第26話 麒麟の筆
東京美術大学の油画学科の倉庫。ずらりと並んだ白く塗装されたアルミの棚の影で、月浪縁は待っている。
逸る気持ちが抑えられずに、何度も腕時計の文字盤を確認した。鹿苑旭がこの倉庫に現れるまで、おおよそ、あと五分だ。
麒麟の筆の噂については春ごろには把握していた。ちょうど、奥菜一族の一件に母共々関わっていた時期だった。
――話を聞いたその頃から、縁は麒麟の筆に惹かれていたのかもしれない。
使う者の才能を開花する代わりに命を削る魔法の筆。文字通り命を削って作品を作らせるこの筆が、いま、縁は喉から手が出るほど欲しい。
麒麟の筆が使い手に求めるものは二つ。創作に対する並々ならぬ執着心。そして男であること。前者はともかく後者は縁にはどうしてもクリアできない条件だった。才能というのは得てして生まれついて変えることのできない、どうしようもない理不尽を飲み込めと迫ってくる。才覚を司る幻獣である麒麟が理不尽なのは、司るモノがモノなのだから仕方がない。
だが、癪に触る。
縁は自身の企ての結末が一つであることは承知している。月浪縁は死ぬ。しかしその過程については二つの可能性がある。
一つは麒麟の筆に触れた瞬間に死ぬこと。そしてもう一つは、麒麟の筆を使って死ぬこと。
麒麟の筆は麒麟の死骸で作られた筆であって、麒麟そのものではない。麒麟に女が触れれば麒麟の激しい抵抗にあい、軽くて重傷、最悪の場合死に至るが、筆の場合はわからない。触って即、命を奪われることになるとも限らないはずだ。
麒麟の筆を才ある男が顕現せしめたあと、使用することはせずに放置したなら、それを縁が手に入れることができれば、縁が麒麟の筆を使える可能性はゼロではない。試す価値はあると縁は踏んでいた。
なにより、どちらでもよかった。過程の差はベターか、ベストかの違いにすぎない。
鹿苑は、縁が知る限り最も麒麟の筆を顕現させ得る男だった。若く、寝食を惜しんで作り、卓越した審美眼を持ち、エネルギーとバイタリティに溢れ、なによりも潔癖だった。鹿苑は麒麟の筆の価値を認めはしても麒麟の筆を絶対に使わない。作家としての矜持を強く持っているからだ。自分の手で全てを成し遂げることにこそ、作家としての本分本領があると信じて疑っていない、いっそ無垢と言っても良い創作哲学を持っている。
縁は麒麟の筆の好む〝麒麟児〟とはこのような男を指すのだと思う。麒麟の筆を必要としない男こそが麒麟の筆の好む男なのだ。なぜなら既に鹿苑は〝麒麟の恩寵〟を受けている。麒麟の筆は麒麟の死骸で作られた魔性の道具。本家幻獣・麒麟の力には及ばない。だから麒麟の筆が真に求める使い手に出会うことは、絶対にない。
「おまえを求めて利用しようとする者は私や青背のような、麒麟児に及ばない人間だと気づけ」と、内心で麒麟の筆に悪態を吐きながら縁は苦々しく時を待つ。
時計の針が夕方六時から八分ほど過ぎたところで倉庫の扉が開いた。いつもと変わらないツナギ姿の鹿苑が入ってくる。
これまで邪魔でしかないと感じていた霊媒体質は、今回に限っては良い仕事をしてくれた。
喫煙所の外で煙草を吸っているのを助手に見つかった鹿苑が、麒麟の筆が眠っているという倉庫の整理に駆り出される〝偶然〟を引き寄せたのだ。
縁は鹿苑の挙動を見守りながら、皮肉だ、と思う。より良く生きたいと思っているうちには何の役にも立たないくせに、より良く死にたいと思った途端に最高のパフォーマンスを発揮する。縁に備わっているのはそういう才能だったのだと、改めて痛感させられた。
月浪縁は死ぬ。自分ではどうにもならない〝才能〟に身を焦がして死ぬのだ。そうすることを縁自身が選んだ。選べる選択肢がそれしかなかった。
鹿苑はかったるそうなそぶりで、乱雑に積み上げられているガラクタの山を仕分け始める。不真面目な学生が倉庫に置き去りにした品々だ。
