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作者: chat noir

   001


 ラプラスの悪魔。

 もしも、ある瞬間における全物質の位置と運動量を完全に把握し、かつ解析できる能力を持つ存在があるとするならば、その存在は今後起こり得る宇宙の全運動を知ることができる。

 一八一二年、ピエール=シモン・ラプラスが自著『確率の解析的理論』において提唱した超越的存在のことである。現在の状態を完全に指定すればそれ以降の状態は一義的に決定する、という因果律に基づいて仮想されたこの概念は、この世に存在する全物質の運動を算出できるがゆえに、未来に起こり得る全現象をも「見る」ことができると言う。しかしラプラスの死後、二十世紀初頭に勃興した量子力学によってこの概念は完全に否定された。コペンハーゲン解釈。不確定性理論。自由意志。

 僕自身、ラプラスの悪魔について知った時には、そこはかとない違和感を感じた。全ての事象に、あるいは結果に、原因があるとはどうしても思えないのだ。とはいえ、結果だけが一人歩きしていると言いたい訳じゃあない。物事を生じさせる方法にはもう一つ、「理由」がある。原因と理由の微妙な違いを理解してくれる人がいるかどうかは定かではないが、少なくとも僕はこの二つを使い分けている。まぁここであーだこーだ議論したって、ラプラスの悪魔は僕の数億倍賢い人たちによって否定されているわけだから、生産性はまるでない。

 だからこれは、あくまでも雑談に過ぎない。雑談というか、現実逃避。

 ラプラスの悪魔なんて存在しない。存在し得ない。はず、なんだけど。




 「君がそのラプラスの悪魔だって?」

 「その通りなんだよっ!」

 「………………」

 「僕ちゃんには未来も全てお見通しなのだっ!」

 「………………」

 「……あの、何か反応してくれないと寂しかったり」

 「………………」

 「コミュニケーションしようよ!ほら笑って!スマーイルッ!」

 「………………」

 「泣くよ!僕ちゃん泣いちゃうよ!いいの!」

 「……とりあえず、そのけったいな口調をやめてくれ。思考が停まる」

 「あれれ?おかしいな。初対面の人にはとりあえずハイテンションでってガーちゃん言ってたんだけどな?」

 ガーちゃんなる人は寡聞にして知らないのだが、おそらく酔狂な性格の持ち主なのだろう。見ず知らずの人物の悪口を言うのは良くないが、これだけ嫌な思いをさせられたのだ、愚痴の一つや二つは溢したくなる。

 「んー、まあいいや。それにしてもムーちゃん、ラプラスの悪魔のこと、ちゃんと知ってるんだね!理系だね!かっくいーっ!」

 勝手にニックネームをつけられていた。まあ、その名称はあながち真実を外していない。

 「理系ではないけれど、そういうのには割と興味あるんだよ」

 「じゃあ厨二病だねっ!」

 「………………」

 「わーっ、まってまってまって!ごめんなさい!ごめんなさいするからドアは閉めないでっ!」

 因みにここは僕の家の玄関である。二階建てアパートの一階、一〇三号室。もう一つ因みに、現在時刻は午前一時三十分。十月中旬ともなると、残暑とかいうねちっこい奴も流石に空気を読んで引っ込んでくれるので、今はむしろ肌寒いくらいだ。三十分ほど前にバイトが終わり、疲れ切って早々と寝床についたところにこのハイテンションガールである。何の罰ゲームなのだ。

 「とりあえずさ、中に入れてよ!僕ちゃんもう八時間も歩きっぱなしで、お腹ペコペコなんだ!」

 「コンビニならこの道を真っ直ぐ行って右に曲がってタクシー捕まえて五万キロメートルほど行ったところにありますよ」

 「なるほど!それなら二分で着くね!ありがとうムーちゃん!んじゃまたどこかで!………じゃなくって!僕ちゃんはムーちゃんに用があるの!できるだけ遠いところに追いやろうとしないで!」

 おお、ノリ突っ込みだ。素でやる人初めて見た。

 「絶滅危惧種だよなぁ」

 「?何のこと?」

 そりゃ分かるわけないよな。

 「んむむ、ここまで拒むとは思ってなかったですよ。こうなったら……、実力行使、だぁっ!」

 とりゃー!という威勢の良い掛け声の元、繰り出されたボディーアタックによって分かったことは、僕のなけなしの包容力だけだった。一回りも二回りも小さい女の子の体当たりでは、僕という牙城は崩せなかったようだ。そこそこの威力のエルボーが鳩尾にヒットしているが、全く気にならない。ぐはぁ。

 「うぅぅ、無念……」

 今にも泣き出しそうである。二十歳そこそこのくたびれた男性と、目を潤ませた見た目十五歳の可愛らしい女の子の二人組という構図。状況としては最悪だ。

 「……はぁ。わーったよ、中入れてやるから、泣くのだけは勘弁してくれ」

 「そうだよね、さすがにこんな時間に来られたら誰でも警戒するよね……って、いいのっ?」

 がばぁっ!っと僕を見上げ、驚きの表情。せっかく常識(と僕の尊厳)を思い出しかけていたのに、いらんことをしてしまった。

 だけど不覚にも、僕は思ってしまったのだ。似ている、と。

 「えへへ。ムーちゃん、ありがとっ!」

 そう言って満面の笑みを浮かべる彼女を見て、僕は。

 僕は、重ね合わせてしまった。

 「……名前は?」

 「うん?何だって?」

 「お前の名前だよ。まだ聞いてない」

 「そうだっけ?僕ちゃんの名前はねー」

 砺波音雨だよ、と彼女は言った。知らない名前だった。




   002


 あなたは何のために生きているの?

 特に理由はない、か。

 まあそうだろうね。

 自分の生存価値を日々考えている人なんていない。それが当たり前だよ。

 誰も彼もが、ただ漫然と暮らしている。

 こんな説教じみたことを話している私だって、私の価値を分かっている訳じゃないしね。

 私一人がこの世界に及ぼす影響なんて、学校のプールに一滴の熱湯を落としたようなものだよ。

 一瞬で周りの水に冷やされて、無かったことになる。

 私だけじゃなくて、人間はみんなそう。

 でも、だからこそ。

 あなたには、生きている意味を理解しておいて欲しい。

 死ぬために生きている、なんて言わないでよ。今言おうとしてたでしょ?ダメだかんね。

 生きているという結果に原因はなくとも、理由はあるべきじゃないかな。

 生きることは目的じゃない。何かを成し遂げるための手段だから。

 さて。

 そろそろ起きる時間だよ、ムーちゃん。

 浮気はしないよーに。




 ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピバシッ。

 目覚まし時計の機械的な音で目が覚めた。この音ではどう考えても爽やかな朝は迎えられないよなぁ、と毎朝思うけれど、その日の夜にはもう忘れている。僕の中での優先順位が低いのだろう。朝が爽やかであろうとなかろうと、その日が憂鬱であることには変わりないのだし。

 今日は夢も見なかった。

 上半身を起こして伸びをし、立ち上がろうとしたところで、何やら人の気配を感じた。はて、誰だろう。六畳一間の学生用賃貸でまさか複数人で暮らしている訳でもないし、さては泥棒か、いやでもこんな時間にこの殺風景な部屋を狙うなんて盗人としてセンスなさすぎて逆に人目見てみたいと思ったところで。

 僕の布団ですやすやと眠る麗らかな少女を発見した。

 「………………」

 あー、思い出してきた。昨日、ていうかほんの数時間前のことを。記憶力の悪さにはそれなりに自信があるけれど、それにしたって忘れるの早くないか。不快な体験だったから僕の脳みそが排除したという線は無きにしも非ずだけれど、その一点だけでは説明できな、くもないな、うん。てかそれしかねぇ。

 昨夜、あれから。

 ほとんど選択の余地無しという形で彼女を招き入れ、「おおー、ここがムーちゃんのお家かー。個性のかけらもないねっ!」という的確すぎる評価を頂戴したのち、ご飯を作らされた。シェフ兼給仕係が義務化されているのには疑問を抱かずにはいられなかったが、一人っ子兼両親共働きだった僕は必然的に料理する機会が多かったので、技術的には問題なかった。明日作って食べようと思っていたカレーを五皿分平らげたのち、音雨は僕の布団で寝てしまった。なんの説明もせずに。

 それにしても、砺波音雨、か。

 トナミネウ。

 New Tonami

 I am Newton.

 日本語表記にしてもアルファベット表記にしても、中々イカしたセンスをしている。本人がこの言葉遊びに気付いているかは定かではないけれど、彼女の名付け親はさぞかし聡明なお方だったのだろう。僕には関係ないけれど。

 ふと時計を見ると、八時を回ろうとしていた。気持ち急がないと一限に遅れてしまう。論理学はチャイムと同時に出席を取るタイプの授業なので、少しでも遅れたら欠席扱いなのだ。不満の声も度々上がっているが、時間通りに来ればいいだけの話なのだから別に不公平ではないと個人的には思う。

 それはともかく、この幸せそうに寝息を立てているガールをこのままにしておくわけにはいくまい。とりあえず起きてもらわないと。肩でも揺すってね。

 ふっ。

 彼女の耳元に、目覚まし時計をセットした。ほぼゼロ距離で。せえの。

 ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ

 「うにゃああああああああああぁぁぁ!!!!」

 彼女は飛び起きた。作戦成功。ほんのちょっぴりのやり返せた感と、朝っぱらから僕は何をやっているんだろうという呆れ。懐かしいなんて、思っていない。

 「何っ?何事っ?ふぁっ?へっ?あなた誰ですの!?」

 お前も忘れてんのかよ。

 「あっ……、あー、あぅ」

 徐々に記憶が戻ってきたようで、「おはようなんだよ」と言った。

 「おはよう」

 「ううぅ、酷い!酷すぎるですよ!さてはムーちゃん、悪魔ですねっ!」

 「悪魔はお前の方だろう」

 「あっ、そうだった」

 目を擦って欠伸をして、再び布団に倒れ込んだ。二度寝する気か。

 うっすらと埃をかぶった教科書を、そのまま鞄に突っ込む。

 「おい、寝るな。外出る準備しろ」

 「むにゃ……出かけるの?」

 「大学だよ」

 「僕ちゃんは?」

 「知らないけど、とりあえず外に出といてくれ」

 「なんでっ?ここにいちゃダメなのっ?」

 「信用ならない」

 「…………」

 「信用ならない」

 「何で二回言ったのっ!」

 「いや、伝わってないかなーって」

 あと、そういう反応が見たかったから。

 「伝わってるよっ!これ以上ないくらいにっ!ムーちゃんの外道!鬼!」

 ここまでの流れでお前を信用できる人の方が少ないだろう。『可愛いは正義』は僕には通用しない。

 世間では通用するけどね。

 「そういうことだから、どっかそこら辺散歩でもしておけ。てか家帰れよ」

 「いつ帰ってくるの?」

 「今日は五限もあるから、十八時だな」

 「遅っ!」

 「いや、久しぶりに実家にでも帰るか。泊まりがけで」

 「あからさまに僕ちゃんから逃げてるっ!」

 「んじゃま、シーユーレータークロコダイル」

 「それを言うならアリゲーターだよっ!あっ、じゃなくて、おいてかないでよっ!」

 楽しい。ちゃんとツッコミをくれる子がいると人生が華やかになる気がする。

 「そうだ!僕ちゃんもムーちゃんと一緒に大学に行けばいいんだ!」

 「はい?」

 「一度行ってみたいなって思ってたし、ちょうどいいねっ」

 まてまて、僕にとって最悪の展開だぞ。

 「……大学の敷地内に入るには学生証が必要なんだよ」

 「入るだけならいらないでしょ?」

 精一杯の抵抗も軽くいなされてしまった。変人扱いされるぞ、という言い訳も思いついたが、そもそも大学ってのは変人の集まりなので、むしろ馴染んでしまいそうだ。一応制服も着ていることだし。

 砺波音雨、セーラー服。

 二十年間生きてきたけれど、セーラー服の実物を見たのは初めてだった。それもあって部屋に入れてしまったというのもある。

 冗談ですよー。

 「じゃあついてきてもいいけど、邪魔だけはするなよ」

 僕の特技、諦める。

 「うんっ!」

 音雨は嬉しそうに頷いた。

 心臓が大きく跳ねた。何故だか。




   003


 出逢って間もない頃、君は自然淘汰について話してくれたね。

 ほぼ初対面の人にそんな話を振るのは君ぐらいだろうね。やめといたほうがいいよ(笑)。

 それはともかく。

 自然淘汰、あるいは自然選択。

 生命の進化を語るときに必ず引き合いに出される考え方だね。

 ダーウィンと、あとはウォレスだったっけ?

 同種の生物でも遺伝情報は個体によって違い、その違いは親から子に受け継がれる。そして、生存と繁殖に有利な遺伝子が後世に残り、不利な個体は淘汰されていく。

 数カ所の塩基配列の違いで、究極的にはたった一つの塩基の違いで、生き残れる者と死にゆくものがいる。もちろんこれは人間にも当てはまる、と。

 それを聞いて私は、悲しいですねと言った。

 だってそうでしょ?

 その人がどんなに願っても、どんなに努力をしても、変えられない未来がある。そしてその事実に気付くことはないなんて。

 けれど君は首を振って。

 弱者をだらだらと生かしておくほうが残酷だよ。

 そう答えた。

 その時の私は納得してしまったけれど、今なら言い返せる。

 弱さは克服できるってね。

 そしてそれが、君が本当に言いたかったことなんだって。

 やっと分かったんだ。

 だから。

 君もそろそろ、起きたらどう?




