第14話 血を流す絵画
【芦屋啓介】
授業が終わるや否や映像学科の教室に飛び込んできた月浪縁に、芦屋啓介は目を見張った。
教室から掃けていく学生たちに逆らいツカツカと芦屋に歩み寄ったかと思うと、縁は常の泰然自若とした微笑みをかなぐり捨て、机を挟んだ芦屋の前の座席にどさりと腰を落ち着ける。
周囲は何事かと言う目で芦屋と縁を見比べたが、目を三角にした縁の迫力に負けたのか退散し、教室はあっという間に芦屋と縁の二人になった。
縁はずいぶん機嫌が悪そうだ。というよりも、焦っているように見える。
「おい、どうした?」
「芦屋くん、井浦影郎の写真を持ってやしないか?」
挨拶もなしに飛び出したのは端的な要望である。
仏頂面のまま「ダメで元々なんだけど」と呟く縁だったが、芦屋は縁の望むものを〝たまたま〟持っていた。
「あるぞ」
「あるんだ!?」
縁は目を丸くして驚嘆している。芦屋は自身のデジタル一眼レフの履歴を辿りながら、呆れを隠さずに言った。
「聞いといてなんでそんな驚くんだよ……。こないだ東美怪奇会の飲み会あっただろ? あれの三次会に来てたぞ。なんか有名人なんだって?」
縁と芦屋の所属するお化け屋敷サークル・東美怪奇会の会長は中国からの留学生でとてつもなく顔が広く、飲み会には大学内外の有名人が来ることもある。井浦影郎について芦屋はよく知らなかったが、同席していた人間が井浦を見て歓声を上げていたのを覚えていた。
当時の会話の内容から察するに『現役美大院生』『売れっ子イラストレーター』『天才画家』など、肩書き過多の人物らしかった。
確かに井浦の立ち姿には独特なオーラがあったし、周囲と話す所作を見るに人当たりも悪くなさそうな人だった。が、深く人となりを知るほど言葉を交わす機会には恵まれなかった芦屋である。
その飲み会の一次会には縁も出席していたが、例によって二次会以降は不参加だ。ニアミスしていたのがよほど癪に触ったのか、縁は舌打ちしてクダを巻くように芦屋に絡んだ。
「なんだよあの時来てたのか。ねえ、まさか井浦さんマスク無しだったりする?」
「どうだったか……。あ、してねぇな」
芦屋の一眼レフを引き寄せ、縁はカメラに付属する小さな液晶を覗き込む。
写っているのは会長と芦屋の同輩、井浦影郎の三人だ。右から、いくら酒を飲んでも全く酔わないウワバミで実際蛇のような涼しげな顔をしている東美怪奇会会長・梁飛龍。真ん中にいる丸メガネをかけてピースサインを作っているのが縁と同じ日本画学科二年の蓮根修二。そして左端で井浦影郎がジョッキを掲げて笑っている。マスクを外した顔は爽やかで、八重歯が愛嬌を引き立てているように思えた。
「はぁ? 顔思いっきり出してるじゃん。くそ……しかも悔しいけど良い写真だな」
「そりゃどうも」
悪態と称賛を同時に放った縁を芦屋は軽く受け流した。縁はため息混じりにぼやく。
「芦屋くんって被写体の警戒心解くの上手いよね。井浦さんは筋金入りの写真嫌いで、インタビューとかメディアに露出するときはもちろん、プライベートでも絶対マスクしてたんだよ」
言われてみれば、店に来た当初の井浦は黒いマスクで顔半分を覆っていたような気もする。が、写真を撮った頃にはだいぶ盛り上がっており、マスクをしている気分ではなくなっていたのかもしれない。
「このとき会長以外ベロベロだったからな。で? 井浦さんがどうかしたのか?」
「行方不明なんだ」
縁の言葉に空気がピンと張り詰めた気がした。
縁はこわばった芦屋の顔を見て、皮肉めいた笑みを浮かべる。
「連絡が取れない。仕事や授業を突然休みがちになる。——そういう人の元では怪奇現象が起きてるっていうのが鉄板だからね。特に私の周囲ではさ」
「……病気とか、家の事情とか、が原因だったりしないのか?」
「そういうことならむしろありがたいよ。絵も変わらないで済む」
芦屋は内心ホッと胸を撫で下ろした。そうだ。縁の異能〝厄払いの絵画〟の効力がある。縁が井浦をあらかじめ描いていたなら、少なくとも生きてはいるに違いない。
「月浪が描いた人間が死ぬことはないんだろ? なら……」
縁は能天気な芦屋の言葉に気まずそうに目を伏せる。そして、まるで自分の罪を告白するように口を開いた。
