第19話 除霊・真っ赤な嘘
【???】
合鍵を使って井浦影郎の部屋に上がりこむ。
家主が暫定死亡・行方不明でも電気は止められていないようだ。照明のスイッチがきちんと機能した。明るくなった部屋の内部は警察が家宅捜査した痕跡もほとんど残っておらず、あるべきものがあるべき場所に置かれている。
素晴らしい、だが未完成だ。
ここには最後のミューズの痕跡が欠けている。これからミューズの残骸を加えることで完成し、井浦影郎のコレクションは完璧になる。
肩にかけていたトートバッグを床に下ろし、準備に取り掛かる。
井浦の部屋には一通りの画材が揃っていたため用意する道具は縄だけでよかった。金槌と釘は拝借し、踏み台には椅子を使えば良いと思ったが、この椅子にも確か井浦の元恋人とのエピソードが付随していた。最後にコレクションの一つが足蹴にした状態になるのはどうなのか、と考えてもみたが、他にちょうどいいものはなかったので妥協する。
即興的な要素があってもいいだろう。
この部屋に——井浦のコレクションに——不純物を加えるよりもずっといい。
そう、思った矢先の出来事だった。
「いくらなんでもここで死ぬのは大家さんが気の毒なんじゃないかな」
平坦な女の声がした。振り返ると黒いワンピースを着た月浪縁と、見覚えのない精悍な顔立ちをした青年が立っている。
飾り気のないシンプルな服装の青年を見つめていると、脳の奥の方で蚊の鳴くような声が呟く。芦屋啓介というのが青ざめた彼の名前らしい。
「蓮根……おまえ、何やってんだよ……」
蓮根修二の手が握る縄。梁に釘を打ち込んだ跡を見れば一目瞭然のことを芦屋は尋ねる。蓮根は何も答えずに口角を上げた。
芦屋は答えない蓮根に眉根を寄せて口を開こうとしたが、手を払って縁が制す。
「芦屋くん、怪異と相対した時は名前が大事なんだよ。そいつが何者なのかを言い当てることで、話を聞かせる状態にまで持ち込むんだ」
縁はさらりと述べたかと思うと、人差し指で空を撫でるように蓮根を指差した。
「おまえ、梶川密だろ」
言い当てられた途端、バチンッと稲妻が走ったような衝撃を受け、蓮根の身体が崩れ落ちた。糸が切れた人形のように身体の制御がうまくできない。
「な、にをした」
蓮根の口から出た這うような声は、蓮根修二のものではない。しゃがれた女の声だ。見えない巨大な掌に押さえつけられたように身じろぎもできず、縁のことを睨むことしかできない。
縁はさして動じる様子もなく、腕を下ろして当然のように答える。
「名前は一番身近な呪いで縛りだって聞いたことないかな? 名前を知られるというのは正体がわかるということ。正体がわかるなら対策も打てる」
縁は芦屋に目を配らせた。
「ドッペルゲンガーを相手どるなら、幻覚だと思い込んだ上で治療を受ければ回復する。といった具合に」
芦屋が納得したように頷くのを見届けると、縁は井浦の部屋を見回しながら続ける。
「なので正体を掴まれたからには、好き勝手に他人の体を操ることはできなくなる。擬態も通用しないよ、梶川。それはおまえの体じゃないって、私と芦屋くんはわかっているから」
ダイニングテーブルを挟んで二脚ずつ置かれているうちの一つに縁は勝手に腰掛けた。縁に出遅れながら芦屋もまた、縁の横に並んで座る。
その様を倒れ伏して眺めていた梶川に、縁は愛想よく微笑んで、手のひらで着席を促した。
「楽にしていいよ。私たちは別に蓮根くんの体を痛めつけにきたわけじゃない。話をしよう」
そこでようやく、ある程度の体の自由が戻ってきた。
縁に従う格好になるのは癪だったが、他にどうしようもないので、体を引きずるように縁の向かいの椅子へ腰掛ける。
ちょうど、井浦との最後の会話の時も同じ席に座っていた。その時と違うのは、現在操る身体が自分自身のものではないこと。そして相対しているのがどことなくチグハグな二人組であることだ。
「……そっちの男の子のことはよく知らないけど、芦屋啓介って言うんでしょ。身体の方が覚えてた」
梶川が声をかけると芦屋は顔を顰めた。
