さよならは天使のパンツ大作戦~ぼくらは前期高齢少年団~
〜ぼくらは前期高齢少年団第4話(完結編)〜
一
ベルサイユのドアベルが、湿った音を響かせた。勝が店に入ると、八郎とママが落ち込んだ表情で、こちらを見た。
「どないしてん。陰気な顔して。何かあったんか」
普段と違う二人の様子を見て、勝は不安げに尋ねた。
「えらいことや。吉ちゃんが、倒れて入院してん」
力なげにママが答えた。
「ええっ、いつ」
「昨日の夜や。寝てたら急に気分が悪うなって、自分で救急車呼んだんや」
勝は、信じられないというような顔をした。
八郎が、頭を抱え込むようにして言った。
「最近、心臓の調子が良うなかったらしいわ。医者にも、注意するように言われとったんやて。あいつ、わしらに何も言わんと、じっと隠しとったんや。この間の旅行も、最後の思い出にと思て、誘いよったらしい。道理で、普段にないような深刻なこと漏らしたりしとったわ」
「そういうたら、わしにもえらい優しかったんや。前は何か失敗したら、いつもえらそうに怒鳴りよったのに、最近、いつもにこにこして『まあええがな』ばっかりやった。あの看護婦、ほら、何たらいうたなあ、あ、そや、美奈ちゃんや、あの娘を好きになったんで、その加減かなあと思うてたんやけど、そんなことがあったんか。それやったら、早うからもっと親切にしたったら良かった」
吉造の気配りに応えてやれなかったことを、勝は悔やんだ。
「それで、様子はどうなんや」
「うん。けさ近所の人から聞いて、独り身やさかい、不自由やろと、とりあえず寝間着や下着なんかを、ヨメはんに持って行かしたんや。ほんなら、相当良うないみたいで、個室で酸素吸入受けてるらしいわ。そやから、容体が落ち着くまで、とりあえず様子みて、それから、のぞきにでも行こかと思うてるねん」
話を聞いていた勝は、急に思い出して尋ねた。
「あの、淡路島に住んでる妹に連絡したったんか。あいつのたった一人の身内やさかい」
「うん、さっき電話してん。あっちの方では、元気にしているものとばっかり思うてたから、びっくりしとったわ。妹にも病気のこと、話してなかったんや。長い間病院通いしてたというのに。あいつ、まわりの者に心配かけんとこと思うて、黙っとったんや。そういうやつや、あいつは。小さいときから我慢強かったし、自分の弱みは絶対見せよらんかった」
長いつき合いをたどるようにして、八郎はさびしそうに言った。小さいころ木登りをしていて、折れた枝ごと落ちてしたたか背中を打ち、息が出来ないくらい痛くても涙ひとつこぼさなかった。両親を亡くしたときは、まだ学生だったが、たった一人の手で年の離れた幼い妹を育て上げた苦労者である。その妹は結婚して、いま兵庫県の洲本市に移っている。
「自分でも店を切り回してて、今日はどうしても来られへんけど、明日早いめに出てくるので、それまでよろしゅう頼むということやった。わし、昼から病院へ行って先生に聞いてくるさかい、見舞いはそれからにしよ。あんまりようけで押しかけても、良うないし」
「そうか、ほんなら頼むわ。わしも、できるだけのことはしてやりたいから。少々のことやったら、娘が何と言おうと、年金下ろして出すわ。足らんもんあったら、言うてや」
「うん、大きに。そう聞いたら、あいつも喜ぶやろ」
それから、子供のころからの思い出話になった。戦争ごっこやチャンバラ、近所の悪ガキどもとのけんかや、イタズラが過ぎて町内のおやじにどつかれたこと、学校の廊下に立たされたり、上級生にビンタをはられた懐かしい日々が、二人の頭に次々浮かんできた。
「しかし、何であいつは女嫌いになったんやろ」
勝が不思議そうに首をかしげた。
「詳しいことは知らんけど、若いとき好きになった女があったそうや。ところが、振られたんや。相手が心変わりしたとかで、えらい傷ついたと、話しとった。それ以来、女を信用せんようになったんや。そやから、いつも女の悪口ばっかり言うっとったやろ」
「そうか、それが原因か。そうか、そやけど単純やな。女なんて星の数ほどおるやんか。もうちょっと気軽にいかなんだらあかんで。アイ・ラブ・ユー・アンド・ユー・ラブ・ミー、赤ちゃん出来てもアイ・ドント・ノーくらいでつき合わんと」
「何やて、もう一回言うてみ」
わきで聞いていたママが、目を三角にした。
「うそや、うそや。冗談や。それに、今の言葉は、わしが作ったんとちがうで。昔人気やった漫才師のギャグや」
勝があわてて取り消した。
「しょうむないギャグ言いなはんな。女をバカにして」
ママの方を怖々のぞきながら、勝は首をすくめた。
「吉ちゃんが女の悪口言うても、怒鳴られへんのに、わしやったらボロクソや。なんでやねん」
「そこが、あいつの人徳や。けなされても、憎めん何かええもんを持ってるんや。若いころはハンサムやったし、今でも年なりにええ男やさかいな。ようモテよったもんなあ。そやけど、まったく見向きもせなんだ。昔の女がよほど忘れられんのかもしれんな」
しかし、勝はやはり不服そうだった。同じ男なのに、なぜもてるやつと、そうでないのがあるのか。神さんは不公平やと、独り愚痴て、口をとがらせた。
「ほんなら、わしいっぺん家へ帰って、飯食うてから買い物して病院へ回ってくるわ。持っていかんならんもんも、あるしな。夕方、またここで会お」
八郎の言葉に、勝はうなずいた。
二
ぼんやりと窓の外をながめながらコーヒーを飲んでいた勝が、ドアの開く音にそちらを見ると、沈うつな面持ちで八郎が入ってきた。
「吉ちゃんのようす、どうやった」
腕を組み、考え込んだままでいる八郎に、恐る恐る勝が尋ねた。聞かれるのを待ちかねていたかのように八郎は、口を切った。
「難しいみたいなんや。吉ちゃん助からんかもわからんわ」
「そ、そんな、助からんて。もう、あかんいうことか」
「そや。医者は、会わさないかん人がおったら、呼んだったらどうや、て言うてるんや。それ聞いて、ベッドに横たわっている吉ちゃんを見たら、もうたまらんようになってなあ」
八郎の目に、涙が浮かんだ。勝も胸がつまってうつむいた。