 三限。経営学。

 「事業の目的は顧客の創造である」とはかの有名なドラッカー先生の言葉であるけれど、この名言はお金儲けを正当化するために用いられている側面があると思う。この世に存在する数多の企業の目的は、顧客の創造を手段として企業の利益を上げることであろう。各会社のホームページに掲載されている企業理念の何と空虚なことか。

 まぁ、偉人の考えはどう料理したって凡人には伝わらないということで、どうやら僕は授業中に寝てしまっていたらしい。これは割と珍しいことだ。僕は授業は真面目に受けるタイプなのだ、こう見えて。

 授業はもう終わりかけのようで、帰る準備をしている学生もちらほらいる。田島先生(視細胞に光が届いてないんじゃないかと思うほど眼がちいさい)は今日のまとめをしていた。眠りに落ちる前の記憶は授業開始まで遡るので、どうやら一時間半まるまる寝ていたようだ。ますます珍しい。そんなに寝不足だったっけな?

 あぁ、寝不足だったのか。そりゃあ見ず知らずの女の子と同じ部屋で寝て落ち着くわけないわな。

 因みにその寝不足の元凶である女の子は、隣でひたすらポータブルゲーム機のようなものを操作していた。形状はゲームボーイに似ているが、ディスプレイは八百万画素の液晶モニター。ボタンは一つもなく、どうやら指圧によって操作できるらしい。よく分からないが。彼女が楽しいのかどうかも含めて。

 「おい、行くぞ」

 「ん?うん」

 頷きつつも手を休めようとはせず、デバイスの至るところを押し続けている。と思ったら、今度は指を鳴らし始めた。画面は刻々と移り変わっていく。

 「ずっと無視を決め込んでたけどさ、それ何なの」

 「パソコンだよ」

 「どこがだよ」

 「インプットのところを改造してあるんだよ。普通はマウスとキーボードだけれど、光や音、圧力で入力できるんだねっ。僕ちゃんが作ったわけじゃないからよく分かんないけど、いろんなセンサーを内蔵してるんだって!」

 「ふぅん、便利なのか?」

 「不便だねっ」

 「不便なのかよ」

 「うんっ。でもガーちゃんがくれたやつだから使ってるの」

 「そのガーちゃんとやらが作ったのか」

 「その通り!」

 「叫ぶな。でも何のために」

 「作るのが楽しいってさ」

 なるほど、作ることそれ自体が目的なのか。何となくガーちゃんに対して親近感が湧いた。

 「ムーちゃんもムーちゃんで、相当古い携帯使ってるよねっ。それこそ不便じゃないのっ?」

 「ん?何言ってるんだよ。これ買ったの今年の四月だぜ?」

 「えっ?何でわざわざその機種なのっ?」

 「何でって言われても。これが良かったからとしか」

 「ふぃーん、まぁいいや。それにしてもムーちゃん、ずっと寝てたねっ。授業はちゃんと聞かないとダメだよっ」

 どの口が言ってるんだと。本当にどの口が言ってるんだと。

 「別にいいんだよ。どうせタメになる話なんてしてないんだから」

 「じゃあ何で授業出てるの?」

 「それは大学生には絶対に訊いてはならない質問だ」

 「何で?」

 「誰も答えられないからさ」

 厳密には、答えられるけれどそれが真意ではないから。本気で授業から何かを学ぼうとしている学生なんているのか?

 いたらごめんなさい。

 「とにかくもう帰るから。さっさと立て」

 「帰るって、どこに?」

 「家」

 「えっ?授業は?」

 「今終わったじゃん」

 「そうじゃなくって、四限は?」

 「今日は三限までしかない」

 「五限まであるって言ってたじゃん!」

 「嘘」

 「なんやとっ!」

 テンポ良いなぁ。こいつが隣にいるだけで、生活の質が二段階くらい上がる気がする。

 クオリティ・オブ・ライフ。

 でも、こんなしょーもない嘘を吐かれただけで涙目になるのはやめていただきたい。

 「うっ、うぐっ、ぐすん」

 ガチ泣きしてやがる。

 「家着いたら、色々訊くからな」

 「えっぐ……、何を?」

 「卵、何で僕に会いに来たのか」

 卵?、と首を傾げる音雨を残して、講義室の出口に向かった。音雨は慌ててゲームボーイもどきを仕舞い、トタトタと後をついてきた。




   004


 好きな食べ物は?

 と聞かれて、何の躊躇いもなくスッと答えられる人ってすごいと思う。

 別に食べ物である必要はなくて、音楽でも、小説でも、教科でも、異性のタイプとかでも構わないのだけれど、自分の好みを正確に理解しつつ、問いに対して即座にレスポンスできる能力を持っているだけで、その人は十分幸せだよね。

 ちなみに私は、私自身が何を好いているのかさっぱり分からない。

 例えば、音楽フォルダに入ってる曲。確かに私の目に留まり、試聴して、私が私の意思で買った曲だけれど。プレイリストとか作って、その時の気分で聴き分けるんだ、なんて友達に言ったりしていたけれど。

 ふとその曲たちを眺めていると、なんでこれ買ったんだろうって思う時があるんだよ。

 その曲そのものを批判しているわけではなくて、自分がこれを好きになった理由が分からなくなると言いますか。

 その曲に出逢ってから購入に至るまでの、私の心のプロセスを思い出せないと言いますか。

 『好き』に理由を求める方が間違っているのかもしれないけれど、原因が無いのに結果だけ存在するという状態が、私には耐えられない。

 なんで私はこんなにもドキドキしている?なんで私はこんなにも昂っている?なんで、なんで。

 そんな考えを持っている私だから、君に放った「好きな食べ物は?」という問いは、実は意地悪のつもりだったんだよ。

 何となく私と似た空気を感じたから、返答に詰まるだろうなって。

 案の定、君は少し思案して。

 困ったような笑みを浮かべて。

 よく分からないなぁ、と言った。

 だけど、私の予想に反して、君はさらに続けた。

 「嫌いな食べ物なら沢山あるよ。貝類、エビ、カニ、海藻、豆類、フルーツ全般、栗、バタークリーム、煮込み切れてない白菜、サンマ、その動物の形状がまるまま残ってるやつ、ウニ、アボカド、梅、口の中の水分を根こそぎ奪うビスケット系のお菓子、万人受けしない方のチーズ、甘くないさつまいも、おせちに入ってそうな料理全般、他にも探せばもっとあるはず。それ以外は、全部好きかな」

 多分君は冗談半分のつもりで言ったのだと思うけれど、私はその時、衝撃を受けてたんだ。

 嫌いなもの以外は好き、なんて乱暴な言葉は、少なくとも私の口からは出てこない。正直、雑な人だなと思ったものだよ。

 ちゃんと後々気づいたからね?君が雑でも乱暴でもなくて、ただただ優しい人間だということに。

 自分の好きなものなんて、知らなくたっていい。好きな何かがある。嫌いな何かがある。その事実さえ有れば、人は自分らしくあれるんだって、言いたかったんだよね。

 深読みしすぎかな?

 でも、君がいつも読んでる小説に、こんな一文があった。

 嫌いなものがあるっていうのは、好きなものがあるのと同じくらい大切なことじゃない。

 このフレーズを口にした女の子は、それはそれは乱暴なキャラクターではあるけれど、友達想いな子だなと私は感じた。

 君もそうなのかな。

 ならば、その優しさを、いま君の目の前にいる女の子にも向けて欲しい。生きた時間は違えど、根本は同じはずだから。




 「世界を救って欲しいんだよ」

 音雨が放ったそのセリフがあまりにも現実離れし過ぎていて、一瞬意識が飛んでいた。

 そんなことあるのか?

 活字だからって好き勝手に描写して良いなんて思うなよ。後々身動きが取れなくなるぞ。いやマジで。

 六畳一間。

 帰り道の途中にあるスーパーを目ざとく見つけた音雨は、その細腕からは想像もつかないほどの力で僕を引き摺り回し、買い物カゴ四つを瞬く間に満杯にした。半分以上がチョコレートだ。いやそれは盛った。実際は三分の二がチョコレートだ。何年分よこれ。

 「一週間分くらい?」

 訊いたらそう返ってきた。訊かなければよかった。

 音雨の異常な食生活と、最低でも一週間は僕の家に居座ることが確定しているという事実に恐怖を覚えつつ、生活に必要なものをとって(五つ目のカゴだ)、レジへ向かった。店員さんの驚きの表情を見れたことが唯一の慰めである。後ろに溜まってくる主婦の方々をチラ見しながら、徐々に焦りの表情に変わっていく店員さんに感謝の意を表し、足早にスーパーを後にした。荷物は全部僕が持った。

 そんなわけで、いま目の前には山と積まれた板チョコタワーが聳え立っている。明治、ロッテ、森永、その他見たことのないパッケージのものが、甘さ順に整頓されてある。ちなみに音雨は、明治のミルクチョコレート二枚でロッテのガーナチョコレート(ホワイト)を挟んだミルフィーユ板チョコを食している。訳が分からない。本当に分からない。

 「世界を、救う?」

 雑談が長くなってしまったが、時系列はあの爆弾発言に戻っている。

 「そう!世界を救って欲し……」

 「二回も言わなくていい。ちょっと待て、どういうことだ?」

 「どういうことって言われても、言葉のまんまなんだけどなっ」

 「………………」

 一話の無口キャラが復活した。じゃなくて、待て待て待て、冷静になれ。

 昨今の女子高生は無駄に真実を誇張して伝えるじゃないか。軽々しく神とか天才とかいう言葉を乱用しているじゃないか。その風潮に乗っかっているだけに違いない。そもそも、音雨が本気で言っているとも決まってない。出逢ってまだ一日も経ってない人間を信用する方がおかしいだろう。

 「……それはどういう冗談だ?」

 「冗談じゃないよ!大真面目っ!」

 しかし音雨はあくまでも本気のようだ。

 「マジで地球がピンチなんだよっ。危険度MAX!」

 それは嘘っぽいな。ミルフィーユチョコの奇怪さも相まって。

 「もう少し詳しく話してくれ。そしてもう少し声のトーンを落としてくれ」

 「分かったんだよっ!」

 テンションは下げてくれなかった。能力的に不可能なのかもしれない。

 「えーっとねぇ……」




   005


 「夢」には主に二種類の意味がある。

 睡眠中に見る幻覚と。

 将来の目標。

 どちらにしても、現実には存在していない架空の概念であり、妄想でしかない。

 宝籤が当たる夢を見るのも、小学校の卒業文集でプロ野球選手になりたいと書くのも、本質的には同じことだ。

 言葉は嘘を吐くし、嘘しか吐かない。

 小学校レベルの国語を学べば、誰だってプロ野球選手を目指せるのだ。好きな選手の名前もフルネームで書けるし、「努力」とか「継続」みたいな語彙も身についていることだろう。

 だが、実際に努力している人は1%にも満たない。

 殆どの人間にとって、この二つの夢は全く同列の意味しか持たない。つまり、意味がない。

 二十四時間眠り続けているのと何ら変わらないのだ。

 但し、ある一定の人間にとっては。

 現在と未来を繋ぐ楔になる。

 どちらの夢にしても、人生を変異させるスパイスになる可能性を秘めてくるのだ。

 では、その一定の人間とは誰のことか。

 それ即ち、行動力を持つ人間である。

 夢見たものを可視化させることのできる人間である。

 妄想の産物を笑うことなく、じっくりと吟味し、具現化に向けて努力すれば、世界は僕らの味方をしてくれる。

 それが、夢を叶えるということだ。

 今のお前には、行動力が欠如している。分かりきっているとは思うけれど。

 現状を打破するためには、何かしらの動きを見せなければ。

 何をすればいいのかは自分で考えろ。頭は良いだろう?

 それでは、第五話。

 アクション。




 テンションを下げるというコマンドが存在すらしていないと思われる音雨の説明は、はっきり言って全く要領を得なかった。デフォルトで語尾に「っ!」がついているせいで、シリアスな話も面白くなってしまう。すぐに話脱線するし。胡蝶の夢なんてどうでもいいんだよ。人間が蝶になる夢なんて見るもんか。

 ともかく、音雨の語りは活字にするにはあまりに破茶滅茶なので、僕がある程度翻訳(?)してお伝えしようと思う。そうでなくても内容自体が意味不明なのだが。

 「初対面の時にも言ったけれど、僕ちゃんには未来が見えるんだよ」

 語り始めからしてファンタジー。

 「見えるというか、分かっちゃうというか。その辺りの表現は難しいんだけれど

 「だから、明日ムーちゃんが寝坊することも、当然知ってる」

 アラームを二重にかけておこう。いやいや、何信じてんだ、僕。

 「そうは言っても、これから世界中で起こる全ての出来事を把握しているってわけじゃないんだ

 「三十年後にロンドンの喫茶店で殺人事件が発生するかどうかは、今の僕ちゃんには分からない

 「僕ちゃんが見ることができるのは、僕ちゃんが知りたいと思った出来事だけなんだよ。僕ちゃんが能動的に観察しようと考えることで、その事柄の成り行きが明らかになる」

 僕ちゃん、という一人称もいい加減ウザいので、ここからは「私」に変換する。

 「私自身、この能力の詳細を完全に把握しているわけではないから、確かなことは言えないのだけれど、どうやら私が目で見た人間の、これから周りに起こる事象が見えるらしい

 「人間が中心なんだね

 「人生が見える、と言い換えてもいい

 「その人がこれから先何に遭遇し、何を成し遂げ、如何にしてエンディングを迎えるのか。何を思い、何を感じ、どんな行動を起こすのか

 「ある人間の、あらゆる時間軸におけるすべてが、手に取るようにわかるんだ」

 ここまでの話を信じないことには、ストーリーが一歩も進まないので、読者の皆さんもどうにか鵜呑みにしてほしい。理論もへったくれもあったもんじゃないが、どこでもドアよりはまだ現実味があるのではなかろうか。

 「さて、そんなある日。私はある一人の女の子に出会った」

 音雨の唯一の見せ場でこうも頻繁に茶々を入れるのはどうかと思うが、これだけは最後に言わせて欲しい。話が本題に入るまで、ざっと四十分はかかっていることを。二分で済ませろよ。

 「ここから遠く離れた、福岡県のとある町に住んでいる女の子

 「名前は、何だっけな?私は誰に対してもニックネームをつける癖があるから、その子のこともひーちゃんと呼んでいた

 「だからここでは、ひーちゃんで通すよ

 「ひーちゃんは、その町にある公立高校の三年生だった。だったというか、多分今もそう。私の二つ上

 「趣味はギターとスポーツ観戦。特にサッカーが好きなんだって。小学生の頃には地元のサッカークラブに所属していたらしい。今はもう辞めちゃったみたいだけど

 「ここまでのプロフィールだけ見ると、活発で朗らかな女子高校生のように感じるだろうけれど、実際は驚くぐらい大人しい子なんだ

 「小柄で内気で、自分からは話しかけられないタイプ

 「友達と呼べる人もほとんどいなかった

 「と、知ったようなことを口にしている私だけど、ひーちゃんとなにかしらの接点があるわけじゃあない

 「会話したこともないし、目があったこともない。向こうが私を認知しているとも思えない

 「今話したひーちゃんのプロフィールは、私がひーちゃんを『見て』、知ったことに過ぎない。だから、過去に関しては若干の齟齬があるかもね。ある結果を得る方法は一つじゃないから

 「バス停

 「田舎の、二時間に一本しかバスが来ないような、そんな寂れたバス停のベンチに、自分よりも一回り大きいギターを背負って腰掛けていた。違和感バリバリ

 「だって、その日は普通の平日で、時刻は午前十一時。長期休みってわけでもない

 「そんな印象的な遭遇だったから、私の興味がその子に向いたんだろうね

 「ひーちゃんの未来が、見えてしまった」

 ここでプツンと、話が途切れた。音雨を見た。悲しいような、寂しいような、複雑な表情。少なくとも、今まで一度も見せたことのない顔だった。その子の未来に、一体何があったのか。

 「彼女の未来を変えることができるのは、ムーちゃんだけなんだ。

 「だからね、ムーちゃん」

 目に涙を浮かべて、音雨は懇願するように言った。

 ひーちゃんを、救ってあげて。




   006


 家族ってなんだろう。

 仲間?友達?恋人?ライバル?パートナー?

