pain 02
バウンドウルフは狼に似た獣系の魔物だ。その発達した後脚の脚力で獲物を素早く追尾し、そして鋭い爪と巨大な牙で獲物を狩る凶悪な魔獣。
そんなものに朝っぱらから遭遇してしまったのは、運が悪かったとしか言えないが、それでも狩られるわけにはいかない。些か無謀な行動でもあったが、丸腰のリコリスは無表情のまま素早く踵を返して、茂る木々の中へと駆け出した。逃げることが今の彼女に出来る、唯一で最善の策だからだ。
『……ゥゥァアアォォンッ!』
リコリスが駆け出すと同時に、バウンドウルフも行動を開始する。
轟くような唸り声をあげ、バウンドウルフはその筋肉に覆われた後脚で大地を蹴る。唸り声をあげながらバウンドウルフは高く跳躍し、見つけた獲物を逃すまいと大きく口を開けて彼女へと急速に迫った。
「っ!?」
不気味な唸り声と殺気をすぐ背後に感じ、リコリスは咄嗟に右側方へと倒れ込む。
耳元で風を切る音がし、そしてガチンッ! という固い音が響く。
見ると彼女が1秒前まで存在していた空間を、バウンドウルフがその強靭な顎と牙でかみ砕いていた。
最初の一撃はただ空を噛み切って終わったバウンドウルフは、一旦動きを止める。金の瞳が鋭く、すぐ側のリコリスの姿を確認した。
リコリスはうっすらと冷や汗を額に浮かばせつつ、しゃがみ込んだ姿勢のままゆっくりと後ずさる。
視線を交わし合ったままで、どちらも見つめた瞳を逸らすことはない。
徐々に距離を置く彼女の姿をじっと見つめ、なにかタイミングを計るかのようにバウンドウルフもまた、ゆったりとした足どりでリコリスへと迫った。
まるで、この狩りを楽しむかのように。
「……っ」
ギラギラと狂喜に輝く金の瞳が、なんの前触れもなくスッ……と糸のように細められる。
一瞬の間だけゆったりとしていた空気が再度張り詰め、リコリスはゴクリと唾を飲み込んだ。
落ち着いた様子ながら、空気の変化を感じとった彼女の瞳もまた射るようなものとなる。
『ゥゥゥウ……』
バウンドウルフとの距離はほんの2m弱しかない。
この距離ではどんな駿足で逃げようと、バウンドウルフの一飛びで瞬時に狩られてしまう。
そして鋭い爪で一刺し、あとは巨大な牙に喰われて肉塊になるだけ。
絶体絶命の状況の中、彼女の脳は冷静に絶望的な計算を導き出した。
「……」
今にも狂喜に身を踊らせそうな魔獣の唸り声を耳にしながら、リコリスは何か覚悟を決めたかのように小さく息を吐き出す。
彼女の唇が僅かに、弧に歪んだ気がした。
『……ゥウグルァァアアッ!』
狂喜が極限に達したバウンドウルフが、強く大地を蹴る。
剛速で迫る黒の魔獣を、リコリスはただ静かに正面から真っ直ぐに見据えた。
白い巨大な牙が、右肩を狙って迫る。
固まる彼女の頬にほんの僅か、生暖かい吐息が触れた。
「――どけっ! リコリスッ!」
リコリスの右肩が強靭な顎と牙に噛み契られる直前、鋭い叫び声と同時に彼女の視界が大きく揺れた。
「っ……!」
『グルルァァアアアッ!』
なにかに背後から思い切り突き飛ばされ、リコリスは大きく側方へと倒れ込む。
受け身をとる暇もなく大地に叩き付けられて、彼女は小さく咳込む。しかし直ぐ近くで咆哮をあげるバウンドウルフの気配に、痛む体を無視して起き上がった。
一体なにが起きたのかと、リコリスが目を見開く。
『ヴァアアアアアッ!』
「ぐっ……」
そこには右腕をバウンドウルフに噛み付かれ、険しい表情で魔獣と睨み合うミルフィーユの姿があった。
「……」
ミルフィーユのおそらく利き腕であろう右腕は、バウンドウルフのあの巨大な牙が深々と食い込み、傷口から大地へと赤い血が滴っている。
その苦痛に脂汗を額に滲ませつつ、彼は冷静に左手で腰の鞘から剣を抜いた。
そのまま剣を逆手に持ち、腕を喰いちぎろうと全力で噛み付くバウンドウルフの頭上高くに、その切っ先を向けて剣を掲げた。
そして渾身の力を込めて、ミルフィーユは剣を垂直に落下させる。
瞬時にバウンドウルフが迫る刃に気付くも、ミルフィーユが掲げた刃を振り下ろすほうが刹那早かった。
『ググァァアアアアアッ!』
分厚い毛に覆われた脳天を、迷い無く一刺しに貫く。
大きく開いた魔獣の口腔内から、悪夢のような絶叫が吐き出された。




