第20話 除霊・作品読解
「本当に失礼な人。何を根拠に……」
顔をどろりと歪ませながら梶川が追求するよりも早く、縁はにこやかに微笑んで口を開く。
「人選。あと、単純に出来がよろしくないからだよ」
ぴたりと、梶川の顔の揺らぎが止まった。
縁は笑みを取り払い、淡々と告げる。
「展示『関係性』を見に行った。画廊の一階に並んでた作品は、人体のパーツへの偏愛を圧倒的なデッサン力で表現した力作たちだった。生々しいし、作家の一方的な視線の表出にも見えたから好き嫌いは分かれると思うけど、それでもクオリティが高いのが一目でわかる。なのに……井浦影郎を描いた絵は精度が荒い。スポットライトの当て方でなんとかごまかしてるけど、明らかに先行作品から一段レベルが落ちる」
芦屋は縁の指摘に思い当たることがあった。
一階にあった梶川の絵は産毛や肌のきめまで描き込んだ緻密なものだったが、井浦を描いた巨大な箱絵だけは絵の具の筆致が残っていた。スポットライトに気を配り演出に凝っていたと言えば聞こえはいいが、裏を返せば作品の精度の荒さを演出でどうにかごまかしていたとも取れる。
「印象が違って見えたのは、そのせいか」
梶川の顔が再び揺らぐ。めまぐるしく変化して形らしい形を成しえていない——動揺している。
「まあ、他の絵とは描き方が違って巨大な箱に絵を描いたようなもんだし? コンセプト次第では見方が変わるかなって思ったよ。でも、『愛する恋人を永遠にしたい』なんて手垢のつきまくったコンセプトじゃ、こっちの評価は変わんないな。井浦さんも浮かばれないね」
縁の挑発に梶川は乗った。
つりあがった巨大な目が蓮根の顔の左半分で瞬く。
「……随分上からものを言うんだね。一体、何様のつもりなの?」
「私は現代の作家として物申してるんだよ、梶川」
恐るべき怒気に当てられもせず、縁は静かに続ける。
「『死は決してタブーではなく、生と同等の尊厳をもって受け止められるべきもの』ならば、〝死〟を芸術として描くと決めた作家は全身全霊をかけて製作に臨む義務がある。そうでなければ生と同等の尊厳を表すことなんてできないだろ?」
梶川の苛立ちを凌駕する、冷徹な怒りを込めて縁は問う。
「自分の決めたコンセプトを満足に表せない作家に、どれほどの価値があるんだ?」
梶川は答えなかった。——もしかすると、答えられなかったのかもしれない。
それまで受け答えをしていた梶川の顔はどろりと溶けた。首から上に球状の、おぞましい模様を描く何かが乗っているだけで、表情さえも読み取れない。
縁はその惨状を睨み据えながら、なおも梶川を追求していく。
「過去形で、好き嫌いとは別の話になっちゃうけど、私は作家としての梶川密を信頼していた。肌のきめまで描画する緻密な作風は圧倒的なデッサン力と同時に、筆の速さと計画性の賜物だ。そうじゃなければ個展を精力的に開いて、新作を量産することはできない」
縁は梶川の作家としての才能を認めていた。だからこそ、梶川の最後の作品——井浦影郎を描いた『こいびと』が不出来であると、見抜いた。
「解せないんだよ。『モデルが劣化しだしたから殺す』なんて中途半端な真似はらしくない。いつもの梶川なら、素材である井浦の最高到達地点とやらを選んで殺すはずだ。基底材に〝等身大の箱〟を選ぶかどうかも怪しい。だいたい、大きいだけの箱に遺骨を隠すだけじゃ中途半端だろう? 井浦を膠にするなり、絵の具に混ぜるなり、緻密な作風を生かして井浦を作品にする方法はいくらでも考えられたはずだ」
縁は一度言葉を切って、梶川を窺う。
「そう。時間がありさえすれば」
梶川の歪に揺らいでいた顔が、凪いだ。
「殺人は突発的だった。別れ話を切り出されてカッとなって殺したんだよね?」
ゴッ、と鈍い音がしたかと思うと、何かが倒れた。
