第21話 井浦影郎
蓮根は井浦影郎を語る。
井浦は苦悩していたのだと言う。
どれほど大衆に求められる作品を作っても、技術があっても満足できない、飢えにも似た苦しみ。大衆に飽きられることへの恐怖。常に作家として進化し続けなければいけないことへのプレッシャー。期待される作家として振る舞うことへの疲労。簡単に飛んでくる誹謗中傷と罵詈雑言の棘。
その全てに追い立てられて井浦は走った。足を止めたら喰い殺される。そんな不安に駆られながら、ただひたすらに加速した。
生き延びるため、腹を空かせた獣のように作家の卵たちの才能を食い潰して奪う。その罪悪感から彼ら彼女らをミューズと呼んで、思い出を部屋に飾って指針にした。これだけの才能を奪ってきたのだからまだ走れる。まだ食える。まだ作れる。
そうやって自分を奮い立たせないと筆を取ることさえままらなくなり、名ばかりのミューズの残骸が並べられた部屋では安らぐこともできなくなった。それでもミューズの残骸を捨てることは許されない。作家・井浦影郎を形作っているのは他ならぬ彼ら彼女らの才能、涙と血肉だ。それを忘れたら、作家として死んだも同然。
——思い詰めていたのだと蓮根は言うと、フッと吐息を零すようにして、力なく笑った。
「僕は『そんな生き地獄にいるくらいなら、いっそ死んだらどうですか』って言ったんだ。『今の井浦さんは苦しむために作家をやっているみたいだ。苦しまずに済む方法はないんですか。最初に作家になりたいと思った井浦影郎は、何を作りたかったんですか?』って尋ねたら、井浦さん、泣き出してしまって」
かつて思い描いた理想からは遠く離れた場所にいることに、井浦は気づいた。
「自信がないから、人から何かを奪うようにして作品を作って、それがいろんな人に受け入れられてしまって、それを、もうやめたいって言ってた。完璧な才能なんかなくてもいい。たくさんの人に受け入れられなくてもいいって」
井浦は蓮根に叱咤されて、更生しようとしていた。
「変わりたいって、言ってた」
「口先だけだよ、そんなのは」
梶川は吐き捨てるように言った。
「井浦は作家と付き合って思考を丸ごとトレースする。だから『変わりたい』と口にしたのも蓮根修二の思考を真似ただけで一過性のこと。すぐに彼は別の作家と付き合いだして、また新しい表現を取り入れる。次のミューズは月浪縁だったかもね」
鼻で笑った梶川に、縁の瞳が刃物じみた光を帯びた。
「……あのさぁ、酷い死に方をした人を悪く言いたくはなかったんだけど、なんで私があのクソ野郎に口説き落とされる前提で話をするのかなぁ?」
身もふたもなく切って捨てる。あまりにも鋭利な言葉に梶川の声も蓮根の声も途切れた。
「君らにとって井浦影郎がどれほどの男かは知らないけど、創作のために他人を食い潰すのをよしとする人間なんて私にとって最低最悪のクソ野郎なんですけど。——恋愛以前に人としての好感が持てないな。だからミューズ候補扱いされるのは心底心外かつ大迷惑。気色悪いからやめてよね」
芦屋は横から感じるひしひしとした怒りのオーラに落ち着くように言うべきか迷う。縁は芦屋があたふたしているのを横目に、深くため息をこぼした。
「だいたい、クソ野郎同士つるんだところで得るものはないでしょ。井浦さんにはその点ご理解頂いた上で話をつけてるんだよな。その後、蓮根くんの言い分が正しいなら少しはまともになろうとしてたみたいだけど……」
縁はスッと床を指差した。頭から血を流した井浦の横たわっていた場所だ。
