じる。またしても、かける言葉が見つからない。
縁は自身の前髪をぐしゃりと掴む。
「悔しい……!」
煮えるような怒りが縁自身に向けられていた。
「麒麟の絵はそういう苛立ちを全部ぶつけて描けたのに! どうして肝心の人間が描けないんだよ! 私に全部、これしかないって思わせておいて……! これが、私に備わった才能だっていうなら、ちょっとくらい思い通りになってもバチは当たらないでしょ……!?」
怒りに震え、肩で息をしながら、縁は力なく笑った。
「……でも、描いても描いても全然納得できないんだ」
諦観の笑みだった。
月浪縁は自分の思い通りにならない才能に、ずっと苦しめられ、怒りも失望も、通り越した果てに——。
「疲れた」
全てを諦めて、無気力になったのだ。
「才能なんて名前をした、祝福なんだか呪いなんだかわからない、生まれついての、自分ではどうにもできないことと死ぬ気で向き合って格闘し続けるのがもう、うっとうしくて、面倒で、苦しくて、くたびれたんだよ」
芦屋は嘆く縁を見て、場違いにも「こいつは本当に天才だったんだな」と思い知る。
才能があったから今までずっと無茶を通してこれた。自分の作品に一ミリも妥協せず、人間を描き続けることができた。月浪縁は鹿苑旭曰くの〝ゴールデンタイム〟に身を置いて、迸るように筆を走らせていたに違いない。
「それに、これは君のためでもあるんだ」
芦屋が難しい顔で縁を見ていると、縁は真っ赤な目をしたまま無理やりに微笑む。
「俺の?」
問い返すと、縁はこくりと頷いてみせた。
「芦屋くんには感謝してるよ。厄払いの絵画がきっかけだったにしても、私を助けようとしてくれたことが、怪談と関係ない関わり合いができたことが、嬉しかった」
いつになく素直に率直なことを言ったかと思うと、縁は歯噛みするように低く述べる。
「でも、このまま描けない状態が続いて、君の厄を払えないまま、今まで通りに接してしまったら、大怪我させたり、……死なせてしまうかもしれない。そんなのは耐えられない。私が死ぬのはどうでもいいけど」
縁は、芦屋の目を強く睨み据えて言う。
「君を巻き込んで傷つけるのだけは、絶対に嫌だ」
その目に射すくめられた芦屋は息を呑んで、気がついた。気づいてしまった。
梶川密を除霊したあと、縁の才能のゴールデンタイムは終わった。スランプが訪れた。縁は自分の絵に容易に納得できなくなった。
そうなったわけは蓮根修二が縁を痛罵したことだけでも、井浦影郎を描き損ねたことだけが理由でもない。
芦屋啓介が月浪縁と気のおけない友人になったからだ。
縁は人の絵を描くときに文字通り全身全霊を注いで、一筆入魂の気持ちで筆をとっていた。代わりに現実の交友関係では明確な線を引いて、人と特別親密になることがなかった。
たぶん、縁が除霊をするたびに、除霊した相手との人間関係が壊れるからだ。
初めから失うことがわかっているものに縁は心を寄せたりはしなかった。そうやって希薄な人間関係を築いていくうちに、縁は自分の描く厄払いの絵画こそ、自分の存在価値であると思い込んだのではないか。
思い込んだ上で、縁はひたすら人間を描くことに注力した。多少の好感を抱いた相手であってもいずれ離れていく相手と割り切ったから、何も思い煩うことなく描くことに全てを注ぎ込むことができた。他者とのコミュニケーションをギリギリまで削って厄払いの絵画を描くことに集中することで、月浪縁はゴールデンタイムを作り出した。
才能を引き出すための、最高のシチュエーションとコンディションの条件に縁は『孤独』を選んで、これまで描き続けてきたのだ。
芦屋啓介が、縁の除霊を手伝うと、言いだすまでは。
「せめて麒麟に殺されたい。筆に寿命を取られて引き換えに作品を生み出せるなら最善だ。触れた瞬間燃え尽きても、それはそれで私に似合いの最期だ」
芦屋は眉根を寄せて、首を横に振った。
「……そんなことを聞かされて、俺が止めないとでも思ったのか」
「許してよ」
縁は力なく笑って、「止めないでほしい」と言う。
「私に借りがあるって言うなら、一度くらいわがまま聞いてくれたっていいじゃない」
芦屋は「そんな借りの返し方をするために月浪を手伝ってきたわけじゃない」と言いかけて、黙る。
縁の瞳が死への渇望で金色に燃えている。
『才能に身を捧げて死ね』と迫る獣の瞳だ。
縁は怪異に取り憑かれている。いや、魅入られている。
そして、怪異と関わって命を削ってもどうでもいいと自暴自棄になるほど縁を追い詰めた要因の一つが、他ならぬ芦屋自身だ。
芦屋啓介が月浪縁のゴールデンタイムの幕を引いた。
芦屋と友人になったことで、縁は厄払いの絵画に〝全て〟を注力できなくなったから。芦屋を巻き込んで傷つけることを恐れて、ギリギリのところで保たれていた縁の才能の線が緩んだから。
芦屋は拳を硬く握った。
ドッペルゲンガーの一件と同じだった。
芦屋が良かれと思って、励ましたつもりで提案したことが、友人・葉山英春を苦しめて怪異を生んだ。縁の助けになりたいと思ってとった言動が裏目に出て、麒麟の筆がつけ入る隙を生んだ。
だから、これ以上下手なことを言ってはいけない。
縁の助けになりたいのなら、するべきことは一つだけ。
——俺が祓うしかない。
これまで縁が友人たちから怪異を退けたように、芦屋が語り、語らせ、除霊しなければならない。
芦屋は覚悟を決めて口を開いた。
「月浪、怪談をしよう」
芦屋の言葉に縁は顔を上げた。憔悴して眼差しは暗く、常の余裕など微塵も残されていなかったが、芦屋の声に反応するだけの気力が、まだ残っている。
「おまえは麒麟の筆に取り憑かれている」
聞き手と語り手が入れ替わる。
そうしてまた怪談が始まる。