 どれもしっくり来ないよね。

 家族は家族であり、家族でしかない。

 父親がいて、母親がいる。兄弟姉妹がいる。祖父母がいて、ペットも飼っているかもしれない。

 構成要員は様々であるけれど、何となくそれっぽい人々の集合体を、私達は家族と呼んでいる。

 まともな思考回路を持っている人ならば、中学生くらいの頃に、こんなことを思ったはずだ。

 なぜ僕は、私は、この人たちのもとに生まれてきたんだろうと。

 もっと優しくて、もっと気前が良くて、友達に自慢できるような、そんな親像に憧れたはずだ。

 基本的に人間は欠陥だらけで、関係が親密になればなるほどそれが浮き彫りになってくる。

 物事の考え方は違うし、好みも違う。

 目玉焼きに何をかけるか、みたいな些細なことさえ、同じ生活空間にいるはずなのに異なってくる。

 だからこそ、夫婦喧嘩や兄弟喧嘩は発生する。その激しさは日々更新され続けて、口をきかなくなったり、暴力に訴え始めることもしばしば。

 にもかかわらず、家族は離れ離れにはならない。趣味も生活パターンも違うのに、なぜか同じ家に住み、同じ空気を吸う。同じテレビ番組を見て笑ったり、晩ご飯は家族全員が揃ってから食べたりする。

 それが家族。

 自分の意志だけでは決して切ることのできない糸が、幾重にも張り巡らされ、複雑に縺れ合っている。

 それが家族。

 私は。

 羨ましかった。

 同じ空間で、同じ事柄に対して、同じ感情を抱くこと。

 喧嘩をしても、いつの間にか仲直りしたことになっていること。

 一つのテーブルに、同じメニューの食事がいくつも用意されていること。

 羨ましかった。

 憧れだった。

 兄弟喧嘩さえも愛おしかった。

 だから、妬んだ。

 この世界を。

 家族とかいう生命体が、何食わぬ顔して闊歩しているこの世界を。

 壊してしまいたかったんだ。




 ひーちゃんを救ってあげて。

 その一言を発したその瞬間、音雨は電池が切れたかのように倒れ込み、そのまま眠ってしまった。食べかけのミルフィーユチョコが手を離れ、唾液と共に布団を侵食した。どうすんだよこれ。

 ていうか、こんなタイミングで寝られても、重要な情報を一つも聞かされていない。ひーちゃんとやらに何が起きるのか、何で僕しか救えないのか。そして、なぜその女の子を救うことが、世界を救うことにつながるのか。まぁ、あのテンションで一時間も喋り続ければ、疲れるのは当然だよな。読者の皆さんにその様子をお伝えできないのが残念だけれど。アニメ化したら見れるかもしれない。

 とはいえ。

 とはいえ、だ。

 音雨が最後に見せたあの表情は、僕にとっては驚くべきものだった。言ってもまだ一日しか時間を共にしていないけれど、それでも彼女があんな顔をする子ではないことくらいは分かる。別人なんじゃないかと疑うレベルの変容ぶりで、面食らってしまったというのが正直なところだ。それとも、あれが音雨の本来の姿なのか?

 いずれにしても、音雨にとって深刻な状況であるということは伝わってきたので、彼女の夢物語を否定しようとは思えなくなっていた。真摯な対応を心がけなければ。「真摯」なんて単語が僕のボキャブラリーに含まれていたとは。

 チラリと時計を確認すると、午後五時を少し過ぎた辺り。日も落ちてきて、カーテンの隙間からオレンジ色の光線が伸びていた。

 宙を舞う埃を暫く眺めていると、音雨の生活用品を揃えなければならないことに気がついた。ずっと同じ服というわけにはいかないし、歯ブラシやら何やら必要だろう。まさか一週間チョコレートだけで生き延びようとしているわけでもあるまい。

 鞄から財布とスマホだけ取り出して、部屋を後にした。幾つかある鍵の中から一つを選んで鍵を掛ける。女子高生を自分の部屋に閉じ込めているような感覚で、若干テンションが上がr、後ろめたい気持ちになった。まぁ、内側から普通に開けれるので、閉じ込めたことにはならないのだけれど。

 チョコの棚だけ空洞になったあのスーパーに舞い戻るのは気が引けるが、近所にスーパーは一軒しかないので選択肢がないのである。車もバイクも自転車も持ってないので、徒歩移動。数多ある交通手段の中で、僕に一番似合っている気がする。車を乗り回している自分なんて想像つかない。そうでなくても、歩いて十分で着く場所にわざわざ車で行く意味もないだろう。

 と、スーパーへの道を辿り始めたところで、携帯に着信があった。メールでもLINEでもなく、携帯番号に直接である。そもそも交友関係の狭い僕だから、電話は愚か、LINEでさえ三日に一回しか立ち上げないのに、一体誰からだろうか。番号を見てもピンと来ない。一瞬躊躇ったのち、通話ボタンを押した。

 「はい」

 「もしもし、嘉神だが」

 凛とした、若い女性の声。おそらく年上。

 「砺波君、どうして研究室に来なかったんだい?今日は重要なサンプル実験を行うから絶対来るようにと言ったじゃないか」

 「はい?」

 「君の遅刻癖というか、時間にルーズなところは今まで大目に見てきたが、流石に八時間も待たされると私も多少機嫌を損ねるというものだ」

 「はぁ……」

 「確かに今回の実験は君の意志には沿わないものかもしれない。弱者を食い物にして利益を得ることを良しとしない君の人生哲学は称賛に値するものだが、何回も諭してきたように、発展には犠牲がつきものだ。今までに何億匹のラットが検証実験で殺されてきたと思う?」

 「いや、あの」

 「悪い事は言わない、今日が無理なら明日でも良い。君が今抱えているサンプルを持って、研究室まで来てくれ。分かりづらいかもしれないが、私はこう見えても忙しい身でね」

 「あの、どちら様でしょうか」

 「………………」

 通話口の向こうで、微かに眉を潜めたような気配がした。一瞬の静寂。

 「君は、砺波君ではないのかね?」

 「違いますけれど」

 「ふむ」

 間違い電話か。これはかなり恥ずかしい思いをしているだろうな。気の利いたことを言うべきなのか、何も言わずそっと通話を切るべきか。年上の女性って対応に困るよな。

 「今の君に伝えたところで意味はないと思うが」

 僕が次の行動を選択出来ずにいると、彼女の方から話し始めた。どう切り抜けるつもりなのだろうか。少しワクワク。

 「君がやったこと、これからすることが、本当に彼の為になるのか、もう一度深く考えて欲しい。それがたとえ君の望んだ結末を迎えたとしても、彼女にとってはただの苦痛にしかならないかもしれない。君がそこまで背負う必要はないんだよ」

 「………………」

 何を言っているんだ、この人は。

 「私も迂闊だった。君という人間の性格を理解しておきながら、私のプロジェクトに君を組み込んでしまった。やはり君を彼に合わせたのは失敗だったよ」

 何を、言って、いるんだ。

 「あぁ、気にしないでくれ。これはただの憂さ晴らしというか、八つ当たりに近い。君には『ほとんど』関係ないから」

 では、良い週末を、という言葉を最後に、電話が切られた。

 「………………」

 呆然。

 何だったんだ今の。

 向こうから一方的に捲し立てられるという経験は、僕の性格上したことがなかったので、なかなかに新鮮だった。初対面ですらない相手に、しかも自分が間違えて電話したのに、あそこまでベラベラと話し続けられるような強靭なメンタルを手に入れたいものだ、なんて思ったりした。サンプル実験?何だそりゃ。

 まぁ、僕には全く関係のない話のことをつらつら考える道理もない。各務さん(それとも加賀美さん?)とやらにとっては重要な事柄なのかもしれないが、僕が彼女にしてやれる事は一つもない。ある訳がなかろう。

 そうこうしているうちに、スーパーの入り口に辿り着いた。さっき来た時よりかは客も少なく、レジで後ろの人を待たせる事もなさそうだ。そもそも買う物量が桁違いだし。

 そそくさと衣料品売り場に移動し、高校生ぐらいの女の子が来てそうな服を何着か選んだ。最悪、警察に捕まるんじゃないかと購入を躊躇ったが、背に腹は変えられない。湧き出てくる羞恥心を極力無視してレジで精算を済ませ、スーパーを後にした。補足しておくが、下着は流石に買っていない。色んな意味でアウトだからな。

 さて。

 帰りの道すがら、これからのことを考える。音雨についても、僕がやるべき事も、まだ不透明なままである。聞かなければならない事は山ほどあるし、音雨一人から全ての情報を聞き出せるとも思えない。他のソースが欲しいところだ。

 僕って、こんなにアクティブな人間だったか?

 家に着いた。鍵を開けようとポケットに手を伸ばしたところで、内側から鍵が開く音がした。驚いたのも束の間、ドアが開いて、音雨が飛び出してきた。もう起きたのか。

 目が合う。驚きと、焦りと、困惑の表情。そして一言。

 「あなたは、誰、ですか?」




   007


 人格を決定する要因として、ジュディス・リッチ・ハリスは遺伝的影響とともに「ピアグループ」の影響を指摘した。両親にどう育てられたかは重要ではなく、級友や遊び仲間の振る舞いを真似て、そのコミュニティに適した人格に変化すると主張している。

 一九九八年に出版された『The Nurture Assumption: Why Children Turn Out the Way They Do, Revised and Updated』(邦訳『子育ての大誤解』は二〇〇〇年出版)は、肯定否定問わず様々な評価を受けた。

 心理学史における転換点になり得る。

 彼女の理論は偏見に満ちている。

 ただ、そんな傍観者からの評価は今はどうでもいい。

 僕がここでフォーカスしたいのは、なぜハリスは人格形成と親による教育に関する研究を始めたか、である。

 従来の教育学を引っ張り出してくるまでもなく、子供の人格に親の振る舞いや接し方が影響しているだろうと普通の人間なら考えるだろう。

 直感で。

 そういった固定観念がある限り、人格形成と家庭環境の関係を否定しようとは思わないはずだ。

 しかし、ハリスはこの二つの繋がりに疑問を持った。

 疑いをかけただけでなく、積極的にデータを収集し、理論を構築し、得られた発見を自ら世に放ったのである。

 研究者、学者として、誤解されていた事柄を糺した点は称賛に値する。ピアグループという新たな切り口を提案した事も。

 だが。

 子供の人格形成に親や家庭環境は関係がない。この事実が果たして誰の為になるのだろうか。

 誰が幸せになるのだろうか。

 親と子どもを結びつける糸を、たとえそれが嘘偽りの糸であったとしても、わざわざ切り刻む必要があったのだろうか。

 ハリス本人はこんなこと重々承知だろう。それでも彼女が『子育ての大誤解』を執筆した理由は、この理論が彼女にとって都合の良いものだったからだと僕は考える。

 ハリスが幼少期にどのような教育を受けたのか、僕は知らない。しかし、人格形成と家庭環境の関連性を否定したいという思惑が浮かぶ人格に育ったのは確かである。

 ハリスの理論とハリスの人格を見比べた時、どうしたって矛盾点がちらつくのだ。

 あなたはどう考える?

 子供の性格は親とは全く関係ない?