「モデルの顔の半分以上が隠れていると厄払いの絵画は効果を発揮しないんだ」
芦屋は瞬いて、思い当たる。
なら、ずっとマスクをして写真を嫌っていた井浦の〝厄払いの絵画〟を、縁は描くことができなかったのではないか。
芦屋の推測を裏付けるように、縁は悔しそうに眉を顰めた。
「……私、飲み会とか、展示に行った時に偶然会って挨拶したりとかで井浦さんと喋ってる。トータルすると五、六時間にはなるだろう。接した時間が霊媒体質に影響してくるか、してくるなら許容時間はいつまでなのかは正直わからない。けど、どうも気になるんだ。大学に入って描かなかった知人は、井浦さんだけだから」
「おい、サラッとすごいこと言わなかったか?」
縁が大量の人物画を描いていることは知っていたが、描かなかった知人が井浦一人とは尋常じゃない。芦屋の驚嘆を縁は不思議そうに眺めた。
「リスクヘッジは当然のことでしょ」
芦屋は言葉に詰まった。
縁は自分の霊媒体質に他人を巻き込むことを前提にして、厄払いの絵画を描いている。
それが、どうしてか芦屋には衝撃的だった。
(そんな機械的に絵を描いていても、月浪は楽しいのだろうか)
沈黙する芦屋を不思議そうに首を傾げて見ていた縁はやがてごまかすように、いつも通りに微笑んだ。
「とにもかくにも、井浦さんを描かないことにはそれもわからない。今描こう」
事前に画用紙を水張りしていたらしいパネルを取り出し、墨や筆など着々と画材を取り出し始める縁を芦屋は止めた。
「月浪。映像科の教室で墨をするのはやめてくれ」
縁はピタリと手を止めた。笑顔のまま固まっている。この映像学科の教室は撮影機材を扱う関係で絵の具や水を使う作業、飲食が禁止されている。縁も把握しているはずなのだが、どうやら本当に焦って周りが見えなくなっているらしい。らしからぬ振る舞いだった。
「あと、この写真のデータを月浪のクラウドに送るからちょっと待て」
縁は芦屋に諸々突っ込まれて冷静になったのか、スッと画材をしまい、咳払いをしてやたらにキラキラした笑みを浮かべた。
「おっと失礼。じゃあ私は日本画科のアトリエに行くけど」
『芦屋くんは来なくても大丈夫だよ。写真の協力ありがとう』とかそういう台詞が出るより前に芦屋は口を開いた。
「写真だけ手に入ったら用済みなのか、俺は?」
恨みがましい芦屋の言葉に縁は頬を引きつらせて半眼になった。
「いや、人聞きが悪すぎるからそういうこと言うのやめようよ」
縁はため息混じりに肩を落とした。
「多分今回もろくな目に遭わないし、やっぱり芦屋くんを巻き込むことはないなと思って」
「その割にこの場で何かしようとしてたよな?」
図星を突かれて気まずそうな縁に、芦屋は言った。
「最後まで付き合うよ。乗りかかった舟だ」
【芦屋啓介】
放課後の日本画学科の空き教室に芦屋啓介と月浪縁は潜り込む。
縁は手際よく絵を描く準備を始めた。磨りガラスの窓際にイーゼルを立て、自分が座るものとは別に箱イスをいくつか拝借する。その上にタブレット端末を置いた。芦屋から送られた写真を表示させて資料に使うようだ。右手には墨や筆洗などの描画材を几帳面に並べている。
「厄払いの絵画って、画材はなんでもいいんだな」
ドッペルゲンガーの怪異を祓ったときの絵は水彩だった。奥菜玲奈を描いた際は岩絵具を使っていたと思う。猫柳亭ではサインペンを使って、芦屋が冷めた唐揚げと湿ったポテトを平らげる間にいつの間にか描きあげていた。
芦屋の指摘に縁は墨をすりながら答える。
「画材や技法はどうでもいい。ただ、私が納得できる絵だったなら、それが厄払いになる。今回は一刻を争うから、時間のかかる画材は避けたんだ」
「一発勝負ってやつか」
鉛筆も消しゴムも縁は用意していない。下書きなしに完成させるつもりなのだ。
「ほら、自分を追い込んで集中力を高めるってやつだよ。時間を短縮するなら、そこにかける集中の精度を上げとこうと思って」
縁は冗談めかして言うものの、口にする全てが本気だった。