中途半端に使われた絵の具、曲がった針金、煤けた木板、丸まった紙、汚れたハケ、ぞんざいに扱われている作品、何かの資料がまとめられたファイル、エトセトラ。
かつては美しい作品に生み出す可能性のあった画材や資料たちを燃える、燃えない、保留、の三種に分類する。ゴミは袋に、かろうじてゴミでないものは箱に。
手を動かすと集中し始めたのか、鹿苑はもくもくと作業する。
燃える。燃えない。保留。燃える。燃える。保留。燃えない。
縁は作業に没頭する鹿苑を観察する。
燃えない。燃える。燃える。燃えない。燃える。燃える。燃える。
ゴミ。ゴミ。ゴミ未満。ゴミ。ゴミ未満。ゴミ。ゴミ。ゴミ。ゴミ。ゴミ。ゴミ。
ガラクタと見なされるものが無慈悲に選別されていく様さえも縁の心をさざなみ立てた。
どのくらい選別を見守っていただろうか。
ふと、淀みなく手を動かしていた鹿苑の動きが止まる。鹿苑はしばらくジッと一点を見つめている様子だったが、やがて一冊のスケッチブックを手に取り、パラパラ捲り始めた。縁の位置からはスケッチブックの表紙が見えるだけで中身は確認できない。が、それが誰の持ち物かは縁にもわかった。
青背一究——麒麟の筆に命を捧げた男の名前が、神経質そうな字でスケッチブックの表紙に記名されていた。
鹿苑は難しい顔でスケッチブックを捲りながら時折首を捻ったり、目を見張ったりしている。その様子からして青背のスケッチブックは鹿苑の満足いくような出来ではなかったのだろう。無理もないと縁は目をすがめた。
麒麟の筆に頼る前の青背には技術も金もなかった。実現不可能な煌めくアイディアばかりが脳内にあって、技術を磨こうにも磨き方さえろくにわかっていなかった男が青背なのだ。だからこそ、青背は麒麟の筆の恩恵を一身に受けた。
それにしても、麒麟の筆を得る前の過去の作品やクロッキー、エスキースなどの下絵の類を青背は処分したはずだ。それがこうして鹿苑の前に現れたということは、麒麟の筆が、鹿苑に干渉しようとしているに違いない。
縁が予想した途端に、カラン、カラカラカラ、と硬質な物が転がる音が倉庫に響く。
スケッチブックから目を離した鹿苑は音の根源をすぐに見つけた。縁は固唾を呑んで鹿苑の一挙一動と、転がる〝それ〟を見る。
白い大理石を固めたような軸に、束ねられた真っ白な毛がオーロラのような光沢を放っている。その筆自体が光を放つ芸術品のようにも見えた。縁が倉庫を探した時には一切片鱗を見せなかった麒麟の筆が、鹿苑の目の前に顕現していた。
鹿苑は唾を飲みこみ、恐る恐る麒麟の筆に近づいた。そっと壊れ物を扱う手つきで一本の筆を手に取り、電球に掲げるようにして麒麟の筆を観察していた。
縁の位置からは鹿苑の背中しか見えない。麒麟の筆を前にして鹿苑が何を思っているのかは確認できない。縁は息を潜めて、鹿苑の次のアクションを待った。
鹿苑は麒麟の筆をどうするのか、持ち去るのか、それとも——。
「はぁー……!」
鹿苑は縁にも聞こえるほど大きなため息を一人で吐いた。思わず肩を跳ねせた縁のことなど全く気づいていない様子で鹿苑は肩を落とすと、麒麟の筆を棚の一つにそっと置いた。
それから青背のスケッチブックを「燃える」に分類すると、「保留」の箱を部屋の隅に寄せる。溢れんばかりのゴミ袋はカートに積めるだけ積んで、鹿苑はまた、かったるそうな様子で出て行った。
縁は鹿苑が退室したのを見送ると、ゆっくりと、麒麟の筆に近づいた。
まだそこにある。
二〇メートル。
鹿苑が置いていった棚に存在している。
十メートル。
縁を前にして麒麟の筆が姿を消すことはなかった。
五メートル。
埃っぽい部屋の中で麒麟の筆の輪郭だけが輝いて見える。
一メートル。
遠目ではわからなかったが、中華風の見事な文様が軸に彫刻されていることに気がついた。
——もう手が届く距離だ。
命を落とすとわかっていながら火の中に飛び込まずにはいられない蛾になった心地で、縁は手を伸ばす。
指先が筆の軸に触れるか触れないかで、止まった。
