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【書籍化・コミカライズ】美大生・月浪縁の怪談  作者: 白目黒
第四章:麒麟の筆
23/92

第22話 病院にて

【芦屋啓介】


 月浪縁(つきなみよすが)の兄、月浪健つきなみたけるの勤める病院の一室は、芦屋啓介が『精神科』のイメージから想像していた真っ白な部屋とはまったくの別物だった。フローリングの明るい木目が優しく、所々に変わった形の椅子や照明、観葉植物などが置かれて、外資系のカフェや内装に凝ったビジネスホテルのような雰囲気である。


 葉山英春はひと月の入院の後、自宅から通いで通院はしていたが、大学は休学。芦屋との面会も禁じられ、ようやく今日が解禁日である。それでも万全を期してか健の指示で、芦屋と面会するなら病室で、ということになったのだ。


 スマホを介してのやりとりはしていたが、芦屋が葉山と顔を合わせるのはおおよそ一年振りだった。久方ぶりに顔を合わせた葉山はTシャツに細身のデニムの簡素な格好でひらひらと芦屋に手を振る。



 葉山は来客用のパイプ椅子を開いて芦屋を座らせると自分もベッドに腰掛けて笑う。


「いやぁ、なんだかんだで結構メンタルやられてたんだなぁ。芦屋には迷惑かけっぱなしでホントすまん」


 いつも染めていた髪は黒くなっていたが、それを除けばドッペルゲンガーに取り憑かれる前の葉山に戻っていた。軽い調子で芦屋を気遣うのも以前と同じだった。

 芦屋は眉根を顰めて、膝の上に乗せた指を硬く組んだ。改めて、自分が情けないと思う。


「そんな……迷惑、だとか、そういう風には、全然思ってない。逆に俺が余計な気を回したせいでいろいろ……」


 途中で言い訳がましい自分が嫌になって、芦屋は言葉を切った。目を合わすことさえできないことを恥じるように頭を下げ、それでも葉山にはっきり聞こえるように言う。


「ごめん」


 葉山が一瞬息を呑んだ音が聞こえた。そう間をおかずに、葉山の明るい声が病室に響く。


「いや、なんで芦屋が謝るの? なんか俺に謝るようなことがあるのか? 悪いけど心当たりがないんだわ」


 恐る恐る顔を上げた芦屋に、葉山はなんてこともないように続ける。


「だいたい三角教授の件だって、振り返って考えるとあの人死ぬほど大人気ないしひっでえ八つ当たりだったなとは思うけど、俺が無神経だったとこもあるからさ」


 葉山は苦笑して言った。


「知らなかったんだよね。三角教授が広告嫌いだっていうの」


 講評で葉山を酷評した三角が、なぜああもキツく葉山を槍玉に挙げたのかの理由を、葉山は知っているようだった。芦屋が縁から聞いたのと同じ推測を、健経由で聞いていたのかもしれない。

 そして、その推測は葉山自身も納得がいくものだったのだろう。


「たぶん、現場でなんか嫌な目に遭ったんだろう。思い出したくもない作品だったのかもな。でもそれが代表作扱いされてて、俺みたいな事情もなんも知らない学生に『あの作品に感銘を受けました!』とか、ファン丸出しのミーハーなコメントされたら面白くないのは、わかるよ」