「速描きするとはいえ画材が筆と墨だとそこそこ時間はかかるから、退席するなら今だよ。途中退席はいつでも構わない。話しかけるのもOK。だけど、私の返事は期待しないでくれ。描き始めたらそばに誰がいたとしても、私はひとりきりで画面に向かっているのだと、思い込むことにしてるから」
芦屋は頷いた。実のところ、縁がどのように厄払いの絵画を描くのかに興味がある。
芦屋が頷いたのを確認すると縁はいつも通り、にこやかに微笑む。
「じゃ、始めます」
軽いノリで宣言した縁だが、次に画面に向き直った瞬間、芦屋の存在など頭から抜け落ちていたように違いない。絵を描くために頭のスイッチを切り替えたのだろう。
縁は姿勢を正し、まず真っ白な画面に向かって一礼した。
途端に、ピンと張りつめた緊張感が教室に充満する。凄まじい集中力だった。
左手に置いたタブレットに表示される写真を見ながら、下書きもなしに恐るべき速さで、それでいて丁寧に一本一本線を引いて行く。大胆に、正確に、面を描く。
光を、影を、骨を、肉を、人の魂を表すがために。
墨による描線の抑揚、滲ませ方、いずれも縁は迷わなかった。
瞬きさえ惜しむようにしながら井浦の輪郭を捉えていく。
筆を取り替え、墨を吸わせ、水を含ませる手つきは素早く、無駄がない。
みるみるうちに穏やかに笑う井浦影郎が画面の中に姿を現した。
優しい絵だ。墨一色で描いているのに、鮮やかだった。
そのまま完成にしても良さそうに思えたが、縁は井浦の周りを蓮の葉や花で囲みだした。そうすると、花で作った額の中にいるはずの井浦が、どうしてか芦屋が飲み会で見たときよりも自由で自然体に見える。縁の描く人間はいつも、生き生きとしている。
縁は描画に没頭している最中、深く集中したまま常にうっすらと微笑んでいた。画面の中にもう一つの世界があることを疑っていないように見えた。
芦屋は、いまカメラを持っていないことが惜しくなる。縁の集中を乱したくもなかったからどうせシャッターを切ることはなかったかもしれないが、それでも、いまこの瞬間を撮りたいと思った。
芦屋の思考など全く関係ないところで、縁が筆を置いた。深く息を吐いて、満足げに微笑む。
「できた」
完成まで時間にしておよそ一時間。芦屋は縁が描き上げたと同時に緊張から解放されて深く息を吐いた。縁と共に海の底まで潜っていたような気さえする。
最初から最後まで、目が離せなかった。
「月浪、ライブドローイングか動画配信をやったらどうだ?」
かなりの再生回数は見込めるに違いない。芦屋が大真面目に提案すると、縁は気の抜けたような顔で笑ったあと「あんまり顔だしでの活動というか、表舞台に出るようなことはしたくないんだよな。SNSは見る専です」などと言っておどけて見せた。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか」
茶化すように言う縁だが、描きあげた絵を見る眼差しは描いている最中と同じように真剣だ。
変化は、すぐに訪れた。
「来た」
縁の低い声を合図に、井浦影郎の肖像を描いた白い紙が徐々に赤く染まっていく。見えない誰かが縁の描いた絵の上から赤いインクを垂らしているようにも、絵自体が血を流しているようにも見えた。赤いテクスチャはついに紙の全面を覆い隠してパネルを真っ赤に染め上げる。そして。
「え?」
芦屋は思わず声をあげた。
縁の描いた蓮の縁取りの部分が黒く浮かび上がったかと思うと、赤くぬらぬらとしたテクスチャは、井浦影郎の肖像ごと紙に染み込むようにしてなくなってしまった。縁の描いた渾身の線も、面も何もかもが消え失せ、縁が手をつける前の白紙の状態に戻った。
「なんだこれ……。いったい、どういう意味だ?」
困惑しながら芦屋が縁の反応を窺うと、険しい表情を浮かべた縁がパネルを睨んでいた。
「……『意味がない』って意味だと思う」
芦屋はその表情と言葉の意味を汲んでハッと白紙の画面を見やる。
確かにそこに描かれたはずの井浦影郎は跡形もない。
つまり、厄はすでに降りかかったあとなのだ。厄払いはできない。払う相手がいないのだから——赤いテクスチャは画面の全てを覆い、モチーフとなった人間を消し去って縁に伝える。
「井浦さんはもう死んでる」
教室の中に縁の硬い声が虚しく響いた。