「それを、あいつ知っとるんや。わしの顔を見て、か細い声で『長いこと世話なったなあ』て、言いよるんや。わし、何いうんや、治る、治る。ちょっとしたら、退院できるて、慰めたんやけど、さびしそうに苦笑いするだけやったわ」
八郎は鼻をすすって、ママの方を見た。ママもサイホンを操りながら顔をそむけた。
「それで、頼みがあるんやったら、何でも言うてや。できることやったら、したるで。お日さんと、お月さん呼んできて、相撲取らせえていうてもあかんけどな、て冗談を言うたんやけど、あいつ、もういつものような大きな声で笑う元気もないんや」
「そうか、そんなに悪いんか」
「急に来たらしいわ。医者の見立てでは、あと何日かやねんて。それで、何でもしたる、ほんまに何もないんか、て促したんや。そしたら『ないこともないけど』て言うて、悲しそうな目をしよるねん。わしらの間で遠慮することあらへんやないか。いままで、吉ちゃんには世話になりっぱなしや、今度はその恩返ししたいんやて、何べんも繰り返したら、やっと、打ち明けよったんやけど、それがなあ」
そこで、八郎は急に黙り込んでしまった。
「何やねん、言うてえな。わしに、できることやったら、なんでもするがな。なあ、八ちゃん」
促された彼は、勝の耳元に口を近づけ、ママに聞こえないようにささやいた。
「看護婦の美奈ちゃんの、下着姿を見たいて、真っ赤な顔して言いよるねん」
「ええっ、そんなん無理や」
勝は絶句した。
「あんな可愛らしい、若い娘がそんなん見せてくれるはずがないやんか。彼女、白衣の天使やで」
「そやから、悩んでるんやないか。日月の相撲以外は何でも聞いたる、なんて大見え切った手前、やっぱりあかなんだでは済まんしなあ」
八郎は、また頭を抱え込んだ。
「あの、お座敷ストリップやったら、伝手あるんやけど。わし、その方ではカオやねん。全ストでなくて、下着ショーというのもあるし、病院にわからんよう、こっそり忍び込ませて……。あ、やっぱりあかんか。そやろなあ」
くだらない勝の発案に、いつもなら怒鳴り散らす八郎も、さっぱり怒りがわかなかった。
二人は黙って、思案にくれていたが、突然勝が首を上げて、きっぱり言った。
「よっしゃ、わしに任してくれ。吉ちゃんのためや。一肌脱ぐわ」
しかし、八郎はあまり当てにせず、ただちらりと友の方に一べつをくれただけだった。
その日は、二人ともあまり言葉を交わさず、暗くなるころ、ばらばらにベルサイユを出ていった。
三
次の日の朝、八郎はほおに三角形の赤いあざ、勝は目の上に傷テープを張り、片足を引きずりながら現れた。
「どないしたん、二人で取っ組み合いでもしたんかいな。ええ年して、けんかしたらあかんで」
ママの言葉に、二人はお互いを見交わし、変な顔をした。
そして
「なんや、そんなけがして」
と、同時に叫んだ。
「どうしたて、わしは吉ちゃんの願いをかなえたろうと思うてやったんや」
という勝の言葉に、
「いや、わしもそうなんやけど」
と言って、八郎はほおをさすった。
勝の話は、こうだった。昨日別れてから、病院へかけつけ、勤めを終えて帰る美奈ちゃんの後をつけた。ストーカーまがいの行為である。そして、住所を確認した後、夜中にベランダへと忍び込もうとしたそうだ。
彼女の部屋は二階で、隣は平屋の農家である。草木も眠る丑三つ時、近くにあったドラム缶を家のそばまで転がして行って、それを足場にして塀を登り、屋根伝いに建物の方へ移動していった。いよいよベランダのさくに手が届こうとしたとき、一方の足を乗せた鶏小屋の天井トタンが腐っていたため、踏み抜いて鶏舎の中に落ち込んでしまった。たまたま家人は留守だったが、驚いた鶏にあちこちをつつき回され、ほうほうの体で逃げ帰ってきたのだという。
「そのとき、足くじいたんや。目的達成前にドジ踏んでしもて。パンツ取ってからやったら、少々けがしてもよかってんけど」
勝は足をさすりながら、残念そうに言った。
「あほか、そんなことしたら泥棒やないか。そんなんして捕まったらどないするねん」
「そないいうたって、吉ちゃんのためやと思うて」
いつものように、勝は大きく口をつきだした。
「吉ちゃん、言うてるのはそんなんと違うねん。パンツだけやったら、うちのヨメはんなり、だれかの古いのを持っていって、これ彼女のやていうてだますくらい簡単や。いや、あいつのいうのは、彼女の下着姿を見たいて、言うとるんや。そやさかい困ってるんや」
「そんなら、八ちゃんどないしてん」
「いや、わしはな」
といって、八郎が語りだしたのは、次のようなものだった。
いくら考えても、今度ばかりはいい方法が浮かばない。看護婦用ふろ場の壁に穴をあけてのぞかせてやるにしても、体力の弱っている彼をそんな所まで運んで行ったのでは命がもたないし、ビデオで撮影したのでは満足しないだろう。もちろんそれらは犯罪で、実行するわけにはいかない。そこで、思い切って、正面からぶち当たってみることにした。正攻法も、場合によってはうまくいくことがあるからである。
宵方の検温時間に彼女が一人で病室を回ってくるのを見計らって、直接そっと頼んでみることにしたのだが、やはり判断は甘かった。最初は、笑顔で応えていた彼女も、彼の頼みを聞くやいなや、きっと顔色が変わり、持っていたバインダーを横手に持ち替えるなり、それでバシッと八郎のほおをすくい上げたというのである。顔の赤い逆三角形は、バインダーの角についていた補強金具の跡らしい。痛そー。
「やっぱりあかなんだわ。どないしよ」
珍しく八郎が弱音を吐いた。
「当たり前やがな。そんなこと聞いてくれるかいな」
と、いつもバカにしている勝に鼻で笑われた。
「そやけど、何で吉ちゃん、美奈ちゃんの下着姿見たいて、言い出したんやろ」
「よう分からんけど、死ぬ前にいっぺんでええから、恋人に似てるあの娘の白い肌を拝みたいのとちゃうか。それ以上の要求はせえへんねんから、ほな、しょうがないから一回だけよ、って見せたってくれてもええんやないかと、思たんやけどなあ」
二人がそろってため息をついたのを見てママが、
「昨日から二人でこそこそと話し込んでるけど、どないしたん。よかったら、ウチかて相談に乗るけど」
と、横から話しかけてきた。困り切っていた八郎らは、ワラにもすがる思いで、悩みを打ち明けた。
