雨と煙草 二
鮮やかな青に包まれた空間に、巨大な白い壁が立っている。
上下左右どこを向いてもその端はとても見えそうに無い。
右手を壁に向かい差し出すと、その手に大量の鍵が付いた鍵束が現れた。
その内の一つを適当に選び、壁へと向ける。
無音。これではない。
次の一つを同じように壁に向ける。
同じように無音が続く。
黙々とその作業を繰り返す。
鍵束の半分を消化したところで、耳鳴りが聞こえ始めた。
急がなければならない。
右手に汗が滲み、0と1の羅列となり蒸発していく。足先から力が抜ける。
見れば、既に足の指は数本が0と1の羅列へと変換されている。
体の末端から生じた無数の01は、螺旋を描きながら空を漂い、消滅していく。
人間は、この場所に長くは居られない。
どこまでが許されるのかは知らないが、ここでの完全な消滅はおそらく、死を意味する。
せめてこれだけでも。
焦れば焦るほどに手は滑り、鍵を取り落とす。
足の甲が半分ほど消滅したところで、ようやく鍵が刺さった。
ぱちん、と言う小さな音と共に、白い壁に緑色の波紋が広がる。
一切の傷がなかった壁に、小さな穴が開いた。
それだけ確認し、右耳に繋がっていた端子を勢いよく抜いた。
「っは、かはっ、ひゅー……」
先ほどまで見えていた空間は消滅し、薄暗い自室へと視点が戻る。
手は、足は。
問題無い。五体満足な人間の物だ。
「何度やっても慣れないな……」
男はそう呟き、灰皿に置いておいた吸いかけのタバコを咥えた。
吐き気がしそうなほど不味いその煙も、今では現実に繋ぎとめてくれるような安心感を与えてくれた。
ダイブ。ジャックイン。あるいは、アクセス。
「電脳世界へと入り込む」という冗談の様なその行為は、呼び方こそ様々だが全て同じ手法で行われている。
脳の電子信号をコンピュータで用いられているものへと変換し、直接乗り込む。
脳が体を動かし、体がコンピュータを操作するのでは無い。脳を直接コンピュータへ入れるような行為。
その場所で象られる物は、全て接続している人間のイメージとなる。
同時に複数の接続があっても、全ての人間が同じ物を見ているが、その形は違う。
男は初めて電脳空間へと投げ込まれた時、床も壁も無い真っ青な空間に自身が浮いている事にパニックを起こした。
足は地に着いていないにも関わらず、落下することは無い。
だがそれは同時に歩行する手段も分からないということであった。
水中でもがくように暴れていた男は突如現実へと引き戻され、全身に汗を浮かべたまましばらく同じようにもがいていた。
今でも、戻ってきた直後は現実感を喪失していることが多い。
不気味な浮遊感と手足の喪失感を振り払うために、自傷に走ることも過去にはあった。
不味いタバコを辞められないのは、自分を現実に繋ぎとめる手段として依存しているからなのだろうと思う。
「もう一踏ん張りだ……」
まだ、ファイアウォールを突破できていない。
あの壁を越えないことには、あちら側の物を弄る事はできない。
殆ど燃え尽きたタバコを灰皿に押し付け、再び端子を手にする。
それが繋がっているコンピュータは、ブラックアウトしたまま沈黙を保っている。
底知れないリスクに怯えながらやりたくも無い事を繰り返しているのは、狂っているのかもしれない。
だが、生身では限界があるのだ。この手段を捨てるわけにはいかない。
男はそこで思考を止め、息を吸い込んだ。
目を閉じて深呼吸を一つ、二つ。
再び端子を接続する。
錆び付いた鉄の棒を直接脳に差し込んだような、不快なノイズが響いた。
重力が消滅し、上下の感覚が失われる。
足は地に着いていない、しかし、落下している様子も無い。
波も無い水中で浮かんでいるような状態が続く。