 ここでいう「あなた」とは、僕本人のことであり、君のことであり、読者のことでもある。

 前振りが徐々に長文化しているきらいがあるので、ここらで僕の雑談を終わらせようと思う。良い加減このシステムも無理があるし。

 それでも最後に一言。

 雑談は時として、物語の伏線となる。




 音井陽奈。

 十七歳。高校三年生。

 福岡県朝倉市出身。

 現在は福岡市内の高校に通う為、一人暮らし。

 身長百五十五センチ。体重、スリーサイズなどは割愛。

 趣味はギターとスポーツ観戦。小学生の頃はサッカー部に所属。

 性格は大人しいの一言。話しかけられたら話すタイプ。自分から話しかけることはない。ギターとはよくお喋りする。

 一人暮らしを始めてから、実家には一度も帰っていない。両親とも連絡をとっていない。高校入学以前から会話なんてほとんどなかったけれど。

 高三の夏に差し掛かろうかというこの時期になっても、高校卒業後の進路について何も決まっていない。大学受験をするか、就職するか。相談できる相手もいない。

 ここ数ヶ月、記憶が断続的に途絶えている。

 作った覚えのない料理や、買った覚えのないゲーム機のようなものが、一人暮らししている部屋から度々見つかる。

 七月二日、つまり今日、人生で初めて学校をサボった。

 ついさっきまで、バス停のベンチで二時間に一本しかないバスを待っていた、はず。

 これが、混乱の最中にいる彼女から聞き出した、彼女のプロフィールである。ここでいう「彼女」とは、昨夜未明に僕の部屋に押しかけ、カレーをたらふく食べたのちに僕の布団で眠りこけた女の子のことであり、僕がそこそこ真面目に授業を聴いている隣で奇妙な機械を弄っていた女の子のことであり、スーパーで冗談みたいな量のチョコレートを僕に買わせてこれまた冗談みたいな方法で食していた女の子のことであり、奇想天外な話を奇抜な口調と場違いなテンションで捲し立てた女の子のことであり。

 僕が今の今まで、『砺波音雨』として観測していた女の子のことである。

 「あの、すみません」

 音雨、じゃない、陽奈ちゃんが、話を聞き終えて黙りこくってしまった僕に話しかけてきた。

 「ああ、ごめん。何?」

 「ええと、私からもいくつか質問して良いですか?」

 「もちろん」

 「んと、まず、ここはどこなんでしょう」

 「滋賀県」

 「滋賀県、ですか」

 「そう。滋賀県草津市。温泉の草津じゃないよ」

 「はぁ、なるほど」

 「そんなの間違える人いないでしょって思うだろうけど、他ならぬ僕自身、この家に住み始めるまで勘違いしてた。温泉探して無駄に近所を歩き回ったもんだ。因みにこの辺りには銭湯すらなかったんだけどね」

 「そうですか」

 会話が全く弾まない。ツッコミ役の有り難みを再確認した。

 「えと、じゃあ次の質問なんですけど、今日は何月何日なのでしょうか」

 「十月十八日」

 「十月………」

 陽奈ちゃんのプロフィールを振り返ってみる。「高三の夏に差し掛かろうかというこの時期」というフレーズは、僕にとっては違和感でしかない。当然だ、夏なんてもうとっくに通り越して、秋も本番になりつつあるのだから。けれど陽奈ちゃんは、今を初夏だと認識していた。

 「ふむ」

 ここまであからさまな描写が至る所に散りばめられているとなると、気付かぬフリというのも無理がある。僕は恋愛漫画で複数の女子から好意を持たれているのに全く気付かない男子高校生ではない。ぶっちゃけ現実ではまずあり得ないだろうし、状況は正反対と言って差し支えがないほどにシリアスだ。

 解離性同一性障害。

 或いは二重人格。

 文字通り、一人の人間に二つの人格が存在している状態のことである。

 虐待やいじめなどの心的外傷から自らの心を防衛するために、限界を超えた苦痛や感情を切り離し、その時の記憶を消去することが人間にはできる。しかしこれが慢性化すると、切り離した記憶や感情が成長し、それ自身が一つの人格として振る舞うようになる。

 わざわざ説明せずとも、二重人格は様々なメディアで掘り尽くされたテーマだから、知らない人はまずいないだろう。小説にしろドラマにしろドキュメンタリーにしろ、取り上げたらキリがない。物語を作りやすいからな。ヒロインの暗い過去、主人公の葛藤、一種の超人的能力。ストーリー性抜群である。その上、叙述トリックもぶっ込み放題ときている。要するに何でもありだ。

 薄々伝わっていると思うが、僕は二重人格の存在には否定的な人間である。どれだけ心的外傷を被ったとしても、切り離した記憶や感情が成長するとは思えない。そもそも記憶の成長って何なのだ。

 けれど、こうして実際に二重人格っぽい人間と話してみると、その存在を認めざるを得ないところがある。他ならぬ僕自身が、彼女の二つの人格の証人となってしまったわけだし。

 「私は」

 陽奈ちゃんはもう、自分の身に何が起きているのか勘付いているだろう。おそらく僕に話してくれた出来事は氷山の一角にしか過ぎなくて、半年近く奇妙な現象が頻発していたものと思われる。

 「私は、これからどうすればいいのでしょうか」

 もう困惑の表情ではない。懇願するような、すがりつくような目だ。音雨が最後に見せたような。

 怖かっただろう。

 訳が分からなくて、泣きたくて、助けを求めたくて、だけど誰も寄り添ってはくれない。親も、教師も、友達も、彼女にとって甘える対象ではない。

 だからこそ。

 「砺波音雨」は、生まれたのかもしれない。

 心の拠り所を、自らの心に作り出したのだ。

 そんな解釈を加えることで、僕は、己を奮い立たせる。こんなマネをしないと行動しようとしない僕を怨みながら。

 「話は全て理解した。君はもう、何も心配する必要はない。僕が何とかするから」

 僕を、頼って欲しい。




   008


 この前、ふとテレビをつけると、有名なプロスポーツ選手のこれまでのキャリアを振り返る、みたいな番組が流れていた。

 幼少期、親に厳しく育てられ。

 中学生の時に全国大会で優勝。

 高校で挫折を味わい。

 恩師との出会いがあり。

 プロとしてのキャリアがスタート。

 最初の五年は苦労の連続。

 プロになって六年目で結果が出始める。

 経験と実績を積み重ね、知名度は急上昇。

 今や日本が世界に誇るプレイヤー。

 次のオリンピックでは金メダル最有力。

 雛壇に座っているタレントさんから激励の言葉。

 まぁ、よくある番組だよね。

 あなたは多分観ようとはしないだろうけれど。

 私だって、その人の生い立ちに興味があって観ていたわけじゃない。

 私が気になったのは、人生の年表に書かれていた二文字の言葉。

 スポーツ選手に限らず、俳優さんでもアーティストさんでもIT企業の社長さんでも構わないのだけれど、成功者の人生を紐解いていくと、少なくとも一人以上は「恩師」と呼べる人間が存在しているような気がするんだよ。

 まんま恩師でなくとも、尊敬できる人というか、ロールモデルになる人というか。

 その人の言葉が人生観を変えたり、挫折から立ち直ったり。状況は様々であれど、何かしらの膨大な影響を与えた人物が、成功者の後ろに寄り添っている。

 人との出逢いっていうのは、才能とか努力とかと同じかそれ以上の意味を持っているんだ。

 自分からは変更することができない、言っちゃえば運任せのステータス。

 アクションを起こしても、その先にいるのがロクでもない人間だった、なんてことが十分にあり得る。

 だから、私はとても幸運だったのだと思う。

 あなたに逢えたから。

 目の前にいたのがあなたで、本当に良かった。

 助けてくれたのがあなたで、本当に良かった。

 私は、世界一幸せな人間だ。




 多分僕は、飢えていたのだと思う。

 誰かに頼られること。誰かに必要とされること。誰かのために行動すること。

 二十年以上生きてきて、人助けのようなことをした経験は一つもない。かといって、自分のために行動したこともない。ただ漫然と時が過ぎるのを待っていたかのような。暇を潰すための方法だけをひたすら探していたかのような。

 ようやくこの世界に居場所を見つけたかのような。

 そんな気分だった。

 「とりあえず、君を家に帰さないとね」

 午後九時。

 陽奈ちゃんはこの一日の彼女の振る舞いを聞き出そうとしたが、あの惨状を馬鹿正直に教えるのは憚られたので、オブラートを何重にも巻いてマイルドに伝えた。別人格とはいえ、自分の身体があんなことやこんなことをしたなんて知りたくないだろう。

 部屋の隅に山と積まれたチョコレートやカレーのこびりついた鍋など、隠しきれない事実は教えざるを得なかったが。

 僕としては相当気を遣って話したつもりだったけれど、それでも彼女の顔は瞬く間に青ざめ、ひたすら頭を下げることになった。

 「本当にごめんなさい。すみませんでした。申し訳ないです本当に申し訳ないです」

 こんな感じ。

 ただでさえ小柄な体躯がさらに小さくなっていた。

 まぁこれだけチョコ買わせたのだから、反応としては正解である。音雨と絡んだせいで価値観がブレてしまっているので、僕はちょっとばかし違和感を覚えたが。良くないぞこれは。

 ひとしきり謝ったのち、陽奈ちゃんはお詫びとして料理を振る舞ってくれた。ハンバーグにサラダに白ご飯。一人暮らし歴二年ということもあって、なかなかに美味しかった。

 いや違う。高級レストラン並みに美味しかった。何だこのクオリティ。一人暮らしとかでは説明がつかないぞ。即興で作ったデミグラス風ソースなんて、売り出せばボロ儲けするのでは?

 なのに彼女は心配そうな顔で、「お口に合えばいいんですけれど……」なんて言っている。こいつ、自分の才能に気づいていない。

 僕が稼いだお金で買った食材を使って料理を作った訳だから、お詫びになっていないのではと考える人もいるかもしれないが、断言しよう。見返りとしては十分過ぎる。今は行き場を無くしたチョコレートの山が愛おしく見えるぜ。数時間後には絶望の彼方だろうが。

 「ほんと、すみませんでした」

 食後のコーヒーを啜りながら、陽奈ちゃんは再び謝ってきた。謝罪も繰り返しし過ぎると価値が下がると考えていたのだが、不思議と気分は悪くならなかった。一貫して正座を崩さないのも好印象。描写は避けていたが、音雨は終始胡座をかいていたからな。現役JKらしくスカートの丈は、まぁ、皆さんのご想像にお任せしますが、そんな感じなので、中身がモロ見えていたのだ。色気の欠片もなかったが。こういうのは秘めてこそ真価を発揮するのだ。エロには羞恥心が必須なのである。何言ってんだ僕は。

 とにかく僕は、今しがた脳内で繰り広げられていたアホ丸出しの理論を悟られないようにすべく、本日十三回目の「大丈夫だから」を返したのち、冒頭のセリフを口にしたのだった。

 「ここから福岡となると、やっぱり新幹線なのかな。明日の朝九時くらいに出発して、お昼には博多に着くイメージで」

 時刻表アプリで新幹線の時間を調べながら、頭の中で明日の予定を構築する。今日は金曜日で、必然的に明日は土曜日だから、お気楽な大学生の身である僕は相当な暇を持て余すことになる。大学で出た課題をこなすため、という理由で、土日にはバイトのシフトを入れていないのだ。心掛けは立派だが、行動には移さない僕である。絨毯も敷いていないフローリング丸出しの床で、右半身を下にして寝転がっているのが常だ。

 そういうわけだから、僕も一緒について行って、一泊二日の九州旅行と洒落込もうかと考えを巡らせていたところで。

 「あの、一つ確認したいことがあるんですけど」

 と、陽奈ちゃんが話しかけてきた。豚骨ラーメンに寄っていた思考を無理やり引き戻す。

 「何かな」

 「えっと、私がここにきた時、ギターを背負ってませんでしたか?」

 「え?」

 ギター?

 「いや、多分持ってなかったと思う」

 言われてみれば、確かに変である。ギターを背負ってバス停のベンチに腰掛けていたのだから、僕の家に来た時も持っていないとおかしい。けれど実際、彼女は何も背負っていなかった。

 「そんな大きな物を背負ってたらすぐに気付くだろうし」

 「そうですか……」

 あからさまに落ち込んでいる。種類にもよるけれど、決して安いものではないからな。数年使っていれば愛着も湧くだろうし。

 「何、結構高いやつだったの?」

 「いえ、全然そんなことはないんですけど」

 陽奈ちゃんは少し躊躇したのち、「私がまだ幼い頃に、おばあちゃんが買ってくれたものなんです」と言った。まず真っ先に金額を尋ねた自分を殴りつけたくなった。

 「私の家は、両親と私、そしておばあちゃんの四人暮らしでした。親は二人ともビジネスマンで、家に帰ってくることも滅多になかったので、私の世話はほとんどおばあちゃんがしてくれました」

 若干頬を紅潮させて、嬉しそうに話す陽奈ちゃん。おばあちゃんのことが本当に好きなんだなと思った。

 「とても厳しい人だったので、私が欲しいと言ったものを買ってくれることは滅多になかったんですけれど、唯一買ってくれたのがそのギターなんです。でも、私が弾けるようになる前に、おばあちゃんは」

 「………………」

 その年で、背負っているものが大き過ぎる。彼女のバックグラウンドはあまりにも暗く、悲しい。

 「この三ヶ月のことは全く覚えていないの?」

 「はい、おそらく」

 「ぼんやりとでも、こういうことがあったとか、どこかに立ち寄ったとか、そんな記憶はない?」

 そのギターを失うことが、彼女にとってどれほどの損失なのか。僕如きでは想像もつかない。

 「ごめんなさい、思い出せないです」

 ダメか。正直僕としても、これ以上どうアプローチしていけば良いのか見当もつかない。

 八方塞がり。

 ギターが見つからない以上、陽奈ちゃんを福岡に返すわけにはいかない。彼女の家に置いてあるという可能性も考慮したが、状況的にそれは考えにくい。

 陽奈ちゃんの記憶が途絶えているこの三ヶ月の動向に関しては、表に現れていたであろう音雨しか知らない。音雨に聞くにしたって、人格転換の仕組みが分からない以上、そのタイミングが来るのを待たなければならない。別人格の記憶や経験を共有できたりしないものなのだろうか。

 そもそも二重人格について、僕も陽奈ちゃんも知識がなさ過ぎる。そう思い、スマホで検索をかけた。二重人格の症状と原因、治療方法など、様々なサイトがヒットした。タイトルを一つ一つ確認しながら、僕の中で引っかかっていたことについて考える。

 陽奈ちゃんがバス停のベンチに座っていた直後から、音雨が僕の家を訪ねてきた時までの間、彼女はずっと『砺波音雨』だったのだろうか?

