第15話 蓮根修二の怪談/井浦影郎
腹に鉛を無理やり押し込められたような気分だったが、芦屋には少々気になることがあった。
「じゃあ、最後に浮かび上がった蓮の縁取りは何を意味しているんだろうな?」
首を傾げる芦屋に、縁は何か閃いた様子で素早くタブレットに飛びついた。
何度か画面をスライドさせて、ある一枚の作品で手を止める。
東美怪奇会の集合写真の模写だ。
芦屋が井浦の写真を撮ったときに、一緒に写っていたメガネの同輩——蓮根修二の喉元に、縄跡のような赤いテクスチャが浮かんでいた。
「……これ、蓮根に厄が降りかかるってことか?」
それも、縁の絵の変化——井浦を取り巻く蓮の縁取りが浮かび上がったことを鑑みるに、井浦影郎を殺したなにかが関わった厄だ。
縁は顎に手を当てて考えるそぶりを見せた。
「そうだと思う。こういうテクスチャの現れ方をしたのは今回が初めてだけど、そう考えるとスッキリする。……井浦さんを殺した〝何か〟が、今度は蓮根くんを狙ってるってことなんだろう」
縁はパネルの上に手のひらを置き、ぐっと拳を握りしめた。
縁が事態をこのままにしておくつもりがないことは芦屋の目から見ても明らかだった。
後片付けを終えた芦屋と縁が教室を出たところで、後ろから声をかけられる。
「あれ? 月浪さんと芦屋くん?」
「蓮根」
廊下にいたのはつい先ほどまで話題の渦中にいた蓮根修二だ。恐ろしい〝偶然〟である。芦屋は思わず縁に目を向けたが、当の縁自身は霊媒体質のもたらす偶然に慣れているのかごく自然な所作で蓮根に応じた。
「やあ蓮根くん。こんばんは」
夏とはいえどすでに日が落ちて暗くなっていた。けれど、蓮根の顔色が良くないのは一目で分かった。トレードマークの丸メガネでも、目の下に浮かぶ黒々とした隈は隠せない。
「怪奇会の作業ですか? 最近僕は顔出せてないですけど、進んでます?」
「そんなとこかな」
縁は適当にごまかし「スパートがかかるのはまだ先だから、体調が良くなったらおいでよ」と続ける。蓮根は力なく頷いた。
「そうですね。最近大学に全然来れなかったので。課題の進行の目処が立ったら顔を出しますね」
「いつから具合悪いんだ? あまり無理するなよ」
気遣う芦屋に、蓮根は思わずと言ったようにこぼした。
「……先週、いや、酷くなったのは三日前からです。梶川さんの展示を見に行ってから、ちょっと」
芦屋は梶川という名前に聞き覚えがなかったが、縁は違ったらしい。目の色を変えて蓮根に問いかける。
「何かあったんだね?」
蓮根の肩が大げさなまでに跳ね上がった。モゴモゴとごまかすような言葉を口にしたが、縁はすでに獲物を見定める猫のように蓮根のことを捉えていた。
「聞かせてくれるかな、蓮根くん。人に話してみることで、気持ちの整理がつくこともあるだろ?」
蓮根は芦屋をちらりと窺う。縁に同意の意味で芦屋が頷くと、逡巡するように目を泳がせた蓮根はやがて観念したようにうなだれた。
「そこそこ長い話になりそうなので、食堂に移動しませんか? この時間なら、きっと空いていると思うので」
【蓮根修二】
私立東京美術大学・日本画学科所属二年、蓮根修二は語る。
僕が梶川さんの展示に行ったのは、先輩から彼女の話を聞いたことがあったからです。
先輩というのは、月浪さんも芦屋くんも会ったことがあると思いますけど、井浦影郎という、東美の院生でプロの画家・イラストレーターとしても活躍している人です。怪奇会の梁会長が井浦先輩の友人で、サークルのメンバーではないけれど去年はお化け屋敷に一枚模写を提供してますから、二人とも先輩の作品を見たことがあると思います。
あの上村松園の『焔』の模写は素晴らしい出来でした。生き霊となった源氏物語の六条御息所が、嫉妬に自分の髪ひとすじを噛みながら恐ろしい形相でこちらを振り返る一瞬を捉えた名作。美しさと不気味さが融合した絵を、鮮やかに再現していた。
井浦先輩は割と絵柄がコロコロ変わる人ですけど、基礎がしっかりしてるからなんでも描けるんですよね。
もともと僕は井浦先輩の商業作品が好きだったんです。でも、あの模写を見た後はもっと先輩の作品を見たいと思いました。あんな風に、かつて生きていた作家の呼吸や筆致すら自分のものにしてしまう人のことを知りたいと。
僕は絵画修復士の仕事に興味があったので、その参考にもなるかも……なんて打算的な考えで井浦先輩に近づきました。先輩はたまに怪奇会の集まりに顔を出してましたから、話しかけるチャンスには恵まれたように思います。
何度か話しかけているうちに、漫画や映画の趣味が似てることもわかって、先輩とはサークル外でも話したり食事に行ったりするようになりました。
