恋綴り 薫×悠二
仕事を終え、夕暮れの小雨の中、帰路の途中目にした光景に薫の胸がほんのりざわついた。
薫が歩く先に見えたのは部活帰りの高校生だろうか、制服に身を包んだ二人連れだつた。
何ら憂う事があった訳でもないのに、ふとしたことで気持ちが揺れる事がある。
「相合傘かぁ」
そう胸の中で呟きながら視線を足元に落とすと、ふぅっと小さいため息が出た。
その後彼らとすれ違う瞬間目線を少し上げると彼女の少し恥ずかしげな、そして嬉しそうな口元が目の端に入る。
その昔自分にもあんなかわいい頃があったなと、当時の幼かった恋心を懐かしむように傘越しに灰色の空を眺めた。
「まあいいか」
その昔をしまいこむ様に今度は小さく呟くと、差した傘を握り直し薫は歩く速度を少し上げた。
*
薫には付き合いが二年になる消防官の悠二という恋人がいる。
出会いは言わずと知れた合コンだが、その時に集まったメンバーの中ではダントツに話が合い即日メアド交換を済ませると、数回食事などを経て交際に至った。
当時は結婚等に焦りを感じる年齢ではなかったが、この男は逃すと惜しいかもと思えるほど薫にとっては居心地の良い相性の合う男性だった。
果たしてその時の悠二が薫と同じ思いでいるのかは、当然定かではなかったが。
「ねえ、もうビール終わり?」
「さっき全部飲んじゃったじゃん」
缶チューハイならあるでしょ?とキッチンから薫に窘められると、しょうがねぇなーと冷蔵庫から缶チューハイを取出しプシュっとプルタブを開けながら悠二はテレビの前にあるソファにゆっくりと腰を下ろしテレビに見入った。
その様子を夕飯の片づけをしながら目の端に収め、ふと先日目にした高校生の相合傘を思い出した。
何か新鮮味の欠片もないよね!?てかこの状態って結婚何年目かってくらいじゃない?
合コン時、薫と悠二の住まいが同じ沿線で駅も三つほどしか離れていない事が発覚したせいもあり、付き合い出すと間もなく悠二は薫の部屋にやってくるようになった。
悠二の住まいはというと職業柄独身寮住まいで当然薫がそこに訪れる訳にはいかず、加えて悠二は勤務日程も暦通りにいかないのでOLの薫とではデートも日程も限られる。そして休みの日は出来るだけ休養を取りたいだろう悠二を思うと自然と薫の部屋で過ごすことが常になった。
そういえば最後のデートはいつだった?
洗い物をしながら思い出したのは半年前に映画に行った事で、その事実に愕然とし小さくため息を吐いて悠二を見るとテレビに夢中になっていた。
薫は消防官の悠二を尊敬している。
誰もが出来る仕事ではなく、ましてや使命感だけで勤まる訳がない。日々の訓練も厳しいばかりだ。
それでもその大変さを薫に対して表に出すことはしない。
一方薫も仕事にはそれなりのプライドを持ち自分なりに頑張っている。
だから初めて会った時も話が合い、とても楽しかったのだろう。
そして付き合い出して分かった事は、悠二は二人切りだと意外に恥ずかしがり屋だということだ。さらには仕事柄のせいか意外にも家事万能で実は今夜の夕食も薫よりも帰宅の早かった悠二が殆ど捌いた程だ。だから多少のすれ違いや時間の無さはそんな引け目も手伝って十分我慢の範疇なのだが。
それでもたまにはドキドキとかときめき?みたいな気持ちとかそんなのがあっても良くない?
