雨と煙草
降りしきる雨がコンクリートを叩いている。
どこかから流れてきた排気ガスや油と混ざり、地面を流れる雨水は汚らしく光っている。
粗悪な椅子に座って窓の外を見ていた男は、灰皿に短くなったタバコを押し付けて火を揉み消した。
紫煙を求める脳に従うまま、新たなタバコを取り出そうとしたが、手に取った箱の中身は既に無かった。
腹いせとばかりに空き箱を握りつぶして部屋中を見回すが、目的の物は見当たらない。
積み上げられた印刷物、ジャンク品、ゴミ袋が睨みつけてくるばかり。
もう一度窓の外を見る。灰色の空に、雨が止む気配は無い。
開けっ放しの窓から時折吹き込む風が、室内のタバコの煙と室外の排ガスが混ざった空気を混ぜ合わせる。
男は役目を失ったライターをしばらく手の中で弄んでいたが、やがてそれを放り投げ、ため息をこぼして立ち上がった。
よれたシャツの上にボロボロのコートを纏い、ドアを開ける。
外に置かれたまま雨ざらしになっていた傘を手に取ろうとしたが、それが使い物にならないほど曲がっていることに気付き、やめた。
短い通路を歩き、安アパートらしいボロボロの階段を足を滑らさぬように慎重に下りる。
コートのポケットに入った小銭を、指先で数える。9枚。
「……一箱か」
独り言は、予想よりも激しい雨にかき消された。
濡れた髪が首に張り付き鬱陶しい。自動販売機までの道のりが酷く遠く感じる。
ようやく目的地に辿り着いたころには、コートの中に着ていたシャツまでもが完全に浸水していた。
「いらっしゃいませ。タバコはあなたの健康に害を及ぼす可能性があります。吸いすぎには注意しましょう。また、禁煙をしたい方には……」
自動販売機に取り付けられたセンサーが来客を感知し、電子音声が流れ出す。
この流暢な日本語を話す電子音声にも初めは驚いたが、今ではすっかり慣れてしまった。
むしろ、金を入れて買うという基本的な部分は何も変わっていないのだな、などと思うようになっていた。
ポケットから小銭を取り出し、スリットへ放り込む。6枚、7枚、8枚。ようやくボタンが点灯した。
いつも吸っている銘柄を購入し、男は踵を返す。
「ありがとうございました。またのご利用をお待ちしています」
背中にかけられた電子音声を聞き流し、タバコをコートの内ポケットへ入れようとしたところで、その腕を掴まれた。
「なあ、アンタ。おい、今タバコ買ったろ?一本くれよ。なあ、一本だけならいいだろ?」
目の下に隈を作り、手を振るわせた浮浪者。
身にまとったボロ布かその浮浪者自身の体か、どちらによるものか分からないが雨の中でも鼻につく悪臭に、男は顔をしかめた。
半開きの口から覗く黄ばんだ歯はところどころが欠けており、フケや油の混ざった長髪が雨に濡れて口の端に張り付いている。
「見てくれよ、手が震えちまってるだろ?こんなだから仕事もできやしねえんだ、なあ、一本だけでいいんだよ」
「自分で買え」
男はそう言い捨てて目を逸らし、浮浪者の腕を振り払った。あらためてタバコをしまい、掴まれていた箇所を手で払う。
「おい!俺のこの格好を見ても何とも思わねえのか!てめえには人の心がねえのか!」
ぞんざいに扱われたことに腹を立てたのか、ヒステリックに叫びながら浮浪者は男の肩を掴んだ。
ビクリと肩を震わせた男はその瞬間、反射的に背後に向かい肘を振るっていた。
ごつ、という音が、体を伝わり男の耳に届いた。
浮浪者の手から力が抜け、ゆっくりと体が傾いていく。
ばしゃり、と雨水を跳ねて、痩せこけた体が路上に転がった。
「ぐ、が……あ……」
倒れこんだ浮浪者は側頭部を押さえ、目を見開いていた。
驚愕と、怒りに満ちた視線が男に向かう。
あまりにも生々しい怒りに押され、男は思わず謝罪の言葉を口にしようとしたが、それを飲み込んで駆け出した。
後ろから罵声が聞こえるが、それも雨の音にかき消され、やがて聞こえなくなった。
あの殴打に関係無く、数日もしない内にあの浮浪者は死ぬだろう。
汚臭を放ち、澱んだ目をした者をまともに保護する場所などありはしない。
日雇いの肉体労働で使い捨てられるのがいいところだ。あんな状態になった時点で、詰んでいたのだ。
そうだ、自分は無関係だと、男は自らに言い聞かせる。
コートの前を合わせ、冷たい雨を顔に感じながら男は足を速めた。