突然の轟音に芦屋は瞬いて音源を確認し、目を見開く。
——井浦影郎が床に倒れ伏していた。頭から血だまりが広がる傍らに、女が一人立っている。表情は影になって窺えないが、灰皿を持った手がふらりと揺れて、滴った血が、フローリングの床に一粒落ちる。
瞬きをすると井浦と女の姿は煙のように消え去った。
心臓が早鐘を打っている。どうやら幻覚を見せられたらしい。
それは、紛れもなく梶川が井浦を殺した瞬間だった。
縁は幻の井浦が倒れていたあたりを冷たい目で見やる。
「で、井浦影郎の死体を目にして梶川密は思った。『どうしよう』とか『何とかして誤魔化せないか』とか、そういう動揺よりも先に『痴情のもつれを理由に殺人を犯しただなんてみっともない』とか『もっと別の、何か特別な理由があるべき』だと考えたんじゃないか?」
「なんで……」
呆然とした声が部屋に響く。その声には心のうちを手に取るように読まれていることへの恐怖が滲んでいた。
だが、縁は当然のことを当然に指摘しただけなのに何を恐怖しているのだ、と言わんばかりにあっけらかんと続ける。
「なんでって、徹頭徹尾なにもかも、作家としても個人としても、梶川密は自分のことしか考えてないからだ」
今や、梶川の顔を覆うドロドロは必死に心のうちを暴かれまいとする鎧のようだ。
「……わかったようなことを言うじゃない。ろくに話したこともないのに」
「知ってるとも」
震える声で聞く梶川に、縁は明晰に答える。
「自分以外のヒト、モノ、あらゆる全てが蒐集品かつ付属品で、それらを使って自分がいかに劇的で特別な存在なのかを証明することが至上命題なんだろ? 描き方でよくわかる」
いっそ傲慢なまでの決めつけ。レッテル貼り。
しかし芦屋にはある種の説得力を持って聞こえた。
「偏執的にモデルの体の一部分を描く。他人の不快感や嫌悪感を無視して好意と称賛を押し付けて作品とする——作家は大なり小なり自分本位なところがあるけど、梶川密は生粋のエゴイストだ。自分の定めた美の基準に沿うものだけを描き、それ以外は切り捨てて無視する。モデルの全体像を描かないのは、描きたくない部分がどうしても出てきてしまうからだ」
縁は梶川の作風から梶川自身を読み解いて、微笑む。
「作家がどういう人間かを、作品は何より雄弁に語る」
ほのかな失望と軽蔑の入り混じった複雑な笑みだった。
「だからこそ、優れた作家は作品の語る言葉を操作する。作品が他者に与える印象をコントロールするためだ。その点、梶川は作品が他者に与える印象については全く気を配っていなかった。卓越した技術と相反する暴力的で生々しい野生の視線。そのアンバランスさを魅力と取る人がいたから評価されたんだと思うんだけど、実際は無自覚だっただけみたいだね」
縁は目を伏せて言う。
「作家が作家として理想的に振る舞うのは一つの作品を作るのと同じことだ。奥深く、難しい」
「……奥菜玲奈でさえ、最後まで演じきることができなかったのだから」と呟いたのが、小さく聞こえた。
奥菜玲奈は〝理想の自分〟の仮面を被り続けた人物だ。縁は最後まで玲奈の作り上げた仮面に一目を置いていた。
しかし、玲奈でさえ追い詰められれば動揺し、完璧に作り込んだ仮面を壊してしまった。それまで揺るがなかった演技も、思想も、信条も、強く揺さぶられれば、壊れてしまうことがあるのだ。
——梶川は、どうか。
「痴情のもつれで殺人を犯した事実を認められなかった梶川は、それらしくてふさわしい理由を考え出さなくてはならなかった」
梶川は井浦を突発的に殺してしまった。そして、自分が殺人を犯した理由を認められなかった。けれど、殺してしまった事実は変えられない。