「それは、難しいわねえ。ふーん、ウチでよかったら、なんぼでも見せたげるんやけど」
男たちは、はっと首を上げた。そして、悩ましげに顔を見合わせ、ぞくぞくっと体を震わせた。
「あら、また二人とも興奮して、若いのね」
錯覚もここまで来ると芸術的だと、彼らは思った。そんな、タコ糸を締め過ぎたボンレスハムみたいなのを見たら、丈夫な者でも床に就いてしまいまっせ、とのどまで出かけてきていた言葉を、彼らはぐっと力を込めて押し殺した。
「そやけど、ママさんにはだんなさんがおるさかい」
八郎は、彼女を思いとどまらせるのに躍起になった。
「そうねえ、うちの人ヤキモチ焼きだから、困っちゃうわね」
ママは、女っぽく見せようとするときは、なぜか関東弁に変わる。それの方が、美しくみえると信じているようだ。
「それで、その子の名前は何ていうの。え? 美奈ちゃん? その子ならよく知ってるわよ。彼女、ニュータウンの外側にある元々の町の子なんよ。両親健在なんやけど、親元にいてたら、自立心が育てへんていうて、自分から所帯別にして宿舎で生活してるねん」
徐々に普段のしゃべり口に戻ったママは、美奈ちゃんを褒め称えた。
「よう働くのよ。かわいいし、頭もいいし。非の一点打ちどころのない、ええ娘なんよ。そのうえ、孝行娘でねえ。大好きだったおじいちゃんの、月命日には、必ず墓参りを欠かさへんのよ。感心やわ」
「へえ、お寺は近いんかいな」
「うん、極楽山天宝寺やねん」
「天宝寺やったら、あそこの住職、わしの飲み友達やがな」
ママの言葉に、今まで打ち沈んでいた八郎が、ぱっと顔を上げた。
「おもろい男でなあ、寺のホームページ開いとるねん。本尊の写真があって、クレジットカードでおさい銭が上げられるようになってるし、ダイヤルQ2の方もやってて、お経が流れてるのを聞いたらお布施になるっちゅう仕組みや。いま本山で全信徒の過去帳を電子ファイル化するというので、そのデータベース部会長を務めとるんや。酒好きの、ちょっと破戒坊主的なところがあるけど、ええやっちゃ。それで、彼女のじいちゃんの命日て、いつやねん。ええ、明日やて。よっしゃ、ええぞ。神は、いや、仏はまだ我々を見放したわけやないで。まあちゃん、ちょっと耳貸しいな」
いぶかしげに寄せた勝の顔が、徐々に輝き出し、聞き終わると、ぽんと手を打った。
「よっしゃ、まかしといて。一世一代の大芝居や。絶対にうまいことやるわ」
と、彼は胸を張った。
「住職のヨメはん、娘に子が生まれて東北の仙台まで世話に出かけとるんや。あいつ、データベース部会の関係で本山へ行かんならん用事があるんやけど、店、いや寺開けて行かれへんし困って、こないだから一日でええから留守番にきてくれて頼まれとったんや。ちょうどええ。明日行ったろ。まあちゃん、今日中に散髪いっといでや」
八郎は、勝に向かい、少年団最後の大作戦に向け号令をかけた。
四
次の日は、からりと晴れた秋日和だった。吉造の妹が淡路島から出てきて、彼に付き添った。八郎はこれまでのいきさつを話し、用事があったら、彼の妻に連絡するよう言いおいて、勝とともに天宝寺へ出かけた。
住職は、すでに外出の用意をしていて、彼らが着くと入れ違いに出て行った。彼の姿が見えなくなると、二人はすぐさま用意に取りかかった。
「まあちゃん、きれいに刈れとるやんか」
言われた勝は、散髪屋でそってもらい、つるつるになった頭を照れながら、なでた。
「なんや、頭が涼しいわ。似合うか」
「上等、上等。上出来や。それにこの衣と袈裟を着けたら、立派な坊さんや。そっちやったら美奈ちゃんに顔を見られてへんし、大丈夫や。打ち合わせ通り、がんばってや」
「うん。吉ちゃんのこと思うて一生懸命やるわ」
勝が、八郎の探してきた法衣に着替え、袈裟を通し終わったそのとき、供花を手に山門を入ってくる美奈の姿が見えた。いつもの白衣に代えて、今日は和服である。
紺絣に紅色の帯、白足袋の運びが、最近の女性にしては珍しく楚々(そそ)として女らしい。きりっと締まった襟元が処女のりりしさを見せ、アップにした髪形が、いつもより大人の女性を感じさせた。
「おい、見とれてたらあかんで。早よ、行きんかいな」
八郎は、ぽんと勝の肩を押した。よろけかけた体勢を立て直し、勝は威厳を持たせてゆっくりと、彼女の方へ歩み寄っていった。僧侶の姿をみとめた美奈は、手をひざに当て丁寧にお辞儀をした。
「どなたかのお墓参りですかな。お天気もよく、結構、結構。いや、お若いのにご信心深く、仏様もお喜びでございましょう」
勝の坊さんぶりは、なかなかのもので、十分さまになっている。陰から見守っていた八郎も、ひとまず胸をなでおろした。
「祖父の月命日にあたるものですから。お墓へ花をと思いまして」
「いやあ、年々の命日にさえ、なかなか来られぬものを、毎月お参りとは、なかなかできぬことでございます。それでは、愚僧がご案内をば」
「いえ、いつものことですから、よく存じておりますので、お気遣いなさらぬよう。それはそうと、ご住持はどちらかへ?」
せっかくの申し出を断られ、出端をくじかれた勝だったが、大切な使命を思い出して、彼女から離れようとはしなかった。
「住職は、本山に出向かねばならぬ急用が出来いたしまして、今朝がた関東の方へ立ちました。拙僧が寺に来られる方をお世話するよう重々申しつかりましたので、いずれにせよ、ご墓前まで」
「そうでございますか。ありがとうございます。そうしていただければ祖父の霊もさぞかし喜びましょう」
勝は、並んで境内を歩き始めた。ぷうんといい香りがして、白いうなじが秋の日差しにまぶしく感じた。一瞬吉造のために、望みをかなえてやるのが、何だかもったいない気がした。このまま帰ってもうたろうかしらん。
「それで、おじいさまのお亡くなりになったのは、いつのころでございますか」
丁重に、勝は聞いた
「はい、十年前のやはり秋の日に」
「お年は、おいくつで」
「はい、七十二歳でした」
「おお、それでは一泊二日、いや一白惑星。この年の生まれの方は、なかなか慈悲深いご性格でして、ご遺族の施しが仏様の一番の供養になると聞いております。だれかお近くに、かなわぬ望みを抱いている者がおられませぬかな。特にお年寄りがよいのですが、おじいさまと同年配の」
