最初の刺客が現れた日
はぐれの森から帰還した僕は、いつもの安宿のいつもの小部屋で、紋様の補充に勤しんだ。
もちろん、何時間もの間神経をすり減らしてペンを走らせ続ける様な真似をしなくても、創造の魔法を使えば数十秒で紋様を作り出す事が出来る。でも、魔法が使えない時もあるだろうし、呪文を唱える数十秒が命取りになる可能性だってあるのだ。手間を惜しんでる場合ではない。
何より僕は、いつ魔族に襲われるか分からない立場なのだから、備えが多い方が良いに決まっている。
カグラさんたちによると、魔族というのは、魔物の中でも知能を持っている者たちが、好んで自称する呼び名らしい。
黒い森の奥では、稀に魔族に遭遇したという話があるそうだ。
でも、魔族に遭遇しておきながら、無事に帰って来れる場合の方が少ないだろう。実際に魔族に出会った冒険者の数は、思ったより多いのかも知れない。ただ、生きて帰って来られなかっただけで。
魔族に変な目の付けられ方をした僕だけど、こうして生きていられるだけ、まだ幸運なのだろうか。
でもこのままだと、遠くない未来に、僕は魔族の餌食になってしまうだけだ。
少しでも生き延びる確率を上げる為に、新しい魔法を身に付けたい。そう思って、社にお参りに行こうとした。しかし驚いたのは、その費用が最低でも金貨10枚かかるという事だった。
はぐれの森の探索でカゲロウさんに協力した件の報酬は、金貨3枚。探索の案内役としてなら破格の金額だけれど、使った紋様の枚数を考えると、超が付く大赤字である。それでも、カゲロウさんが必死に捻出してくれたお金だ。
もちろん僕の場合、紋様は完全に自作なので、お金はほとんどかかっていない。だから金貨3枚しかもらえなくても、文句はなかった。ましてや、なけなしの金貨3枚を僕に渡す時に、あのクールなカゲロウさんが涙目になっているのを見てしまっては、文句が言える筈もない。
ウェイカーンでは数少ない魔鉄級冒険者が、こんな貧乏でいいのかと思うけど、それだけカゲロウさんが清廉であるという事かも知れない。
そんなこんなで、僕の所持金は金貨10枚には届いていなかった。
しかも、一番安くて10枚という事は、もっと高いのが普通な訳で、医術神の社に参ろうとすれば、なんと金貨100枚もかかるのだそうだ。もう、無茶苦茶である。
でも、医術で身を立てられるのなら、金貨100枚ぐらい惜しくはないのだろう。定期的に社にお参りに行っていたマモーンさんが、どれだけの金貨を使ったのか、想像するだけで恐ろしい話だ。
結局、僕が強くなろうとするなら、まず必要なのはお金。
はぐれの森に毎日通って薬草採集をしていればお金は貯まるけど、金貨100枚稼ぐのには、ずいぶんな日数が必要になってしまう。
そして、それだけの時間をかけて作ったお金を持ってお参りに行っても、新しい魔法が降りて来るとは限らない。
だとしたら、危険な黒い森の方で、高額な薬草を狙うべきなのだろうか? 準備さえきっちりやってたら、ゴブリンやオークぐらい、1人でやれるのかな?