 おかしな口調に奇妙な挙動、偏った価値観。人間を逸脱しているとまでは言わないが、この社会を生きていくにあたって欠点が多過ぎるように思う。そんな彼女が三ヶ月以上もの間、誰からも保護されることなく日常生活を送れるだろうか。

 もしも陽奈ちゃんに、この三ヶ月の記憶が少しでも残っているのであれば、二つの人格が断続的に入れ替わり続けていたと考えることもできる。しかしそれは陽奈ちゃん自身によって否定された。

 ちぐはぐだ。まだ何か、僕たちが見落としているものがあるんじゃないか。そう思ったところで。

 僕の、スマホを操作する手が止まった。

 「?どうかしましたか?」

 陽奈ちゃんが心配そうに尋ねてきたが、今はそれに反応する余裕はない。

 ある一つのサイト。

 二重人格というキーワードで検索をかけて十三ページ目の後半という、関連度が低く閲覧数も少ないと思われるサイト。

 それは、とある施設のホームページだった。タイトルは、

 『嘉神心理学研究所』




   009


 世界を救うか女の子を救うか。

 これまで映画やアニメなどで度々問われ、議論されてきた二択問題の王道。それぞれの作品でその捉え方は異なっていて、答えが出たり出なかったり。

 とはいえ、あくまでもエンターテインメントとして成立させなければならないから、物語の結末は大抵決まっている。

 一昔前は、女の子を救うのが定石だった。

 現代の主人公は、女の子も救って世界も救うのが一般的。

 まさにヒーロー。

 憧れちゃうね。

 でも、よくよく考えてみれば、世界と女の子を同じ土俵で語ることなんてできないのではないだろうか。

 カテゴリーが違うというか。

 単位が違うというか。

 一キログラムと一キロメートルのどちらが大きいかを問うてるようなもので、馬鹿馬鹿しいにも程がある。

 そもそも、『世界』も『女の子』も定義があやふやだ。

 世界とは何だ?女の子って具体的に誰?

 どの天秤にかけたらいいのか、皆目見当もつかない。

 スクリーンの向こう側であれば、その二つの意味はしっかりと定まっているけれど。しかも最終的には主人公の主観で判断される。

 そう、主観。

 この二択問題は、どう議論したところで個人の域を出ないものなのだ。

 一般論にはなり得ない。

 人によって、状況によって、判断は変わってくる。

 正解なんてない。

 だから、たとえ世界を選んだとしても、女の子を選んだとしても、或いは両方を貪欲に救いに行ったとしても、それを安全圏から傍観していただけの人間がその選択を批判することなんてできないはずだ。

 部外者は立ち入り禁止。

 彼らには、彼らだけの『世界』がある。

 もちろん、当事者があなた本人であれば、あなたの価値観で話を進めればいいし、いくらでも後悔していい。

 僕だってそれは同じ。

 僕は僕のやりたいようにするだけだ。

 僕本人に迷惑をかけるとしても。

 僕を巻き込むことになったとしても。

 やらなければならないことなのだ。




 嘉神透花。

 年齢不詳、但し外見から判断するに三十歳前後。

 心理学者。

 身長は百七十センチ程度。体重、スリーサイズなどは自主規制。

 高校卒業後、アメリカ・ボストン大学に留学し、カウンセリング心理学を学ぶ。修士号を取得したのち帰国。

 二年前に自らの名字を冠した研究所を設立。

 研究テーマは「解離性同一性障害の臨床的診断方法と治療方法の確立」。

 以上が、サイトに掲載されていた彼女のプロフィールである。

 外見のくだりは僕のオリジナルだが。

 新キャラを登場させるにあたって、どこまで基本情報を載せるべきなのか、悩ましいところではある。そして載せ方もまた難しい。結局見たことがあるような紹介の仕方をしてしまっているが、できればここは目を瞑っていただきたい。ストーリー的には少なくともあと一人新キャラが出てくる予定なのに、どうやって出てきてもらおうか。

 うーん。

 メタ発言はともかく、一人の人間を知るにはあまりに情報が少な過ぎだ。性格とか好きな食べ物を載せろとは言わないが、研究者なら論文の一つや二つは書いているだろう。しかし、研究所のホームページは愚か、どの論文検索サイトで調べても、嘉神透花(またはToka Kagami)なる人物の論文は見つからなかった。ホームページにしても、設立者の簡易的な紹介文と住所、電話番号くらいしか載っていない。ホームページというよりも、電子名刺と言った方が真実に近いと思う。

 特に功績もない無名の学者がつくったちっぽけな研究所のことなんて、基本的にはどうでもいいことだ。けれど、今画面に表示されている彼女の携帯番号と、夕方にかかってきたそれが一致しているとなると話は別だ。

 あのタイミングで、解離性同一性障害を専門としている学者から電話がかかってきたという事実を、偶然の産物だと切り捨てることは僕にはできない。打つ手がない今の状況を鑑みても、彼女にアプローチをかけるのは間違った判断ではないだろう。

 僕には関係ないと聞き流していたのでよく覚えていないけれど、なんか意味深なこと言ってたしな。サンプル実験がどうとか、プロジェクトに組み込んだのは失敗だったとか、君には『ほとんど』関係ないからとか。

 結構覚えてるじゃないか。

 他人に興味のない僕が、無意識のうちに彼女の言葉に耳を傾けていたのも含めて、引っかかるというか、胸がざわつくんだよな。

 とりあえず、彼女に電話をかけてみる。着信履歴から折り返す形で。

 一回目のコールが鳴り終わらないうちに、電話がつながった。まるで着信が来るのを待ち構えていたかのような速度だ。

 「やぁ、そろそろ連絡してくる頃だと思っていたよ。武藤くん」

 本当に待ち構えていたようだ。テレパシーか。いやいや、今気にするべき点はそこではなく。

 「……なんで僕の名前知ってるんですか」

 「なんでだと思う?」

 「………………」

 「無反応とはいただけないな。いくらでも返答のしようはあるだろう」

 「はぁ」

 「ふむ。私側も、いくらか対応の仕方を改めた方が良さそうだ。たった数年の誤差しかないというのに、人はこうも変わるものなのか。人格について研究している身としては、彼の身に何があったのか掘り下げてみたいところではある。おおよそ見当はつくが。あぁ、これも君が気にする必要はない。独り言の多い私なんだ」

 そんなあからさまに語気を強めた独り言があるか。

 「単純な話、調べたんだよ、君の名前は。このご時世、個人情報を完全に隠し通すことなんてできない。日本人として生まれてきた以上、なんらかの組織には属さなければならないし、インターネットを一切使わずに生きていくことなんて不可能だ。手掛かりやら足跡やらが無数にある。そうは言っても、君に関してはやや情報収集に手間取ったがね」

 そう言われると納得してしまいそうになったが、よく考えてみたら全く説明になっていないことに気づいた。というのも、『武藤』という名前は僕の本名ではなく、僕が僕自身につけたハンドルネームに過ぎないのだ。偽名と言ってもいい。偽名であるが故、僕以外の人間には教えていないし、SNSなどで馬鹿みたいに拡散したりもしていない。僕しか知らない情報なのだ。つまり、どれだけ僕の足跡を調べても、『武藤』に辿り着けるはずがないのである。

 「さて、君の方から私に接触を図ったということは、私に聞きたいことがあるのだと推察するが、どうだろうか?」

 「……研究者なのに、データや統計無しに仮説を立てるんですね」

 「おっと、皮肉かな?その軽口から判断するに、やはり君は君だな。三つ子の魂百までということわざが身に染みるよ」

 ふふっ、と微かに笑ったのが伝わってきた。

 「一つ誤解を正しておくと、私は研究者でも学者でもない。心理学者なる肩書を持ってはいるけれど、それは上辺だけの、カモフラージュの為のものだ。おそらくもう研究所のサイトも確認済みだと思うが、そこに書かれている住所に行ってみるといい。鬱蒼とした雑木林が広がっているよ」

 「何故そんなことを?」

 「言っただろう、カモフラージュだよ。私の本業を世間から隠す為さ」

 なんだかキナ臭い話になってきた。足を突っ込んではいけないというか、深追いすると戻ってこれないような気がしたので、無理やり話題を戻した。

 「あなたが研究者かどうかなんて、僕には関係ないことです。けれど、解離性同一性障害の専門家であるというのが事実なのであれば、お聞きしたいことが二つあります」

 「一方の人格の記憶や経験が他方の人格にも蓄積するのかどうか」

 まるで準備していたかのように(していたのだろう)、彼女は食い気味に言った。

 「一つ目は、これだろう?」

 「……その通りです」

 「一般的に、二重人格者は記憶や経験を共有しないと言われている。但し、別人格の記憶が全くないとは思えない。科学的根拠は皆無だが、記憶というものは脳だけの専売特許ではない。いわゆる『身体が覚えている』というやつだ。別人格の行動を映像としては思い出せなくとも、仕草や表情などに影響が出てくると私は考えている。別人格の記憶が残っているという症例もあるしね」

 これまた用意されていたであろう説明を受けて、僕の中でパズルのピースが一つ埋まった。なるほど、そういうことか。

 「二つ目の質問は……」

 「いえ、もう大丈夫です」

 次の説明に移ろうとした嘉神先生を遮るように、僕は言った。

 「二つ目は聞かないことにします。ありがとうございました」

 「いいのかい?こっちの方が重要だろうに」

 「えぇ、知りたいことは知れたので」

 ここからは僕と陽奈ちゃんの問題だ。悪いけれど、嘉神先生の出番はこれが最後になるだろう。

 「それでは、また」

 僕は携帯を耳から離そうとしたが、微かに声が聞こえたので再び耳に戻した。

 「それにしても意外だった。まさか二つ目の疑問を君の方から提示してくるとはね」

 ん?

 「その疑問に辿り着くかどうかは、正直五分五分だと思っていた。だが、どちらに転んだとしても、君がそれを口にすることはないだろうと踏んでいたのだがね」

 どういうことだ?

 「君からしてみれば、とんだとばっちりもいいところだ。私なら腹が立つし、それ以上に怖いと感じるはずなのだが。いや、もしかすると………」

 ブツブツと思案するように言葉を発している。聞き取れないくらいの小さな声だ。

 「……そうか。気付いていないのか。或いは見て見ぬ振りをしているのか」

 ふーっと息を吐く音が聞こえた。覚悟を決めるときに行う動作だ。

 「老婆心ながらに忠告しておくと」

 そして一言。

 「ご近所付き合いを大切にした方がいい」

 さっきまでの軽薄な態度は鳴りを潜め、優しさと憂いに満ちた口調でポツリと口にした。

 電話が切れた。




   010


 過去の自分を振り返ってみると、今の自分とは似ても似つかない別人であることに気付く。

 赤ちゃんだった自分。

 幼稚園児だった自分。

 小学生だった自分。

 中学生だった自分。

 高校生だった自分。

 浪人生だった自分。

 大学生だった自分。

 社会人になった自分。

 自分という言葉は使えど、その実態は他人よりも他人だ。

 思考回路も、人生哲学も、行動原理も。

 好きなものも、嫌いなものも、憧れるものも、望むものも。

 僕とはまるで異なっていて、共通項を見つける方が難しい。

 けれど僕たちは、その赤の他人も自分として受け入れなければならない。

 小四の時に友達のペンを借りたまま返さなかったことも。

 中二の時に教室の窓ガラスを割ったことも。

 高一の時に部活が嫌で、仮病を使ってサボっていたことも。

 他ならぬ僕の仕業で、僕以外の人間に押し付けることはできない。

 今の僕がどんな言い訳を捲し立てようと、変えることのできない事実。

 過去が現在を形作っている以上、過去の行いは良いことも悪いことも全て今に降りかかってくる。

 背負わなければならない責任であり、代償だ。

 過去の自分なら、ここで話を切り上げてさっさと本編に移行するだろう。読者の不安を煽るだけ煽って、何のフォローも入れることなく。

 けれど。

 今の自分は違う。

 過去の自分が犯した過ち、負の歴史を、唯の粗大ゴミとして抱えておく必要なんてない。

 それらの行いを反省できる心があるのなら、粗大ゴミはいくらでもリサイクル可能なのだ。

 ペンを盗んでしまったのなら、二度としなければいい。

 ガラスを割ってしまったのなら、時と場所を弁えて行動すればいい。

 仮病を使わざるを得ないほど辛かったのなら、その気持ちを心に仕舞うことなく吐き出せばいい。

 誰かを傷つけてしまったのなら、優しい人間になればいい。

 過去の自分は、最高級の反面教師だ。

 今が良ければ、それで問題ないだろう。

 僕らは過去を生きているわけじゃない。今を生きているんだから。

 良いことも悪いことも、ポイ捨てすることなく溜め込んで、積み上げていく。

 それを僕は「成長」と呼びたい。

 「成長」は人を変え、上書きしてくれるから。

 心配するな。




 「何か分かったんですか?」

 電話が切れてもなお、暫くの間固まっていた僕に、陽奈ちゃんはおずおずと尋ねた。

 「あぁ、多少は、ね」

 返す言葉にも力が入らない。相当間抜けな顔をしているのが嫌でも分かる。

 『ご近所付き合いを大切にした方がいい』

 彼女の、嘉神先生の最後の言葉が、グルグルと頭の中を回っている。一見何の意味もなさそうな、人付き合いの悪い僕をからかっただけとも取れる文面だけれど、何故か僕の心に深く刺さっていた。彼女のあの並々ならぬ雰囲気は一体。