「井浦さんが蓮根くんを選んで梶川を捨てようとしたのは『いつものこと』の延長だったのかもしれない。でも、本当に変わろうとしていたのかもしれない。——わからないんだよ。梶川が井浦さんを殺して、全ての可能性を絶った今となっては」
縁の声には、クソ野郎となじったはずの井浦への、やりきれなさと同情が滲んでいる。井浦の真意を知るものはこの世にいない。蓮根の希望と梶川の諦観のどちらが正しかったのかを知るすべは、どこにもないのだ。
蓮根の唇が小さく震えた。
「井浦さんは、確かにひどい人だった。それでも、僕は応援したかった」
蓮根の左目あたりに残る、薄い肉の膜のようなものが、蓮根の声が上がるたびジリジリと焼け落ちていく。
「天才でも完璧でもなくて、コンプレックスだらけでも、変わりたいと願って行動し始める。……井浦さんのことが好きだから」
芦屋には腹落ちするところがあった。梶川が執拗に蓮根を殺そうとした理由も、縁に対する敵意をあらわにしたのも、井浦が好意を持った人間だったから、なのだろう。
梶川は口では「創作活動のために自分以外の人間と関係を持つのは仕方がないことだ」と割り切っていたが、結局のところ割り切れてなどいなかったのかもしれない。
芦屋は静かに目を伏せる。
蓮根のそれまでの言動で薄々勘付いてはいたが、改めて死者へのまっすぐな愛情を吐露されると、苦しい。
蓮根はうつむいて、絞り出すように、細切れの言葉を口にした。
「なのに」「井浦さんは」「僕は」「お別れも言えてない」「これからも言えない」「どうして」「バラバラにされて」「焼かれて」「粉々になって」
理不尽への怒りと、悲しみとが渦巻く最中に蓮根は小さな望みを口にした。
「井浦さんに、もう一度会いたい」
決して叶うことのないささやかな願いだった。
「なんでもいいから、また、くだらない話がしたいんだ」
机の上に置いた拳がもがくように握られていく。
「どうして死ななきゃいけなかった? どうしてこんな身勝手な人に、井浦さんを殺されなきゃいけなかったんだ?」
蓮根は喘ぐように言った。その左目にわずかに残る肉の膜に浮かぶ、梶川の目が嫌悪にすがめられる。
「失礼しちゃうな。ねえ、そんなに会いたいなら死んだら?」
女の声が甘く囁く。
「死んだら会えるかもしれないよ」
蓮根は机に置いた自分の拳を祈るように握り込む。
「そうだ。死んだら会えると思ってた」
だから一度は首を括ろうとした。
「もう一度顔を見れるなら、言葉を交わせるならなんだってするよ」
悪霊の誘惑に駆られて命を捨てようとした。生きていたなら二度と会えない井浦に会うために。蓮根は確信を欲しがるように縁を見つめる。霊能力者の少女に縋るように口を開いた。
「月浪さん。僕が死んだら……」
縁は首を横に振る。
「会えないよ」
無慈悲なほど冷静に、告げた。
「——今死んだとしても、蓮根修二が井浦影郎に会うことはない」
愕然と目を見開いた蓮根は、固く目を閉じた後に、顔を上げた。
「なら……、なら僕は死ねない」
ひとつ言葉を紡ぐたびに、蓮根を覆う肉の膜のようなものが剥がれていく。喚き散らす女の声が徐々に小さくなっていく。
「絶対に死なない。梶川にはこれ以上何もくれてやらない」
蓮根が決意を持って宣言した瞬間、背中から黒い塵のようなものが吹き上がって消えた気がした。
タブレット端末の画面を見れば、蓮根を縛り付けていた赤いテクスチャも無くなっている。
縁は無表情のまま蓮根に口を開いた。
「梶川密は除霊された。彼女が今後、君に取り憑くことはない」
縁の言葉を聞き届けた蓮根の顔から、薄暗いベールが取り払われたように、顔色が明るくなった。しかし蓮根は俯いて、尋ねる。
