RESET 49
逆手に握り持ったのは白銀の刃の切っ先が、垂直にマヤの心臓を狙う。ミルフィーユの紫電の瞳の中に今は彼の意思は無く、光の無い空虚な瞳には穏やかに眠るマヤだけが映っていた。
『殺せ!』
剣を下ろす。その一瞬に、彼は何も感じなかった。そしてマヤを封じる氷の柩に白銀の刃が吸い込まれるように突き立ち、魔道具の青い光を反射させて鋭く輝く神殺しの刃は、そのまま女神を狙う。
『frozENsworDkilL...』
「っ……!」
衝撃。
それは自分を貫いたとミルフィーユが気付いた時、彼の手から白銀の刃が抜け落ちた。いや、剣はマヤの眠る氷の柩に突き刺さったままで、その凶器は彼女の心臓を貫く前に停止していた。剣から手を離したのはミルフィーユ自身の方で、彼は急に力の入らなくなった自身の体に疑問を思うより先に、自分を蝕む強烈な痛みに気付き、それから直ぐに全てを察した。
腰から右の腹部を貫く凍った痛みに小さく呻きながら、ミルフィーユはゆっくりと背後を振り返る。視界に映った艶めく漆黒の髪は、部屋を支配する幻想の青の中でも美しくその色の強さを主張していた。もう一つ、強烈な生を主張する紅の色も。
「リ……コ、リス?」
呟き、同時にミルフィーユの膝が力を失って、彼はその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込む。
再び意思を宿したミルフィーユの瞳がその中に映したのは、右手にまるで一振りの刃の如く鋭利で大きな氷の塊を握りしめたリコリスの姿だった。
「……」
彼女は冷たい凶器の塊を握りしめ、無表情にミルフィーユを見下ろす。ミルフィーユを背後から刺した凶器からは、彼の鮮血が滴っていた。
「あっ……っ……」
何か言葉を発しようとして、しかしミルフィーユの唇から零れたのは不明瞭な声と鮮血だった。
見つめ合った紅と紫、良く似たその二つの色は、視線という直線で繋がる。だけど二つの色には、まるで違う感情がそれぞれに宿っていた。
「……あなたと出会った時から、こうなる予感はしていたの……」
じわりじわりと広がっていく血の海に膝をつくミルフィーユを感情無い眼差しで見下ろし、リコリスはこの場の空気よりもなお冷たい凍った声で呟きを漏らした。
「勿論ただの興味もあった。あなたはどうしてマスターを知っているのかとか、どうして彼女を探しているのかとか。でもあなたの存在に不吉な予感も感じていたの」
自分の力で体を支える事が困難となり、ミルフィーユは背後の柩に背中を預ける。荒く浅い呼吸を何度も何度も繰り返し、ミルフィーユは薄れそうな意識の中で彼女の言葉を聞いた。
「だから私はあなたについて行くことを決めた。……あなたを監視する為に」
「……そう、だった……のか……」
荒い呼吸と共にそう呟きを漏らすと、その一瞬無表情に熱の無い眼差しを向けていたリコリスの表情が、ほんの僅か苦痛を受けたかのように歪む。しかし命がとめどなく流れ出るミルフィーユの意識は朦朧とし、彼女のほんの僅かなその変化に気づける余裕は彼にはなかった。
「でも……確かに初めのあなたに対する興味なんてそれだけだったけど……」
俯いたリコリスは、血に濡れた冷たい凶器を両手で抱え持ちながら、今まで抑揚無く呟いていた声を微かに感情で震わせる。そうして彼女は悲しい想いを、散り行く者へと告げた。
「だけど、あなたを好きと言ったあの気持ちは嘘では無い……いつの間にか私の中に、あなたに対する好意の感情が生まれていたの……」
「……」
最初からこの想いは、何処にも繋がることは無かったのだ。
例えミルフィーユがその想いに応えようと、彼が"ミルフィーユ"で、そして彼女が神に使えし天使である事実が二人に交わる事を許さないのだから。
今この瞬間にそのことに気付いたリコリスは、だから今自分の胸はまたこんなにも苦しいのだろうと、張り裂けそうに痛む自身の胸を強く押さえながら思った。それでも。
「愛を知らなかった私に愛する気持ちを教えてくれてありがとう、ミルフィーユ。……私はあなたに出会って愛の美しさと尊さ、それに比例する痛みを知ることが出来た」
愛敗れる事の辛い痛みを自分に知らせたくなくて、主は意図的に自分から"人を愛する"という感情を無くした。
確かにこの痛みは知らない方が楽だろう。