魔族に目を付けられていながら、今更ゴブリンやオークを怖がるのもどうかと思うけど、それが僕の現在の姿である。
カグラさんたちに助けを請う事も考えたけど、あの黄金猿人には、カグラさんもカゲロウさんもまるで歯が立たなかったのだ。下手に他人を巻き込んで黄金猿人の機嫌を損ねると、みんなまとめて殺されてしまうかも知れない。そう思うと僕は、誰にも相談さえ出来ないのだった。
やはり、僕自身が地道に強くなって、襲来する魔族を撃退していくしかないのだろう。
紋様を描くにはどうしても時間がかかるので、その間に剣の整備をしてもらう事にした。銀色猿人からの戦利品の1振りである。
向かったのは、以前、飛び込みで短剣を購入した武器屋。別にどこでも良かったのだけど、選んでもらった短剣の使い心地が悪くなかったので、信用出来るかなと思ったのだ。
店に入ると、以前と同じく起きているか寝ているか分からない爺さんが、カウンターの向こうに座っていた。
他に客もいないし、経営が成り立っているのか心配しながら、僕はまっすぐカウンターに向かう。
「こんにちは」
「あん?」
長い眉毛を持ち上げて、爺さんが一瞬だけ僕に視線を走らせた。
「こないだ短剣を買った坊やか。少しはマシな顔になったみたいだな」
「・・・」
嫌みを言われたのか、褒められたのかが分からず、固まってしまう僕。
「心配すんな。褒めたんだよ、ちょっとだけだけどな」
「あ、ああ、そうなんですか・・・」
「で、何の用だ?」
「あの。これを・・・」
そうだ。前に来た時も、爺さんのいい様にされて、釈然としない気分を味わったんだった。内心で愚痴りながら、僕は長剣をカウンターの上に置いた。
「あん? これは?」
「戦利品です。自分で使いたいので、整備していただけないかと思って」
眠そうだった爺さんの目が、急に鋭い光を放ち始める。
「分かってんのか、坊や? こいつぁ、ただのゴブリンやオークが持ってる様な剣じゃないぜ? どんな奴から分捕った?」
「いや。えーと・・・、正確に言うと、上級の冒険者の手伝いをした件での報酬です・・・」
「報酬だと? ずいぶん気前のいい冒険者もいるもんだな。これと同等の剣を買おうとしたら、金貨5枚は下らねえぜ?」
「え? そんなに、するんですか?」
猿人からの戦利品である剣と盾が売れたら、そこからまた追加で報酬がもらえると聞いているけど、下手をすると追加の方が多くなるかも知れない。
「ああ、良い剣だ。鋼が良い。だけど、状態が悪いな。研ぎ直しが必要なのはもちろんだが、柄も新しいのにした方がいい。それと、鞘もボロボロじゃねぇか」
「えっと、全部お願いすると、けっこう高く付いたりしますか?」
「金貨1枚ぐらいは、かかるかもな」
「あ。じゃあ、お願いします」
「坊やの割には、景気がいいじゃねぇか。
分かった。10日後に取りに来な。それまでに仕上げといてやるよ」
僕に合った柄を作る為に手指のサイズを計られてから、武器屋を退出。
次に向かったのは、紋様屋だ。
僕が買える範囲で便利な紋様があれば、仕入れておこうと思ったのである。
「こんにちは」
目潰しの紋様を買うのに、1度だけ来た事のある紋様屋。
狭くて薄暗い店内に入ると、カウンターの向こうに神経質そうな男が座っているだけだ。
武器屋では、店内に多少の見本が飾られていたけど、ここでは、紋様の見本は一切置かれていない。
見本があれば、僕には記憶し放題で助かるんだけど、要するに、それが見本の置かれていない原因の1つでもあるのだろう。僕と同じく記憶の魔法が使える人もいるかも知れないし、最初から異常に記憶力の良い人もいるのだ。
そして、使おうと意識して魔力を流し込むだけで発動する紋様を、誰でもが触れられる状態で置いておけないというのが、最たる原因であろう。
「金貨3枚ぐらいまでで、1人で森に入るのに便利そうな紋様はありませんか?」
僕の問いかけに、カウンターの向こうの男は、面倒そうに表情を歪めた。片眼鏡をかけ、30代のひょろりと痩せぎすの風貌は、まるで役人の様だ。
「それは、魔物と戦う時に戦力になるという意味でしょうか?」
「そういうのも欲しいですけど、一番助かるのは、野営の時に危険を察知して知らせてくれる様な物なんですけど」
「つまり、自分が寝ていても、代わりに見張りをしてくれる様な物ですか?」
「あ、そうです、そういう物があれば」
やはり単独で森に入る際に、まず問題になるのは、寝る事が出来ないというものだ。
