魔族に翻弄された日
その猿人は、巨大だった。
体長は3メートル近いだろう。
全身の体毛は黄金に輝き、均整の取れた胴体からは4本の腕が生えている。
鋭い牙を持つ猿面でありながら、その瞳に宿るのは、確かな知性。
銀色猿人と比べても、その風格はまるで別物だ。
しかし、何よりその異形さを決定づけているのは、その背中にある巨大な翼である。
腕が4本ある時点で僕の常識から外れているのだけど、そこに翼まで生えているとなると、完全におとぎ話の世界だ。
「また、ずいぶん大物が出て来たものだな」
カゲロウさんの呟きとともに、カグラさんが盾を構えて前に出る。
「アグニさんは、後方から支援をお願いします!」
恐れを一片たりとも滲ませないカグラさんの声。自分が攻撃を防いでいれば、必ずカゲロウさんが相手を倒してくれると信じているのだろう。
呪文を唱え終わったカゲロウさんが、虚空から真紅の魔剣を抜き放った。魔剣の熱が、空気を焦がす。
「準備はいいか?」
カグラさんたちを見ながら、黄金猿人が静かに言葉を発する。その 話し声を聞くだけで、僕の背筋を怖気が駆け抜ける。
「お前たちには、我の男を2人とも殺されてしまったのだからな。たっぷり相手をしてもらうぞ」
「4つ腕がお前の男? ならば他の猿人たちが、お前の子どもという訳か? つまり、奴らの母親?」
「そうだ。可愛い可愛い子どもたちまで1人残らず殺してしまいおって、我は口惜しゅうて、口惜しゅうて」
台詞と裏腹に、獰猛に牙を剥いて笑う黄金猿人。
「さあ! 我を楽しませてくれよ!!」
黄金猿人が手にしたのは、規格外に長大な両手剣。翼の間に、縦に固定していたらしい。それを上側の両腕で、ピタリと上段に構える。
銀色猿人は下側の腕で武器を操っていたけど、目の前の黄金猿人は上側の腕で武器を使う様だ。そのせいか、黄金猿人の下側の腕には、黒光りする金属製の籠手が装備されている。防御に使用するのだろう。
よく見れば、鞭のように長い尻尾にも、同じ金属製の環がいくつか嵌められている。尻尾も十分に警戒するべきだ。
黄金猿人が、ゆらりと足を踏み出す。
木々が密集した林の中では、3メートル近い巨体に長大な両手剣は邪魔にしかならない。カグラさんたちの方が有利に思える。
「ふんっ!!」
しかし、黄金猿人は木々を気にする様子もなく、両手剣を振り下ろす。
空気を裂く唸り。
木の枝が吹っ飛ばされる破砕音。
地面に剣身が食い込む衝撃。
全てが一緒くたになって、僕の全身に叩きつけられた。
「がっ!!」
思わず、2~3歩後退ってしまう僕。
とんでもない剛剣だ。
カグラさんが盾で受けず、後方に飛び下がった程である。カゲロウさんも、攻め込むのを忘れて、目を丸くしている。
「ふむ。やはり、このままでは暴れにくいな」
黄金猿人は不満げに独り言ちると、下側の両手の指を組み合わせた。
その動きには、見覚えがある。銀色の猿人がやっていた事と同じ――――。
「魔法が来ます!!」
僕が叫ぶと、躊躇なくカグラさんが盾を猿人に向けてかざし、カゲロウさんがその後ろに身を隠す。
「※※※※※※!!」
やはり、圧縮呪文だ。複雑に重なり合った複数の呪文が、高度な魔法を通常よりはるかに迅速に紡ぎ出す。しかしそれは、銀色の猿人が使った三日月形の刃を飛ばす呪文ではない。
木立の陰に隠れながら、僕は記憶の魔法を唱える。
本当に生命がけだけど、新しい魔法を覚えられる機会を逃す訳にはいかないのだ。
黄金猿人が組んでいた手を解き、左右に突き出した。
その両手から、目が眩む程の青白い光がほとばしる。
「――――!?」
同時に、すぐそばに雷が落ちたかの様な爆音が轟いた。
そして生じたのは、爆発的な突風。
僕が身を隠した木が、ドラゴンに体当たりを喰らったみたいに激しく揺れる。
「う、うわわっ!」
折れた木の枝が、ばらばらと降って来て、僕の身体を叩く。痛い、痛い、痛い。
ほんの数秒の出来事の筈が、僕には10分以上に感じられた。
魔法の余波に翻弄されながら、黄金猿人の追撃に脅える僕。目も開けられない間に、剣を振り下ろされただけで、呆気なく僕の生命は断たれてしまった筈だ。