閉じていた目を開くと、そこには再び青い空間が広がっていた。
先ほど白い壁に開けた小さな穴もそのまま。そのことに男は安堵した。
この壁を抜けないことには先には進めない。
壁を抜けるための第一歩として、セキュリティを突破するための足がかりとして、僅かでも傷をつける必要があった。
その小さな穴に指を押し込み、ゆっくりと広げていく。
「向こう側」に気付かれないよう、ゆっくり、ゆっくりと。
物理法則などあったものではないこの場所では、何が起こるか予想することは出来ない。
突如この壁が全く別の物に変化するかもしれない。
背後から撃たれるかもしれない。
拘束されるかもしれない。
それらが目に見えるとは限らない。
それでも時折辺りを見回してしまうのは、人として、動物としての警戒心故だろう。
緊張感で首筋にピリピリと痺れが広がり始める。
ここは現実ではない。だが、現実の生命はここにも繋がっている。
向こう側が見えるほど壁の穴が広がったところで、両手をその穴の縁にかけた。
あるかどうかも分からない心臓の鼓動が加速する。
「っ!」
腕に力を込めて勢い良く穴を押し広げる。
人一人潜れるほどの大きさになったところで、その穴へと飛び込む。
飛び込んだ拍子に右腕が壁で削れ、01へと変換されて消えていく。
着地をしようにも、床らしきものは無い。二回転ほど空中で縦に転がったところでようやくバランスを整えることができた。
その場にしゃがみこみ、辺りを見渡す。
若干白みがかった風景の中、遥か下方に並ぶ無数の球体。よく見れば、その球体からいくつもの線が伸びている。
他に見えるものは無い。
ファイアウォールを抜けたのだ、内側には更なるセキュリティが用意されているだろう。
そして、それがあの球体なのかもしれない。
だが、見えるものが一つしかないのなら、それに近付くしかない。
男は何が混ざっているのかも分からない空気を吸い込み、吐き出す。
脳が、体全体が冴え渡るような錯覚を起こす。
イメージするのは、水中で壁を蹴った後の挙動。
ここでは頭上へ落ちることも、足下に飛び上がることもできる。
ぐるりと回転し、上下を反転させる。
イメージを動作に起こしやすいように、膝を曲げる。
存在しない床に足を押し付け、勢い良く蹴り飛ばした。
球体が近付く。現実ならば身体が耐えられないような速度で跳んでいる。
呼吸は必要無いにも関わらず、息が詰まるような感覚を覚える。
早い。早すぎる。イメージしていた速度よりもずっと早い。
まるで球体に吸い寄せられているようですらある。
いや、違う。
球体から伸びていた線が動き出す。
それは、ただの線ではなかった。一つ一つが触手の様にうねり、こちらへと手を伸ばしている。
死。
その一文字が頭に浮かんだ瞬間、男は直角に角度を変えて飛び出していた。
とにかく逃げる。あれは侵入者を捕らえるための物だ。
後方から触手が追い縋ってくるのが見なくても分かる。
歪んだアラート音がこの空間全域に鳴り響いている。
気配を感じ、体を捻る。
ついさっきまで胴体があった空間を、無数の槍が貫く。
接続を切るか?いや、ここは向こう側のコンピュータ内だ。切りようが無い。
せめてファイアウォールを再び潜らなければ。
だが、ファイアウォールを潜るという事は向こうから追いかけてくる手段を与えることにもなる。
要するに、見つかった時点で詰んでいたのだ。
必死に逃げ惑う姿を嘲るように、金切り声が周囲から浴びせられる。
巨大な鋏のような物体が刃を鈍く光らせながら獲物を狩りにかかる。
無機質なそれらから感じる殺意。間違いなく侵入者を消去するために動いている。
ここで死んだらどうなるのだろうか。脳死扱いにでもなるのだろうか。
