第23話 月浪縁を探して/蓮根修二
【芦屋啓介】
月浪健と話した翌日、芦屋啓介は日本画棟に向かった。
夏休みが開けてすぐのアトリエは人もまばらだ。新学期に入り新しい課題が出されたばかりだから、作品の構想を練っている人間がほとんどらしい。芦屋はその中でも作業している何人かの同期に月浪縁を見たか聞いてみるが、手応えはなかった。
そもそも最近は縁のことを日本画棟で見かけないと言う。
一学期末の作品講評の日には出席していたが自分の発表が終わるとすぐに退室していたようで、必要最低限しか顔を出すことがない。必修であっても来たり来なかったりする。
これまで縁は比較的真面目に大学に通い、その技量で注目されていた。九月に入ってからは特にそんな調子なので同級生の間では様子が変だとは噂になっていたようだ。
芦屋はアトリエから廊下に出てすぐそばの壁に背をもたれながら、真昼の太陽に青々と茂る植木をぼんやりと眺める。同級生が縁を評する言葉に気になるものがあった。
『最近の月浪さん、元気はなかったけど絵の調子は絶好調だったよ。神がかってるって感じ』
〝月浪縁〟と〝神がかり〟という言葉の組み合わせは、どうしても縁の霊能力・厄払いの絵画を彷彿とさせるが、そうではない。縁は人物でなく別のモチーフを描いた作品によって、同級生らを感嘆させたのだ。
これが芦屋には引っかかる。
縁は確かに技術のある描き手だ。芦屋の知る限り予備校時代から上手かったし、美大に入ってから公にしていた作品——風景、植物、動物、あるいは妖怪を描いた絵なども佳作ではあった。だが、縁の本領は人を描くことにある。
芦屋は特に印象に残っている作品を思い出す。
葉山と芦屋を含む予備校の同級生たち。奥菜玲奈。井浦影郎。蓮根修二を含む東美怪奇会の面々を描いた作品たち——赤いテクスチャを除けばいずれの作品も、人の美点を捉えた優しい絵だった。ひねくれた性格の縁は人を描くときだけ、素直だ。モチーフとする人を祝福するように筆をとっているように見えた。その〝祝福〟こそ、厄払いの絵画の持つ霊能の源ではないかと思うほどに。
しかし、縁の絵を語った同級生たちの口ぶりは素直な賛辞というよりも、圧倒されて語る言葉がない、といった様子だった。ある種の畏怖さえ感じとれた。
「あいつ一体、どんな絵描いたんだ?」
思わず口走った芦屋の前に立ち止まる人影があった。影の正体がわかると、芦屋は大きく目を見開く。
「……久しぶりですね、芦屋くん」
蓮根修二が気まずそうな顔をしながらも、そこに立っていた。
※
九月はいまだに残暑が厳しく、立ち話には適さない。芦屋が蓮根を食堂に誘うと、蓮根は少々の戸惑いを見せたが、頷いた。
白いテーブルの立ち並ぶ東京美術大学の食堂はそこそこに席が埋まっていたが、昼時をはずしているから座る場所は確保できた。改めて蓮根に向き合うと、万全の調子ではなさそうだが、以前よりはだいぶ持ち直しているように見える。
「……その後、どんな感じだ」
芦屋が精一杯言葉を選んだことが伝わったらしく、蓮根は小さく笑って答えた。
「立ち直ったと言ったら嘘になりますけど、家で腐ってるよりは大学に出てきて手を動かしてた方が気が紛れますから。ここで夢まで諦めてしまったらほんとに立ち直れなくなるでしょう」
「夢?」
「日本画の修復について研究したいんです」
たしかに、怪談の中でもそんなようなことを言っていた覚えがある。
納得した様子の芦屋を見て、蓮根は呟くようにポツリと言った。
「……芦屋くん、僕はまだ、月浪さんのことを許せてないです」
東美怪奇会で二年生の日本画学科は蓮根と縁の二人だった。サークルでは学科の垣根をこえて友人ができたりするものだが、やはり同じ学科同士の方が課題の進捗のことなど話すこともあるだろう。縁も深く付き合わないなら愛想が良いので、蓮根と縁はそこそこに親しくしていたはずだ。
もしかすると、だからこそ、蓮根は縁に深く怒りを覚えたのかもしれない。
しかし芦屋が蓮根の目を見返すと、蓮根は気圧されたように目を伏せる。
「この怒りが、理不尽だってことはわかっています。あの日、井浦さんの部屋で口にしたことがなんの正当性もない、八つ当たりだったと、自分でもわかっている。けど……」
蓮根は苦しげに眉根を寄せる。
「月浪さんは井浦さんに、自分は霊能力者なのだと、厄払いのために素顔を描かせてほしいと打ち明けることはできなかったんでしょうか。なにか、方法はなかったんでしょうか。自分が怪異を呼び寄せてしまう体質だと知っていながら、対策を打たなかった月浪さんのことを僕が許してしまったなら、井浦さんに申し訳がない気がするんです」
蓮根の言い分も、理解はできる。
芦屋は硬く目をつむり、開いた。
「人間に、全部を完璧にこなせって言うのは無茶だと思う。相手がどんな才能を持っていたとしても」