勝は口から出まかせをしゃべりながら、美奈の返事を促した。
「さあ、どうでしたか」
彼女は、思い当たるような、当たらぬような複雑な表情をして答えた。ははあ、これは昨日の八郎の話が胸に残っているな、と勝は意を強くした。よし、もう一押しとばかり、彼は畳みかけた。
「いや、身内のような大してつながりの深い方でなくてもよろしい、患者さんにでもおられたましたら」
こいつ、やっぱりアホや――陰で聞いていた八郎が、舌打ちをした。美奈は、驚いたように勝の横顔を見て問いかけた。
「なぜ、私が医療関係の者とご存じなのですか」
勝も慌てた。そういえば彼女のことは何も聞いていなかった。しかし、ドジなくせに、いざとなったら肝っ玉のすわる性格であるのは、迷惑駐車事件のときで証明済みである。とっさに機転を利かせた。
「いや、毎月いまごろ、若くて美しい看護婦さんが墓参りに来られるということを、前々から住職が話しておりましてな。その方ではないかと、思いましたもので」
「あら、そうですの。私のことお話しもしていないのにご存じなので、不思議に思ったものですから」
若くて美しいという言葉が効いたのか、彼女はうれしそうにして、それ以上の追及はなかった。八郎も、墓石の後ろで冷や汗をふいていた。
「こちらですの。祖父の墓は」
ひっそりと小さな墓石だったが、周りはきれいに掃除が行き届き、残された者の死者を悼む気持ちがあふれていた。
「恐れ入りますが、こちらまでいらして頂いたご縁もありますし、お経を上げていただければありがたいのですが」
勝は、はたと詰まった。彼はお経がからっきしだめである。しかし、僧が経を読めないでは通らない。切羽詰まって彼は答えた。
「いや、本堂を出てくる折、数珠を忘れて参った。これは愚僧としたことが全くの失態じゃ。あれがないことには、経があげられませんので」
「あら、お袈裟の横からはみだしておられるのは、お数珠でありませんこと」
目ざとく見つけた美奈は、勝に教えた。
「えっ、あ、そうじゃ、そうじゃった。こちらへ入れてあったのを失念しておった。いや、年を取りますと、物忘れがひどくなって」
情けなそうな顔をした勝は、いらんもの見つけおって、これさえなければ経など上げずにすんだものを、と数珠をうらめしそうににらんだ。しかし、仕方なく両手にかけ、小さな声でぶつぶつと、うなり始めた
「南〜無妙〜法〜蓮〜華〜経〜」
「あの、うちは浄土宗ですけど」
「あ、いや。若いころ、日蓮宗にもいたことがありまして、ついそのときの癖が」
しまった。寺の宗派を聞いてくるのだった。まさか、経まで読まされるとは予想していなかっただけに、つい調べ忘れていた。なんとか、その場はごまかして、続けた。
「南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ、なんまいだ〜、なんまいだ〜」
しかし、念仏をだけで終わるわけにはいかない。ままよ、と勝は腹を決めた。
「さ〜んぷ〜の〜い〜ち〜の〜東〜京〜で〜、な〜み〜に〜た〜だ〜よ〜う〜ま〜す〜ら〜お〜が〜」
どうもしようがないから、吉造の演じていたのぞきからくりの文句を適当に経らしい節をつけて唱え始めた。しっかりしているとはいっても、美奈はまだ若い。経文まで知っているわけでなく、おとなしく墓石に手を合わせている。
「八千八〜こ〜え〜も〜か〜な〜し〜や〜な〜、な〜い〜て〜血〜を〜は〜く〜ほ〜と〜と〜ぎ〜す〜」
と「不如帰」を全部読み切っても、彼女は目を閉じ一心に拝んでいる。勝は、仕方なく「八百屋お七」を一通りすませ、「地獄極楽」まで読み切ったところで、彼女は目を開けた。
これで駄目なら、義太夫の「朝顔日記大井川の段」をうなり、浪花節で「紺屋高尾」を一節語らねばならないと思っていたところだったので、彼は、ほっと胸をなで下ろした。
「ありがとうございました。おかげさまで仏も地下で喜んでいると思います。これは、ささやかですがお布施に」
いつどうやって、用意したのか彼女は勝に包みを差し出した。仏が喜ぶどころか、かえって迷わせるような「お経」だったが、何も知らない彼女は、熱心に拝んでくれた僧に対して心から感謝しているようであった。
本堂へ戻る途中、勝は彼女に尋ねた。
「ご表情をお見かけしておると、何か悩み事がおありのようですが、拙僧がお聞きいたそうかな。お話しいただくだけで、心が軽くなられるものですが」
そんな気配すら見せていない美奈に、デタラメを言って話を吉造の方へ持っていこうとした。
しかし、彼女は、
「いいえ、何もありません。仕事にも張り合いがありますし、毎日が楽しくて、楽しくてしかたありませんわ」
と、さわやかな表情をしていた。
何とかカマをかけて、例の問題に引きずり込もうしたが、なかなかテキもこちらの思い通りに乗ってこない。しかし、ここで引き下がったのでは、何のためにこんな格好をしてきたのかわからない。勝は、吉造の切実な願いを思い出して、必死で食い下がった。
「しかし、人間、必ず何か無理難題をふっかけられて困っておるとか、どうしようかと迷っておられることがあるはずです。たとえ、ささいなことでも、それを放置しておくと胸の中で増殖して心を汚してしまう、とお釈迦様もおっしゃっています。一言お話しいただければ、愚僧がアドバイスしてごらんにいれるが」
彼が、あまりにもしつこいのに閉口してか、何か言わないと失礼になると感じたのか、彼女も口を開いた。
「そういえば、一つひどい頼み事をしてきた患者の友達がいて、弱ってはいますけど」
来た、きた、そいつやがな。そのことを早言わんかいな。彼は、相手が術中にはまってきたのを、小躍りせんばかりに喜んだ。
「それは、どのような願い事なのですかな。よろしければ、お話しください」
聞かれた美奈は、うつむいてしまった。
「口にしたくありませんわ、あまりにも理不尽で。私の人格を無視してますの」
「いや、病人というものは、えてして無理な頼みをするものです。特に死にかけているものは、そうなのです。それをかなえてやるのが、慈悲の心なのです。愛なのです。大きな心で、すべて受け入れてやる、それが看取りの精神なのです。聞いてやりなさい。そうすれば、彼も心おきなく旅立つことができるでしょう。そして、あなたも看護婦として一回り大きく成長できるのですよ」