「……月浪さん。月浪さんはどうして、僕のことを助けてくれたんですか」
「君を描いた絵に赤いテクスチャが浮かんだからだ。これを取り除くために、梶川密を除霊して君から危険を払いのける必要があった」
淡々と告げた縁に、蓮根は息をこぼすように笑った。
「僕は、オカルトが好きですけど、信じてはいなかった。幽霊や霊能力者が本当に存在するなんて、思ってもみなかった。全部フィクションだと思っていました。月浪さんの力は、すごい……」
言葉の最中に目を覆って、唇を噛み締めた蓮根は
「そんなすごい力があるなら、どうして井浦さんを助けてくれなかったんですか」
縁を、呪った。
「おい、蓮根」
隣で息を呑んだ音を聞いた芦屋が堪らず口を挟むが、蓮根には聞こえていなかったのかもしれない。手のひらで目を覆ったまま、表情が読み取れない。そのまま蓮根は静かに縁をなじっていく。
「井浦さんのことが嫌いだから、描かなかったんですか。死んでもいいと思っていたから」
「……おまえ、自分が何を言ってるのか、わかってるのか」
まるで縁に井浦の死の責任があるかのような言い草に、芦屋が苛立ち混じりに問いかけると、蓮根は机に手のひらを叩きつけて怒りをあらわに食ってかかった。
「だってそうでしょう!? 本当に描きたいと思っていたなら! 絶対に描くべきだと思っていたなら交渉したはずだ! 月浪さんなら、井浦さんはきっと許したはず……」
「蓮根!」
芦屋は思わず声を荒らげる。だが憔悴した蓮根の眼差しを受けて、芦屋は一度息を吐いた。落ち着くべきだとわかっていた。恋人を無残に殺されて蓮根は深く、傷ついている。
また八つ当たりに行われる縁の糾弾について縁自身が弁明するならともかく、芦屋がしゃしゃり出て怒ることでもない。
けれど、蓮根を助けようと梶川に立ち向かい、命を救った縁が救われた蓮根から罵声を受けるいわれなどない。芦屋はどうしてもそんな状況が許せなかった。何より——。
「もしもの話をしたってどうしようもないだろ」
井浦影郎は既に死んでいる。もう取り返しはつかないのだ。
同時に、芦屋は知っている。縁が井浦の死を当然だと思っているわけがない。井浦の命を救えず、取りこぼしてしまったことを、縁が悔やんでいないはずがないのだ。
「助けられておいてその態度はない。筋違いだろ……」
芦屋の言葉に、蓮根の目から大粒の涙がこぼれた。
「わかってる。……ちゃんと、わかってますよ。でも、どう納得しろって言うんだ、こんな」
机の上に置かれた、握り拳が強く握られ白く、震えている。
「助けられたかもしれないのに……! 助けられなかったことを『仕方ない』だなんて言われても、納得なんてできないよ……!」
引き絞られるような悲痛な叫びが、井浦の部屋にこだました。
「あの人を、返してくれ……」
芦屋は奥歯を噛み、何か言おうと口を開きかけたが、腕を掴まれてパッと振り返った。おまえも言われっぱなしでいいのか、と思っていた気持ちは縁の顔を見て、みるみるしぼむ。
表面張力でなんとかこぼれずにいるだけの縁が口を開いた。
「ごめんね」
縁は深く頭を下げて、震える声で続ける。
「ごめんなさい」
蓮根はそれ以上縁に罵声を浴びせることはなかったが、やり場のない怒りと悲しみに嗚咽するばかりだった。
縁がずっと自分から他人を、怪奇現象から周囲の人間を遠ざけようとした理由を、芦屋は身に染みて実感していた。
〝怪異というのは基本的にクソ野郎で、関わるとろくな目に合わない〟
俯いた縁が抱えていたものの一端を垣間見た芦屋啓介が、月浪縁に語りかける言葉もまだ、見つからない。