しかし、僕が恐れる一撃が下される事はなかった。
慌ててカグラさんたちに目をやると、2人とも盾に隠れた状態で無事にいる様だ。
猿人はと思って視線を移すと――――。
「え!?」
僕の口から、驚きの声が漏れる。
黄金猿人の周囲の木立が、綺麗に薙払われてしまっていた。
下側の腕を組んだまま、悠然と立つ黄金猿人。
両手剣は、無造作に右肩に担がれている。
その巨体を中心にして。
半径10メートル近い範囲の木々がへし折れ、焼け焦げた根元付近だけを残して、見事に一掃されてしまっていた。
薄暗かった視界が急に明るくなり、一陣の風が吹き抜ける。その風に、鬣を思わせる猿人の冠毛が静かになびく。
「これで、戦い易くなったな。さあ、続きをやろうか」
「とんでもない魔力だな・・・」
さすがのカゲロウさんも、黄金猿人の放った魔法に驚きを隠せない様だ。
「1つ聞かせて欲しいのですが」とカグラさん。
「何だ?」
律儀に受け答えする黄金猿人。
「どうして、今の魔法を私たちに撃たなかったのですか?」
「ん? それはだな、一撃で殺してしまっては、お前たちの力を知る事が出来ないだろう?」
「私たちの力を知る必要があるのですか?」
「本来、お前たち程度の魔力量の人間ならば、我の男2人で十分相手に出来る筈だった。今、こうやって対峙していても、その評価に変わりはない。ならば何が実力差を覆したのか、実際に戦ってみて、我が確かめてみるしかないではないか」
なんだか黄金猿人が理屈をこねているけど、どうも話の出発点が僕たちと根本的に違うらしい。
僕たちからすれば、魔物は「倒すべき」相手だけれど、黄金猿人からすれば、人間は「戦うべき」相手の様だ。より良き戦いをする事に、意味があると考えているのだろう。
一言で言ってしまうと、戦闘狂である。銀色猿人と同じである。
危ないとしか表現のし様のない相手だ。
少しでもカグラさんたちを助けるために、僕は創造魔法の呪文を小声で唱え始めた。
「ほお? そこの子どもも魔法を使うのか?」
うわっ、いきなりバレた。
カグラさんが盾を掲げて、僕の前に回り込んでくれる。
「遠慮なく魔法を使うがいい。子どもを狙う様な真似はせん」
そう言って、黄金猿人は余裕綽々に笑う。
腹立たしい。
腹立たしいけど、僕を狙わないって言うんなら、そこにつけ込ませてもらおう。
僕は創造した筋強化の紋様3枚を、僕、カゲロウさん、カグラさんの順番に使用する。
「む?」
「え?」
「筋力を強化しました! 思いっきり、やっちゃって下さい!!」
「あ、ありがとう!」
カグラさんがお礼を返してくれている間に、カゲロウさんが迷いも見せずに飛び出した。
魔剣が紅い光を曳いて、黄金猿人の腹部に吸い込まれる。
キィン――――!!
紅い刃を弾いたのは、猿人の腕に装着された金属の籠手。
「ちぃっ!」
間髪を入れず振り下ろされる両手剣。その剛剣を、横から飛び込んだカグラさんの盾が、叩いて逸らす。いや、盾ごと両手剣に体当たりしたと言うべきか。
両手剣の一撃を流され、体勢を崩す黄金猿人。
カグラさんを猿人との間に挟んだまま、カゲロウさんが魔剣を薙ぐ。
と。
その紅い刃が鞭の様に伸びて、黄金猿人の頭部に襲いかかった。
「※※※!!」
とっさに黄金猿人の唱えた圧縮呪文は、本当にただの唸り声にしか聞こえなかった。
が、魔法が綺麗に発動し、魔剣の刃は黄金猿人の顔前で不可視の障壁にぶち当たり、跳ね返されてしまう。
物理障壁だ。僕も魔法障壁の紋様なら描けるけど、物理攻撃を阻める魔法もあったらしい。ここは、ありがたく記憶させてもらう。
刃を跳ね返されたカゲロウさんは、しかしまるで驚いた様子も見せず、連続で斬撃を叩き込み続ける。
物理障壁で防げるのは一撃だけだったらしく、両手剣と金属籠手で連続攻撃を受け止める黄金猿人。金属同士が打ち合わされる甲高い音が、怒涛となって鳴り響く。
僕が創造魔法で生み出した短剣は、銀色猿人の剣を断ち切る事が出来た。まさか僕の作った短剣より、カゲロウさんの魔剣の方が性能が低いとは思えない。つまり黄金猿人の剣と籠手が、それだけの造りである訳だ。
なぜ、魔物がそんな物を装備しているんだ?