 複雑な面持ちの葉山に、芦屋は瞬いた。


「したのか、ミーハーなコメント」


 葉山はぎくりと肩を震わせたかと思うと、深々とため息を吐いた。


「……そーなんだよ。舞い上がってやっちまったんだよ。あぁー! 時を巻き戻したい!」


 頭を抱えてベッドに倒れ込み、軽くのたうちまわる葉山は、やはり三角のことを尊敬していたのだろう。


「それだけ好きな作家だったってことじゃないのか」

「まあ。……そうだよ」


 ひとしきり暴れるポーズをとって気が済んだのか半身を起こした葉山に、芦屋が少々の恨みがましさを込めて尋ねる。


「教えてくれてもよかったと思う」


 葉山はあからさまに目を泳がせた。


「うーん。なんか、ちょっと恥ずかしかったんだよな……、ファンやってる姿を見られるの」


 何を恥じるところがあるのか全く理解できなかった芦屋は首を傾げた。


「俺は気にしない」


 このコメントは相当な的外れだったらしい。葉山はわざとらしく頬杖をついた。


「知ってるよ。そりゃ芦屋はそういう奴だ。わかってる。だけど芦屋啓介が気にしなくても葉山英春は気にするんですよ。啓介君、おわかり?」

「……わかった」


 物事の許容範囲というのが人それぞれであることを、ここ一年で嫌という程学んだ芦屋はしぶしぶ頷いた。ジト目の葉山は満足そうに口角を上げる。

 その顔を見て、芦屋は今なら聞くことができるかもしれないと思う。

 ずっと気になっていたことがあるのだ。


「なんで葉山は俺に写真を教えてくれたんだ?」

「今更なに?」


 葉山はきょとんとした様子で芦屋の顔をまじまじと眺める。真剣に尋ねていることがわかったのか、葉山は腕を組んで考えるそぶりをみせると、自分も答えを探るように、口を開いた。


「芦屋のことをいい奴? だと思ったから?」

「だから、なんでそう思ったか……。おい、疑問形かよ」


 芦屋のツッコミに、葉山は大げさに笑って見せた。

 そのあとさらりと理由を述べる。


「初対面の時に芦屋は俺の名前を覚えてたよな。それまで話したこともなかったのに」

「葉山だってそうだろう」


 当時は自分の名前を覚えられていると思ってなかったので、印象的だったのだと芦屋が言うと、葉山は驚いた様子で瞬いた。


「そりゃあ、芦屋は遅れてクラスに入ってきたわけで、こっちが覚えてるのは当然みたいなところがあるだろ。一応遅れてきた経緯は先生から聞いてたし、その上自己紹介のときの芦屋は松葉杖ついて全力で負のオーラを背負ってたからインパクトあったよ」


 聞き捨てならない単語が出てきて芦屋は半眼になった。


「……負のオーラとはなんだ」

「ザ・運動部の主将なナリのくせに、ただでさえ低空飛行のテンションがあの頃は常にお通夜状態だっただろ。死んでたぞ、顔が」


 ズバズバと物を言う葉山である。

 芦屋は当時死ぬほど落ち込んでいた自覚があるだけに何も反論できなかった。

 バツの悪そうに黙り込んだ芦屋に、葉山は苦笑して続ける。


「気持ちはわかるけどあれじゃ話しかけづらいって。話してみたら案外面白かったけども」

「……そうか」


 しみじみとへこんでいる芦屋を差し置いて、葉山は気を取り直すように話を戻した。


「でも、芦屋のほうは俺とは違うじゃん。人とナリも掴めない四十人弱いるクラスメイトの顔と名前を一気に全員覚えてた。少なくとも名前を覚える努力はしてたんだなって思ったんだよ」