木の陰に移っていた八郎はヒヤヒヤした。相手は、何も具体的に説明していないのに、またもや勝手に、死を目前にした男の頼みごとを前提にしゃべっている。もしかして、そこに美奈が気づいたら、また疑問に感じないかと、彼は恐れた。
だが、彼女は思いにふけっているものか、矛盾を持ち出さなかった。ただ、じっと考え込んでいるようだった。勝の説得が功を奏しかけているのだろうか。ひとの心の問題だけに、八郎はいずれともわからず、ただいらいらするだけだった。
門前で、丁寧に頭を下げた美奈は、静かに石段を下りていった。
本堂に戻った勝は、僧侶姿のまま足を投げ出し、ふーっと大きく息をついた。
「ああ、しんど。疲れたわ。いつばれるかと、ひやひやした」
「こっちの方が心配したで。でも、結構うまいことやったやんか。あとは、彼女の心しだいやけど、お前の言葉がサブリミナル効果、つまり潜在的な働き掛けとなって、その気にならんとも限らん。今度ばかりは、あんなことやさかいに、無理やりこちらの思う通りにことは運ばへん。あの娘の慈悲にすがるだけや」
「そやけど、うまいこといくやろか」
「どうやろなあ。まあ、仏様のご加護を願うとこか」
「そうか、ほな、わしはもう用ないから行くわ」
立ち上がりかけた勝の裾を、八郎は引っ張った。
「お布施、置いときんかいな」
「ええ、何でや。あれは、わしがお経を上げたったさかい、もらえたんやで。そやから、わしのもんと違うんか」
「何がお経や。ええかげんな、ご託を並べて。あれで金持っていったら、罰当たるで。ちゃんと仏さんに供えて、謝っとくんや。そしたら、仏罰が免れる。でなかったら、山門出たとたんに、車にでも、はねられて一巻の終わりや」
「なんや、今からこれで九条のストリップ見に行ったろと思うてたのに」
勝はぶつぶつ言いながら、お布施を仏壇に差し出した。そして、二人は改めて本尊の前に正座し、手を合わせて大願成就を祈った。
五
夜勤に入った美奈が、吉造の病室を開けると、妹の則子が立ち上がった。
「このたびは兄がお世話になっています。よろしくお願いします」
六十前の品のいい女性だった。朝一番のバスと電車を乗り継いで駆けつけただけに、少々疲れた様子だったが、かいがいしく吉造の介護をしていると、美奈は同僚から聞いていた。その通り、面倒見のよさそうな、やさしい感じの人だった。
「今は眠っています。なんとか小康状態のようですが、かなり悪いそうです。兄をこのまま死なせてしまうのかと思うと、不憫でなりません。どうかして助けてやれないでしょうか。たとえ、一月でも二月でも命を永らえさせてやりたいのですが」
彼女はハンカチを目に当てて、すすり泣いた。美奈は、何と言って慰めたらいいかわからず、ただ黙って看護婦としての務めを続けているしかなかった。
「兄は可哀そうな人なんです」
しばらくして気を静めた則子は、だれに言うともなくつぶやいた。美奈は、手を止めて打ち明け話をに耳を傾けた。
「両親が亡くなってから、私たちは二人っきりでした。私はまだ幼く、いっしょに親類の家に引き取られたものの、あまり居心地はよくありませんでした。それで、学校も途中でやめて、兄はがむしゃらに働いて独立し、私を育て上げてくれました」
則子は、眠っている兄の顔をいとおしそうに見て、話を続けた。
「兄にも好きな人がいました。あのころ流行っていた下着サロンの女性でした。どんな方か知りませんが、とても愛していました。向こうの人も、兄を好きで、将来を約束していたようでした。でも、何か行き違いがあって、別れてしまいました。兄は相手が裏切ったのだと話していました。その人にあげようとプロポーズのとき持っていった香水の瓶を、今でもお守りの袋に入れて持っています。彼女を憎んで一生独り身でいてやる、その恨みの証しだといってました。多分、そこのまくらの下にでも隠しているんでしょう」
彼女は、目をつむっていた。それは、過去を思い出しているのか、それとも涙をこらえようとしているのか、美奈にはわからなかった。
「でも、わたしは知っていました。本当は、小さな妹を育てるため結婚しないでいることを、私に気遣わせないために、言っているのだということを」
彼女は、再び鼻声になった。
「その瓶の中に桜の花びらがひとひら入っています。二人はいつも八幡神社の境内で会っていました。そのとき、彼女がたわむれに、髪へ挿した一輪の花弁をいつも大事にしていました。その花びらなんです。本当は、兄はいまでもその人のことが忘れられず、胸に抱いているのだと思います」
則子のほおを、ひとすじの涙がつたった。しかし、彼女はそれをぬぐおうともせず、ハンカチを手の中でぎゅっと握りしめたままだった。
「お願いします。優しくしてやってください。ひまなときに、一声かけてやってくれるだけでいいんです。兄は、表面上強がりをいうかもしれませんが、本当はさびしがりやなんです、人一倍。だから、肩ひじを張ってるんです」
そう言って、彼女は美奈に頭を下げた。
「わかりましたわ。できるだけのことはします」
美奈はそう答えて、部屋を出た。胸のふさがりに耐えられそうもなかったからである。自分も泣いてしまいそうな、そんなところを患者や家族に見せたくなかった。それを悟らせないのが、自分の務めだと思っていた。
六
次の日、吉造の調子はちょっと持ち直した感じで、少しくらいなら話もできるようになっていた。八郎らは、開けてきたアパートの処置をいろいろ尋ねたり、必需品の買い出しや銀行から金を引き出して、彼の元へ報告に来たりした。
八郎は美奈と廊下ですれ違ったが、別段にらみつけられるわけでもなく、かといって、話しかけてもこなかった。彼には、彼女が何を考えているのか、さっぱり読みとれなかった。
宿直の美奈が、夕刻吉造の病室を訪れたとき、彼は一人だった。妹の則子は、どうしても処理しなければならない大事な用があるからと言って、午後から淡路の方へ帰っていた。
美奈は、吉造のそばへ座り、やさしく話しかけた。