はぐれの森で薬草採集をするぐらいなら、1晩か2晩徹夜するのも不可能ではない。でも、魔物を討伐するとなると、肉体的にも精神的にも凄い疲労を負う事になる。それで夜間に寝ずに済ます逞しさは、僕にはまだまだ縁遠い。
接近感知とか聴雷なんて魔法もあるけど、どちらも術者が眠っていては役に立たないのだ。
「だとしたら、金貨3枚で夜鳴き鳥の紋様がありますね。目に見えない人工精霊を作り出して、見張りをさせる物です。1晩しか保ちませんので、気楽に使える訳ではありませんが」
確かに、野営をする度に金貨を3枚も使っていたら、永久にお金なんて貯められないだろう。しかし創造の魔法を使える僕なら、そんな心配をする必要はない。
「魔物が近づいて来たら、その精霊が知らせてくれるんですか?」
「ええ。小鳥の様な声で知らせてくれます。他にも、簡単な命令なら聞いてくれますよ。水場を探す程度の事ですが」
ずいぶんと便利な紋様らしい。色々と重宝する事になりそうだ。
「買います。1枚、お願いします」
「いいのですか? 失礼ながら、まだ駆け出しの冒険者の方が金貨3枚も使うのでしたら、別の選択があると思われますが」
「いえ。これが気に入りました。これにします」
「そうですか、分かりました。少々、お待ち下さい」
言うと、男は背後の扉を開けて、奥の部屋に姿を消した。
紋様の劣化を防ぐ為に、日が射さない部屋を用意しているのだろう。
2~3日でいいから、ここで働けないかな? ついつい、調子のいい事を考えてしまう僕である。
無事に新しい紋様を手に入れた僕は、いつぞやハリマさんたちを迎え撃った空き地へと向かった。
夜鳴き鳥という名前の紋様の使い心地を、確かめたかったのである。
定宿の自分の部屋に戻ってやろうかとも思ったけど、宿の親父さんや他の泊まり客に紋様を使ったのがバレる可能性もあったので、外で使ってみる事にしたのだ。他の冒険者たちに対して、手の内は隠せるだけ隠しておきたい。
冒険者になってから変に縁のある空き地に到着すると、まずは付近に誰もいない事を確かめる。
「いつ来ても、不思議なぐらいに人気がないな」
誰にも見られる心配がないと分かると、僕は懐から買ったばかりの紋様を取り出した。
夜鳴き鳥の紋様。
一辺が20センチ程の羊皮紙に描かれた精緻な図形に、目を走らせる。劣化を防ぐ為の特殊なインクが、それ特有の美しい煌めきを放つ。
まずは記憶の呪文を唱え、夜鳴き鳥の紋様を自分の脳みそに刻みつける。
続いて創造の魔法を起動。右手にある夜鳴き鳥の紋様と全く同じ物が、左手に出現する。
「では、本番」
創造した紋様に魔力を流すと、図形全体が淡い光を発し、そこから何かが遊離したのが感じられた。一瞬、小鳥っぽい影が見えた気がする。
チチチチチ・・・
小鳥を思わせる声だけが、くるくると僕の周りを飛び回る。
ここで、この目に見えない人工精霊に指示を出せばいいらしい。
「僕に敵意を持っている者が近づいて来たら、教えてくれる?」
チチ!
了解した様に鳴くと、人工精霊の気配が遠ざかる。
これで、数時間は飛び回りながら、僕の周りを警戒してくれるのだろう。
が。
チチチチチ!!
人工精霊が空き地の一点に停止すると、けたたましい声で鳴き始めた。
え? いきなり反応あり?
しかし、ここに誰もいないのは、さっき確認したばかりだ。
ならば、蛇とかネズミとか、身体の小さな物が雑草の陰に隠れているのか?
僕は短剣を抜くと、聴雷の呪文を口にした。
ぱしっ――――!
僕を中心に、細い細い雷が無数に放たれる。
その雷に、誰かを傷つける程の威力はない。が、生きている物がその雷に触れると、たちまち僕にそれが伝わるのだ。
ごく近い距離にしか効果はないけど、戦闘中にでも使える優れ物の魔法である。
そして聴雷は、人工精霊が騒いでいる場所に、やはり何かが潜んでいるのを感知した。
相手も、自分が聴雷の魔法に感知されたのを察した様だ。小さな身体がびくりと震えたのが分かった。
「き、気づかれたニャ・・・」
不意に聞こえて来たのは、子どもの様なか細い声。
「ニャって?」
「仕方ないニャ。ここでやるしかないニャ!」
「だから、ニャって?」
小さな身体が、雑草の陰から勢いよく飛び出した。
真っ直ぐ、僕の顔面へ。
聴雷でその動きを捉えた僕は、間一髪上体をひねって、その突撃をかわす。
が、頬に生じたのは、鋭い痛み。
爪か何かで切り裂かれたのだ。
かわすのが遅れていたら、目を潰されていたのかも知れない。
いきなり、洒落にならない展開である。僕の全身から一気に汗が噴き出した。
「か、かわされたニャ」
そう言って、そいつが僕の周りを走り始める。
人間の言葉を喋る、こんな小さな生き物って何だ?