 芦屋は、足掻いていた自分のことを今更に見つけてもらったような気がして、口をつぐんだ。


「なにより、スマホを構えて俺を撮った途端に、芦屋の負のオーラがちょっとマシになったように見えたんだ」


 葉山はニッといつも通りの自信に満ちた笑みを浮かべた。


「こいつはたぶん、作ることに向いてるんだろうなって直感したわけ」

「……だから教えてくれたのか」

「そういうこと。のちにサクッと現役で美大に受かるんだから、我ながらなかなか慧眼だったな」


 軽い調子で自画自賛を挟む葉山に、芦屋はふっと小さく息をこぼした。


「あのさ、葉山」

「なに?」

「ありがとう」

「なんだよ、急に。それなんのお礼? 今日のおまえ全然脈絡がわかんないんですけど」


 眉をハの字にして困惑する葉山の肩を、芦屋は軽く叩いて告げる。


「とっとと治して戻ってこいよ、待ってるから」

「……おうよ」


 くしゃりと笑った葉山に、芦屋は安堵する。きっと葉山は大学に戻ってこれる。そう思った。



 見舞いを終えて帰ろうとリュックサックを肩に引っ掛けて歩き出す。病室を出たところで、メガネの奥の穏やかな瞳と視線が重なった。


「芦屋くん、ちょっといいかな?」


 健がちょいちょいと手をこまねいていた。


 健の後を着いていく。扉に印字されたカウンセリングルーム(診察室)の文字を横目に入室して、芦屋は思わず目を瞬いた。そこは診察室と言うよりちょっときれいな、飲食できる本屋のようだったからだ。


 健がデスクからサイドワゴンを引っ張り出して患者用の椅子の前に置く。今までかろうじて医者と患者の距離感だったのが、サイドワゴンをテーブルがわりにすると、もはや喫茶店の二人席だった。


 健は芦屋に着席を促すと、自ら氷の浮かんだ緑茶と水を持ってきた。芦屋は受け取って口を開く。


「ありがとうございます。……病院なのに、白い部屋じゃないんですね」

「それ葉山くんにも言われたよ。僕は白い部屋って落ち着かないんだよね。眩しいから」


 健は冗談なのか本気なのかわからない調子で言ったあと、付け加えるように説明する。


「もちろん僕の趣味に合わせたわけじゃなく、感覚や神経が過敏になってる人にもよろしくないから、ある程度木目のある部屋にしてるんですよ。観葉植物は全部フェイクですけども」


 部屋の隅に置かれた本物と見紛う立派なモンステラの葉に思わず目をやった芦屋だが、にこにこ笑っている健がこちらを観察していることに気づいて、とたんに落ち着かなくなった。


「あの、俺を呼び出したってことは葉山の経過に、何か問題でもあるんですか? 元気そうに見えたけど……」


 よほど芦屋が不安げに見えたらしい。健は大袈裟に手を横に振って苦笑した。


「ああ、何事かと思うよね。ごめんごめん。葉山くんに関しては君の見立てどおりだよ。そろそろ復学を視野に入れてもいいと思う」

「本当ですか!」


 思わず身を乗り出した芦屋はハッと我にかえる。そっと意識して背もたれに背中をつけて、健の言葉を噛み締めるように呟く。


「……よかった」


 きっと復学できるはずだと感じたことは気のせいではなかったのだ。

 心底安堵した芦屋を見て健は軽く瞠目したかと思うと、にこやかに言った。


「君って友だち甲斐のある奴だね。家族と同じかそれ以上に連絡をとったり、回復を喜ぶ友だちってなかなかいないよ」


 芦屋は内心で「そんなに誉められたことでもない」と嘆息する。

 葉山を追い詰めた怪異・ドッペルゲンガーを生んだのは強烈なストレス、葛藤と懊悩だと聞いている。

 葉山が怪異を生むまで悩み苦しんだのは、芦屋の不用意な一言が一因でもある。

 酷い講評を受けた葉山を励ますつもりで「教授の言うことを聞く必要はない。おまえはそのままでもいい」と言ったことが、葉山を苦しめてしまった。

 少なくとも、芦屋自身はそう思っている。


「……葉山の件は俺のお節介が引き起こしてるところもあったと思うので」


 良かれと思って口にした言葉が葉山の中で歪な像を結んでしまったことを、芦屋は後悔していた。


「だから、こうやって見舞いに訪ねるのも、いいことか悪いことかはわかんないところはあるんですけど、月浪が」


 途中で芦屋は、目の前の男もまた〝月浪〟であることに気づいて言い直した。


よすがさんが、俺が葉山を励まそうとしたことは間違ってないと言ってくれたから、葉山とちゃんと話をする機会を、作れたんだと思います。そうじゃなかったら気まずくなって、疎遠になってたかもしれない」