「妹さんから、聞いたわ、吉造さんの昔話。好きな人がいたんですってね。その人にあげるつもりだった香水の瓶、いまでも持っているそうね。見せてほしいわ。いいかしら」
吉造は首と目をわずかに動かして、まくらの下を見るよう促した。美奈が取り出してみると、お守りの中から、ちいさな瓶が出てきた。手に取ると、中で桜の花びらがひらりと舞った。何十年も香水に浸かった花弁が溶けず、いま枝から離れたかのようなピンク色のままで残っているのは不思議だった。もし、通常ありえないとするならば、それは吉造の、その人を愛する心が奇跡を起こしたのだというほかなかった。
「きれいね。そのお話をしてくださる? もし、体の調子が良かったら」
彼女は、吉造の目をじっと見つめながら尋ねた。彼は途切れ途切れに、声を継ぎながら語った。
彼には恋人がいた。彼女も、病身の父と二人、知り合いの家に厄介になっていた。二人は、とても境遇が似ていた。そんなことから、愛が深まっていった。
終戦からまだそう時間もたっていなかった。だから、食うためにはどんなこともしなければならなかった。吉造も妹を抱え、危ない橋を渡らねばならぬ仕事も請け負っていた。彼女の方も、夜の商売についていた。しかし、それでも、吉造には天使のような存在だった。相手も将来一緒になっていいようなことを漏らしていたという。
吉造は決心した。何とかして四人で暮らそうと、プロポーズ用の香水を買い、待ち合わせ場所の神社へ出かけた。そして、話を切り出したという。そのころは、生計も何とか立ち、妹も働き出してゆとりができていた。
「いっしょに来てくれるかって、言うたんですわ。いろんな問題があったから、簡単には答えられへんのはわかってましてん。でも、言わずにおられませんでした。うん、て言うくれると思うてたんですわ。そやのに、そやのに」
吉造は、のどをつまらせた。
「あいつ『ウチ行けへん』て返事しよったんですわ。『行かれへん』やったら、しようがない、時期がきて、相手の心がきっちり固まるまで待とうと思うてたんですわ。今は無理でも、いずれ一緒になれるときがくるはずやから。でも、返事は『行けへん』でした」
彼は、息を整えた。長い話は負担だったが、吉造はすべて話したかった。
「美奈さんが、関西の人やったら、よくご存じでしょうけど、『行けへん』は、行かないということで、『行かれへん』は行くことができないという意味だす。行かれないでなく、いかない、と言われたんです。それまで、その気があるようなことを言いながら、いざとなったら、いややと言いよったんですわ」
吉造の目がうるんだ。美奈は横のティッシュでふいてやった。
「あいつ、泣いてました。何で泣いてるのかわかりまへんでした。いやや言うたのに、何で泣いていたのか。女いうのは、わかりまへんわ」
語り終わった彼は、じっと彼女を見つめた。美奈に恋人の面影を重ね合わせたのであろう。
「その人、どこに住んでいたの」
吉造は、なぜそんなことを聞くのか不思議そうな表情をしたが、間を置いたあと、答えた。
「京都の近くでした」
美奈は、大きくため息をついた。そして布団の上に片手を置くと、身を乗り出し、やさしく語りかけた。
「村井さん、あなたは大きな間違いをしたのよ」
吉造は、いぶかしげに聞き返した。
「どういうことですねん、大きな間違いて」
美奈は、彼の体調を気遣いながらも、話しておいた方がいいと考えた。
「私のお父さん、国語の先生をしてるの。方言がテーマでいろいろ研究しているのよ。それで、私も知っているんだけど、一口に関西弁といっても、それぞれ微妙な違いがあるのよ。『行けへん』もその一つなの」
美奈は、説明を始めた。
ちょっと理屈っぽくなるが、彼女の言ったことをここに記しておこう。
例えば、「書く」の否定形「書かない」の関西方言は「書かへん」が一般的で、京都や神戸あたりでもそう使われるが、大阪市付近では、後ろの「へ」の音に影響されて「書けへん」となる。一方、「書くことができない」というのは、大阪で「書かれへん」というのに対して、京都などでは「書けへん」と言う。だから、同じ「書けへん」でも、大阪と京都では、意味が大きく違ってくるのだ。
「だから、その人の言った『行けへん』は、行かれないという意味だったのよ。お父さんや稼業のこと、いろんなしがらみがあって、自分の意のままにならなかったんじゃないかしら。本当は、吉造さんについていきたかったのに、無理に心を抑えたのよ。だから、涙を流したのよ」
彼女の話を、聞いていた吉造はじっと天井を見つめた。そして、突然顔をそむけると、振り絞るような声を出した。
「わしは、あほやったんや。わしは、わしは。それを知らんで、今まで女の人をみんな薄情な人間やと思うて……。頼みます、わしを一人に、一人にしとおくんなはれ」
こう言うと、急に涙をあふれさせ、大声を上げて泣き始めた。彼が、こんなに泣いたのは初めてだった。子供のときでさえ、じっと歯を食いしばり、涙は見せなかった。一生分の悲しさを一時に吐き出したのではないかと、思われるほどの見事な泣きっぷりだった。
美奈がドアを閉めた後ろで、いつまでも「わしが、あほやったんや」と、何度も繰り返す吉造の声が聞こえていた。
その夜の病棟は、珍しく静かだった。いつもならひっきりなしに響くナースコールも、ほとんど音を立てず、看護婦の詰め所はひっそりとしていた。
引き継ぎ用の看護日誌を開いたまま、美奈はもの思いにふけっていた。悩みの深さを、そのため息の多さが示していた。考えては首を振り、そしてまた考え続けていた。窓から見えるニュータウンの明かりが、ひとつひとつと消えていっても、彼女は長い間動こうとはしなかった。
だが、突然何かを決意したように、彼女はうなずいた。まっすぐと前を見据えたその目には、もう迷いの痕跡すら残っていなかった。
七
その夜、吉造の容体が急変した。荒い息をし、うわごとを言って、意識が行きつ戻りつした。
朝方、八郎ら二人は病院からの知らせで駆けつけたが、病室にいたたまれず、廊下で妹の則子を待ちながら、いらいらと足踏みをしていた。そのとき、美奈が廊下の端に見えた。八郎は、あたふたと彼女の方へ走っていった。そして、頭を何度も下げて、悲痛な声で頼んだ。
