第25話 月浪縁を探して/講義館の麒麟
語り終えて鹿苑は肩を肩をすくめて見せた。
「でも、もしも青背一究が本当に麒麟の筆を使ってたとしたらがっかりだな。きちんと自分の手で作り上げるところまでやりきって欲しかった。そこまで徹底出来てこそ、〝本物〟なんだと思うから」
本物よりも本物らしいハリボテの龍の首をぼんやりと撫でて、鹿苑は呟く。
「まあ使う気持ちは理解できなくもないけどさ」
「……鹿苑でもそう思うんだな」
正直なところ、意外だった。
芦屋から見れば思いのままに次々と作品を作り出している鹿苑でも、麒麟の筆に魅力があると認めるとは。てっきり「麒麟の筆なんて使う意味がわからん」とバッサリ切り捨ててしまうものだと思っていた。
芦屋のそういう感想が如実に顔に現れていたらしい。鹿苑は「おまえ、俺を超絶自信家のアホだと思ってるだろ」と半眼になって芦屋を睨む。
「そりゃあ、俺は創作に全力で取り組みはするけど完璧にできた試しなんかねェからな。技術・時間・金・メンタル・体力・人間関係諸々がツイてるゴールデンタイムに合わせて作ろうとしたら一生無理。なんにも作れねェよ。何かしら妥協が入ってふつうだ」
「鹿苑の言いようだと妥協しない作家はこの世にいないってことにならないか?」
芦屋が縁のことを思いながら問いかけると、鹿苑は珍しく真面目な顔で答える。
「もしも一切の妥協をしないで作品を作れるならそいつは間違いなく本物の天才な上に、たぶんゴールデンタイムの中にいる。いろんな条件が完璧に揃った最高のコンディションなんだろうよ。羨ましい限りだ」
悪態めいた口調で言った鹿苑は、なぜか途中で声色を変えて芦屋を諭すように続けた。
「でもな、ゴールデンタイムは絶対に永遠ではないんだ。いつかは終わる。誰でも歳はとるし、赤ん坊から老人まで置かれる状況がまったく変わらないなんてことはない。そうなると活動期間のどこかで必ず妥協するようになる。どんな天才であっても」
だから『妥協した状態であってもそうは見えない』状態まで持っていくのが作家としての最低限の仕事である。そうなると作家自身だけが自分が妥協したことを知っている状態になったりもするのだと鹿苑は語り、深々とため息を吐いた。
「もちろん、したくてしてるわけじゃないからな、妥協なんて。できるもんなら妥協しなくてすんだ自分の作品を見てみたいっていう気持ちくらいわかる。……麒麟の筆に頼るのはごめんだけどね」
鹿苑の繊細な一面を感じた芦屋だが、そんなことよりも気になることがある。
麒麟の筆の話は〝怪談〟であるように思う。いわゆる『やってはいけない話』の亜種だと言える。『使ってはいけない道具の話』だ。これがただの怪奇会員からの伝聞だったなら芦屋は気にしなかったが、この怪談を月浪縁が口にしたというのが引っかかる。
霊能力者として、縁は怪談を除霊の手段として使っていた。怪異の正体を怪談を通して見極め、物語の型にはめて怪異を単純化する。そうやって神秘と怪異の力を削ぐのだ。
しかし、今回はむしろ怪談を通して怪異の力を高めてはいないだろうか。
「なあ、本当にこの話——麒麟の筆の話を月浪から聞いたのか?」
芦屋が何を懸念しているのかわからない鹿苑は不思議そうではあったが、聞かれたことには素直に答えた。
「そうだよ。あいつこの手の話をどこから仕入れてくるんだろうな? もしかしてこの話から絵の着想をしたのかね?」
なんの気なしに言ったのだろう鹿苑の言葉に、芦屋は思い出していた。
「麒麟……」
奥菜玲奈の一件に関わっていたとき、芦屋が訪ねた日本画棟のアトリエで縁が描いていたのが麒麟だった。
当時はまだ下絵の段階だったが完成していたらしい。そして、どうやらその麒麟の絵が周囲を畏怖させるほどの出来になっているようだ。
見るものに畏怖を覚えさせる麒麟の絵。使う人間の命を吸い取り傑作を生む麒麟の筆の怪談。麒麟と月浪縁の二つの要素がつながりそうでつながらないままの芦屋に、鹿苑が言った。
「月浪の描いた麒麟の絵なら講義館の一階に展示されてっから、気になるんなら見に行けば?」
芦屋は鹿苑に頷いた。
縁の描いた麒麟を見れば、鹿苑に麒麟の筆の怪談を口にした理由がわかるかもしれない。