雨で張り付いたズボンが、足の動きを阻害する。
足音に驚いたネズミが路地裏へと逃げ込んでいく。
跳ねた水が座り込んでいた老人にかかり、睨みつけられる。
意図的にそれらを思考の外へ放り出し、一心に走り続けた。
タバコだ。タバコを吸えばこの不安も多少はマシになるはず。
その思いだけが頼りだった。
暗い自室へと戻った頃には、男はすっかり息を切らしていた。
ポケットからタバコを取り出し、コートは床へ投げ捨てる。
濡れたシャツも脱ぎ捨て、床に転がっていたライターでタバコに火を点ける。
煙が脳まで達し、染み込むような感覚。苛立ちや焦りが溶かされ、口から吐き出される。
男は、そのまましばらく天井へ向かう煙を眺めていた。
「なんで、こうなったんだっけ……」
一本目のタバコが半分ほど灰へとなったところで、何度繰り返したか分からない疑問を紫煙に混ぜる。
壁に背を預け、そのまま座り込む。濡れた背中が、灰色の壁にその跡を残した。
デスクに置かれたパソコン――過去に使っていたものとは随分と性能も用途も異なるが――が唯一の生命線。
流れてくる「仕事」を、迅速にこなし、報酬を受け取ることで食いつなぐ。善悪に構っていられるほどの余裕は無い。
自分の仕事の結果、人が死んでいるかもしれない。そう考えたことも一度や二度ではない。
だが。
俯いて目を閉じると、先ほど外で見た浮浪者の顔が脳裏に浮かぶ。
ぶつかった肘から伝わった、重い衝撃。
ゆっくりと倒れていく浮浪者。
その顔が頭の中で自分の顔に摩り替わる。
やらなければ、自分がああなるのだ。
自分が直接何かをした訳では無い。自分がやっているのはあくまでデータを持ってくることだけだ。
そのデータが何に使われているのかなど知ったことではない。
「俺だって、こんなところ居たくて居るんじゃねえよ……」
独り言は誰にも届くことなく、空しく煙と共に消えていった。
安物のタバコの臭いが染み付いた狭いこの部屋ですらも、安住の地ではない。
男は、この時代の法など知らない。
ただ言われるがままに様々な場所にアクセスし、言われた物を取ってくるだけ。
どこで法に触れて、いつ拘束されるかなど分からない。
再び陰を差した不安を誤魔化すように、男はタバコを口にした。
雑草を巻いたような青臭さと苦味が、苦痛と共に脳を活性化させる。
それに呼応するように、デスク上のパソコンに繋がれたモニタが光を灯す。
単調な電子音。電子メールの着信を知らせるアラート。
「はい、はい……」
まだ疲労感が残る足で立ち上がり、男はデスクへと向かう。
濡れたままの安全靴が一歩毎にごとん、ごとんと重い音を響かせた。
上半身裸のまま男は椅子に腰を下ろし、キーを数度操作してメールを開く。
黒い背景に白文字で抜かれた文面を、男はじっと見つめる。
また、暗号か。
まともな内容では無い以上、仕方ないのかもしれない。
だが、仕事の依頼まで暗号にされてはたまったものではない。仕事に取り掛かる前にまず暗号解読をしなければならないなど、面倒で仕方ない。
更には、添付されていたファイルの読み込みも遅い。
短くなったタバコを灰皿に捨て、新たなタバコに火を点けてもまだ読み込んでいる。
ゆっくりと伸びていくプログレスバーを見つめることを諦め、アクティブをメール画面に切り替えて暗号解読に取り掛かる。
メールの差出人はとある食品加工会社。男はその名前に見覚えがあった。
メールボックスを遡り、過去のメールから目的の物を探す。
「あった」
以前もその会社からの依頼を請けたことがあった。その時と同じパターンならば、暗号の解読も楽になる。
その時は「会社の不正について密告しようとしている社員の端末にアクセスし、データを破壊して欲しい」という依頼だった。
完全なスタンドアロンならともかく、オンラインに接続されている端末ならば、ある程度の情報があれば捉えられる。
あとはどうにか中に入り込み、細工をするだけ。
幸いにもその社員にセキュリティ意識と言うものは無かったようで、簡単に端末にアクセスすることができた。
暗号化もパスワードもかかっていないデータと、外部からのアクセスがあった全ての痕跡を削除する。
結果として密告は行われることなく、そこそこの報酬をその食品加工会社から貰い、その仕事は終わりだった。
