第13話 ある恋人たちの別れ
【梶川密】
梶川密にとって、恋人の部屋は現代の〝驚異の部屋〟だった。
それは博物館の先駆け。かつてヨーロッパの王侯貴族が作り上げた博物陳列室。自然も人工も、偽物も本物も区別なく、標本、剥製、宗教的遺物、奇想絵画、アンティークが分野を隔てず、非体系的に、網羅的に並べられて展示されていた特別な部屋を、井浦影郎の住まいは彷彿とさせた。
古道具店で売られているような、古めかしくも洗練されたインテリアだけが理由ではなかった。
井浦は蒐集していた。
井浦の住まう1LDKに所狭しと陳列されていたのは分野を問わない多種多様な画材と、今昔の恋人の残り香が染み付いた〝モノ〟。
梶川が贈った器や灰皿。前の彼女と夜通し見たDVD。前の前の彼女からもらった画集。前の彼氏に取り付けてもらった照明——部屋に置いてあるもの、身につけるものを何気なく褒めたり話題にすると、昔の恋人とのエピソードがつらつらと井浦の口から出てくるのだ。
悪びれもせず。恋人である梶川の反応を窺っているそぶりもなく。ただ当然のように。まるでコレクションの目録を読み上げるように。
井浦の脅威の部屋を、梶川は井浦の作品と同じように愛していた。井浦の作品の作り方と、井浦の部屋のあり方はよく似ていた。全く同じと言ってもいい。
つまり、井浦は他人の魅力を吸い取るようにして作品を作る。誰か(井浦は広義のクリエイターを好んだ)と関係を持ってはその人の持っている趣味嗜好を丸ごと取り込み、インスパイアする。ひょっとするとモチーフにした当人よりも魅力的に洗練させた形で、作品として出力する。
インスパイアした人間のことをしばしば井浦はミューズと呼んだ。ミューズは〝眼差されるもの〟であるために、彼らが元々持っていたはずの創作意欲さえも不思議と井浦に差し出してしまうのだ。残るのはいつも井浦の作品だった。
そして「彼女(あるいは彼)がいなければこの作品は完成できなかった」と、井浦はインタビューやなにげない会話の中で、それが謙遜であるかのような態度で語る。
井浦の言葉は正しい。作家にインスピレーションを与える生きた女神・男神を井浦は好きなだけ崇めて、そして大衆か、あるいは井浦自身が飽きる前に捨てる。その後、新たに作品を作るべく井浦はまた別の〝素材〟を探しては関係を持つのだ。井浦はこのルーティーンを繰り返した。
井浦は確立したルーティーンによって美しい絵を何枚も描いた。センスよく、狂いのない、大衆に広く受け入れられる、愛されて消費される絵だった。大学院に通いながら既に作家として世に名前が売れ始めてもいるのだから、ルーティーンの効果は絶大だった。
梶川は、井浦のことを許していた。井浦の作品に心底惚れていたから。
井浦が恋人である自分を差し置いて他人といかなる関係を持とうが何をしようがどうでもよかった。それは創作のために必要なことだから。
井浦が取り込んだ作家崩れのミューズの残骸が、彼の部屋にうずたかく集積されるのを眺めることのできる一番の鑑賞者は自分であるという自負があったから。
なにより、梶川自身は井浦のミューズであったとしても、自らの創作意欲を井浦に渡すつもりはなかったからだ。むしろ、梶川は貪欲に井浦から学ぼうとした。
井浦は主にデフォルメの効いた漫画やアニメの影響を感じさせる絵を描いたが、梶川は細密に人間を描き表すことにこだわった。画風が全く異なる二人だ。だから梶川が井浦の創作法を真似ていることに気づいている人間は誰もいなかったと思う。井浦ですら気づいていなかった。
梶川は自分が井浦の〝収集品〟の一つだと自覚し認めている。しかしその立場に甘んじることなく、井浦から刺激を受けて作品を作る。梶川の渾身の作品を見て井浦も画板に向かい創作に没頭する。梶川と井浦の関係は完成された永久機関だ。切磋琢磨してどこまでも創作に向き合っていける心地よい関係なのだと、梶川は信じていた。
けれど。
「申し訳ない。別れてくれないか」
テーブルの天板すれすれに、この部屋の主人である井浦の柔らかく茶色い髪が揺れているのを梶川は見下ろしていた。
何を言っているのかわからなかった。なんとか言葉の意味を咀嚼して理解したが、それでも何を理由に別れを切り出されているのか、全く心当たりがない。
「全部俺が悪い。わがままを言っているのはわかってる。密にしたことも、本当に、最悪だったと思うし、こんなこと今更言うのは卑怯だって自覚もある。でも……これはけじめなんだ」
「けじめ」
言葉を反芻してみても、やはり腑に落ちない。井浦はひどく申し訳なさそうな態度なのだが。
「そもそも、私はカゲくんにひどいことをされた覚えはないんだけど」
「……」
井浦はどうしてか、つらそうに眉間にシワを寄せている。かわいそうに思って梶川はどうにか理由を探してみる。強いて言うなら、と思い当たる節を口にした。
「もしかして色んな人と関係を持ってたことを言ってる? 別になんとも思ってないよ。創作のためなんだから仕方ないでしょう、それは」
「ごめん」
井浦は苦痛に喘ぐようにしてまた頭を下げた。
気にしていないことを勝手に気に病んで、謝られても、こちらにどうしろと言うのだろうか。——梶川は井浦の殊勝な態度にかえって苛立ちを覚える。
「だから、謝ることじゃないって。そんなことを気にする人はわざわざカゲくんと付き合わないから」
「そんなことなんかじゃないって、気づいたんだ」
「え?」
井浦は顔を上げ、真剣な眼差しで梶川を射抜く。
「誰かを傷つけて消費するようなやり方でしかものを作れない人間は、そこまでの才能がないんだって、気づいた」
強烈な自己否定にも聞こえる言葉を、井浦はいとも簡単に口にした。それなのに梶川を見る目は晴れやかで、肩の荷が下りたようにも見える。
「俺には才能がない。それを自覚して、丁寧にものを作らないといけないんだ」
井浦は築いたルーティーンを破壊しようとしているのだと、ようやく梶川にも理解できた。驚き目を見張った梶川に、井浦はもう一度頭を下げる。
「密が今までの俺を許してくれてたこともわかってる。だけど俺は変わりたい。……別れてください。お願いします」
梶川は再び頭を下げた井浦のつむじから目を逸らして、部屋を見回し、気がついた。
井浦の〝驚異の部屋〟が様変わりしている。
陳列されていたコレクションが段ボール箱に押し込められている。代わりにナチュラルでプレーンで人の好き嫌いを刺激しない、上質なインテリアが並んでいた。観葉植物。時計。食器。オブジェすらどれも新品で、誰かの個性や思い出の残り香が感じられない。
——脱臭されている。
梶川の目尻から涙が滴り落ちた。別れを告げられたことの実感が湧いてきたわけではない。梶川の愛した驚異の部屋が失われていくのが悲しいわけでもない。
井浦の性質の欠点を今更理解したのだ。
井浦は、また誰かに影響されている。
その結果、新陳代謝を試みているだけだ。つまるところ、井浦には〝自分〟というものがない。中身も個性も存在しない。だから簡単に挿げ替えられる。今まで築いたものを、簡単に捨てられるのだ。
梶川は頭を下げ続ける井浦に、呟く。
「つっまんない男」