本当は、蓮根だってそんなことはわかっているに違いない。それでも芦屋は伝えるべきだと言葉を続ける。
「蓮根は月浪の描いた絵を見たことあるか?」
蓮根は一瞬、何を聞かれたのか分からなかったようで怪訝そうな表情を見せたが、すぐにコクリと頷いた。
「自分と関わりのある人間を〝全員〟絵に描いたことあるか?」
虚をつかれた様子の蓮根に芦屋は続ける。
「月浪と同じくらいの精度で、描けると思うか?」
「あの、どういう……」
戸惑う蓮根をさえぎって、芦屋は低く告げる。
「〝厄払いの絵画〟は落書きじゃダメなんだと。一枚一枚自分が納得した絵を描かないと、厄払いにはならないんだそうだ」
改めて口にして感じる。縁に課せられたルールは一から十まで残酷だ。
『絵描き自身が納得できる絵』とは『妥協の要素が一つもない絵』だ。
つまり一枚一枚を描くにあたって一切の気の緩みも許されない。傑作を描くつもりで制作に臨み、紛うことなく傑作を完成させなければならない。
誰にでもできることではないはずだ。
しかし縁は厄払いの絵画を数えきれないほど完成させてきた。にもかかわらず。
「月浪は全力を注いだ作品を公にすることができない。いつ赤いテクスチャが浮かぶかわからないからだ」
世に出した絵が変化すれば当然騒ぎになる。だから作品の出来を世に問うことができない。
また、どれだけ丁寧に、時間をかけて描いた絵も赤いテクスチャに台無しにされることを前提にしなければならない。
「手塩にかけた作品が自分じゃない誰かに手を入れられてズタズタにされるのは、作家にとってなにより辛いことだって、俺たちは知ってるはずだよな」
蓮根は黙って頷いた。
「それでも、月浪は描くのをやめなかったんだ。これまで、ずっと」
おそらくは人の不幸を軽減することに、縁は意義を感じていたのだろう。
そうでなければ、井浦がまだ行方不明だと思われていたころ、描き損ねたことを気にして焦る縁の姿を見ることはなかったはずだ。
「月浪は井浦さんのことが嫌いだったかもしれないが、わざと描かなかったわけじゃないし、少なくとも俺には描けなかったことを悔やんで見えた。……蓮根が月浪を許せないと思う気持ちも理解はできるが、それだけは知っておくべきだと思う」
蓮根は黙って考え込んでいるようだったが、どこか腑に落ちたような顔をしていた。きっと、芦屋の言いたいことは伝わったのだろう。
芦屋はホッと安堵のため息をついたあと、話題を変えた。
「あと、こんなことを聞くのは自分でもどうかと思うんだが、聞きたいことがある」
「なんですか?」
あらたまった様子の芦屋に蓮根もつられて構えた。芦屋はおずおずと口を開く。
「月浪縁と井浦影郎って……似たもの同士か?」
「はあ?」
蓮根は怪訝と言う表情のお手本があるとすればこんな顔だろうという顔で芦屋を見やった。
芦屋自身変なことを聞いている自覚はあるものの、縁自身が井浦と自分を『クソ野郎同士』とくくって話をしていたのがずっと気になっていたのだ。
「俺は井浦さんとちゃんと話したことがないから判断のしようがない。その点蓮根なら二人を比較できるだろうと思ったわけなんだが」
「全然違いますけど」
迷いのない即答である。
芦屋は頭をかいて椅子の背もたれに寄りかかった。
「だよなあ?」
聞いておいてなんだが芦屋も蓮根と同意見だった。伝え聞く限り、井浦の人となりが縁と似ているとは思えない。
なのに縁はなぜ、と首を捻る芦屋に、蓮根は口元に手をやって考えるそぶりを見せた。
「……ああ、でも、月浪さんの本領が〝厄払いの絵画〟にあるなら、ある意味では似てるのかもしれません」
目を合わせた芦屋に蓮根は頷いて続ける。
「井浦さんは大衆のために、人から求められる作品を作っていました。そのために手段を選ぶことはなかった。月浪さんの〝厄払いの絵画〟は人の災いを払うための絵だ。その上、もしも赤いテクスチャを取り除くまでを制作過程とみなすなら」
蓮根は少しの憤りを込めて、静かに口にした。
「どちらも、大衆のために身を削って作品を作る作家ですよね」
この見解にはピンとくるところがあった。
が、それだけで縁が自分自身をああも激しく自己批判するだろうか、とも思う。井浦と縁自身を重ねて自虐的に話したのには、蓮根の見解に加えてなにか、もう一つ理由があるような気がする。
腕を組んで考え込み始めた芦屋に蓮根は小さく笑みを浮かべた。
「月浪さんですけど、最近鹿苑さんと一緒にいるのを見たって、風の噂で聞きましたよ」
「え?」
芦屋が思わず顔を上げると、蓮根は淡々と応じた。
「今日、日本画棟にいたのは月浪さんを探しに来てたんでしょう?」
「あぁ。そうだが」
芦屋は少し考えて
「……すまん、ありがとう」
と、一番端的な言葉を選んだ。
蓮根はトートバッグを肩にかけると席を立って、去り際に笑って言った。
「僕も、借りを作りっぱなしにするのは趣味じゃないんですよ。芦屋くん」




