機人変心
「鼓膜の損傷による一時的な難聴です。自然治癒と共に聴力も回復するかと」
ドアの傍に寄りかかっていたトウは、オゾンの言葉を聞いて顔をしかめた。
オゾンは布団の上に座っているアキラの手に薬を塗り、動きを阻害しないよう関節を避けて包帯を巻いていく。
「……適当なサイバネでも付けておけ。完治を待っている暇は無い」
「了解しました。アキラ様がご了承されたら、即座に手配を行います」
包帯を巻き終えたオゾンは、今度はタブレット状の端末を手に取った。
聴力を失っているアキラに、傷の状態とトウの提案を文字として表示して示す。
「……悪いが、これ以上体を弄ろうとは思わない。手間をかけるのは申し訳ないが、治るまで筆談で頼む」
「既に頭に穴を開けているのに今更何を……一々伝えなくていい」
トウは端末に言葉を逐一入力していたオゾンを制止し、部屋から出て行った。
既に入力を終えていた文章を消去し、オゾンは新たに短い一文を表示させた。
『何かありましたらお呼びください』
「分かった。ありがとう」
片手を上げて応答したアキラに一礼し、部屋を去る。
去り際に振り返れば、部屋の隅に蹲っていたコロナが何か言いたげな表情で見ていた。
「何か?」
「……別に、なんでもないです」
そう言って、コロナはオゾンから目を逸らした。
「そうですか」
明らかになんでもない態度ではなかったが、その事を追求する程、他者に対し踏み入るようなAIをオゾンは持っていなかった。
さっきの治療で減った鎮痛剤を補充しなければいけない。
あのマシーナリーが主と会話をするための端末も必要だ。
データベースのアップデートも行わなければ。
今、最優先で行うべき事は何か。
オゾンが考える事は、ただそれだけだった。
既に設定しておいた行動を自動で行いつつ、思考は全く別の事を考え続ける。
オゾンは自室の隣、電子ロックがかけられた彼女以外が立ち入る事の出来ない部屋の前で立ち止まった。
延髄部分から伸ばしたケーブルをコンソールへと挿入し、数秒動きを止める。
赤い光を灯していたランプが、緑色へと切り替わる。
延髄へとケーブルを戻したオゾンは、極自然な仕草でドアを開けた。
電気の付いていない、暗い部屋。
蓋も何も付いていない箱から取り出した髪留めで、オゾンは金色の髪を無造作に纏めた。
安物のジャージを脱ぎ、箱の中へと放り込む。
一糸纏わぬ姿になったオゾンの体が、ドアの曇りガラスから僅かに差し込む光にぼんやりと照らされた。
肩や手首、足など各部に分割線が残るマネキンのような体が、自らのメンテナンスを開始する。
跳ねた泥や雨の跡を拭い、人工皮膚を防護するためのオイルを全身へと塗っていく。
指の先から体の中心にかけ、関節の挙動を確かめつつ、オイルが馴染むのを待ち続ける。
何も問題は無い。腕部に収納されたライフルも、異常無く動作する。
オイルが馴染んだ事を確認してから、ハンガーにかけてあったシャツへと袖を通す。
飾り気の無い、無地の黒いTシャツの上に、地味な色合いのジャケットを重ねる。撥水性のスキニーパンツを履き、ショートブーツによって足までも隠す。
首から下を全て覆い、ようやく人と変わらない姿のマシーナリーへと戻ったオゾンが、ドアノブに手をかけ、何かを思い出したかのように停止した。
頬に手を伸ばし、指先でむき出しのフレームに触れる。
銃弾によって皮膚を削がれたオゾンの頬は、未だにそのままだった。
オゾンは、地下鉄での会話を思い出す。
マシーナリーの損傷は珍しい事ではない。
接客用に人好きする笑顔を象るマシーナリーが通り魔に襲われ、それでも修復されないまま歪な笑顔を振りまいている事も多々ある。
だが、あの人は、この程度の損傷も気になるらしい。
顔をしかめるというのは、不機嫌である事を表す行為であり、主を不機嫌にする事はマシーナリーの行動原理に反する。
それならば、この損傷も修復しなければならないだろう。
新たに増えたタスクを整理しながら、オゾンはビルを出て、目的地へのガイドを表示した。
道を行く人の波に逆らわず、流されるように現在地から目的地へのリンクを行う。
最短距離での移動を設定されたボディは、オゾンが他の事に思考容量を割いても自動的に目的地への移動を続ける。
そのような事をしながらも、オゾンをはじめとしたマシーナリー達はバッテリー切れによって停止する事はまずあり得ない。
地中に埋められたケーブルや、街中に点在する電波塔から常に充電を受け続ける事で、マシーナリーは止まらず動き続ける。
治安維持組織所有のドローンが頭上を飛んでいく。それを感知しながらも、オゾンはそのドローンへと意識を向けることは無い。
たった今すれ違った女も、自分と同じマシーナリーである。だが、だからと言って感慨も何も無い。
オゾンもそれらのマシーナリーも、プログラムされた事、あるいは所有者から受けた命令を行う為だけに動いている。
体は足を止めぬまま、オゾンのAIは過去の記録を再生する。
売りに出されていたオフィスビルの付属品であったオゾンは、義肢を付けた隻眼の男がビルの所有者となると同時に、その男の所有物となった。
その日からオフィスのフロアは次々と機械に埋め尽くされ、それらの管理がオゾンの仕事となった。
名前すら名乗らない所有者は何か事情を抱えている様子だったが、オゾンにとって、所有者が善人であるか悪人であるかは無関係だった。
ただ、命令を与えてくれる存在であればそれでいい。
過去から来たと自称する男も、同様だった。
識別番号を持たないその男を認識できるものは、顔と声紋のみ。所有者として正式に登録する事は不可能だが、命令を受けるだけならば何も問題は無かった。
そして、オゾンの内部で行われていた記録再生は、一つの単語へ辿り着くと同時に停止した。
ケーキ。
それは、未知の単語だった。
発言者の説明によれば、それは食品であるようだが、データベース内に該当する物は無かった。
そもそも、文明が生まれてから現在に至るまで、人間の作った料理はあまりにも多く、全てを網羅する事は難しい。
一人目の所有者であるトウは、食品に関する興味が無いため、こちらもそれらに関するデータを持つ必要は無かった。
だが、二人目の所有者は違う。通常の人間と同じく、食事を行い、嗜好品も必要とする。
オゾンは、自らの役割を理解している。そしてマシーナリーである以上、要求される物を予想し、即座に対応しなければならないとも、理解している。
食品、あるいは人類史のデータを更新する必要がある。
薬品や携行食糧などを入れた袋を手に、いつの間にか立ち止まっていたオゾンは、そのような結論を出していた。
あけましておめでとうございます。