 「陽奈ちゃんはさ」

 僕の中で渦巻いている違和感を無理やり頭の隅に押しやって、今しがた確信に変わった仮説を話すことにした。

 「自分の身に何が起こっているのか、予想はついてる?」

 「えっと、はい。まだ少し信じられないですけれど」

 「そうだよね。僕だって、自分の身に同じ現象が起きたらパニックになるだろう」

 解離性同一性障害。

 「ここでは分かりやすく二重人格と呼ぶことにする。陽奈ちゃんの身に起こっているのは、まさにこれだ」

 スマホで解離性同一性障害について書かれているページを見せる。

 「詳しい説明はもう既にやったから省くとして」

 「えっ、まだ聞いてないですよ?」

 「地の文で説明したから」

 「地の文?」

 このシリアスな場面でメタネタをぶっこむセンスはどうかしてると思う、我ながら。

 「とにかく、これで陽奈ちゃんが抱いていた疑問や違和感は全て説明できる。断片的な記憶、作った覚えのない料理、買った覚えのないゲーム機」

 そして、バス停のベンチから僕の家にワープしたこと。

 「この三ヶ月はもちろん、それ以前から、陽奈ちゃんは度々人格が入れ替わっていた」

 「はい。そうだと思います」

 「けれど、それだけでは辻褄が合わない箇所があった。一つは、『砺波音雨』という二つ目の人格が、三ヶ月ものあいだ一人で日常生活を送れるのか、という疑問だ。大量のチョコレートを買い占めるといった問題行動を頻繁に起こす。奇天烈な喋り方や異様なテンションの高さも、社会で生きていくにはどう考えても不利だ」

 知識やIQはともかく、精神年齢で言えば五歳未満だった。

 「百歩譲って、音雨にそれなりの社会的能力があったとしよう。それでも僕には、もう一つ気になった点がある。それは、君のスカートのポケットに入っている、その機械だ」

 「機械?」

 陽奈ちゃんは自分のスカートのポケットを弄って、ある物体を取り出した。言うまでもなく、ゲームボーイに似たあの機械だ。

 「陽奈ちゃんの言った『買った覚えのないゲーム機』というのは、おそらくそれのことだろう?」

 「そうです。でも、何でここに……?」

 「音雨がその機械を触っているのを僕は見た。ゲーム機ではなくパソコンなんだそうだよ。インプットがどうとか言っていた」

 仕組みは未だに分からないが。

 「音雨の言葉を信じるならば、それはガーちゃんという人物が製作し、音雨に与えたものなんだ。その話を聞いた時は特に何も思わなかったけれど、陽奈ちゃんの話とつなげて考えると、おかしな点があることに気づいた」

 七月二日以前には、既にその機械は陽奈ちゃんの部屋にあったこと。

 「これはおかしい。だって、そうなると、音雨は七月二日以前にガーちゃんからその機械を貰ったことになるから。『砺波音雨』が音井陽奈という人間から生まれた人格である以上、行動範囲や交友関係は陽奈ちゃん以下であるはずだ。けれど、陽奈ちゃんの話には、ガーちゃんやそれに類する人物は出てこなかった。そんな機械を自作できて、尚且つ音雨目線でも分かるエキセントリックな性格をした人間と関わりを持っているにもかかわらず、君の話に一切登場しないなんてあり得ない」

 陽奈ちゃんには友達と呼べる人間がいない。

 「ここからは僕の仮説だ。例えば、音雨の話を完全に無視して、陽奈ちゃんの話だけを切り取って考察すると、見覚えのないゲーム機に関してある一つの解に辿り着く。それは、『別人格が作った』だ。だけど、音雨はその機械を作っていない。ガーちゃんが作ったんだ」

 そう、ガーちゃん。

 「音雨の話にはもう一人、『ひーちゃん』という人物が出てきた。おそらくそれは陽奈ちゃんのことだ。『ガーちゃん』と『ひーちゃん』、ニックネームの付け方が似ているとは思わないかい?音雨にとって、この二人は同等の存在だったんじゃないかって思うんだ」

 当然、音雨は自分が解離性同一性障害であるということは認識していなかった。自分の中でぐちゃぐちゃになった別人格の記憶を都合のいいように解釈して、あたかもひーちゃんを第三者の視点から観測したと捉えていた。ラプラスの悪魔というのも、自分を騙す為に使っていたのだろう。

 「同等の存在。音井陽奈とガーちゃんが、砺波音雨にとって同じ価値を持っていたとするならば、結論は一つしかない」

 ガーちゃんも音雨も、音井陽奈という人間から作り出された人格であり。

 「君は二重人格なんじゃない。三重人格なんだ」




   011


 バトル漫画が嫌いでした。

 分かりやすい悪役が出てくるから。

 誰から見ても、どの状況下においても、百パーセント悪に染まっている人間なんてこの世にはいない。物語の主人公が必死になって倒そうとしている相手にも、家族がいて、愛する人がいて、仲間がいる。世界征服を企む傍らで、自らの組織をまとめ上げ、部下の為に尽力している。よく考えたら、敵役の信念の方が正しいこともしばしばです。けれど彼らは、倒される為に物語に登場します。百パーセントの悪として。それが気持ち悪い。

 主人公の周りの人が軒並み不幸になるから。

 ほぼ間違いなく、ヒロインは酷い目に合います。相棒は大怪我を負います。最悪死にます。物語を加速させる為に。主人公や読者を煽る為に。それが気持ち悪い。

 世界観の設定があやふやだから。

 空を飛べたり、バリアを張れたり、手から炎を出したり。フィクションだから何でもあり、とは言いつつも、それぞれの世界においてある程度の制限がなければ娯楽として成立しません。物理法則とか倫理観とかを完全に無視してしまえば、敵の心臓を気づかれずに抜き取るとか、目が合った瞬間に脳を焼き切るとか、やろうと思えばできそうじゃないですか。けれど誰もそんなことはしません。その線引きが不確かで、敵味方問わず、ダラダラと争いを続けます。それが気持ち悪い。

 人がたくさん死ぬから。

 主要キャラの死も、もちろん悲しいです。胸が締め付けられて、身体が震えて、本を閉じてしまいます。けれど、彼らの死にはまだそれなりの理由と意味がある。その後のストーリーに影響する。読者の心に残る。私がフォーカスしたいのは、いわゆるエキストラの死です。街中での激しい戦いによって一般人が犠牲になる、みたいな描写が嫌で嫌でしょうがない。流れ弾に当たって亡くなったサラリーマンも、倒壊したビルに押し潰された女子学生も、その世界で彼らの物語を紡いでいたはずです。そんな彼らは、死んだら終わりだ。その後一度も触れられることなく、メインストーリーは淡々と進行していく。それが気持ち悪い。

 気持ち悪い。

 胸の中のグネグネしたものが暴れ狂っているかのように、気持ち悪い。

 そう思うのは私だけなんでしょうか。

 適当に流し読みしていればそれで良いのに。

 単純にヒーローに憧れて、純粋に楽しんでれば良いのに。

 作り物の世界に必要以上にのめり込んで、勝手に期待して、勝手に失望して。

 私だけなんでしょうか。

 比べられる人がいないから。

 共感できる人がいないから。

 私には分からない。

 分からなかった。

 分かるようになった。

 今も。

 そして、これからも。

 私の傍にいてくれますか?




 一人で住んでいると思っていた自分の家に、ほかの人間が二人も住んでいたという事実を知らされて、陽奈ちゃんは肯定も否定もしなかった。だけど、ただ単純に恐怖に怯えているというよりは、まだ何か見落としていることがあるんじゃないか、僕の説明が足りないんじゃないかと言いたげな複雑な表情。僕も今、同じような顔をしているはずだ。

 彼女が三重人格であるのはほぼ間違い無いと思う。状況的に見ても、それであちこちの辻褄が合うのは確かだ。

 問題なのは、ここから先の展開が全く見えなくなってしまったことだ。三重人格だから何なのだ。それが分かっても、僕は動きようがない。彼女のここ三ヶ月の動向も、ギターの在り処も、結局分からずじまいである。

 渦巻く違和感は、未だに消えそうもない。

 「ギターが見つからない限りは陽奈ちゃんも帰れないし、どうしようか」

 現実逃避の意味合いも込めて、ニュースアプリを開いてトップニュースを流し読みした。何とかっていう俳優が不倫していた、人身事故でJRのダイヤが乱れているなど、僕とは一切関わりのない情報が乱立している。思考を散らすには最適のアプリであると言えよう。

 「へぇ、国の機密情報を管理しているサーバに不正アクセスした人がいるらしいよ。三ヶ月前だけど。知らなかった」

 ん?これは……。

 「私も知りませんでした。凄いですね」

 「凄いって思うんだ」

 「えっ、はい。そんなことをできる人なんてそうそういないでしょうから」

 「まぁそうだね。国家の情報が保管されてるわけだから、プロテクターやらトラップやらが何重にも施されていただろうし、並大抵の人間には無理な所業だ」

 「あ、いえ、そういうことではなくて、国みたいな大きなものを敵に回せるって凄いなって」

 「あぁ、なるほど。そっちか」

 少し意外だった。陽奈ちゃんの性格上、寧ろ犯人を非難するかと思ったけれど。

 凄いときたか。

 今おかしな点があった気がするんだけど。何だっけ?

 「まだ犯人は捕まっていないみたいだ。まぁそれは置いておいて。今日はもう遅いから、推理ごっこはこのくらいにして寝ようか。今後のことは明日考えればいい。どうせ暇だしね」

 本場の豚骨ラーメンを食べられないのは残念だが、九州旅行は断念せざるを得ない。当たり前だ。

 「あの、その前にお風呂に入りたいです」

 「あぁ、そうだね」

 そうか、陽奈ちゃんもれっきとした女の子、お風呂は毎日入りたいよな。音雨はお風呂なんて単語を一切出さなかったから、昨日は僕も入ってないんだよな。

 「分かるとは思うけれど、廊下に出て右側がお風呂。勝手にお湯沸かしちゃってもいいから。タオルは洗面所の上の棚で、シャンプーは、えーっと?」

 この家にシャンプーあったっけ?

 お風呂場を見にいくと、案の定シャンプーやらボディーソープやらの類は無かった。

 「申し訳ないんだけれど、今日のところは汗を流すくらいでいいかな?」

 「全然大丈夫です。使わせてもらってる身ですし」

 「ごめんね。着替えは買ってきたのがあるけれど……」

 「着替えまで!?」

 「えっ、まずかったかな」

 「いえいえ、とんでもないです!そこまでしてくださるなんて、何とお礼を言えばいいのか」

 「ん?あっ、下着類はさすがに買ってないよ」

 「えっ?………ぁ、そうですよね、あはは………」

 頬を赤らめる陽奈ちゃん。ちょっと可愛い。

 「ま、ゆっくり入ってきなよ。精神的にも疲れてるだろうし」

 「ほんと、ありがとうございます」

 「いえいえ、これくらいならいくらでも」

 あの三ツ星レストラン並のハンバーグの余韻もまだ残ってるしな。

 「それではお先に」

 「はいよ」

 脱衣所の扉が閉まり、やがてシャワーの音が微かに聞こえてきた。エロいな。いや、そんな目で僕を見ないでほしい。年頃の男なんて大概こうだぞ。

 僕が言える立場ではないけれど、陽奈ちゃんも陽奈ちゃんで常識がないところがある。交友関係の狭さが原因なのだろう、人との関わり方や距離感を掴めないのだ。

 普通、初対面の年上の男の家で裸になるか?

 「ふーっ」

 約一日ぶりの、一人きりの感覚。

 単独行動を好む僕にとっては、一人だけの時間というのは結構必要だったりする。今更言うことでもないか。とはいえ、一人でいる時とそうでない時とでは、視野の広さが全然違う。誰かが隣にいるとそれに集中してしまって、他のことに気を配れなくなるのだ。僕も相当なコミュ障である。

 だから、こうしてじっくりとこの部屋を見渡すこともしてなかったのだけれど、暫く観察していると、あることに気がついた。

 いや、気がついた訳ではない。ただ、違和感というか、引っ掛かりを覚えたのだ。陽奈ちゃんとは全く関係のない、別のところで。

 立ち上がって、部屋の中を物色する。そこまでしてやっと確信に至る僕は鈍感なのだろうか。

 食器や調理器具はある。だけど、調味料や食器用洗剤はない。

 タオルやパジャマはある。だけど、シャンプーや歯ブラシはない。

 大学で使う参考書はある。だけど、プリントやノートはない。

 その他、ティッシュペーパーやゴミ箱など、一人暮らしをする上で必要になるであろうアイテムが、所々欠けているのだった。まるで人が住んでいるように見せかけたかのような、おままごとのセットのような部屋。

 本棚から一冊の本を取り出す。去年授業で使った参考書だ。本の上部は埃まみれだった。

 窓枠を人差し指でなぞってみる。案の定、埃が指にこびりついた。

 エアコンをつけてみる。つかない。リモコンを調べると、電池が入っていなかった。

 こんな部屋に、僕は二年以上も住んでいたのか?何の疑問も抱かずに?

 そんなわけあるか。

 ここまで色んなものが欠如していて、日常生活を送れるはずがない。そもそも僕は大学生だ。今まで溜め込んできたプリント類は何処に行った?

 おかしい。

 物が足りないのではなく、何年も人が住んでいないと見るのが普通だ。

 僕はどうやって生活していたんだ?

 昨日以前は?三ヶ月前は?

 思い出せない。

 一体、何が起こっているんだ?




   012


 占いを信じるか、という問いには二つの回答がある。

 信じる。

 信じない。

 この二択しかない。

 朝の星座占いを欠かさずチェックする人もいれば、その行為を笑う人もいる。

 初詣で引いたおみくじの内容を真に受ける人もいれば、金を投げ捨てて神様にお祈りをするのを嫌う人がいるように。

 どちらが正しいとかはない。信じようが信じまいが、誰からも非難されることはない。

 但し、模範解答は存在する。

 『信じた方が、楽しいでしょ?』

 嫌なことがあっても占いのせいにできる。占いを会話のネタにできる。

 逃げ道の選択肢を増やせる。

 この場合、信じているとも、信じていないとも言えない。

 占いが不確かなもので、科学的にあり得ないと理解しつつも、それを自らが生存する為に有効活用しているのだ。

 この状態を僕は『偽信』と呼ぶ。

 字面のまんま、偽物の信用という意味だ。

 再度注意しておくが、これが正しい判断であるとは言っていない。あくまでも模範解答であって、正答ではないのだ。

 屁理屈っぽい?