今現在、蓮根の魂は完全に梶川が掌握しており、身体は蓮根のものだが、言動は梶川のものだ。
幽霊に取り憑かれた人間は生者にとってよほど気色悪く映るらしい。縁が正体を見破ってから、芦屋はずっと険しい顔で梶川の一挙一動に注視している。
梶川はその反応を面白く思った。蓮根の前に姿を現した時の驚嘆と恐怖の表情には劣るが、これはこれで愉快だ。
それにひきかえ、縁は涼しい顔で梶川のことを観察しているように見える。
「あなたのことは知ってる。井浦があなたのことを褒めてたよ、月浪縁さん」
かつて井浦が話題にあげた通り、月浪縁は目鼻立ちの整った、少女然とした佇まいの美しい人だったけれど、井浦から聞いていた静謐さは感じられない。むしろ、貼り付けた笑顔の下でふつふつと闘志が燃えているように思える。
「こんなところまで何しに来たの?」
「こちとら一応霊能力者なんでね」
縁は白い歯をこぼすように笑いながら、梶川に宣戦布告する。
「おまえを祓いに参ったの」
【芦屋啓介】
芦屋啓介は怪奇現象の巻き起こるマンションの一室で、しばらく肉を食べるのは避けようとひそやかに決意していた。げんなりした目で蓮根修二——いや、その身体を乗っ取っている梶川密の姿を見る。
縁の描いた厄払いの絵画の中、蓮根を覆う赤いテクスチャが異様な変化を遂げ、月浪縁が「とにもかくにも蓮根と接触しなければ」と言いだしたのはある意味で当然のなりゆきだった。
それから一時間も経っていない午前十一時のことだった。
芦屋と縁の二人は日本画棟に足を運んで、蓮根が来るのを待っていたのだが、待ち人が来た瞬間、縁の顔色が変わった。
「芦屋くん、尾行に変更だ。多分〝あれ〟はここからすぐに移動する」
芦屋は、有無を言わせない言葉にとまどいながらも従った。そのとき芦屋が見た蓮根は多少ぼんやりとしているようだったが特に異様な姿をしているわけではなかった。が、どうも、縁には違うものが見えていたらしい。
さっそうと蓮根の後を追おうとした縁は、思い出したようにくるりときびすを返して芦屋に尋ねた。
「ところで芦屋くんってグロ耐性ある?」
その場では「耐性が必要になるのかよ」と突っ込んだ芦屋だったが、こうしていざ、幽霊に取り憑かれた人間と対峙してみると〝グロテスクに耐えうる動じなさ〟は必要不可欠だと痛感させられた。
縁が梶川の正体を見破ってから、芦屋の五感は異様なものを捉えている。
蓮根の顔をした人間の口から、冷ややかに面白がるような声が聞こえる。
おそらくは蓮根に取り憑いている梶川の声と、蓮根自身の声が重なって二重に聞こえてくるのだが、そのたび蓮根の顔が粘土をこね回しているように歪んで、梶川と思しき女の顔に変化したり、元に戻ったりを繰り返している。
これが単純に気持ちが悪い。ずっと二の腕に鳥肌が立って戻らないのはそのせいだ。
「霊能力者が実際どうやって除霊するのか、興味あるな。お経とか唱えるの?」
「経文が効くのは生前仏教を信仰してた人だ。例えば、カトリック教徒に聖書の文句は有効でも、般若心経は効かないって言ったら想像しやすいかな?」
しかし縁は平然と幽霊と会話を試みていた。
「君はあんまり信心深いほうじゃなさそうだから読経は時間の無駄だね。やらないよ」
おまけに皮肉を交える余裕もあるらしい。
「なら、一体どうするつもり?」
「君を紐解いて払い除ける」
どういう意味なのかわからなかったらしい梶川は縁を検分するように目をすがめた。
対して、縁は微笑んで続ける。
「もう除霊は始まっている。これから君は我々に、胸のうちを全て明かして消滅する」
縁は笑みを取り払って、トートバッグからタブレット端末を取り出し、テーブルに置いた。
画面には蓮根をモデルに描いた絵が表示されている。
「私はいわゆる異能の持ち主でね。描いたモデルに降りかかる厄災を知ることができる。この赤いテクスチャが教えてくれるわけだ」
縁の指先が画面に触れる。写っているのは縄のような赤いテクスチャに縛られて、身動きの取れない蓮根修二。改めて見るとこの絵は梶川に取り憑かれて自殺に追い込まれつつある蓮根の状況とリンクしているような気がした。