密告を行おうとした社員がその後どうなったのかについては、調べようともしなかった。
そこまで思い出した所で、男は一つの可能性に行き着いた。
キーを叩き、急いで添付ファイルの読み込みをキャンセルする。
9割ほど進行していたプログレスバーが消滅し、再びメールが表示される。
このメールに暗号など無い。挨拶と長ったらしい文章は時間稼ぎ。本体は、その添付ファイル。
「セキュリティ意識が無いのは俺じゃねえか……!」
無警戒にファイルを開こうとしていたことに自分でも驚きながら、男はデスクの下に伸びていたケーブルを片っ端から引っこ抜く。
有線接続である以上、ケーブルを抜いてしまえば外部との通信は行われない。
メールの添付ファイルにウィルスが仕込まれているなど、もはや古典的ですらある手口。
目的は恐らく、こちらの居場所を探るため。
自分がした仕事の影響を知りたくないがために事後の調査を避けていたことが祟った。
不正が明らかになることを恐れたのならば、社員の端末内のデータが無くなったのでそれで終わり、などと考えるはずが無い。
フリーのハッカーなんて胡散臭い奴ならば、そのデータは消滅したと嘘の報告を行い、自己の利益のために利用するかもしれないと考えるのは何もおかしくない。
要するに、クライアントからの信頼が無いということを男は考えていなかった。
添付ファイルの中身は分からない。単なる画像か、テキストファイルか。見慣れない拡張子から、判別しかねた。
読み込みが完全に終わってはいなかったとは言え、だからといって何のプログラムも起動していなかったとは限らない。
どんなに低い可能性であっても、最悪の場合を想定しなければならない。
もし居場所がバレていたら。もし、こちらに敵意を持っていたとしたら。
焦りから強く噛み締めたせいで千切れそうになっていたタバコを灰皿に吐き捨て、男は頭を抱える。
真っ先に浮かんだのは、ここから逃げ出す案。
行き先も分からないが、最低限の荷物だけ持ってどこか別の寝床を見つけられるまで彷徨う。
もちろん、その間も追われる身であることには変わりない。ほとぼりが醒めるまで逃げ続ける必要がある。
そんな状態に耐えられるか、と男は思う。
再び、外で見た浮浪者の姿が脳裏に浮かぶ。あれがあんな姿になったのは、居場所を追われたからだ。
ならばどうするか。
選択肢は一つ。
引っこ抜いたケーブルを全て繋ぎなおし、男は再びメールを開いた。覚悟を決め、添付ファイルを開く。
プログレスバーが伸びる時間が先ほどよりも長く感じる。
もしかしたら無駄かもしれないという考えを振り払い、男はホームポジションに指を置いた。
読み込みが終わり、表示されたのは一枚の画像。奇妙な数字の羅列。
以前の依頼では、同じような画像とメール中の本文を照らし合わせることで依頼内容がやっと分かる面倒な仕掛けになっていた。
だが、今回はそれを確認している余裕は無い。やらなければいけない事は一つ。
向こうが確認するより先に、こちらがメールを受信したという事実自体を無かった事にする。
オンラインで流れていったデータならば、こちらから追いすがる事も不可能ではない。
既に向こうにデータが行っており、行動を起こされていたらアウト。
そうでなくとも既にデータを確認されていただけでもアウト。
成功する可能性自体も低い。
それでもやらなければならない。
「そうだよ、生き残るためにやってるんだ。文句なんか言わせねえよ」
噛み締めた拍子に口の中に残っていたタバコの葉は、吐き気がするほど苦い。
その苦味が、かえって生への執着を強める。
「てめえらの都合なんかであっさり死んでたまるかよ……」
男の左手首に巻かれた時計が、デスクに当たり金属音を立てる。
止まったまま動かない時計は、どれだけ振動が加わろうとその針を動かそうとはしない。
「俺は……帰りたいんだよ。俺の時代に」
開けっ放しの窓から吹き込んだ風が、部屋に充満したタバコの臭いをさらっていく。
代わりに押し込まれた雨とガスの臭いをまとった空気が、詰まれていた書類を押し崩す。
必死にタイプを続ける男の背後でひらりひらりと舞う一枚の文書。
その端には、「2350/03/05」のタイムスタンプが押されていた。