第18話 急転直下
一階にあった作品を一通り見た後は、いよいよ地下にある井浦影郎を描いた絵を見に行った。
芦屋は縁とともに狭い階段を降りていく。外の強烈な日差しとは裏腹の冷ややかなコンクリートの壁には展示のチラシやDMが雑多に貼られており、なんとなくアンダーグラウンド的な印象を受けた。照明が絞られているので物理的にも暗い。
ふと、先を行く縁が階段を降りきったあたりで足を止めた。
急に立ち止まった縁に、芦屋は「おい」と声をかけるが、縁の視線を釘付けにしているものに気づいて芦屋も目をやり、思わず息を呑んだ。
顔のない男が立っている。
柱と見紛う大きさの箱に描かれた棒立ちの男の絵が、暗闇の中スポットライトに照らされて浮かび上がっていた。
遠目から見ると首無しの裸の男が佇んでいるようで、異様だ。
「蓮根から聞いてはいたけど……」
やっぱりギョッとするよな、と続けようとして、芦屋は縁の様子がおかしいことに気がついた。露骨に顔を顰めて考え込んでいるように見える。
「月浪?」
「……いや、なんでもないよ」
首を横に振って、縁は照らされる箱に近づいていく。芦屋も後に続いた。
近づくと、絵の具の筆致が見えてくる。壁にピッタリと箱をくっつけ、正面と左右にそれぞれアングルの違う等身大の裸体が描かれていた。ざっくりと色を置いただけでも色選びが正確だと恐ろしくリアルになるのか、と感心しつつ、芦屋は一階にある絵とは随分雰囲気が違うと思った。
そのときだ。そっと縁が携えていた日傘を置いた。そのまま箱に手をかける、背面を確認するため、作品を容赦なく動かした。
「は?! おまえ一体なにやってんだ?!」
床に置かれているキャプションの横、手のアイコンに斜線の入った『お手を触れないでくださいマーク』を一切無視した行動である。
「思ったより軽いよ。雑な作りだな」
「そういう問題じゃないだろ……。ん?」
機嫌が悪そうに言う縁に呆れを隠さない芦屋だったが、壁につけていた背面の板が外れることに気がついて声を上げた。
「……月浪、この箱、軽いって言ってたよな?」
芦屋の脳裏には蓮根の語りがちらついていた。
『もしかすると先輩は本当にあの部屋にいたのかもしれない。あの等身大の箱の中に――』
まさかとは思うが、本当に死体があったらどうしよう、と考えていると縁は芦屋の懸念にピンときたようだった。例によってチェシャ猫のような笑みを浮かべる。
「重さ的には井浦さんの死体をそのまま入れてるわけじゃなさそうだよ。まあその可能性は無いよね。いくらクーラーガンガンに効かせてたって夏場だし腐るでしょ。臭いとかで分かるよ」
「もうちょっとマシな言い方あるだろが」
腐乱死体を想像してげんなりする芦屋を縁は面白がっているようだが、再び箱に目をやった時には顔から笑みが消えている。
縁が無言で板を外すと、中身はほとんどなにもない。
が、暗がりの中にうっすらとした輪郭を捉えた。
箱の中心に、十五センチほどの角の丸い箱がちょこんと置かれている。ふた付きのお重のようにも、壺のようにも見えた。
芦屋がスカスカのマトリョーシカみたいだな、と思っていると縁がスポットライトの当たる位置まで箱を引きずり出した。白い陶器でできた箱はやや歪で手作り感がある。その場にかがんで、縁が箱のふたに手をかけた。
開けると、中に入っていたのは粉らしいものだった。粉の所々に塊のようなものがあって、砕かれた石膏のようにも見える。
芦屋はその正体を悟って、息を呑んだ。
縁がおもむろに塊の一つへと手を伸ばした。咄嗟にその腕を掴んで止める。
「月浪、警察呼ぼう」
縁は無言のまま芦屋を見上げる。スポットライトに照らされた顔は血の気が引いて、白い。だが芦屋自身も似たり寄ったりの顔をしていると自覚していた。
「それは骨壷だ。……おそらくは井浦影郎の、遺灰だ」
梶川は井浦を殺害している。あらゆる状況がそう示している。
この案件は手に負えない。
人を殺して骨に変え、作品に隠すような人間と相対するのは、いかに縁が場慣れした霊能力者であったとしても、危険だ。
それでも縁は手をひく気がなさそうだった。
「芦屋くん、ここから先は私一人で対応する。大丈夫だから手を離してくれ」
「大丈夫なわけないだろ……!」
しばし無言で睨み合った芦屋と縁だが、最初に口を開いたのは縁だった。