そうやって僕が考えを巡らせている間にも、激しい打ち合いは続いている。筋強化のかかっているカグラさんとカゲロウさんを相手に、黄金猿人の動きにはまだ余裕が感じられる。
よし。
黄金猿人が僕には手を出さないという言葉を信じて、好き勝手にやらせてもらおう。コソコソしても無駄だろうと思い、僕は堂々と猿人の背後に回り込んだ。カグラさんたちは心配そうに、黄金猿人は楽しそうに、そんな僕に視線を向ける。
では、まず通雷から試してみる。
巨大な黄金猿人の背中に向けて、呪文を唱え始める僕。が、その時になって、僕に手を出さないとの魔物の言葉を、バカ正直に信じていいのかという疑念が湧き上がって来る。
猿人が振り向いて両手剣を振るえば、僕など簡単に殺されてしまうのだ。いや、金輪の嵌まった尻尾で打たれるだけでも、僕は半死半生になってしまうだろう。
それでも、猿人がカグラさんたちを相手に手加減をしているのは、間違いない。だとすれば、少なくとも猿人が満足するか、飽きるかするまでは、カグラさんたちが殺される事はない筈だ。そして、僕が殺される事も。
ええい、行け!
僕の伸ばした右手から、数条の細い稲妻が黄金猿人の背に向けて走る。
ヂバッ――――!
命中した稲妻は、猿人の黄金の体毛に沿って流れ、そして呆気なく霧散した。
「え・・・?」
「そんな弱い魔法では、痛くもかゆくもないぞ」
カグラさんたちの攻撃を凌ぎながら、ご丁寧に批評をくれる黄金猿人。
カチンときた。
あまり怒る事のない僕だけど、これはカチンときた。
創造魔法を発動。
カグラさんたちに見えない様に背後に回した右手に、羊皮紙を3枚作り出す。もちろん、紋様付きだ。
「カグラさん、カゲロウさん、魔法を使います!」
注意を促してから、羊皮紙を3枚まとめて投擲。
黄金猿人にも魔法を使うのが知られる事になるけど、間違ってもカグラさんたちを巻き込む訳にはいかない。それに、自信満々の黄金猿人なら、避けずに魔法を受けてくれそうな気がしたのだ。
そして案の定、カグラさんたちが速やかに距離を取ったのに対し、黄金猿人は振り向きもせずに魔法を受け止めた。
氷結――――。
あの銀色猿人の動きを一時的にでも止めた氷の棺が、見る見るうちに黄金猿人の下半身を呑み込んで行く。
「お? おお!?」
初めて、黄金猿人が動揺した声を上げた。
「勝機!!」
一旦距離を取った筈が、凄まじい勢いで反転し、跳躍するカゲロウさん。狙うは猿人の首。
ぎぃん――――!!
下半身を凍り付かせたまま、黄金猿人の両手剣が、かろうじてカゲロウさんの魔剣を受け止めた。
ど! ど!
肉を打つ鈍い響きが連続したのは、その刹那だ。
カゲロウさんが軽々と吹っ飛ばされる。
「カゲロウ!」
叫ぶカグラさんの目の前で、カゲロウさんの身体は受け身も取れずに地面に打ちつけられ、激しく転がった。その手の魔剣が色を失い、空気へと溶けてしまう。
「しまったな。つい、本気で入れてしまった」
黄金猿人の下側の両腕が、拳を握った形で前に突き出されていた。
魔剣を両手剣で受け止めた際に、無防備だったカゲロウさんの胴体を、両手で連続して殴りつけたのだ。
僕は黄金猿人のすぐ横を走り抜けると、大慌てでカゲロウさんに駆け寄った。
「カゲロウさん! 今すぐ法術で治しますから!!」
カグラさんが、僕とカゲロウさんを守って盾を構える。
僕はカグラさんを信じ、法術の呪文を唱え始めた。
カゲロウさんは、完全に気を失っている。
顔の色は血の気を失って真っ白になっており、呼吸が浅く速い。口元は吐いた血で汚れていた。
かなり、危険な状態だ。
魔鉄級冒険者をこうも簡単に倒せるなんて、黄金猿人の化け物振りが、ただ怖ろしい。
しかし今は、カゲロウさんを助ける事が最優先である。その化け物を倒せる可能性がある人間がいるとしたら、それはカゲロウさんしかいないのだから。
法術が発動すると、カゲロウさんの呼吸が目に見えて楽そうになった。が、失神から覚める様子はない。
受けた傷が大き過ぎたのだ。
傷口は塞がっても失われた血は戻らないし、内臓の働きもすぐには本調子にならないのである。
もっと高度な法術なら、そこまで治すのも可能らしいけど、僕は呪文も知らなければ、持っている魔力量も足りていない。生き延びられたら、真っ先に医術神の社に行こうと、改めて決意する。
「おお、法術まで使えるのか。子どもの割に、なかなかやるな」