死を間近にして却って冷静になった思考はそんな事を思い浮かべた。
飛来する鋏を曲芸飛行の様な動きで振り切る。
いくつかは回避できず、体を抉っていく。
切り取られた右足が電子の海へと消滅していく。わき腹を貫かれ、風穴が開く。
現実ならば既に痛みでのた打ち回っているのだろうが、幸いにもこの体では痛みらしい痛みは感じない。
ただ、感覚を失うだけ。
片足の消滅により狂った平衡感覚が、挙動を歪ませる。
飛行速度が下がり、背後から迫る触手が徐々に近付いて来る。もはや回避は間に合わない。
全てを諦めて、その場に立ち止まった。
身を裂かれ、精神が消滅していく時をじっと待つ。
触手が体を掠め、更に前方へと伸びていく。
「……?」
捕らえられていない。明らかに追跡対象は自分だったはず。
「何で……?」
触手が行く先を見れば、そこには無数の人型が浮遊していた。
十や二十ではない、数百はありそうなそれらを、触手が一つ一つ引きちぎっていく。
「聞こえるか、そこのお前」
「うわっ!?」
増え続ける人型を触手がなぎ倒す光景を呆けて見ていた男に、突如声がかけられた。ノイズ混じりの声。
「IPを偽装したデコイを撒いた。今の内にそこから出ろ」
「あ、ああ……ありがとう?」
ふらふらと飛行する男の横を、先ほど体を貫いた鋏たちがすり抜けていく。
振り向けば、デコイの首を切り取る鋏たちが見えた。
「長くは持たないぞ。急げ」
「いや、急げって言われても……」
「もういい。腕を伸ばせ」
言われるがままに腕を伸ばす。目の前に現れたカタパルトが、その腕を掴む。
「は?」
それを視認した瞬間、男は前方へと射出されていた。衝撃でわき腹に開いていた風穴が広がる。
「五秒でファイアウォールを突破する。五秒後に接続を切れ」
高速で回転する視界の中で、迫ってくる白い壁を捉える。
「いや突破って、これぶつかるんじゃ」
「黙って従え」
ノイズ混じりの声は有無を言わせずそう言い放ち、カウントを始める。
「四、三、二、一」
「クソッ、何なんだよ……」
「ゼロ」
ノイズ混じりの声がカウントを終えると同時に、白い壁に穴が開き、男の体がそこを潜り抜ける。
それを確認すると同時に、男は接続を切った。
仰け反った男の体は重力に引かれ、イスから転げ落ちた。
「痛っ!」
後頭部を床に打ちつけ、その顔にジャンク品がなだれかかる。
時代物のデッキの角が額に当たり、激痛でのた打ち回る。その拍子にぶつかったゴミ袋の山が崩れ、男を埋めた。
「何を遊んでいる」
ノイズ混じりの声が、埋まったままの男の頭上から浴びせられる。
ゴミ袋ごと頭を蹴られ、男は更に床の上を転がった。
「起きろ。客をもてなす事も出来ないのか」
苦痛に呻きながら頭を押さえて起き上がった男は、しばし焦点の合わない視線を室内へ彷徨わせた。
壁に手を付き、ようやく落ち着いたところで、その視線が一人の男を捉える。
「……誰だ、アンタは」
つぎはぎだらけの顔と、包帯に覆われた首。
眼帯で覆った目を更にくすんだ銀髪を被せた男は、主を失ったイスへと腰かけて言った。
「お前の命の恩人だ。茶くらい出したらどうだ」
「じゃあ、アンタがさっきの……」
灰皿に置かれていたタバコに火が残っている様子を見て、銀髪の男は手袋を着けた指先でその火を揉み消した。
袖口から覗く手首から、微かにモーター音が聞こえる。
「そうだ。セオリーも何も知らない馬鹿なクラッカーに救いの手を差し伸べてやった者だ」
「何で、助けたんだ?いや、それよりも何でここに?何が目的なんだ?」
イスを奪われたためにその場に座り込んだ男は、浮かんだままに次々と質問を口にする。
銀髪の男は首をさすり、ため息をついて短く答えた。
「お前の命を買いに来た」