「もう、もう、吉ちゃん、あきまへんねん。中で見てられまへんねん。お願いだす。もう無理なことは言わしまへん。手だけでも、手ェだけでもええから握ってやっておくんなはれ」
わきにいた勝を見て、美奈は少し驚いたようだったが、頭のいい子だけに、すぐあのときの悪だくみを察したかして、何も言わなかった。
「あんたが、あいつの昔の恋人に生き写しでんねん。あんたが、優しゅうしてさえやってくれたら、それだけであいつ、満足ですねん。もう、あんなあほなこと言いまへん、手ェ握るだけでも……。お願いだす」
必死に頼む八郎の願いに彼女は、黙ってうなずいた。
「その代わり、私がここを出るまで、だれも入ってこないようにしてください」
こう言いおくと、美奈はドアの奥へ消えた。
ほっとした二人は、いすに座った。
「やっぱり、美奈ちゃん、ええ娘やなあ。手ェでも握って、優しい言葉をひとつかけたってくれたら、あいつもうれしいやろ。それだけで満足できるはずや」
肩を落としながらも、八郎はしんみりとつぶやいた。
「そうや、吉ちゃんもあんなこと言うたけど、八ちゃんの手前、照れてただけやったんかもしれへん。横にいててくれるだけで、うれしいやろ」
勝も、同じ思いだった。
「そやけど、則子さん、遅いなあ。早よ来はれへんかなあ。間に合えへんやんか」
勝が、廊下の窓から玄関を見下ろして、いらついた。
「病院の人が、夜中に電話した言うてるから一番のバスに乗ったはずや」
いらいらと貧乏揺すりをしながら、八郎も時計ばかりを気にしていた。いくら早くても三時間はかかるだろう。病院に着くのは、九時ごろか。それまで持てばよいが。ただ一人の身内に最期を看取らせてやりたい。なんとか、それまで、と彼らは、心から祈った。
間もなく、ドアが開いて美奈は部屋から出てきた。しかし、二人には何も言わず、そのまま立ち去って行った。手には、聴診器もカルテも携えてはいなかった。彼女はただ吉造を見舞うだけに、病室を訪れたようだった。
彼らは、静かに病室へ入った。吉造は苦しみがやや治まったようすで、薄目を開けこちらを見た。八郎らの胸に熱いものがこみ上げてきた。
「どうやった。美奈ちゃん、きれいやったか」
八郎の問いに、吉造は目でうなずいた。
「そうか、よかったなあ。親切にしてくれたか。そうか、そうか。良かったな、良かったなあ」
そのとき、勝が場違いな質問をした。
「美奈ちゃん、見せてくれたか?」
八郎が、叱責した
「あほか。こんなとき、そんなん聞いてどないするねん。美奈ちゃんが、そんなことしてくれるはずないや……?ええっ? 見せてくれたんか」
消えゆく力をふりしぼって、吉造は首を縦に動かした。
「どんなん着けてはった?」
八郎は、勝を振り返った。しかし、勝の顔は、いやらしいものではなかった。目をいっぱいうるませながら、吉造を見つめている。悲しくならないよう、必死でこらえようとしている顔だった。吉造の魂を引き留めようと声を出しているだけだった。別段そのときの様子を知りたいわけではなかった。
「シャ、シャ……」
吉造が懸命にしゃべろうとした。驚いた八郎が顔を寄せた。
「シャネ、シャネ……、ゴバン、ゴバン……、シャネ……ゴバン」
「何やて、シャネて何や。ええっ、ゴバン、ゴバンて、ああそうか、家にある碁盤のことか。よっしゃ、持って来たる。持って来たるで。あかんわ、まあちゃん。吉ちゃんもう、頭がおかしゅうなってしもうとるわ。ようわかっとらんのや。何や、何が言いたいんや、吉ちゃん」
しかし、吉造にはもうしゃべる元気が残っていなかった。ただ口をかすかに動かしているだけだった。
「よっしゃ、よっしゃ。続きはこの次にしよう。楽になったんやったら、ちょっと寝よ。な、また明日もあるしな。なッ、な」
八郎がなだめると、吉造も安心したかのように目をつむり、ぐったりと頭をまくらにもたれかけさせた。
彼を寝かせて、二人は部屋を出た。それが、生きている吉造を見た最後になった。いったん、自宅へ帰った二人が、則子からの急報で病院へ駆けつけたときには、彼はもう帰らぬ人となっていた。則子が兄のもとに着いて、まもなく彼女に見守られながら息を引き取ったという。安らかな死に顔だった。
八
葬儀は、天宝寺で行われた。先日の留守番のお礼ということで、サービスしてもらい、お坊さんのたくさんついた、少し豪華なセレモニーとなった。住職が、彼らのけしからぬ振る舞いを、つゆほども知らなかったのは言うまでもない。
その日は、いい天気だった。玉砂利に散り敷いた紅葉をさくさくと踏みながら、参列者たちは本堂へと向かった。やわらかな秋の日差しに照らされ、村井吉造告別式会場と墨痕あざやかに書かれた看板の白さが目にしみた。菊花に囲まれた祭壇の吉造が、写真の中で笑っていた。
式が始まると、舞っていた風がぴたりとやみ、静寂があたりをつつんだ。境内の樹林を通して導師の声が厳かに流れていった。
焼香を済ませ、堂内から外へ出た八郎の目に、片隅でたたずんでいる美奈の姿が映った。数珠を手にした黒いスーツ姿の彼女は、美しかった。
彼は、彼女のそばへ行き、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。おかげであいつは満足して天国へ行くことができました。本当に、何とお礼を言ってよいか」
美奈は、少しはにかみながら礼を返した。
「ほんまに、うれしそうでした。あなたを、昔の恋人と思ったのでしょう。後で部屋に入ると、目に涙をためて感謝してました。でも、もう意識も混濁していたようです。わけの分からぬことを言うだけでした」
八郎の言葉に、彼女はちょっとけげんな顔つきで答えた。
「そうですか。私がいたときは、まだしっかりしておられました。か細い声ながら、少しお話しもできましたわ」
八郎も、首を傾げた。
「いや、あのあと、失礼でしたが、美奈さんが優しくしてくれたか、て吉造に尋ねましてん。そしたら、言うことを聞いてくれはったいうて、涙をこぼして喜んでますねん。それで、こいつが、美奈ちゃんどんな姿やった……、いや、すみません。いらんこと言うて。いや、そのときに、あいつ、訳のわからんことを言いよりましてな」