そういう根拠のない確信を持って、芦屋はそのまま講義館に向かった。
【芦屋啓介】
大勢の学生が行き来する講義室が集められた一棟の一階。通称〝講義館〟。コンクリートとガラスで覆われた現代的なエントランスホールの壁に日本画学科・二年生の選抜作品が展示されていた。中でも、月浪縁の絵は一際大きく目立っている。道ゆく人間はその絵に睨まれると必ず一度歩みを止めた。
使われている画材は麻紙に岩絵具。鹿苑旭から聞いていた通り、そして芦屋啓介の予想通りに、描かれているモチーフは麒麟だ。傲岸不遜に一瞥をくれている麒麟——芦屋は煌々と燃えるその目に吸い寄せられるように近づいた。
虹色のたてがみをなびかせ、肌を覆うウロコは一枚一枚が宝石のように輝く。水墨画を思わせる荒々しいタッチで描かれた岩肌、木々の間から姿を現した極彩色の神の使いからは滴るほどの生命感、エネルギーを感じる。まさしく、神がかりの絵だった。
「――すごい」
芦屋が感嘆の息を吐いて呟くと、耳元で男の声を聞いた。
「まったく、妬ましいほど見事な麒麟だ。そうは思わないかな芦屋くん?」
芦屋と縁の所属する東美怪奇会の会長・梁飛龍に間近で声をかけられて芦屋はギョッと目をむいた。
この、怪奇会をまとめる男はやたらに気配が薄い。常に愛想よく振る舞っているのだが、芦屋にとってはにわかに緊張を強いられる相手だった。
「……もうちょっと気配を出してくださいよ会長」
「や、すまない。僕は裏方気質でね。前に出て自分の存在を知らしめようとするのがあんまり得意じゃないんだよ」
切れ長の目をスッと笑みの形に細めてみせる梁に、芦屋は当たり障りのないあいづちを打った。
梁がどことなく油断ならないのはこの、常に笑っているようで笑っていない黒々とした瞳のせいかもしれない。梁は指を背中で組んだまま尋ねる。
「芦屋くんは講義かい?」
「いえ、鹿苑に聞いてこの絵を見に来たんです」
梁は納得した様子で麒麟の絵に視線を移した。縁の筆致を丁寧に眺めながら、意味ありげに呟く。
「しかし麒麟。麒麟ねえ。才覚を司る獣ならばもっと他にいるだろうに、どうして麒麟なんかを描いたんだろうな、月浪くんは」
「どういう意味ですか?」
芦屋が聞くと梁は人差し指を立てて言った。
「麒麟というのはもともと、優れた王様が国を治めていると現れる瑞獣——簡単に言うと縁起のいい幻の動物だ。慣用句にもなっている麒麟児というのも麒麟が賢王を象徴するところから来ている」
梁は教師のようによく通る声で朗々と語る。
「だから、というべきかな。麒麟というのは男にしか懐かないのだよ」
梁の語る麒麟の性質には馴染みがなかったので芦屋は軽く瞬いた。
「……知りませんでした。ユニコーンの逆みたいな感じ、なんですかね」
確か、西洋の幻獣ユニコーンが清らかな乙女にしか懐かないという性質を持っていたような気がする、と素直に答えた芦屋に、梁は珍しく意外そうな顔をした。
「おや? そうなのか。麒麟児という言葉も主に少年に使われるものだから、これはてっきり通説だと思っていたんだが」
梁は言葉の最中何かに気づいた様子で「なるほど」とつぶやき、一人で頷いていた。
梁は東美怪奇会のトップだけあって妖怪や神獣などに造詣深い。もちろん、怪談にも通じている。芦屋はもしかすると梁ならば麒麟の筆についても何か知っているかもしれないと思う。
「あの、麒麟って芸術に関わりが深いとか、そういう逸話があったりします?」
「なんだい、藪から棒に」
首を傾げる梁に芦屋は尋ねる。
「梁会長は『麒麟の筆』の怪談を知っていますか?」
黙って芦屋を見つめる梁から読み取れるものはない。芦屋はさらに続ける。
「俺は鹿苑から、鹿苑は月浪から聞いた話です。東京美術大学で流行ってる話なのかと思うんですが、そもそも……麒麟が芸術に関係する動物だったか、俺は知らなくて」
「ふむ」
梁は口元に手をやって考えるそぶりを見せたかと思うと、すぐにニンマリとした笑みを作った。
「一つずつ解答しようか。その怪談については僕も耳にしている。確かに、油画学科や日本画学科の学生を中心にポツポツと流布している噂のようだね」
梁は指を二本立てたのち、芦屋の質問に答えるごとに丁寧に折っていく。