梶川も芦屋と似たようなことを思ったのか首を傾げて
「なんだか予言者みたいね、月浪さん。なんとなく、巫女装束が似合いそう」
などと言う。
縁は椅子の背もたれに深く体を預け、ため息まじりに頷いた。
「まあね。しかし厄払いの絵画の本領はここからだ。この赤いテクスチャが現れた時点で災厄は半減する」
梶川がテーブルに置いていた指が痙攣するように振れた。
「つまり、どうやったって梶川密に蓮根修二は殺せない」
「嘘」
不敵に笑う梶川の唇が耳まで裂ける。
「だって本当に蓮根修二が無事に済むなら、あなたたちがここに来る意味ってないでしょう」
「嘘ではないよ。でも、蓮根くんを放置して無事に済むとも思ってない」
縁の言葉に、芦屋は思わずその横顔を注視した。
「首吊りが失敗に終わって命が助かったとしても、後遺症が残る場合もある。例えば、頭に酸素が回らなかったことで植物状態になったり、なんらかの障害が残るかもしれない」
それでも死んではいないのだから厄は半分祓ったことになるらしい。芦屋は死ななければいいってもんじゃないだろ、と口に出しかけて、堪えた。
「だからこうやって幽霊と直接対面することも厭わないわけね」
芝居がかった所作で胸に手を当てた梶川は一人だけ笑顔のまま、真顔の縁と苦い顔の芦屋を眺める。蓮根のために危険を冒す二人を明らかに面白がっていた。
「へえ……そこまでして助けたいんだ。月浪さんって蓮根修二のことが好きなの? 芦屋くんはその付き添い? 好きな人が好きな人のために命を懸ける様を目の当たりにするのってどんな気分なの?」
その時ばかりは幽霊に相対する気持ち悪さや恐怖より呆れが勝った。芦屋は思わず口を挟む。
「俺と月浪は恋愛感情で動いてるわけじゃない。あんた、かなり見当違いなこと言ってるぞ」
「そうなの?」
つまらなそうに返した梶川だ。しかし縁から反論が上がらないのも不思議である。
芦屋がチラリと窺うと冷え切った眼差しの横顔が目に入る。
『なんでもかんでも愛だの恋だのに絡めて考えやがってこの恋愛脳がよ』
と、ボブヘアの背後に力強い筆文字で書かれている気がした。結構本気で気分を害しているようである。
だが、縁はゆっくり息を吐いて平静を装い、告げる。
「……私が蓮根くんに干渉してるのは、絵を元に戻すためだよ」
赤いテクスチャをきれいに剥がすためには、モデルが受ける怪異の影響を最小限に済まさなければならない。だから〝半減〟では足りないのだ。
梶川は縁の返答に納得いかなかったらしい。
「元に戻す? それでその絵は完成品でしょう」
「は?」
剣呑な声をあげた芦屋に、梶川はやれやれと肩をすくめる。
「薄く下絵が見えてるけど、赤いテクスチャがあった方が面白い絵になってるよ。テクスチャがなくなっちゃったら、ただ写実的な、単に上手いだけの絵だよね。そんなの写真で十分じゃない」
絵画も写真もバカにしている発言に聞こえた。
芦屋はカッと頭に血が昇るのを自覚したが、当の縁が平然としているために、なんとか冷静でいようと努める。それでも膝の上で握った拳は白く震えていた。
梶川はそれ以上縁の絵については触れずに、顎に手を当てて呟く。
「でも、そうだね。命は助かっているなら二度と目が覚めない状態になっても、確かに厄を半分祓っているわけだ。そういうアプローチも、悪くないな」
「どういう意味だよ?」
不穏な言葉に芦屋が棘ついた声を出すと、梶川は朗らかに答える。
「永遠に眠り続ける〝ミューズ〟というのも、それはそれで美しいと思って!」
理解不能の恍惚を露わにする梶川に、芦屋は口をつぐんだ。
話が通じる気がしない。それもそのはずだ。梶川は、井浦影郎の遺灰を作品に隠すことをよしとする人物なのだ。
梶川の思考を紐解くことなど、本当にできるのだろうか。
疑念が首をもたげた芦屋をよそに、縁は淡々と指摘する。
「死を芸術に仕立てようとしてる割に、随分行き当たりばったりじゃないか」
