母さん
思い出せないことってありますよね。
昨日の晩御飯とか。
こんな浮足立った気分になるのは久しぶりだった。昔、何かの絵のコンテストで賞を取った時のことを思い出した。あれはいつだっただろうか。確か、母さんが笑顔でほめてくれたから…。いや、泣いていたんだっけ。何も言わなかった気もする。
まず、母さんはどんな顔だったかが思い出せない。まるで靄がかかったかのような、うっすらとしていて体型さえも分からない。
そもそも、母さんと呼んでいたのだろうか。ママは違和感を感じるし、お母様と呼ぶような家庭ではなかった、はずだ。
あれこれと記憶を遡っていると、ふと姉がいたことを思い出した。彼女なら、母さんを覚えてるかもしれない。ひょっとしたら、写真か絵を持っているかもしれない。
通信機に手を伸ばしかけ、やめた。姉の顔も名前も覚えていない。そのどちらかさえ覚えていたら、連絡できるのに。いや、もしかしたら姉なんかいなかったかもしれない。
段々気分が悪くなってきた。
僕は考えるのをやめて、絵を描こうと思った。さっきの少女と売人の姿を描けばいい。ついさっきのことだから、鮮明に覚えている。まるで溶けるかのような少女と人形のような黒服。黒服はいきなり生命を持ったかのように動き出す。少女は日差しに溶けた。
ジリリリリリ…
何の音だ。せっかく絵を描こうと思ったのに。五月蠅くて騒がしい。音のするほうを見ると、古い通信機が懸命に叫んでいる。消えそうなほど弱く赤く点滅するボタンを押すと通信機はまた押し黙った。
「何年ぶりかしら、カレンダーがあのときのままね。」
突然隣に現れた半透明の人間が顔を覗き込んでくる。仕方なくペンを置いた。
「それなら十年ぶりだろう。そのカレンダーは十年前のものだ。」
色白の丸い顔はクスクスと笑う。
「あら、違うわ。三十年ぶりよ。だって、今はハイドーの年ですもの。あのカレンダーはゼングレアの年のものだわ。」
「今年はハイドーなのか。てっきりセルドかランズーレだと思っていたよ。」
「いつの話よ。それはもっと昔だわ。」
「それより、君は何をしに来たんだ。」
彼女は目を大きくして驚いたが、すぐにクスクスとまた笑い出した。
「なにって、息子の誕生日を祝いに来たんじゃない。」
そういうと彼女は、部屋に散らばる僕の描いた絵を眺め始めた。僕とのおしゃべりはもう飽きてしまったらしかった。どうせ、ここに来たのもただの気分なんだろう。なんたって僕らは三十年会ってないらしいのだから。
僕は部屋の中をくるくると歩き回る彼女の姿を観察した。彼女は僕のことを息子といった。つまり、彼女が母さんなのだ。確かにしっくりくるような、だが本当に母なのかはわからない。彼女の気まぐれな冗談かもしれない。なぜなら、彼女の顔は確かに見覚えがあるのに、母さんの顔は思い出せないのだから。
「ねえ、それはなあに。」
いつの間にか僕の隣に戻ってきた彼女は、仮に母さんは、机の上の絵を指さして言った。それは、まだ描きかけのあの二人の絵の下書きだった。
「これは、その、チョコと機械の絵だ。」
ただの思い付きだった。なんとなく、少女のことを母さんに入ってはいけないような気がして、咄嗟に思いついたのがこれだっただけだ。母さんは、へーっといったきり興味を失ったのか、また、周りの絵を見始めた。なぜだか、体に力が入らず、動くことができなかった。絵の続きを描くことも、母さんに話しかけることもできず、ただ目だけを動かし、母さんの後を追っていた。動くたびに揺れる短く、少し癖のある髪を見ているとなにか大切なことを忘れているような気がする。なんかを僕に伝えようとするかのように、心に媚びてまとわりついてくるような感覚だった。
気が付くと母さんの影は消えていて、部屋に夕日が差し込んできていた。机の上にはぐしゃぐしゃと鉛筆で書かれたなにかの残骸が残っていたが、それがなんなのか僕には思い出せなかった。