いや。それ以上に問題なのは、いまだにそいつの姿が僕の目に見えないって事か?
僕は、懐から紋様の描かれた羊皮紙を取り出す。こういう時に一番頼りになる目潰しの紋様だ。
そこへ、また小さな影が襲いかかる。
狙いは、紋様の羊皮紙。
気づいた時には、目潰しの羊皮紙はズタズタに切り裂かれ、ついでに僕の左手の甲からも血がしぶいていた。
速い!
顔の高さまで跳躍して来たのはギリギリかわせたけど、腰の高さぐらいまでの跳躍だとそいつの速度が勝っていて、僕の反応が間に合わない。
続く3度目の攻撃に必死に短剣を合わせようとしたけど、今度は右手に手酷い痛みを感じて、僕は短剣を放り出してしまった。
見ると、右手の指や甲が血塗れだ。
うおっ、まずい!
そいつは、僕から攻撃手段を奪った上で、とどめを刺す気なのだろう。
着地したそいつが、僕の周囲を走り回る。
相変わらず、姿は見えない。
人工精霊がそいつの位置を教えようと鳴き続けているけど、まるでその速度に付いて行けていない。
4度目の攻撃――――。
走り回っていたそいつが動きを一転させ、跳躍した。
今度の狙いは、どこだ?
僕は傷だらけの両手で顔面を、そして両肩をすくませて首をなんとか防御する。
その肩口に何か軽い物が当たったかと思うと、耳の上辺りに鋭い痛みが走った。
肩で防いでいなければ、首を切り裂かれていたのかも知れない。
しかしその時には、僕は1つの呪文を唱え終わっていた。
通雷の魔法だ。
その瞬間、聴雷の魔法とは比較にならない強い電流が、僕の身体から迸る。
「ウニャッ!!」
そしてその電流は、見事にそいつの身体を捉えた。
悲鳴を発し、そいつが地面に落下する。
「やった!」
電流を浴びて魔法が解けたのか、うっすらと身体が見え始めるそいつ。蒼黒い毛並みの持ち主の様だ。
そいつの動きを止める為、両手が傷ついている僕は、足を使って踏みつけようとする。
いや、半ばはそのまま踏み潰してしまうつもりだった。
人間の言葉を話した事から、こんな小さな生き物とは言え、黄金猿人に送り込まれた魔族の可能性が高いのだ。殺せるうちに殺しておくのが賢いに決まっている。
僕は足を踏み下ろし――――。
蒼黒いモサモサの毛玉。
身体と同じぐらいの長さの太い尻尾。
4本の足は長い体毛に隠されてしまっている。
大きな三角の耳。
そして、まん丸な緑の瞳。
そいつは、そのまん丸な瞳に涙を浮かべ、ふるふると震えながら、僕を見上げていた。
そんな生き物を、僕が踏み潰せる訳がない。
僕は、ゆっくりと足を引き戻した。
「・・・お前は、魔族なのか?」
「そ、そうニャ」
「金色の猿人に言われて、僕と戦いに来た?」
「そうニャ。俺様と同じぐらいの強さの相手がいるって言われたニャ」
確かに、僕の魔力量に見合う相手を寄越すと、黄金猿人は言った。
でも、それがこんな毛玉なのか?
こんな毛玉を僕は倒さないといけないのか?
そして、こいつを倒しても、また似た様な生き物が現れるのか?
それも、繰り返し繰り返し、いつまでも・・・?
ふるふると震え続ける生き物を見やりながら、僕は頭を抱えるのだった。