「月浪、おまえ……! 本当に、マジで、何やってんだよ……!」
芦屋啓介が縁の手首を掴んでいた。
急いで来たのか呼吸が浅い。きりりとした眉が今は苦しげにひそめられていた。
呆けていた縁を芦屋はひと睨みすると、縁を引きずるようにして麒麟の筆から離れる。
縁は手首を強く掴まれた痛みと、遠ざかる麒麟の筆に舌打ちする。
「……ねえ、これは乱暴なんじゃないかな、芦屋くん」
「死のうとするのは乱暴以上の暴力だろうが!」
芦屋の指摘に縁は思わず息を呑んだ。芦屋は縁の目的を把握してここに来たのだ。
精悍な顔に怒りを浮かべ、芦屋は刃物のような眼差しを縁に向けた。
「麒麟の筆には触らせない」
「……芦屋くん、手を離して」
「離すわけないだろこの状況で!」
「絶対離さん」と頑なに拒む芦屋にますます強く手首を握られ、縁は苛立って口を開こうとした。
その時だった。
シャン、とどこからともなく鈴の音が聞こえて、倉庫内の空気が張り詰めた。
芦屋が縁の手首を掴んだまま、目を見開いて縁の背後に釘付けになっている。縁は、後ろを静かに振り返った。
ツノを持った四つ足の獣がこちらを見ている。ゆらゆらとたなびく金色の雲が獣の佇む足元にまとわりついて、紫電を放ちながら美しく煌めいていた。縁もまたその生き物に目を奪われる。
麒麟。
縁の絵から飛び出してきたかのような、堂々とした姿で麒麟は芦屋と縁の二人を眺めていた。馬と似たけぶるまつげに縁取られた金色の瞳と視線が重なると、自分の背中一面に吹き出すように鳥肌が立っていくのが縁にはわかった。たったの一瞥にもかかわらずの圧倒的な威圧感。その気になれば人の命など一瞬で吹き消すことができるだろう霊力が麒麟の全身にみなぎっていた。
麒麟は優雅に棚へと顔を寄せると、その口に麒麟の筆をくわえて、縁と芦屋へと近づいた。見上げるほどの巨体であるが、棚をすり抜けて真っ直ぐに向かってくる。
芦屋がなんとか手を引いて、縁を自身の影に隠そうとした。
プレッシャーに当てられてびっしりと冷や汗をかいている芦屋のこめかみが縁の目の端に見えたが、近づいてくる麒麟の存在感にどうしても気を取られてしまう。
麒麟は縁と芦屋の前で足を止めた。
首を下ろして芦屋と縁を観察するように顔を寄せる。麒麟は芦屋の顔を一通り眺め回すと、縁の方へ首を垂れる。麒麟の筆はくわえたままだ。
縁は麒麟の顔を至近距離で見る。高度な知性を宿しているが絶対に人とは意思疎通が叶わない生き物へ、縁は芦屋に掴まれていない方の手を、伸ばした。
「月浪!」
芦屋が縁を突き飛ばした。床に転がった縁は、芦屋がポケットから何かを麒麟に投げつけたのを見た。
本来ならば麒麟の体をすり抜けるはずの白い紙片は、麒麟と接触した瞬間に真っ赤に燃え上がる。
縁はああ、と感嘆の声を漏らした。
芦屋の投げつけたのは月浪禊の名刺だ。全ての怪異を祓う力を持つ最強の護符。禊の名前を囲むようにデザインされていた赤い紋様が飛び出し、麒麟を取り巻く炎に変わった。
現実を焼かずに怪異だけを燃やす火。
その火が渦を巻くように麒麟へ纏わりついて退魔の紋様を描く。
麒麟は後退りし、迷惑そうに首を振った。
雷がほとばしる。麒麟は紫電でもって炎に答えるように別の紋様を描いた。
途端に、取り巻いていた炎がぴたりと空中に静止する。
麒麟の描いた紋様が何度か点滅して、やがて消える。炎はそれを見ると、麒麟の足元にたなびく金の雲に吸い込まれるように入っていく。金色だった雲は赤味を帯びて、炎は収まる。
縁は尻餅をついたまま食い入るように麒麟に見入った。禊ですら麒麟を退治することはできなかったのだろうかと思った瞬間に、麒麟がくわえていた筆を縁の前に置く。
そこから手出しをする暇はなかった。
麒麟は筆を置いたかと思うと、フッと静かに吐息を漏らした。
――ロウソクの火を吹き消すように。
麒麟の筆も麒麟自身も、油画学科の倉庫から跡形もなく、その姿を消していた。