 芦屋は組んだ手のひらに視線を落として、硬く目をつむる。


「そうならなくて本当によかった……と思ってます」

「なるほど。あいつは俺よりよほどアフターケアが上手だな」


 健の口調が少しばかり砕けたものに変わった。

 芦屋が顔を上げると、メガネ越しにいたずらっぽく笑う瞳と目があった。縁がよくやる微笑み方だ。


「芦屋くん、怪異に一番抵抗力がある状態ってどういう時かわかるか?」


 突然脈絡のない質問を投げてくるのはこの兄妹の特質なのかもしれない。

 しかし芦屋は一瞬目を丸くしたものの、真剣に考えて自分なりに答えを返した。


「気をしっかり持つ、とかですか? なるべく平常心を保ってポジティブな状態でいる。とか」

「九割正解。平常心とは何かっていうのが補足できたらカンペキだ」


 健は人差し指を立てて意味ありげに言う。


「正解は『幽霊・オカルト』の類は存在しないと当然のごとく思い込むこと」


 身内も自身も霊能力者であるはずの健の発言に、芦屋は耳を疑った。


「いやでも……実際居ますよね、怪異」

「まあ居るんだけども」


 健は芦屋がぽかんとしているのを見るとすぐに気を取り直して続ける。


「居ないと思い込んでる人間の方が寄せ付けないんだよ。怪異が現世で少ないエネルギーをかき集めて必死に起こした怪奇現象も、風の音。見間違い。偶然。で片付けられたら無かったことになるからね」


 言われてみればわからないでもない、と芦屋は腕を組んだ。葉山は〝自分のドッペルゲンガーを自分だと認識しなかったために死なずに済んだ〟のだ。


「まともに相手をしちゃう方がかえってヤバいというわけ」


 もしも葉山が幽霊も妖怪も実在していると強く信じていたなら、幽霊の特徴を調べ上げてその正体を突き止めていたなら、葉山は——もしかすると芦屋も——とっくに死んでいたのかもしれない。


「だから本物の霊能力者はあんまり表に出ないんだよね。居るって知らしめちゃうと退治する相手が軒並み強くなるんだよ。これやっちゃうと本当に死活問題になります」


 健が肩をすくめて言うのを聞いていると、縁から渡された名刺のことが芦屋の脳裏をよぎった。


『特殊清掃・月浪院 取締役 月浪 みそぎ


 渡された時には職種と業種は果たしてそれでいいのかと突っ込みたくなったものだが、あれはあれで意味のある偽装工作のようなものだったのかもしれない。


「なるほど、どうりで特殊清掃……」

「あ、うちの母の名刺のこと? あれはちょっと適当だよなあ。あはは」


 あっさりと笑い飛ばした健に芦屋は脱力した。結局適当なのだろうか。

 落ち着いた所作で水を口にする健に、芦屋はそれにしても、と前置いて尋ねる。


「健さんの言うことが本当なら、霊能力者とかの専門家は一般人より抵抗力がないってことになりませんか」

「どっこいどっこいって感じだね。対抗できるノウハウが溜まっているから、強い怪異に適切な対処ができるのは専門家の方。でも専門家も幽霊を信じない人間と比べたら劣るところはあるんだ」


 健は一つため息をこぼすと、話題を変える。


「ところで七月の一件、縁には相当堪えたみたいだね」


 なんてこともない調子で言った健に芦屋の心臓が大きく鼓動する。


 悪霊と化した梶川密を祓いのけ、蓮根修二から罵倒されたあの一件以来、芦屋は縁に会っていない。

 縁が芦屋のことを避けているからだ。

 いつもなら芦屋はなんとしてでも接触を試みただろうが、今回は芦屋自身が縁にかける言葉をまだ見つけられていない。


「……あのとき、俺は、なにもできませんでした」


 事件は一応収束している。井浦の死は死因を伏せられて公に発表された。梶川は表向き退学したということになっており、中退する人間が出るのが珍しくない美大ではさほどの話題にもなっていない。蓮根はサークルを辞めたが大学には出てきているらしい。