「梶川に話を聞かないと、赤いテクスチャがちゃんと剥がれないかもしれない」
「……」
縁の優先順位の一番はやはり『赤いテクスチャを剥がして絵を元に戻すこと』らしい。芦屋は縁が梶川と相対せずに住む方法を考え、閃いた。
「今回のケースで赤いテクスチャが剥がすためには、梶川の生き霊を祓って、蓮根を危険から遠ざければいいんだよな?」
「そうだよ」
「だったら……、俺が前にもらった月浪の母さんの名刺って生霊にも効くか?」
奥菜の面を除霊した際、縁の母・月浪禊から悪霊退散の効果がある護符にもなる名刺をもらったことを芦屋は思い出していた。
なら、名刺を使って梶川の生き霊を祓えば、赤いテクスチャも剥がれるはずだ。
「え?」
縁はきょとんとした顔で芦屋の顔を見つめた。
「そりゃ、母の名刺はどんな怪異にも効くけど、結局梶川に直接名刺を突きつけない限り効果はないよ」
「俺の両親と兄は警察官だ」
芦屋は自身のスマホを取り出し、いつでも連絡ができるようにしながら言う。
「融通が効きそうなのは兄貴だから、そっちに梶川の情報を伝えて捕まえてもらう。ついでに名刺で除霊もしてもらうのは、アリじゃないか?」
「アリかナシかって言ったら……アリだな」
縁はしばらく躊躇したが、認めた。その後納得したように芦屋を見上げる。
「……ああ、だから君、剣道部だったのか」
「そうだよ」
芦屋はサラリと頷いた。
両親ともに警察官で、兄も当たり前のように同じ道に進んだ。弟もおそらく何事もなければ警察官になるだろう。その準備として剣道は芦屋家の三兄弟全員が習って当然、選んで当然の稽古事だった。今となっては懐かしい話である。
「でも、芦屋くんのお兄さんに説明するより、私が怪談した方が話は早い気もするんだけど」
芦屋が身内に頼ってまで縁を梶川から遠ざけようとするのがよほど不思議なのか、困惑を隠さない縁に、芦屋は淡々と告げる。
「俺は殺人犯と怪談やりたくない」
ついでに言うならさせたくもないのだが、お節介だと呆れられそうなので黙っておいた。
【芦屋啓介】
週明け、午前九時の東美怪奇会の部室には古ぼけたブラインド越しの朝日が差し込んでいる。
ホラー映画のポスターと幻想怪奇小説・ホラー漫画がやたらに充実した本棚に囲まれた部屋を、陽光は柔らかく照らし出していた。芦屋啓介の他に人はない。大体怪奇会のメンバーは夜行性なので、午前中は滅多に人が来ないことを知っていた。ここは密談にはもってこいの穴場なのだ。
芦屋は本棚から適当に抜き出した漫画をめくりながら、今日、月浪縁と話すべきことを整理する。
梶川密の個展に足を運び、箱——おそらく行方不明の井浦影郎の遺骨が入っている——を見つけ、芦屋が兄に連絡を取った後はパトカーがサイレンを鳴らして来る大騒ぎになった。芦屋も縁も指紋の採取などに協力する羽目になったわけである。
梶川は結局画廊に姿を見せることもなく、SNSの更新も途絶え、警察は行方を追っていた。これが金曜日の出来事だ。
縁が部室に入ってきたので芦屋は読みかけの漫画を閉じる。
一番印象に残ったのは、女の魂を蝶に変え、標本にして収集していた男が自由になった女たちに八つ裂きにされている場面だった。
「夢幻紳士か。面白いよね、それ」
縁は芦屋の読んでいた漫画に目をやりながらトートバッグをパイプ椅子に下ろす。
「芦屋くん、あのあとどうなったのか教えてくれるかな?」
TRPGやら画集やらが積まれたテーブルを挟んだ向かいに縁は座り、芦屋が話し始めるのを待った。
個展に足を運んでからの土日で、もろもろ事態が急転しているため、芦屋は何から話していいか段取りを組んでいたのだが、それでもしばし迷って、告げる。
「箱の中身はやっぱり人骨だったらしい」
縁はハッとした様子で瞬く。きっと覚悟はしていたものの、断定されると思うところがあるらしい。静かに目を伏せた。
「……そう。井浦さん、だよね?」
「状況から言ってそうだと思う。けど、わからないみたいだ」
縁は怪訝そうな声をあげた。芦屋にも気持ちはよくわかる。だが。
「兄曰く、火葬後の骨からDNAを採取するのは難しいんだと」
DNAは熱に弱く、灰になるような温度で焼かれると壊れてしまうらしい。
だから遺灰が井浦影郎であると言う証拠は、どこにもない。
けれど、状況から推察できることはあった。