「僕は寡聞にして麒麟それ自体に芸術と関わり深いエピソードがあるとは聞かない。……が、もし仮に麒麟の筆が実在するとして、瑞獣・麒麟を材料に作られた筆が画家になんらかの恩寵を与えるというのは、そうおかしくもない話だと思う」
怪異についての持論を梁はウキウキと語り出した。
「麒麟の姿に着目したまえ。ちょうど月浪くんの描いた麒麟が目の前にあることだから解説しよう」
梁は芝居がかった所作で縁の絵を指差して言う。
「まず、麒麟の全容は鹿に似る」
「鹿」
芦屋の目が縁の描いた麒麟の絵と梁の顔を往復した。「そこまで似てるか?」という正直な感想が顔に思い切り張り付いていたらしい。芦屋の反応に解説の出鼻をくじかれる格好になった梁は咳払いで気を取り直した。
「……まあ、これに関しては『ツノがあって四足歩行、蹄を有している——と、特徴を挙げていくと他の動物よりは共通点があるよね』くらいの感覚でよろしく頼むよ」
芦屋は納得しつつ、梁の指差す麒麟の部位を目で追っていく。
「顔は龍に似る。尾は牛に似る。蹄は馬に似る。背中の毛は五色に彩られ、体は鱗に覆われている」
スラスラと語られる麒麟の特徴は当然ながら縁の絵と完全に一致する。こうしてみると麒麟というのは多種多様の動物が組み合わさったキメラのようだ。
梁は手を後ろに組んで、口の端を吊り上げるようにして笑った。
「——さて、芦屋くんは映像学科だけれども、画材には詳しいかな?」
いつもならば、画材と麒麟の特徴になんの関係があるのかと首を捻っていたところだが、梶川の一件で日本画の素材について考える機会があったせいで、その時ばかりは芦屋にもピンとくるものがあった。
鹿。牛。馬。
麒麟に類似する動物は、膠などの画材に使われている。
「いや、けど、鱗とかは違うだろ、龍に至っては実在しないんじゃ……」
思わず口に出して否定した芦屋に、梁は首を横に振った。
「鱗を魚に由来するものとみなすなら日本画には魚の皮を使った魚膠がある。そして龍は深く芸術に関係する幻獣だ。画竜点睛の逸話は知っているだろう?」
梁は自身の右目を指差して言う。
画竜点睛の古事成語は絵の名人が壁画の龍に瞳を描き入れた途端、命が吹き込まれた龍が絵の中から飛び出していった逸話に由来する。
梁は芦屋から視線を外し、再び縁の描いた麒麟の絵を仰ぎ見る。
「これは一つの解釈だが、『描くために命を使われた獣と、描かれて命を得た幻獣の集合』が麒麟とも言えよう」
梁の解釈は妙にグロテスクに思えた。縁の描いた麒麟がひどく歪な生き物に見えてくる。
幻の生を頭に、現実の死を四肢に纏った獣。
「こう考えると幻獣・麒麟が『才能』の象徴とされているのはなかなか示唆に富んでいるような気がしてくるね。一般的に麒麟は優しく、殺生などのケガレを嫌うというが——『才能を司る獣が優しく清らかであるはずがない。傲岸不遜の獣である』というのが麒麟を恐ろしく威厳ある姿で表した月浪くんの見方だろうか。……いやはや、手厳しい」
眉をひそめて皮肉めいた笑みを浮かべた梁は『麒麟の筆』が怪奇現象を巻き起こす理由までも推察する。
「麒麟の筆が自らを使う人を祝福して呪うのは『我らと同じく、表現のために命を捧げろ』とでも言いたいのかもしれないな。あるいは『才能に身を捧げる覚悟なしに才能を謳歌すること許さず』か。あの怪談、我々クリエイターの卵に対する警告と誘惑を同時にやっているわけだが、……今回誘惑された人間がちょっとルールを理解していなさそうなのが気になるね」
「ルール?」
梁の見立てに大きな異論はないが、話の展開は飛躍しているように思えた。芦屋がおうむ返しに尋ねると、梁は芦屋に向き直って言う。
「『麒麟は才ある男に恩寵を与える』これが麒麟に定められた絶対厳守のルールだ。麒麟という伝説の獣の姿・性質は長い時間をかけて人が絵に描き、物語で描き、定着したために一朝一夕で覆すことはできない。怪異は融通がきかないんだ。怪異の性質が変容するためには幾千幾万もの命ある人間が変容や例外を認めなければならない」
梁はスポットライトのただ中で、定められたセリフを述べる舞台俳優のようにいきいきとしていた。
