The Cage of Dreams 14
ミルフィーユに呼び止められたリコリスは肩で息をしながら、今は完全に立ち止まっている。
しかしミルフィーユの方へ顔は向けず、彼女はミルフィーユに背を向けたまま、両手で肩を抱きしめていた。
手をかけたリコリスの肩から、細かな震えが伝わってくる。「どうしたんだ?」と問い掛けようとしたミルフィーユは、しかし直ぐにその問い掛けよりも彼女に伝えるべき言葉を思い出す。
ミルフィーユは神妙な面持ちで、リコリスから手を離した。
何よりも先に、自分は彼女に謝らなくてはいけない。
「あの、リコリス……」
それを思い出したミルフィーユは、今だ自分に背を向けて俯くリコリスに、「ごめん!」と言って頭を下げた。
「あの、なんかここ最近リコリスに避けられていて、そのことで色々悩んだんだ……」
「……」
「リコリスが急に俺を避けるようになった理由、ずっと考えたけどはっきりと『これだ』って思い当たる節がなくて……それでも、知らず君に対して不快な思いをさせていたのかもと思って、だからとりあえず謝りたいと思ったんだ」
やはり自分は口下手だ。
リコリスに伝えたい言葉をずっと考えていたつもりだったが、いざとなると言葉は上手く纏まらない。それでもミルフィーユは、申し訳なさそうに頭を掻きながら、なんとか言いたいことを言葉にする。
「……だから、ごめん」
「……」
伝えたい言葉は、本当はただ一つ。
『ごめん』という一言、それだけ。
それだけはしっかり伝えようと、ミルフィーユはリコリスの背中にその一言を告げた。
そして訪れる、静寂と沈黙。
「……あ、の、リコリス……」
もうどこかへ走って逃げる様子はないが、代わりに全くの無反応なリコリスに、気まずくなったミルフィーユが声をかける。
それでも全く反応しないリコリスに、もう一度「リコリス?」と声をかけながら、不思議に思ったミルフィーユは彼女の正面へと回り込んだ。
「リ、……っ!?」
リコリスの顔を覗き込んだ瞬間、ミルフィーユは驚愕と焦りの表情を浮かべて硬直する。
「え、ええっ!?」
そして、直後にあわてふためきだすミルフィーユ。
彼の瞳に映ったものは、茫然とした表情で真っすぐに正面を見つめるリコリスの姿。しかし彼女の紅い瞳、漠然とどこか遠くを見つめるそれからは、透明な雫がいくつも零れて無音で頬を濡らしていた。
「へ、な、なんで泣いている……リコリス!?」
「……」
いつも無表情で、ほとんど表情の変化を見せないリコリス。しかし今の彼女は、確かに涙を流している。ただ声は出せないからか、一切の泣き声はない。
彼女は前方の空虚な闇を見つめたまま、流れる涙を拭うなどはせずに、泣きながらその場に立ち尽くしていた。
「……リコリス」
初めて見るリコリスの涙に動揺しつつ、ミルフィーユは心配そうに眉根を寄せて彼女と向き合う。「どうしたんだ?」と首を捻るも、やはりリコリスは焦点の合わない瞳を前方に向けて、透明な涙を流すだけだった。
「ど、どうしたんだよ一体……」
もしかして、自分が原因で泣かせたのかもしれない……困り果てたミルフィーユの脳裏に、そんな恐ろしく不吉な考えが過ぎる。
(いや、もしかしたら本当にそうかもしれない……でなきゃ今、突然泣き出す筈もないし……)
最悪の事態を思い込んだミルフィーユの顔に、急激に重度の焦りが浮かんでくる。
「あ、リコリス! ほ、本当にごめんっ!」
事に焦ったミルフィーユは、青ざめた顔色で半分取り乱しながら、リコリスの肩を強く掴んで謝罪を叫ぶ。するとミルフィーユに肩を掴まれた瞬間、リコリスはビクッと体を震わせる。その時、今まで現実を見ていなかった彼女の瞳に明確な意思が宿った。
「っ!?」
「あの、その……だなぁ……」
涙に濡れる瞳が、困惑しきった表情のミルフィーユを捉える。
「えっと……な、泣くほど嫌な事、俺がしていたのなら、本当にごめんとしか言えないんだが……」
ポロポロと溢れる涙は止まることを知らず、リコリスは涙を流し続けたまま、弱々しく謝罪を述べるミルフィーユを見つめた。
「あー……」
一向に泣き止む気配をみせないリコリスに、こんな状況に対する対応など知らないミルフィーユは、本気で困り果てたように深くうなだれる。
しばらくの間リコリスはそんなミルフィーユの様子を見つめていたが、やがて彼女は突然力が抜けたように、地面に両膝をつきながらしゃがみ込んでしまった。
「え、ちょ、今度はなんだ?!」
その場にしゃがみ込んでしまったリコリスに、ミルフィーユはまたも焦った表情で彼女を見遣り、彼もまたその場に膝をつく。そして俯くリコリスに「どうしたんだ、本当に」と、心配そうに声をかけて顔を覗き込んだ。
「……」
リコリスは止まらない涙をやっと両手で拭い始め、ミルフィーユの問いに対しては首を横に振る。
「え? ……どういう、意味だ?」
彼女の"否定"の意味が理解出来なかったミルフィーユは首を傾げる。しかしリコリスはしきりに首を横に振って、それ以外の反応は見せようとしない。
「リコリス……」
困惑の声音で彼女の名を呼びながら、ミルフィーユは震える華奢な肩に手をかけようとする。するとその瞬間、涙を零し俯いたままのリコリスが、ミルフィーユの体に勢いよく抱き着いた。
「なっ!」
「っ……」
先程から予想外の事態が続き、激しく混乱するミルフィーユだったが、これには今回一番驚かせられる。彼は裏返った声をあげ、両目を大きく見開いた。
一方リコリスは強くミルフィーユの体を抱きしめ、彼の胸に深く顔を埋めて、声無く静かに泣き続ける。
「……」
しばらくは頭の整理が追い付かず、ただ成すがままで座り込んでいたミルフィーユだったが、やがて彼は遠慮がちな手つきでリコリスの背中に手をまわす。
彼はまるで繊細な硝子細工を扱うように、慣れない様子ながら優しくリコリスを抱きしめた。
抱きしめた掌から伝わる冷たい体温と、そして小刻みに震える振動。
「その……よくわからないが、好きなだけ泣いていいから……」
こういう時、かけるべき言葉を彼は知らない。
けれど、こういう時かけられるべき言葉を、彼女も知らない。
「……」
リコリスはミルフィーユの胸に顔を埋めたまま、静かに涙を流し続けた。