 そりゃあ屁理屈だからな。

 こんな意味のない僕の戯言を聞くよりも、やるべきことがあるんじゃないか?

 見たものを、或いは今見えているものを、馬鹿正直に信じてはならない。それが真実とは限らないから。

 考えろ。

 見たものを、お前のその脳髄でもって吟味し、正答を弾き出すことなど、そう難しいことじゃない。

 伏線は十分すぎるくらいに張ってある。

 その部屋はヒントだらけだ。

 ゴールは近い。

 僕はそれを望んではいないけれど。




 「お風呂上がったので、次どうぞ………って、どうしたんですか、これ?」

 脱衣所から出てきた陽奈ちゃんが、目を丸くして言った。

 部屋を物色した際に板チョコタワーを倒してしまい、床にチョコレートが散乱しているのだ。その上幾つかは踏み付けられて、包装がめちゃくちゃになっている。そこまで手荒な捜査はしていないつもりだったが、思いの外激しい運動になっていたようだ。

 そう、僕は今、かなり動揺している。

 「ちょっとね……。ストレス発散というか、僕なりの精神統一みたいなものだよ。あぁ、陽奈ちゃんとは全く関係ないからこれ以上謝る必要はない」

 陽奈ちゃんが再び土下座の姿勢になろうとするのを未然に防ぎつつ、気持ちを落ち着かせる。可愛い女の子の土下座を見たいという変態どもには申し訳ないが、僕にそういった趣味はない。帰れ。

 馬鹿なことを考えて心を整えるというセルフケアは案外有効で、取り敢えずは動揺を収めることに成功した。今注意を向けるべきは陽奈ちゃんのことであって、僕のことなどどうでもいいのだ。

 「ダメ元でこの部屋に何かしらのヒントがないか探してたんだけれど、特にピンとくるものはなかったよ」

 「はぁ、ですよね」

 「音雨がここに来た時に持っていたのは、このヘンテコな機械だけだったはず。着ていたのはそのセーラー服だけど」

 綺麗に折り畳まれたセーラーを指差す。

 「その制服は陽奈ちゃんがいつも着ているものだよね?」

 「はい、そうです」

 「何か他にポケットに入っていたとかはない?」

 「私も気になったので確認したんですけれど、何も入ってませんでした」

 話が進展しない。今の状況からこれ以上の情報は絞り出せないのかもしれないけれど、フィールドリサーチや聞き取り調査をするにしても、どこから始めたらいいのだ。音雨の破天荒さを鑑みると、最悪日本全国にまで捜査範囲を広げなければならない。それとも、音雨かもしくはガーちゃんが表に現れるのをひたすら待つのか?

 二人とも無言のまま、しばらく時間が経った。目覚まし時計の針の音だけが響いている。これで音雨にイタズラしたのが懐かしいなぁ。

 こういった無言の時間が続くと、コミュ障は不安になって何か話題を、と思ってしまう。会話の引き出しが少ないにも関わらず。

 「自然淘汰」

 「はい?」

 「自然淘汰って知ってる?」

 「いえ、知らないです」

 「自然選択とも言うのだけれど。生物の授業とかでやってないかな」

 「私、文系なので」

 「そっか。でも遺伝は生物基礎の範囲だから分かるよね?」

 「はい、それなら」

 「なら大丈夫。自然選択ってのは、生物の進化を語る上で必ず引き合いに出される考え方で、チャールズ・ダーウィンとアルフレッド・ウォレスが提唱したのが始まりかな。同種の生物でも遺伝情報は個体によって違っていて、その違いは親から子に受け継がれる。そして、生存と繁殖に有利な遺伝子が後世に残り、不利な個体は淘汰されていく。まぁ性選択とか群選択とか、適応なんてのもあるんだけれど、話がこんがらがるから今は省くね」

 「はぁ……」

 食いつきが悪い。こういう反応されると焦るんよな。ていうか、若干辛辣になってないか?垢抜けたというか、何というか。

 緊張が緩んだってことなのかねぇ。

 「勿論これは人間にも当てはまる。要約すると、同じ生き物でもちょっとした塩基配列の違いで生き残れたり生き残れなかったりするって事なんだけど」

 「へぇ、なんて言うかその、悲しいですね」

 相槌も若干適当な気がする。やっぱり女子高生にする話じゃないよなぁ。気付くのが遅いとかみなまで言うな。

 「みんなそう言うんだ。悲しいとか残酷だとか、否定的な感想ばかり。だけど僕は思うんだよ。弱者をだらだらと生かしておくほうが残酷だってね」

 「はぁ、確かにそうかもしれないです」

 盛り上がらねぇ。知ってたけど。

 今までにない静寂が辺りを包んでいる。こんな事なら話さなけりゃ良かった。

 『その時の私は納得してしまったけれど、今なら言い返せる』

 ん?

 『弱さは克服できるってね』

 え?

 『そしてそれが、君が本当に言いたかったことなんだって』

 「何か言った?」

  『やっと分かったんだ』

 「え?いえ、何も言ってませんけど」

 『だから』

 だから?

 『君もそろそろ、起きたらどう?』

 っ!

 心臓がドクンと跳ねた。

 大学に行く準備をした時、教科書には埃が積もっていた。それ以外の参考書も。最低でも週に一回は使うのに?

 大学の参考書はある。けれど、授業で使うプリントやノートは一つも見当たらない。そして何よりパソコンがない。今時パソコンがなければ大学生なんてやってられないはずなのに。その理由は?

 音雨は僕のスマホを古いと言った。僕はそう思わない。買ってまだ一年も経ってないし、機種も最新のやつだ。僕にとっては。じゃあ、彼女にとっては?この世界にとっては?

 嘉神先生が僕に電話をかけてきたのは、本当に間違いだったのか?僕に用事があったのでは?そもそも僕はなぜ彼女のことを嘉神『先生』と呼んでいるんだ?

 ネットニュースを見ていた時、僕はある違和感を覚えた。それが何だったのかは思い出せないけれど、ネットニュースの冒頭にはその記事が書かれた日付が記されていて、西暦が添えられている場合もある。もし仮に、僕がそこに引っかかっていたとしたら?

 三ヶ月前に国家の機密情報が漏洩した。これほどインパクトのある事件をなぜ僕は知らなかった?陽奈ちゃんが知らないのは分かるけれど。陽奈ちゃんが知らない。僕も知らない。二人の共通項は?

 この部屋には消耗品だけが欠けていた。ずっとこの部屋に住んでいたのに、気が付かないわけがない。けれど、もしも僕が今までこの部屋に住んでいなかったとしたら?数年前はともかく。

 この部屋からスーパーに向かう時、僕は幾つかある鍵の中から一つを選んで鍵をかけた。なぜ選ぶというコマンドが必要だったのか。似たような鍵を複数持っていたからではないのか?

 ポケットから鍵を取り出す。一〇三号室、つまりこの部屋の鍵と。

 一〇四号室の鍵。

 隣の部屋の鍵。

 ここは学生用アパートだ。だから基本的には僕と同じ境遇の人が住んでいるはず。だけど、ほかの住人に会ったことはない。というより人の気配がしない。こんなにも薄い壁なのに。

 『ご近所付き合いを大切にした方がいい』

 嘉神先生の言葉だ。

 僕は急いで立ち上がり、廊下を走り抜けて外に出た。隣、一〇四号室。手が震えて鍵穴に鍵を差し込めない。入った。開ける。部屋に飛び込む。暗い。電気をつける。

 壁が完全に見えなくなるほどの資料の山。三十二インチの液晶テレビとデスクトップのパソコンが地べたに置かれており、周りには本や電気コードが散乱している。ただ一箇所だけ、フローリングが覗いているその場所に。

 アコースティックギターと、一冊のノートが置かれていた。




   013


 2020/10/17


 このノートが僕に見つからないことを望む。だが、もし仮に見つけてしまった時に備えて、事のあらましをここに記しておく。この部屋、つまり104号室に辿り着いた僕ならば、僕の身に何が起きているのかある程度は想像出来ているだろうが、情報は正確な方が良いに決まっているから。僕自身、もうほとんど時間がないので、細部まで書き残せるとは限らないし、文章も支離滅裂になることだろう。許してくれ。というよりこのようなメモを残してあげているのだから寧ろ感謝してほしい。本意ではないけれど。

 今から3ヶ月と少し前、具体的には7月5日の午前0時ぴったり。国の予算案や外交関係、その他諸々の機密情報を管理しているサーバがハッキングされた。数え切れないほどの防衛システムやトラップを難なく突破し、国のあらゆる情報を世界中にばら撒いた犯人は、自らBeluga(ベルーガ)と名乗り、「次はお前たちだ」という趣旨の犯行声明を残した。

 余談だが、ベルーガの習性は知っているだろうか。北極海やオホーツク海など氷に覆われた海に生息するベルーガは、エコーロケーションによって浮氷の僅かな隙間を探知し、息をすることができると言われている。僅かな隙間。隙。歪み。犯人の目的が見え隠れしている。

 国内は極度の混乱に陥った。なぜなら、漏洩した情報の中には、国会議員の政治資金の横領や現職大臣の不祥事、或いは首相自らへの贈収賄の証拠なども含まれていたからだ。内閣支持率及び日経株価が暴落し、衆議院は解散、内閣は総辞職。国が国として機能しなくなるほどの大騒ぎだった。

 警視庁は犯人の手がかりを掴むべく、捜査範囲を全世界に広げて血眼になって探した。しかし、今現在もBelugaの足跡どころかハッキング元さえ断定できていない。そもそも国自体が滅茶苦茶な状態だから、まともな捜査などできるわけがないのだ。

 それに、犯人は僕たちによって保護されていたから、見つかるわけがない。

 そう、僕は犯罪者だ。犯人蔵匿及び証拠隠滅の罪に問われるべき存在。僕と嘉神先生の2人は。嘉神先生のことはもう既に知っているよね。彼女のお節介無くして事の真相に辿り着くのは不可能だろう。あの人はあの人らしく、後日僕が問い質せないほどの曲解したヒントを僕に与えていたはずだ。

 7月7日。ハッキング事件から2日経ったその日、嘉神先生が研究室に1人の女の子を連れてきた。見た目15歳くらいの、セーラー服を着た少女。背中にはギターを背負っていた。嘉神先生は彼女のことを「サンプル」と呼んだ。どうやら自らの実験に最適な人材を発掘してきたらしい。彼女は俯きながら、ボソボソと僕に自己紹介をした。『霧島岳。21歳』。

 ここまでの情報を繋ぎ合わせれば、ある一点を除いてすべての疑問が解けるはずだ。

 音井陽奈、18歳、女性。

 砺波音雨、16歳、女性。

 3つ目の人格。霧島岳、21歳、男性。

 そして、この3つ目の人格こそが、国家を揺るがす大犯罪を遂行した、Belugaそのものだ。

 3つ目の人格と言ったけれど、これはやや誤解を招く表現だ。本当は2つ目の人格と呼ぶのが正しい。

 嘉神先生の研究テーマは、「解離性同一性障害の臨床的診断方法と治療方法の確立」。この文章をまさか鵜呑みにはしていないだろうね。これはあくまでも表面上のテーマに過ぎない。彼女の真の研究テーマは、「解離性同一性障害の人為的な作成」。霧島岳は先生にとって、研究材料としてうってつけの存在だった。たとえ彼が犯罪者だったとしても、そう簡単に手放す訳にはいかなかったのだ。

 僕は先生のアシスタントとして雇われていたこともあって、霧島君とコミュニケーションを取る機会が多かった。というより、同年代かつ同性の僕を彼の世話係にしたかったようだ。もちろん、僕も解離性同一性障害のセミプロだし、彼が二重人格であることは認知していたから、自然と彼の行動から別人格の名残を感じ取ろうとしていた。霧島君はただただ暗く、狂気じみていて、世の中に散在している「誤り」に対して異常なほど敏感だった。そしてコンピュータの知識、技術はずば抜けていた。彼の自作PCを見せてもらったけれど、あの小ささであれだけの処理能力を誇るコンピュータは見たことがない。

 彼と長時間一緒に過ごしているうちに、彼の成り立ちに興味を持った僕は、個人的に彼の事を調査してみた。そこでヒットしたのが、福岡県に住む高校生、音井陽奈だ。彼女の両親は共に外資系企業の幹部クラスで、家に帰るどころか日本にすらほとんど戻っていないようだ。8年ほど前に祖母を亡くしてからは、1人で生きていたようなものだ。両親からの仕送りでお金には困らなかったようだが。

 霧島君の話を信じるならば、彼が顕在化したのは音井陽奈が中学校に入学した頃だそうだ。その時は数分で引っ込んだけれど、歳を重ねるごとに表面に出てくる時間が長くなっていき、最近は起きている時間の半分は霧島君の人格になっていたらしい。学校で授業を受けている最中に入れ替わることもあったそうだ。霧島君側は自らの病気を認知していたから、いつどこで入れ替わっても音井陽奈のフリをしていたとのこと。

 その状況に変化があったのが、7月2日だ。バス停のベンチで目覚めた霧島君は、ある違和感を持った。いつものぼんやりしたような、頭に靄がかかったような感覚がなかったのだ。彼は『覚醒した』という表現を使っていたかな。視界がクリアになり、今まで以上にコンピュータ製作のアイデアが浮かんでくる。そして、1日経っても2日経っても人格が入れ替わらなかった。

 だからこそ彼は、前々から計画していたハッキングを実行したのだ。

 霧島君は、自分自身を音井陽奈の兄として認識していた。彼に頼まれたんだよ。陽奈を救ってやってくれって。

 たとえ頼まれなかったとしても、僕は音井陽奈を助けたいと考えただろう。彼女を守ってあげたいと思っただろう。

 彼女の、音井陽奈のプロフィールは、まるで僕自身の人生をなぞっているかのようだった。僕もそう思っただろう?