縁の指摘に梶川は苛立ったようだ。動揺すると顔や身体がどろりと歪むらしく、この時は一際むごたらしく、顔の半分がマーブル模様のようになって、戻った。
「失礼な人。即興的な要素を取り入れるのは悪いことじゃないでしょう? なにせ幽霊になったのは初めてなんだから、試行錯誤するのは当然だと思うけど」
意外にも縁は梶川に同意した。
「まあ、幽霊が直接的に人を殺すのは結構難しいしね。人間の生存本能を幽霊は滅多に越えられない」
「でも、蓮根は……」
現に梶川に取り憑かれて首を括ろうとしていた。芦屋が指摘すると縁は冷えた目で梶川を——蓮根を見つめた。
「蓮根くんは今、絶望の淵にいて自殺してもいいと思っている。だから梶川に身体を明け渡してしまっているんだよね。そうでしょ?」
「結構簡単だったよ。元々弱ってたみたいだし」
サラリと認めた梶川に、縁は続けた。
「でも、蓮根くんより井浦さんの方が楽だったんじゃないか?」
蓮根の顔に梶川の顔が完全に覆い被さった。
粘つくような笑みを浮かべている。
縁は世間話をするような口調で尋ねた。
「ねえ、そもそもの疑問があるんだけど、なんで井浦さんを殺したの?」
「井浦影郎を愛していたから」
臆面もなく、梶川は言い切った。ほう、と恍惚のため息を吐いて、夢見る乙女のように手のひらを合わせて微笑む。
「井浦の創作のやり方は傲慢で素敵だった。井浦はミューズたちを食い潰して美しいものを作り、百舌が速贄をするようにミューズの残骸をこの部屋に飾った。肉食獣が弱者を蹂躙するのと同じ。強い才能は弱い才能を飲み込んで輝きを増すの」
有象無象のクリエイターたちを養分に花開く井浦影郎の才能を梶川は手放しで称賛した。それが創作のためならば推奨されるべきものだと言ってのけた。
「彼の毛並みが美しいうちに皮を剥いでしまおうと思った。一番に好きだと思った瞬間を留め置きたいと思ったから殺したの。劣化する井浦影郎を見るのは耐えられないし、ここが彼の最高到達地点だった」
芦屋はついていけずに閉口する。横にいる縁もまた辟易した様子で腕を組んでいた。
聴き手が白けているのを察したらしい梶川は不満げに首を傾げる。
「人間をメインの素材に作品を作るときって『その人の現在の魅力を永遠にしたいから』だと思ってるんだけど、理解できない? どうしたって老いて死ぬさだめの人間を、消費期限が切れる前に適切な形で残したいと思う切望ってわかるでしょ?」
「井浦影郎は老いたと言うには若すぎると思うけど」
「でも劣化し始めてた」
縁の疑問に、梶川の声が低く沈んだ。
「腐る前に処理しなきゃいけない。彼が完璧であるうちに。死は決してタブーではなく、生と同等の尊厳をもって受け止められるべきなのだから」
コンセプトらしきものを魔法の呪文のようにうっとりと述べて、梶川はテーブルの上で指を組みながら、微笑む。
「だから私は井浦の半分を作品にした。もう半分は抱えて死んだ。粉々になっても一緒に居たかった。死んでも二人を分かてないように……。そうしたら、私は幽霊になった。ああ、天命とはまさにこのこと! 幽霊になった理由も、なすべきことも理解してる! 作品を作らなくちゃ!」
黒い瞳が爛々と輝く。蓮根の顔にもはや面影はなく、そこで喋っているのは狂気に駆られた梶川密という画家のように思えた。
「だって私は作家なのだから! 死が芸術になることを一番よく知る作り手なのだから!」
興奮冷めやらぬ梶川はほう、と一つため息をこぼして、なんとか冷静さを取り繕った。
「その、栄えある第一号が蓮根修二というわけ。彼を殺したら月浪縁、あなたを作品にしてあげる」
恍惚混じりの堂々とした殺害予告に、当人を差し置いて芦屋の肝が冷える。
しかし縁は平静そのものだった。眉ひとつ動かさず、梶川を見据えたまま問い返す。
「……やはり、梶川密が井浦影郎を殺したのは彼の死を自分の芸術作品としたかったから? 蓮根修二のことも、ついでに私のことも作品にしてやろうって?」
「そう。そう言ったの」
「嘘だね」
頷いた梶川を縁はバッサリと切り捨てた。
「真っ赤な嘘だ」