「どんなことを」
少し困惑顔で彼女は尋ねた。
「いや、シャ、シャ、シャネ、ゴバン、ゴバン。シャネ……ゴバン、と繰り返してましてん。その意味がわかりまへん」
八郎は、後ろで勝が背負っている唐草模様のふろしき包みを指さしながら、説明した。
「あいつ、碁が趣味でこの碁盤を大事にしてましてん。榧製で、いいもんやからと自慢してましたんで、それに未練があるのかと思うて持ってきましてん。そやけど、こんなん棺の中へ入らへんし、入っても火葬場の方で受け付けてくれへんというので困ってますねん」
これを聞いた彼女は、口の中でその言葉を繰り返した。
「シャ、シャネ、ゴバン。シャネ、ゴバン。シャネ……ゴバン。シャネルのゴバン。あの人香水を持っていたから、シャネルの五番のことかしら。……あっ」
「えっ」
美奈と八郎が、その意味をさとったのは、同時だった。美奈は、耳まで真っ赤になり、下を向いてしまった。
八郎は、大きな声で叫んだ。
「そ、そんな。そらあ、ひいきや、えこひいきや。何も、そこまでしてやらんでも。そんなんやったら、わし、あいつを放っといたるんやったのに。ずるいわ、こすいわ、あいつ」
「だって、だって。そんなこと言うても……、あの人あんまり可哀そうだったんだもん」
うつむいた彼女は、真っ赤になってもじもじしながら答えた。
「あんた、もしかしたら」
あることに気づいた八郎が、美奈に声をかけたとたん、
「ウチ、知らん」
彼女はこう言い放つと、足早に山門をかけ下りて行ってしまった。
「何やねん、シャネルの五番て。わし、いっこも分からへんやんか。自分らだけで、話しして。わしにも、教えてえな」
勝が、いつものように口をとがらして、八郎をせっついた。八郎は、いら立ちながら怒鳴った。
「そんなん、わからんのか。シャネルの五番も知らんのか」
「シャネルの五番くらい、わしでも知ってるがな。香水のことやがな」
勝は、ばかにするなという顔で反論した。
「ほんなら、マリリン・モンローの話ぐらい知ってるやろ。モンローが記者に、ベッドでは何をつけてますか、と尋ねられたときのこっちゃ」
「知ってるわいな『シャネルの五番よ』と答えたたんやないか。有名な話や。要はすっぽんぽんいうことや……。あーっ。そ、そんなん、そんなんありかぁ。そらあ、あかんわ。わしは、下着姿やいうので、あんだけ頑張って手伝うたったんや。そやのに、あいつだけそんなええもん見せてもろうて。そらあ世間が許さんわ!」
世間が許す許さないの問題ではないだろうが、二人は吉造のラッキーぶりに納得できず、お互いに当たり散らした。
「そんなら、この碁盤はどうなるねん。重たいのをせっかく持ってきたのに、どうしたらええねん」
「そんなん、知るか。どこか、そこいら辺のどぶへでも捨ててまえ」
「そない言うたって、ニュータウンにはどぶなんか、あらへんがな。みんな下水になってしもうて、上から見えへんわ」
「ほんなら、マンホールでも探して、その中へ放り込んでまえ」
と、彼らが騒いでいる空を見上げますと、なんと、吉ちゃんがまだお寺の上を、海遊館のクラゲのようにふわふわと、浮かんでいるではありませんか。もう、すでに天国へ着いてなければなりませんのに、おかしなことでございます。ではちょっと、吉ちゃんの所まで上ってみましょう。
あ、これは駄目でございます。目がまだハートマークになったままですわ。美奈ちゃんを拝んだときの余韻がとけていないのでございます。そういえば、さきほど一度神様が舞い降りてこられましたが、この様子を見て、また去ってしまわれました。
これでは、まだまだ暇がかかるものと思って、次の順番になっている隣町の、お重ばあさんの方を先に迎えに行かれたものとみえます。
そういえば、向こうのふろ屋の煙突のところを、神さんに手を引っ張られて上って行きますのは、お重さんではありませんか。なにやら、ウチよりあっちの天宝寺のやつの方が先やないかと、ごねているようでございます。人間八十、九十になっても、いや百におよんでも、お迎えのときは、まだちょっと早いのと違うかと感じるものなのでございましょう。
ところで、なぜ、美奈ちゃんは吉造に対し、あのような美しい行為におよんだのでございましょう。彼女の言うように、可哀そうだったからでしょうか。それとも、八郎らの作戦が功を奏したのでしょうか。
いえいえ、筆者はそうは思いませぬ。それは、彼女が吉造に淡い恋心を抱き初めていたからでございます。えっ、年が違いすぎるからおかしいと、おっしゃるのでございますか。いえ、それは、ほら、八郎も話しておりましたではございませんか、恋は思案の帆掛け舟って。それが証拠に、境内の遠くの方から吉造の葬儀写真を見る美奈ちゃんの目の片隅に小さなハートマークが浮かんだのを、筆者は見逃しませんでした。
そうそう、神様が降りてこられたとき、失礼ながら腰にさげておられました「誕生及運命予定表」を見させていただきましたところ、吉ちゃんは来世において美奈ちゃんと結ばれることになっておりました。夫婦は二世とか申します。これで彼は少なくとも二度の人生をさびしい思いをせず、幸せに過ごすことができるというわけでございます。よかったですね。
しかしながら、二人は年代が少しずれていて、吉ちゃん少々の間天国でスタンバイしなければなりません。だから、そう慌てて上っていくこともないので、神様も彼を急がせないのでございましょう。
そして、いま一度下界を見渡してみますと、八郎は横の松の木に巻いてある菰を腹立ち紛れにたたき回っております。勝はというと、ああ、いました、いました。碁盤を包んだ大きなふろしき包みを背負って、マンホールがどこかにないか探しているようでございます。
神様のお話によりますと、彼ら三人組は次の世でも、近所同士に生まれることになっておりますそうで、またもや徒党を組んで暴れ回るのはないかと心配しておられました。いやはや。
(「ぼくらは前期高齢少年団」完)
〔この物語はフィクションであり、実在の人物、団体とは関係ありません〕
次の作品もよろしく。
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