魔女の記憶
家のドアを青年は恐る恐る叩きます。
最初は小さく。次は少し大きく。
何度叩いても、反応はありません。返事が返ってきません。
青年は魔女が家にいるのか不安になりました。複雑な魔法を森にかけるぐらいです。もう、魔女は住んでいないのかもしれません。
それでも、青年は諦められませんでした。
魔女を手酷く裏切り、心を深く傷つけたのは、青年です。
ドアノブを回してみると、鍵は開いていました。
青年は声をかけながら家の中へ入ります。
家の中は、青年が出ていった当時のままでした。薬草が入った瓶の棚薬。薬草を潰す道具や、煮る道具が机の上に綺麗に整頓されて置かれていました。
奥の部屋にキッチンがあり、そこからいい匂いが漂ってきます。
青年は匂いに誘われるようにキッチンへ足を向けます。
キッチンには、魔女がいました。少し痩せたように見える小柄な背。三年前より伸びた髪。髪は後ろでひとつに縛っています。
薬を作るとき、魔女は必ず髪を結んで、小さく歌声を口ずさみます。
手に大きな柄杓を持ち、大きな縦長の鍋で、なにかを煮込んでいます。
魔女は青年が来たことに気がついていません。柄杓で力いっぱい混ぜています。
魔女が吹き出た額の汗を拭くと、青年に気がつきました。
「お客さん?」
魔女はめかしこんだよそ行き用の笑顔を青年に向けました。長い髪をひとつに結んだエプロン姿は以前と変わりません。
「いや……違う」
魔女はお客じゃないならなんだろうと小首をかしげ、焦げ付く臭いに慌てて鍋の中を杓でかき回しました。
青年の否定は聞こえていないようです。
「もう少しで、このお薬が出来上がるの。待っててもらえる?」
魔女はドロリとした半透明の液体をスプーンですくい、一口飲んでみます。
「うん、できた」
魔女は納得した表情でスプーンを片付けて、鍋を火から下ろしました。今度は鍋を水をたっぷり入れたたらいに入れて冷やし始めました。
均一に冷やすには、杓を回し続けなくてはいけません。魔女は杓を動かす手を止めません。
「お薬をほしいんじゃないなら、こんな、誰も寄り付かない魔女の森へなんの御用かしら?」
魔女は青年に初めて逢ったかのように振る舞います。
青年と逢ったことがあるにも関わらず。
「その薬は?」
「貴方に関係のないものよ。御用件がないなら、出て行ってもらえる? 私、忙しいの」
魔女は青年を一度も見ません。
鍋をじっと見つめ、液体の変化をつぶさにみています。
その後ろ姿は以前と変わらず、とても華奢です。どこから量の多い薬の液体をかき回す力が出ているのか、青年にはとても不思議です。
「ここで、働かせてもらえませんか?」
きつと声で気づいてくれるはず。
そんな思いで、三年前に家に訪れたときと同じ言葉を言いました。気がついてほしい。思い出してほしい――一緒に働いた青年のことを。
むしがいいのはわかっている。愚かなのも気づいている。それでも、気づいてほしい。
「お断りします。そのような御用なら、お帰り下さい」
青年の想いは魔女に届きません。魔女は青年を一度も見ることはありません。彼女は出来たばかりの薬をすくって大瓶にうつしています。
「僕のこと、覚えていない?」
青年は魔女にひどい仕打ちをしたのです。拒絶されても仕方がありません。
魔女は手を止めて、振り返りました。三年前より少し大人びた表情。長く伸びた前髪は切っていないようで、片耳にかけていました。
三年前と変わらない薄い水色の瞳が、青年をじっと見つめます。しかし、すぐに眉を潜めて、鍋に向いてしまいました。
「あなた、誰? あなたなんて知らないわ」
青年は瞬きを一瞬忘れてしまう程に衝撃でした。
聞き間違いかと、耳を疑います。
「三年前、一緒に住んでいたのだけど、覚えていない?」
思い出してほしい。
あんなに、楽しく過ごした日を。
魔女はもう一度青年を凝視して、首をかしげました。
「貴方と暮らした覚えはないわ」
青年の願いは届かず、ばっさりと切り捨てられました。
「本当に覚えてない?」
「知らないわ。もう、帰ってもらえる? 用のない人の相手はしていられないの」
嘘だと思いたくて、もう一度念を押すように聞いて、邪険にされてしまいました。
魔女はとても迷惑だと、露骨に顔にでています。
けれど、青年はここで諦めることは出来ません。やっと、彼女と逢えたのに、あっさりと引き下がれません。
「……君と同じ薬を僕は作れる。作り方も知っているよ」
最終手段としてとっておいたことを告げました。
これには魔女は驚きを隠せません。なにせ、誰にも教えていないからです。
「そんなことないわ。私以外知らないことをどうして貴方が知っているのよ」
「僕がここで、キミから教えてもらったからだよ」
魔女は動揺しました。
彼と暮らした記憶はありません。
「貴方と話している暇はないの。お客様がくるので、出ていって下さい」
青年は魔女が誰のことを言っているのかすぐに分かった。定期的に薬を求めて来る少女のこと。
迷いの森となり、一時期青年の店へ来ていた。青年が店を閉じてしまい、今はどうしているか知らない。
「僕が、いつも来る少女の薬を作るよ。僕に任せて」
「いえ、結構です」
魔女はぴしゃりと言って断ってしまいます。室内にたたずむ青年を家の玄関から追い出して、ドアに鍵をかけてしまいました。
青年に玄関は開けてくれそうもありません。
青年も諦めるわけにいきません。森の外で魔女の薬を待っている人がいるのです。
青年は仕方なく、魔女の玄関が見える木の根元に腰を下ろしました。戻って、また来れるじしんがあまりにもなかったからです。
玄関の鍵が開くのを待つしかありません。
青年は魔女とのやり取りを思い出します。
とても、青年のことを覚えているように思えません。
青年が家を立ち去ってから魔女になにかが起きたのです。
そうじゃなければ、忘れられてしまった事実を、どうしても受け入れられません。
青年は魔女と暮らしていた、魔女の調合法を奪おうとしていた頃のことを思い出します。そこに、魔女が思い出すなにかヒントがあれば、この状況を変えられるかもしれません。
魔女と出会い、薬草とりに行き、村へ行って、食料を調達した後、家で薬草を煎じ、叩き、煮つめます。
その行程、生活の中でポロリと言っていないのでしょうか。
別れを告げるその日まで、何度も繰り返し過去を思い出してみます。
思い出の中に、ヒントはなにひとつありませんでした。