僕が梶川さんの話を聞いたのは井浦先輩の家に遊びに行ったときでした。先輩がものすごく落ち込んでいるというか、ナーバスになっていることがあったんです。
いつもは映画を見ながらこのセットは良いとか悪いとか言い合うのにその日は全然喋らなくて。急にわざわざ焼きものの器にお菓子を開けて菓子盆みたいにして出して来たり……。
先輩はいつでもひょうひょうとした感じの人だったから珍しいやら、心配やらで、映画が終わってすぐに何があったのか尋ねてみました。そしたらなんてことはなく「彼女と別れたい」って一言。しかも続けて「これも彼女にもらって使ってる皿なんだ」「器は絵よりも苦手みたいだ。新しく買う金もないし使うけど」とか言うわけですよ。
僕は井浦先輩に彼女が居るとも知らなかったので「はあ、そうですか」みたいな、呆れて気の抜けた返事しかできませんでした。それが返って功を奏したらしく先輩も力が抜けたみたいで、フッと肩を落として言いました。
「話を聞いてくれないか」と。
「あんな悪趣味なサークルに入ってるからには怖いの平気だよね?」と、居住まいを正して言うんですよ。やけに真剣な顔だったので、なんだかただ事ではなさそうな気配は感じていました。
「自分で言っておいてなんだけど、怖い話というよりは不気味な話だと思う」 と、前置いて先輩はポツポツと語り始めました。
その、井浦先輩が別れたい彼女というのは梶川密さんといって、絵肌に血が通っているみたいな筆致の、緻密なデッサンの上手な人です。 得意な筆致だからか好きだから上手になったのかはわかりませんが、そういう絵柄を生かして人体のパーツばかりを描いて、積極的に個展を開いていたのだといいます。
人体のパーツ、というのは耳とか、手とか、肘とか、人間の体の一部分のことですね。これを正方形のパネルにとにかく細かく描く、というスタイルを彼女はとっていました。
得意とする展示の方法も変わっていたようです。だいたい絵画の展示をする時は、一枚一枚を等間隔、横一列に並べるじゃないですか。そうじゃなくて、〝モデル〟を棒立ちにさせたときの耳のある位置、手のある位置、肘のある位置に絵を置くんですって。
そうすると、絵の置かれていないはずの壁の部分に、描かれてない全体図があるような、絵を鏡と見紛うような、不思議な感覚のする展示になる。想像の余地がある方が面白いから、そういう置き方をしているのだと彼女は言っていたようです。
井浦先輩は最初、そんな彼女の作品を確かに面白いと思っていて、工夫のある展示方法だと、デッサン力の上手な使い方だと好意的に見ていたようなんですよ。気味が悪いとは全く思っていなかった。惚れた欲目なのか、美術関係者特有の、上手な人への評価が全面的に甘くなりがちな傾向が現れていたのかは知らないですが。
井浦先輩が彼女との別れを決意したのは、彼女の個展に足を運んだときのことがきっかけでした。 新宿の画廊についたそのとき、たまたま彼女は昼休憩か何かで席を外していました。なので先輩は戻ってくるのを待つついでに作品を眺めることにしたんです。
当時彼女が開いていた個展のテーマは「スマイル」。
笑う唇の絵ばかりが壁一面にズラッと並ぶ。そんな展示です。その光景に先輩はちょっと気圧されたみたいなんですけど、単体で見る作品自体の出来は良く、先輩は彼女の作品を一点一点確かめるように見ていきました。
写真撮影も大丈夫だと表示があったので、先輩は鑑賞しては写真を撮る、という一連の流れを繰り返しました。
ひとくちに唇と言っても個人差、男女差のようなものがあります。展示された彼女の作品はみんな笑っていますが、どれ一つとして同じではありません。
それを的確に描いた彼女の作品は相変わらず面白いと、最初は感心していたようです。
そばにホクロがある唇。歯をこぼすようにして笑う唇。少ししか口角の上がっていない唇。真っ白な歯を晒している唇。八重歯を見せている唇。……と見ていくうちに、先輩は八重歯を見せている唇の絵で足を止めました。
先輩自身も八重歯なのでどうも気になったらしく、じっと眺めているうちに気づいたんです。
「これ、俺だ」
いつの間にか写真を撮られて、それを彼女が模写したんだと思いました。
けど、よくよく考えるとおかしいんですよ。
先輩は八重歯がコンプレックスで、人前で歯を見せて笑うことを滅多にしない人なんです。笑うときも手のひらで顔半分を隠して笑う。メディアなどに露出して顔を出す機会があったら必ずマスクで口元を覆う。からかわれることもあったけれど常に口元に気を配っていました。先輩曰く彼女の前でも例外ではないと。
実際カメラを向けられた覚えはなかったし、何しろ気にしてるんですから、写真を撮られたら覚えているのが自然でしょう?