 1人きりの、孤独な生活。

 周りには誰もいない。目一杯手を伸ばしても、何も掴めない。真っ白で、真っ暗な空間に、取り残された感覚。涙すら出ないほどの絶望と無力感。

 僕とそっくりだ。

 但し、僕の場合は生まれた時からずっとそうだった。

 彼女は違う。おばあちゃんという存在が、心から信頼できる人が間近にいたのだ。その唯一無二の存在を失った衝撃は計り知れないが、この出来事が解離性同一性障害のきっかけになったことは間違いない。

 だから、救おうと思った。

 解離性同一性障害の原因は、ストレスや心的外傷、つまりは強力な負の感情である。それらの切り離された記憶が成長することで新たな人格が形成されるなら、正の感情でも同様の現象が起こるのではないか、というのが嘉神先生の考えだ。先生の目的はあくまでも人格の人為的な作成だから、彼の、或いは彼女の事情には興味がない。

 先生を裏切ることになってしまうが、これ以上彼女を見て見ぬ振りはできない。僕は音井陽奈に、3つ目の人格を与えた。おばあちゃんとの温かい思い出を彼女から切り離し、『砺波音雨』を作った。

 今、彼女は隣ですやすや眠っている。砺波音雨が目を覚すのも時間の問題だ。

 時間がない。

 僕は、僕自身にも新しい人格を付与する。24歳になった今の僕は、彼女を救うには余りにも色んなものを失ってしまった。彼女を真の意味で理解し、導いてあげられる自信がない。どうしても、周りの目や体裁を気にしてしまうだろうから。いわゆる『大人の事情』だ。

 4年前の自分。

 20歳の自分。

 大学3年生の自分。

 まだ社会に出る前の、純粋な正義感を持つ自分に、彼女のことを任せようと思う。

 君のことだ。

 僕自身のことを君と呼ぶのは何だか奇妙な感覚だが。

 砺波音雨という何の事情も知らない当事者を君に接触させることによって、君が彼女を救うための情報を感じ取れるように取り図った。

 音井陽奈と僕に施した実験は、まだ研究段階のものだ。であるが故、作り出した人格がどれくらいの期間持つのか僕にも分からない。おそらくは1日、長くても数日といったところだ。

 僕の理想は、20歳の自分が何も分からないままに彼女を救うことだ。このノートに書かれていることを知ってしまえば、僕はアクションを起こさないかも知れないから。冒頭の文言はそういう意味だ。

 だけど、一番の理想は。

 このノートを読むより先に、無意識に彼女を救ってしまっていることだ。

 時間がない。

 君の今の状況はさすがに予想できないが、これからどういう行動を起こすかは君に全て任せる。なんなら人格が僕に戻るまで不貞寝しててもいい。元々は僕が背負うべき責任なのだから。

 今の自分と過去の自分は全くの別人だ。僕と君も、別人だ。君もそう思うかい?

 ならば、僕と君は紛れもなく同一人物だ。

 よろしく頼む。

                 砺波 春祈




   014


 2020/10/19


 肩を揺すっても起きなかったので、書き置きをしておきます。

 このノートに書かれていること、読ませていただきました。私が何をしてしまったのかも、あなたが私に何をしてくれたのかも、全て理解したつもりです。

 私は、一人ぼっちでした。おばあちゃんが亡くなってからは特に。だとしても、今回の件の責任は全て私にあります。霧島岳という存在を生み出したのは他ならぬ私だから。彼がやったことは私がやったのと同じです。

 自首しようと思っています。おそらくはハッキングに使用したであろうこの小さなコンピュータを持って。

 安心してください。私はもう大丈夫です。何となくですが、霧島岳も砺波音雨も、完全に消滅した気がするのです。いや、私の中に、戻ってきてくれた気がするのです。「孤独」と「安心感」という二つの感情が、懐かしい感覚が、私を包んでいるから。

 あなたは私に、『僕を頼ってほしい』と言ってくださいました。その言葉が私を救ってくれたんだと思います。あなたは私にとって、かけがえのない存在です。

 これから私がどういう罰を受けるのか分からないですが、おばあちゃんにもらったギターはここに残しておきます。私が罪を償った後に、もう一度あなたに会うために。

 ここまでしていただいたのに図々しい限りですが、これからもどうか、私のかけがえのない存在でい続けてほしいです。

 それでは、行ってきます。

                 音井 陽奈




 「ここで速報です。七月五日に起こった政府の機密情報漏洩事件について、十八歳の少女が不正アクセス禁止法及び特定秘密保護法違反の疑いで滋賀県警に現行犯逮捕されました。滋賀県警によりますと、今朝未明に………」

 お昼の情報番組をぼんやりと眺める。カーテンを閉め切った暗い部屋の中で、テレビの人工的な光が異様に眩しい。グッと伸びをして頬を数回叩く。

 アコースティックギターの上に開かれた状態で置かれていたノートは、ついさっきまで僕がペンを走らせていたものだ。いや違う、日付で言えばもう二日前の出来事である。

 僕がずっと触れ合っていたのは霧島岳側だけだったから、音井陽奈が書き残したメッセージは僕にとってとても新鮮だった。こんなにも礼儀正しい子から霧島君のような人間が生まれるとは、僕もまだまだ勉強が足りない。

 残されたメッセージから判断するに、僕は何やかんや上手くやったようだ。今の僕には絶対に出来なかったことを、たった一日でやり遂げた僕。悪いことをしたと思う反面、結局は僕のことだから別にいいじゃんという思いもある。複雑だ。頭がおかしくなりそう。

 ポケットからスマホを取り出し、あるところに電話をかける。一回目のコールがなり終わらないうちに、電話がつながった。

 「やぁ、そろそろ連絡してくる頃だと思っていたよ。砺波くん」

 なんかデジャブ。

 「どうもです、先生」

 「今まで散々君の面倒を見てきた私を裏切ったことに関する謝罪なら丁重に断っておくよ」

 「僕としても手土産持って先生の面前で軽やかな土下座を披露したいところなんですけど、何とここからさらに裏切ろうかと思いまして」

 「………辞めるのかい?」

 「そうしようと思っています」

 「昨日も言ったのだが、覚えてないだろうからもう一度伝えておくと、君が音井陽奈に関して背負うべきものなんて一つもないんだよ?」

 「はい、若干覚えてますよ」

 「何だ、記憶が共有されているのかい?」

 「いえ、ほとんど思い出せません。恐らく印象に残った出来事だけを断片的に記憶しているのだと思います」

 「なるほど、印象的な出来事ね」

 「だから先生の言葉もその一つだったということですね」

 「そんな雑に私を褒めたところで、私の怒りは収まらないさ。ただまぁ、今後の研究の役に立ちそうな実験結果は得られたし、今回は見逃してやろう」

 「見逃すって、辞めていいんですか?」

 「私が止めたって君は強行突破するだろう?」

 「まぁそうですね」

 「それなら引き留めはしないさ。精々彼女の力になってあげてくれ」

 「……最後に一つ質問なんですけれど」

 「何かね」

 「先生は今回の一連の出来事、どこまで予想してました?」

 「最初から最後まで予想外さ」

 「分かりました。今までありがとうございました」

 「あぁ。それじゃあ」

 電話を切って、再度伸びをする。立ち上がってカーテンを開けた。太陽の光が一瞬で部屋を埋め尽くす。まさに秋晴れといった陽気だ。

 「さて、こっからは僕の仕事だ」




 十八歳という若さで政府の闇を暴いたスーパー少女として、音井陽奈は世間で大人気となった。『音井陽奈を守る会』とかいう団体まで結成され、彼女を不起訴処分にするよう検察に働きかけた。国民全員が、彼女をヒーローとして崇めた。

 そういった世論の動きと、未だ冷めやらぬ政府の混乱が相まって、彼女はお咎めなしの不起訴処分に落ち着いた。

 そんなあれこれも、もう二年前の出来事だ。

 「はい、十一章の前文も書き終わったよ」

 1LDKの、ダイニングテーブルにて。

 「ありがと。えっと、それは良いんだけどさ、八章のところ、これ書き直してくんない?」

 「えっ何で?」

 「何でと言われましても、これはちょっと」

 「私、何書いたっけ?んーっと………。えっ、ここ私の最高傑作なんだけど。どこがダメなの?」

 「ダメじゃないんだけどさ、うーん」

 「あー、もしかして照れてる?」

 「そそそそんなわけないじゃないか」

 「照れてるんだね。分かりやすい」

 「じゃあもうそういうことでいいから、書き直してよ」

 「やだ」

 「なぬ」

 「だってそれが私の本音だもん」

 「………………」

 「照れてる?」

 「照れてねぇ」

 「分かりやすい」

 「うるせぇ」

 「でもさ、この小説本当に出版するの?」

 「もちろん。それが僕の役目だからね」

 「カッコつけちゃってー。売れなかったとき恥ずかしいよ?」

 「売れる売れないは関係ないよ。この物語を世に出すことそれ自体が目的だから」

 「ふーん、よく分かんないや」

 「陽奈こそ、ファーストシングルの売り上げはどんな感じなの?」

 「ぼちぼちかな。まぁ偽名使ってるから、最初はこんなもんだよ」

 「バレたとき大変だぞ?」

 「大丈夫、メディアへの露出はないからさ」

 「そんなもんか」

 「それはさておき、小説書くの手伝ったんだから、私の曲作りも手伝ってね」

 「はい?」

 「曲というか詞の方だね」

 「おい聞いてないぞ」

 「言ってないもん」

 「お前、初登場の時から性格変わりすぎだ」

 「岳兄と音雨ちゃんの名残だよ。懐かしいでしょ?」

 まぁな、と僕。

 二十六歳の砺波春祈は答えた。

 彼女は悪戯っぽく笑って。

 それが僕の願い。

 物語の続きを、書こうと思った。




   015


 あとがき


 目の前に見知らぬマグカップが一つあります。色は白で、アニメ調のクマのイラストがプリントされています。さて、あなたから見て持ち手は右側にありますか?左側にありますか?直感でいいので答えを出してください。

 持ち手が右側にあると答えた方は、好きなものがコロコロ変わる傾向が強いと言われています。新しい物好きだけど飽きやすい。すぐに別の物に興味を示し、結局何も長続きしないことが多いです。持ち手が左側にあると答えた方は、逆に一つの物事に長期間集中できる人です。であるが故に、それ以外の事をほったらかしにしがちで、色んなものを犠牲にしてしまう。頑固で融通が効かなく、嫌われることもしばしばです。

 とまぁこの性格診断は僕が二分で考えた作り物ですが、どうでしょう、当たっていると思った人も結構いるんじゃないですか?

 占いや性格診断が当たっていると感じてしまう現象をバーナム効果と言います。バーナム効果とは、誰にでも当てはまりそうな特徴を言われた人が、自分にピッタリ当てはまっていると勘違いしてしまう現象のことです。僕が考えた偽性格診断は、右利きの人が圧倒的に多いことを利用して、右側を選んだ場合の性格を誰にでも当てはまるような特徴に設定しておいただけです。誰だって好きなものは日々変わりますからね。

 バーナム効果に限らず、世の中は勘違いと思い違いで溢れかえっています。僕のようなどこの馬の骨かも分からない人間の話を、考えなしに信じてしまったあなたのように。そして何より、嘘と悪意で満ち溢れています。何を信じ、何を切り捨てるのかは、最終的にはあなたが決めなければならないことです。それを自由と感じるか不自由と感じるかは人それぞれですが、どちらにしてもやるべきことは同じですよね。

 この小説が読んだ人にとってどういう意味合いを持つのかは僕の計り知れぬところですが、ほんの少しでも記憶に残れば幸いです。カッコつけて小難しい単語を頻繁に使用してますが、分からなければ自分で調べてください。まぁ書いたのは僕ではなく砺波君なので、不平不満は全て彼にどうぞ。

 小説の中の人に責任を押し付けたところで、僕もそろそろ自分の物語に戻ろうと思います。あ、それと、あとがきとか言ってますが、この後さらにボーナストラック的なものも用意していますので、そちらも併せてご覧ください。

 それでは。




   016


 「うわーーんっ!ひっぐ」

 「音雨、どうしたの?」

 「うぐっ、お兄、ちゃんがぁ!」

 「コラ岳!音雨に何したの!」

 「だって、俺の作ったゲーム壊したんだもん」

 「何をしたのって聞いてるの!」

 「だって、だって………」

 「ただいまーって、どしたんこれ?」

 「あっお帰りなさい。この子たちが喧嘩してて」

 「岳、説明しなさい」

 「音雨がゲーム壊したんだよ!」

 「それで?」

 「だから、音雨の頭を……」

 「頭を?」

 「……叩いた」

 「ふむ。で、自分のしたことをどう思う?」

 「音雨が悪いんだよ!」

 「それだけ?」

 「それから、それから………。ごめんなさい」

 「悪いことをしたって思う」

 「うん」

 「それなら、やらないといけない事があるよね」

 「ごめんなさい」

 「それを誰に言うの?」

 「………音雨」

 「その通り。ちゃんと分かってるじゃん」

 「うっ、えっぐ、ぐすっ」

 「ほら」

 「ひっく、うっ」

 「……叩いてごめん」

 「音雨もほら、言う事があるでしょ?」

 「うっぐ………ごめんなさい」

 「よーっし、仲直り仲直り。さっ、ご飯にしよう」

 「ありがとうあなた。ほら二人とも、席について」

 「はーい」

 「はーい」

 「ところであなた、今日が何の日か覚えてる?」

 「えっ?」

 「まさか」

 「なんちゃって。はいこれ、ケーキ」

 「ケーキだぁ!」

 「やったー!」

 「なぁんだ、覚えてたのね」

 「何故にほんのり不満気なのよ」

 「だって、もし忘れてたら後で色々買ってもらえたかもしれないじゃん」

 「残念でしたー」

 「くそったれ!」

 「女性が発していい言葉じゃねぇぞ、それ」

 「はい、それじゃあみんな、手を合わせてー」

 「いただきまーす!」


   Their story continues in eternity.


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