面白がる黄金猿人の声が驚くほど近くから聞こえて、僕は慌てて振り向いた。
そして、心臓が止まりそうになる。
黄金猿人が僕のすぐ後ろに立っていて、カゲロウさんを法術で治すところを覗き込んでいたのだ。その下半身を覆っていた筈の氷は砕かれてしまっており、カグラさんが猿人の背後で身を横たえている。
「カ、カグラさん!!」
「案ずるな。今度は綺麗に気を失わせてやった。骨も折れておらんし、血も流れておらん」
目の前の黄金猿人への恐怖に堪えながら視線だけをカグラさんに向けるが、確かに出血もない様だし、手足が不自然にねじ曲がってもいない。
カグラさんが無事である事にホッとしながら視線を戻すと、黄金猿人が僕を見つめたまま、ニヤニヤと笑っていた。
「さあ、続きをやるぞ。約定通りお前には手を出さんが、女2人を助けたくば、我を満足させてみよ」
そう言うと、スタスタと歩いて、僕から距離を取る。
なんだか分からないうちに、カグラさんとカゲロウさんの生命が、僕の双肩に乗っかってしまった。
「やるしかない訳か・・・」
何もしなければ、2人の生命はないのだ。だったら、やるしかない。
僕は黄金猿人に向き直る。
「さあ、お前の力を見せるがいい」
「分かりましたよ」
呪文を詠唱。紋様の羊皮紙を3枚作り出す。
うち1枚は知覚強化だ。早速使う。五感が一気に研ぎ澄まされる。
「魔法で紋様を作っただと? あの意味の分からぬ文字の羅列を、正確に記憶してるというのか?」
「まだ終わりじゃないですよ」
再び呪文を詠唱。右手に出現する真っ赤な短剣。銀色猿人から魔力を吸収したおかげで、余裕を持って短剣が創造出来る。
「ほおほお。良いな、良いな」
相好を崩す黄金猿人。
腹が立つ。今、その表情を驚きに染めてやる!
左手で2枚の紋様を投擲。
1枚は、最も頼りになる目潰し。
爆発する光。
「ぐぁっ!」
光から顔を背ける猿人に対し、2枚目の紋様が発動。
雷縄――――。
通雷に数倍する太さの紫電が、黄金猿人の身体に絡み付く。
今だ!
「※※※※※!!」
短剣を持ったまま正確に印を組み、唱えた圧縮呪文は、三日月の刃。
銀色の猿人相手には1枚しか出せなかった刃が、2枚飛び出す。
キィン――――!!
心臓を狙った刃は、2枚とも黄金猿人の金属の籠手に命中し、砕けて消えた。
が、その時には、筋強化の効果を生かし、僕は黄金猿人の脇を駆け抜けていた。魔力の短剣を振るいながら。
手応えはなかった。でも、確実に短剣は猿人の肉体に届いた。
よし、もっとだ。
今度は奴の翼を切り落としてやる!
振り向くと同時に、黄金猿人の背中に斬り込もうとし――――。
僕は凍り付いた。
振り向いた目の前に、両手剣の切っ先が突き付けられていたのだ。
「子ども。お前の名前は?」
雷縄に灼かれながら、平然と問いかけて来る黄金猿人。
「ア・・・アグニ・・・」
「アグニ。どうやら、お前が不確定因子だった様だな」
「ふかくてい・・・いん、し?」
「お前の魔力量は正に子ども並みなのに、使える魔法が強力過ぎる。異常と言ってもいい。今の圧縮呪文は、我の男――――銀の方から盗んだ物だろう?」
僕は何も答えない。いや、答えられない。僕の答えに、猿人がどういう反応をするか予想が付かないからだ。
「まあ、良かろう。知りたかった事は確認出来た。今日のところは、3人とも解放してやろう」
「今日・・・は?」
「そう。今日は、だ。これから、アグニの前に魔族が現れる様になるのだからな」
「え? どうして? それに魔族って!?」
「我ら魔族の好物は、強者の魔力なのだ。アグニ、それに女たちの魔力では、我には物足りないのでな。だから、我は殺しはしない。その替わり、これからはお前の魔力量に見合った魔族が現れ、戦いを挑む事になるだろう」
おとなしく聞いていると、ひどく物騒な話をしてくれる黄金猿人。
こちらの都合などお構いなしに、勝手な事をまくし立ててくれる。
「しかし、アグニは魔力量に比べて実力が高いからな、しばらくは物足りない相手ばかりになるかも知れないが」
そう言って、地面から何かを拾い上げる。
腕だ。下側の左腕だ。
僕の短剣の一撃が、斬り落としていたらしい。
拾った腕を無造作に切り口にくっつけると、黄金猿人は背中の翼を大きく広げた。
「いや、ちょっと! そんな事、言われても・・・!」
「楽しみに待っておれ!」
取り縋ろうとする僕に楽しげな笑いだけを残し、黄金猿人は虚空へと飛び去った。
おおい、勘弁してくれ・・・。