「それで、猶予のない中なんとかひり出したのが『死は芸術である』とかいう、フィクションの猟奇殺人者がよく使うテンプレート的な動機というわけだ。『振られたから殺した』って動機よりマシに思えたんだろうけど、それが作家としての信頼を損なう結果になってんだよな。なんせ出来上がったものが拙いから」
だから取り繕おうとして、井浦を殺したことを〝作家として〟正当化するために『死を芸術にした。それが愛だと思ったから』という無茶苦茶なテーマで作品を作った。けれど、梶川は本気で殺人を芸術に昇華しようと模索したわけではない。愛を殺人によって表現したかったわけでもない。そう見せかけたかっただけ。
縁が暴いた動機と痛烈な批判に、梶川は一言も口を挟まなかった。
「反論……しないんだな」
「自分の作品の出来不出来を一番身にしみて理解してるのは作家自身だ。異論があるならとっくに言ってるよ。というわけで、梶川密を語る言葉は二つ——」
思わず呟いた芦屋に、縁は淡々と応じた。
「自分の定めた『死』というテーマに全身全霊を持って向き合えなかった作家か。恋人に別れ話を切り出されて理性を失い、人を死に至らしめた人間か」
二本指を立てて、一つずつ折っていく縁のことを、果たして梶川は認識していただろうか。顔を覆っていたドロドロとした揺らぎはもう左目の辺りに残っているだけで、力なく蠢くばかりだ。
「手前勝手な人殺しの動機を『芸術』になすりつけておいて作家面されるのが、私は本当に我慢ならない。少しは恥を知ってほしい」
冷たく吐き捨てた縁に梶川は何も答えない。
人形のように生気のない蓮根の顔が露出していた。その様に縁は浅くため息を吐くと、低く、呼んだ。
「蓮根修二くん」
梶川がテーブルに投げ出した右手の人差し指が、大きく震えた。
「こんなもんなんだよ。蓮根くんを今、死に至らしめようと企んでいるのは」
それまで梶川に取り憑かれたままだった蓮根の目に、うっすらと意思の光が宿ったような気がした。
「蓮根くんはそのままだと、井浦影郎を殺して死後も君に纏わりつく、梶川のせいで病んで死ぬ。だけど、今もまだ井浦さんの後を追って死にたいなら、別に死んでもいいとも思う」
「おい、何を……」
言い出すんだ、と続くはずだった芦屋の言葉は縁に睨まれて声にならなかった。
邪魔をするべきでないと悟った芦屋はおとなしく口をつぐむ。
「正直、この後に及んで後追い自殺を望む人間の説得なんてできる気がしないし、やる気もない。……ただ」
縁はその一瞬、苛立ちを隠すのを止めた。
「私は梶川の思い通りにことが運ぶのがすごく癪に触るんだよ。作品づくりのスタンスから恋愛感情の表現まで、死んでも無神経で自己中心的でムカつくから。蓮根くんはどう思う?」
縁は冷静さを取り戻して、語りかける。
「井浦さんなら、どう思うかな」
念を押すように続けた言葉に、蓮根はなんとか口を開いた。
「い、うら」
瞬間、左目を覆っていた歪みの残滓が鋭く反応して蓮根の口を塞ごうとした。
しかし、蓮根はかまわずに言葉を続ける。
「先輩が、井浦さんがどう思うかなんて、わからない。僕は、井浦さんのことを、なんでも知ってるわけじゃない」
身体の主導権を蓮根が取り戻そうとしていた。
それを押しとどめようとする、苛立った梶川の声が重苦しく部屋に反響する。
「あなたにカゲくんの何がわかるの?」
「僕が知ってる、井浦さんは」
蓮根の右目が苦しげにすがめられた。
「ひどい、人でした。とても」
嘲笑が響き渡る。高笑いする女の声が嵐のようだ。
「でも」
嵐の只中でも蓮根の声は、はっきりと聞こえた。
「井浦さんは殺されてもいい人なんかじゃない。作品として見世物にされて許される人でもない。……許されていいわけないだろう」
蓮根の目に光るのは涙ではなく、強い意志だった。怒りだった。
その怒りに気圧されるように笑い声が収まると、蓮根は縁に向けて口を開く。
「井浦さんは、自分に全然、自信がなかったんだ」