「ゆえに、もしも麒麟の筆が実在すると仮定して、月浪くんが麒麟の恩寵を得ることはない。それどころか麒麟は彼女に危害を加えるに違いない。いくら天賦の才があったとしても彼女は女性だからね」
「……はあ」
芦屋は梁の話の持って行き方が腑に落ちない。この後に及んで間の抜けた返答の芦屋に焦ったくなったらしい梁はいよいよ本題を口にした。
「つまり月浪くんは麒麟の筆を使うこともできないわけだ」
「なんで月浪が麒麟の筆を使いたがってること前提で話をしてるんですか?」
芦屋は納得できないと梁に言うが、梁は縁が麒麟の筆を欲しがる動機には触れず、その行動から推察したのだと語る。
「だってそうでなければ、月浪くんが鹿苑くんに麒麟の筆について語る理由がないだろう」
梁の指摘に芦屋は虚を衝かれて瞬いた。
「月浪くんは鹿苑くんを利用して麒麟の筆を手に入れようとしてるのでは?」
縁が鹿苑に麒麟の筆の物語を聞かせたのにはわけがあるとは思っていた、けれど、梁の指摘したような理由には思い至らなかった。縁は麒麟の筆など必要としない人間だと芦屋は思っていたからだ。
——しかし、本当に、そうだろうか。
思索に耽る芦屋を横に、梁は訳知り顔でつるりとした顎を撫でている。
「鹿苑くんなら確かに麒麟のお眼鏡にかないそうだ。彼は自分の描くべきものと描きたいものが常に一致しているし、審美眼も良い。貪欲で好奇心旺盛。なにより純粋で野心がある。まさしく麒麟好みの青年だ。そして芦屋くんに鹿苑くんが麒麟の筆の怪談を話したということは、彼が麒麟の筆の話に興味を持っていることの証明にもなる。鹿苑くんは興味のないことをいつまでも覚えているタイプじゃない」
そして、梁は知るよしもないだろうが縁は霊媒体質だ。縁本人は自分に他人がどれだけ関われば怪異を呼び寄せるのかを把握してはいなかったが、少なくとも関われば関わるほどに怪奇現象に巻き込む確率は上がるだろう。縁が鹿苑と話す機会を増やしたのは、麒麟の筆を手に入れるためだったと考えると、縁の行動に筋が通る。通ってしまう。
「互いが互いに興味を持っている状態だ。マッチングしてるよね。麒麟の筆は鹿苑くんを誘惑するだろう。が、彼は創作に関しては高潔だ。それゆえに麒麟の筆を必要としない」
梁は愉快そうに言う。
芦屋も梁と同意見だった。
鹿苑は麒麟の筆に興味を抱いていても、おそらくは筆を使おうとはしないだろう。けれど、魔が差さないという保証もない。縁はかなり危ない橋を渡っている。そこまでして、友人を危険に晒してまで麒麟の筆を欲しがる理由が芦屋にはわからない。
「月浪くんは、麒麟の筆を手に入れるべく、筆が鹿苑くんに振られたあとを狙うつもりなのだろうが……うーむ。ルールを誤認してるなら、危ないな」
麒麟の筆を使えるのは男だけであるというルールを、縁は把握していないのでは、と言う梁に、芦屋は思わず呟いた。
「……月浪がルールを誤認するなんてこと、あるか?」
これまで、縁は的確に怪異の正体を見破ってきた。
「月浪は、少なくとも俺より怪談・怪異に関して詳しい。たぶん、麒麟に関しても梁会長と同じくらいの知識は持っているはずだ。……じゃないとこんな絵は描けない」
芦屋は縁の描いた麒麟の絵を見上げる。
縁は麒麟をモチーフに選んで描いているのだ。作品にする以上、モチーフがどういう生き物なのかを縁は徹底的に調べ上げるだろう。麒麟の下絵のそばに散らばっていた資料の山を思い出す。モチーフやコンセプトに対して、縁は真摯に取り組む作家だったはずだ。
芦屋の言い分に思うところがあったのか、梁は顎に手をやって、全くの無表情になった。
「ルールを的確に把握した上で、月浪くんは麒麟の筆を手に入れたいと? ありえなくもないが、……ならば月浪くんは死にたいのだろうか」
「え?」
芦屋は思わず瞬く。
梁は笑みを取り払ったまま、冷ややかにも聞こえる声音で囁いた。
「彼女が麒麟の筆に触れるのは竜の逆鱗に触れるのと同じこと。月浪くん、死ぬよ」
梁の言葉に総毛立つような心地がした芦屋は、居ても立っても居られず踵を返したが、ひた、と足を止めて、最後にもう一度梁へ尋ねる。
「会長は怪異の存在を信じてるんですか?」
「存在してくれた方がいいとは思っているよ」
梁はニッと白い歯をこぼすようにして、笑った。
「だってその方が面白いからね」