「じゃあ寝ているときに撮られたのか?」と考えたりもしたようなんですが、人間寝てる時に歯を見せて笑ったりはしないですよね。 無理矢理唇をこじ開けたら気づくでしょうし。
それにそういう不自然な点を差し引いても、先輩は自分をモデルに絵を描かれたことを、彼女の個展を見にいくまで知らなかった。勝手に自分を、しかもコンプレックスの八重歯を堂々と見せて笑ってる絵を描かれて不愉快な気持ちになったようなんですね。
「自分をモデルに絵を描くなら一言言えよ」と。もっともな話なんですけど。
だから先輩は画廊にやってきた彼女に挨拶もそこそこに、文句を言ってやるつもりで切り出したんです。
「……この絵、俺だよね?」と。
すると彼女は「そうだよ」と、あまりにもあっけらかんと言うんですって。
先輩は梶川さんのキョトンとした様子に絶句しました。
なんていうか、「何が悪いか全くわかりません」みたいな態度だったそうで、怒っている井浦先輩の気持ちに寄り添う気が皆無だったようなんです。
それに……肖像権のことなんて、いまどき一般常識でしょう。自分の顔や姿を無断で写したり展示することを拒否する権利が万人にあるって、作家じゃなくても知ってますよ。
なのに彼女はなんで先輩が怒っているのか想像できない。考えも及ばない。といったようなそぶりで、先輩は「仮にも人間をモデルに描くのに意識が低すぎる。デリカシーが無いし配慮に欠ける」と、ちょっと引いたみたいなんです。悪気がないのがかえって問題になることって、ありますよね。
黙ってしまった先輩に何を思ったのか、彼女は朗らかな笑顔で続けます。
「全然気にするようなことないのに。私はカゲくんの八重歯が好きだよ。好きだから描いたの」って。
先輩は「これはもう何を言っても絶対に話が通じない」と悟って、それ以上の文句は何も言わず、適当な話をした後足早に画廊を立ち去りました。
確かめたいこともあったからです。
家に帰って、早速先輩は風呂場の鏡と、スマホで撮った写真とを見比べました。 そうして見た鏡に映る自分の歯。彼女が描いた八重歯の絵の写真。ほとんど寸分狂わず、同じ八重歯が写っていたそうです。
事実を認識した瞬間、先輩はなんとも言えない、体の芯から総毛立つような不快感に襲われたのだと言っていました。
「想像と、一瞬の観察だけで描いたんだ、あれだけのものを」
語る先輩の顔には、畏怖の感情がありありと浮かんでいました。
「彼女は紛れもなく天才だと思う、けど、気味が悪かった。あんな描き方をされたし、なにより、俺が彼女のコレクションになってるみたいで嫌だった。だから別れたいと思ってるんだ」
僕は「無理もない話です」と先輩に同意しました。
他人がお付き合いしていた人にこんなことを言うのはなんですが正直、気持ちが悪いと思ったからです。
先輩が怯えさえ滲ませながら呟いた「コレクション」という言葉がやけに耳に残って、嫌な気持ちになったのを覚えています。
――この話を聞いて一週間もしないうちに、先輩は大学のどこにも顔を出さなくなりました。
借りていたマンションを訪ねてもずっと留守。
つまり、井浦先輩とは音信不通になったんです。