 死者が日常にさざ波を立てても、生きている人間の大半は歩みを止めることがない。

 立ち尽くしたままの芦屋を置いて。


「情けないです。縁さんにかける言葉の一つも選べない……」


 沈む芦屋に健は軽く眉を上げてみせる。


「何にもできてないってことはないでしょう。縁にとってはたぶん君が居るだけでよかったんだと思うけど」


 芦屋がどういう意味か尋ねるより先に、健は静かに口を開いた。


「霊媒体質は嫌でも怪奇現象を縁と周囲の人間に引き寄せる」


 健は目を伏せて膝の間で指を組んだ。


「醜いもの、酷い有様、修羅場に愁嘆場を浴びるように見せられ続けるわけだ。縁は身内の人間ならともかく、他人を巻き込むのは筋が違うって頑なだった。知り合った人間全員を描き倒すなんて無茶をするようにもなった」


 健の言葉を聞いて、芦屋は小さく息を吐いた。


 やはり、縁の人物画の描き方は身内にも無茶に見えていたのだ。同時に、それが縁の意地だったのだろうとも思う。

 縁は自分の霊媒体質に誰かを万が一巻き込んだ時、最低限の被害で済むよう保険をかけるために描いて、描いて、描いたのだろう。そうやって描いた絵のことを縁は大事にしていた。赤いテクスチャを通じて怪異がもたらす絵の変化から、なるべく作品を守ろうとしているように見えた。


 正直なところ、縁の創作活動のやり方は芦屋には息苦しく感じる。

 ——それでも楽しいと思える瞬間があったからこそ縁は描き続けられたのだろうが。

 芦屋が思索していると、健はにこやかに微笑んだ。


「だからね、厄払いの絵画が関わる一件に、身内以外の誰かの首を突っ込ませたことなんてなかったんだよ。君を除いて」


 思索から会話にぐっと引き戻されて、芦屋は瞬く。

 健は腕を組んで、軽い口調ながら試すように問いかけた。


「霊能力者だからって、友だちを作っちゃいけないなんてことはないだろ?」

「そうですね」


 芦屋は即答する。


「本当に、そう思います」


 噛み締めるように続けた芦屋に、健は満足げに頷いた。


「縁にかける言葉が選べないって言ってたね。ということは、芦屋くんには言いたいことがいくつもあるってことだ」


 指摘されて芦屋は首肯する。健はニンマリと笑みを深めて言い放った。


「そんな芦屋くんに俺からのアドバイス——全部言っちゃえばいい」

「え? いや、そんな適当な……」

「縁は怪談慣れしてるから、誰かの言葉の意を適切に汲むのにも慣れてるよ」


 割と失礼な芦屋の本音を、健は意にも介さずに続ける。


「君なら大丈夫だ」


 言葉一つで、肩にのしかかっていたものが取り払われたような気がした。


「……ありがとうございます」


 芦屋は健の顔を見定めてと感心する。


「なんか、整備してもらったみたいだ」

 ――もしかして月浪健は相当優秀なカウンセラーなのかもしれない。


「あはは! 言い得て妙だね。俺はなんとそれで飯を食ってるんですよ」


 芦屋の口から溢れた感心を健はさらりと笑い飛ばした。

 それから少々眉を下げて頼み込む。


「気が向いたら縁と喋ってやってくれ。身内からの言葉じゃ響かないことも、友だちからだったらちゃんと響くこともあるからさ」


 健が芦屋を呼んだのは、これを言いたかったためだろう。


「そのつもりです」


 芦屋は頷いてから、ひとまず立ちすくむのをやめようと決める。

 とにかく、縁に会ってみないことには始まらない。芦屋啓介が月浪縁に言うべきこと、言わなくていいことがわかるのは、あのチェシャ猫のような張り付いた笑顔を前にしたときの、はずだ。

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