「梶川の自宅に陶芸用の窯があるらしい。梶川はそれで井浦さんの遺体を服ごと焼いたんじゃないかって兄貴から聞き出した」
どうしてか作品に井浦の遺灰を入れて展示したためにことが明るみに出ているが、やろうと思えば完全犯罪もやれたかもしれない。今回は偶然見つけられただけだ。と、兄は苦虫を嚙みつぶしたような顔をしていた。
縁は芦屋の話に引っかかることがあったらしい。首を傾げて不思議そうだ。
「お兄さん、刑事でしょ。よく教えてくれたね」
「俺の性格をよくわかってるんだよ。多分、言いふらしたりしないって信用もされてるんだろうな」
一回首突っ込んだら最後まで関わらないと気がすまない奴だと、兄は芦屋を評して言う。
さすが身内だ。よくわかっている。
「じゃあ私に聞かせたらダメじゃん」
縁が軽く笑って言うので、つられて芦屋も笑った。確かに兄からの信用を芦屋はたやすく裏切っている。
少し空気が和んだ気がしたので、芦屋は息を吐いた。
「あと、言わなきゃいけないことがある。……梶川の遺体が見つかったようだ」
さすがに衝撃的だったのか縁の声がしばし途切れた。芦屋もすぐには二の句は思いつかずに沈黙する。
井浦影郎を殺した経緯を。作品の中に井浦の遺灰を隠した理由を。蓮根修二を呪ったわけを。梶川本人から聞くことはもうできない。
「自殺かな?」
「たぶん。俺もそこまでは教えてもらってないが」
そこまで聞くと突然、縁は奇妙なことを言い出した。
「芦屋くん、その様子だと、梶川の絵に遺体が使われている形跡はなかったんだね?」
「……月浪、おまえ何言ってんだ?」
芦屋は思わず聞き返す。
梶川の作品は警察によって全て押収されている。特に遺灰が隠されていた箱絵は井浦のDNAが採取できないかと念入りに調べたと兄から聞いていたが、なぜ縁がそのような発想になったのかがわからない。
芦屋の困惑を悟ったらしい縁は静かに言う。
「日本画の材料には動物由来の素材が多い。絵の具を定着させる〝膠〟の原料は牛や鹿の骨や皮なんかを使う。絵の具の一つである〝胡粉〟は貝殻の粉が原料になっている。——おそらく遺灰を絵の具に混ぜても使えるはずだ」
ゾワッ、と芦屋の背筋を寒気が走る。絶句している芦屋を差し置いて、縁は低く呟いた。
「でも梶川は井浦を材料には使ってない。遺灰を箱に入れて、箱絵の中に隠しただけ。……やっぱり、あまりにも中途半端だな」
「どういう、意味だ?」
「芦屋くんは、箱絵の『こいびと』だけ他の絵とは違うと思わなかった?」
質問を質問で返されてムッとした芦屋だが、思い返してみると縁に頷ける部分がある。
「確かに、印象が違ったな。他の絵と違って大作で木箱に描いてるし、照明も凝ってた」
「芦屋くんって割と物事をざっくり良い方に解釈するよね。甘党なの? ちなみに私はカレーは辛口派なんだけど」
「おい。ほんとにどういう意味だ。なんらかの含みがあるだろ」
「さぁね」
いつものようにチェシャ猫ばりにニヤニヤ笑う縁の顔に芦屋は深々とため息をついた。
「とりあえず、蓮根が狙われることはもうないよな。元凶の梶川が亡くなったなら、赤いテクスチャも剥がれてるんじゃないか?」
生き霊の本体の死亡という、後味も悪くスッキリしない展開だが、事態が収束したことはめでたいだろうと口にすると、縁は「そうだね」と頷いていた。
「実はまだ確認してないんだけど、一応見るだけ見て……」
タブレット端末を取り出してスルスルと操っていた縁の声が不自然に止まる。芦屋が何度か呼びかけるが返事がない。
芦屋は、嫌な胸騒ぎを覚えていた。その予感を裏付けるように、ようやく答えた縁の声は硬い。
「芦屋くん、まだ終わってないみたいだ。というか、むしろ状況は悪化してるかもしれない」
縁は芦屋にタブレットの画面を向けた。
表示されているのは東美怪奇会の集合写真だ。
以前見たのと同じ絵のはず、だった。
前に見たときは縄跡のような赤いテクスチャが蓮根の首元をぐるりと一周回っていたが、今は違う。
縄のような赤いテクスチャはいまや、蓮根の全身を縛り付けている。
縁の言うように、事態は明らかに悪化して見えた。
「梶川は、死んでも蓮根くんのことを殺したいみたいだね」
芦屋は赤いテクスチャの浮かぶ絵を睨む。
死んでなお憎しみは尽きず、梶川密は悪霊となって、蓮根修二を呪っているのだ。