悠二の性格上映画のようなシチュエーションは無理だとしても、このままじゃ付き合い始めの頃の甘い気持ちまで忘れてしまいそうな気がして薫の胸がまたざわつく。
そしてそれを振り切るように再び目の前の洗い物に目をやった。
「何かあったか?」
「キャーッ!」
自分の少し疚しい思いを流すように洗い物に集中していたせいか、薫は声と同時にカウンター越しに現れた悠二の顔に悲鳴を上げた。
「な、何よ急に!」
「それはこっちのセリフだろうが。むっずかしい顔して」
「む、難しい顔なんか」
そんな薫の反応を無視するように今度は悠二はキッチンに入り、眉間にシワ寄せて口への字にしてたら一般的に難しい顔って言うんだぜ、などと大きなお世話な講釈を垂れながら布巾で薫が洗い終えた食器を拭き始めた。
「アリガト」
「どういたしまして。で、何かあったの?」
「や、ちょっと仕事の事」
思わず誤魔化した薫に悠二はふーんと気の無い相槌だ。
鍛え上げている事が良く解かる筋張った逞しい腕と大きく長い手指。一見不器用そうなその手を濃やかに動かしながら次々と食器を拭き上げていく悠二のそれを横目で見ながらさっきまでの自分の思いは贅沢なのかなと薫は疚しさが大きくなった。
「もう飲み終ったんだ」
薫はカウンターに乗せられた缶チューハイの空き缶を最後にすすぎ、疚しさごと投げるようにゴミ箱に抛った。
それでもなんとなく気まずさが残る。それをなんとか隠したいのに隠す術が今は分からない。どうしたものかと薫は悠二の手の動きをただ見つめた。
「ねえ、コンビニ行かない?」
「え?今から?」
拭き終えた布巾をすすぎながら悠二は突然薫に提案した。洗った布巾を固く絞り、広げて一度だけ勢いよく振る。パンッと良い音がキッチンに響いた。
「ビールもうちょっと飲みたい」
は?アンタ夕飯食べながら二本空けたよね?さらにさっき缶チューハイ飲んだんだよ?この期に及んでまだ足りないだと?と口には出さず目で訴えた薫に悠二はニッコリとして、いいからいいからと薫の背中を押しキッチンから出すとそのまま玄関まで促し、そして自分はテレビの前のテーブルから財布を掴みパンツの尻ポケットに突っこんで部屋の灯りのスイッチを切った。
「飲み過ぎだよ」
「いいじゃん明日俺非番だし」
「わたしは仕事なんだけど」
「だから明日は昼間は家事全部やっといてあげるからさ」
アンタは主夫にでもなるつもりか!と靴を履きながら最後の抵抗とばかり悪態を突くと、それも一考だなと能天気に返ってきたので薫は諦めて玄関ドアを開けた。
*
春から夏への変わり目のこの季節は、夜でも直前までキッチンで動いていた身には薄手のシャツ一枚でも夜風が気持ち良いくらいだ。その心地よさに少々強引な悠二の誘いにも少し気が晴れる。玄関の鍵を掛ける悠二を待たずに先に歩き出した薫はマンションのエントランスの前で夜空を眺めた。
「今夜は満月だったんだ」
帰宅する時は気づかなかったその月の灯りに暫らく見とれていると、スッと右手をぬくもりが包む。お待たせと薫の手を握った悠二はそのまま歩き出した。
あれ?ひょっとして手を繋いで歩くのって久しぶりかも。
その久しぶりの感覚と少し照れくさい気持ちに薫は俯いていると、暫らく歩いてから繋がれた右手が上に引き上げられ手の甲が悠二の口元に届いた。
「な、何!?」
驚いて手を引き戻そうとしたが悠二の力に到底敵う訳がない。そして手の甲に悠二の柔らかい唇の暖かさと同時に舌の先が押し付けられ、さらにチクッと軽い痛みが走った。
「ゆ、ゆうじ」
「ん?」
「ひょっとして、酔ってるでしょ?」
痛みと同時に感じた小さな快感と、普段なら外でこういう事をする性格ではない悠二の突然のその行為にどう返していいか分からず、かといって外で大騒ぎするのも憚られる。取り敢えず悠二の酔いのせいにしてその場を収めようとするが悠二はそのまま手を離そうとはしない。それどころかそのまま指の付け根に舌と唇を滑らせ始め、目だけで薫を見下ろし、口の端でニヤッとしたかと思うと漸く唇を離した。
「どう?ドキドキする?」
悠二の問いかけに薫は息を飲むと同時に怪訝な表情を返し、そんな薫にお構いなしの体で悠二は続けた。
「んー、ときめきの方はちょいと材料不足なのかな?」
その一言に薫の足はピタッと止まり目をこれでもかというくらい真ん丸に、というか目を剥いて口をパクパクさせ始めた。
「っき、ききききっ」
「うん聞こえてた。ってかダダ漏れ?」
だってさ、ちょっと伺ったら難しい顔しながらぶつぶつ言ってるから。だから聞き耳たてたらどう聞いても俺への不満っぽいじゃん?ってか消防官侮り過ぎだよ。火事場じゃかなり酷い状況で色んな音に敏感にならなきゃいけないんだぜ?聞き漏らしたら大変なんだから。まあ部屋が狭いから楽勝だったけど。
そ、そ、それって、聞き耳とかそういう問題じゃなくてすでに盗聴とかそういうレベルなんじゃないの?人の心の内を何勝手に聞いてんのよ!などと一気にまくしたててやりたい気持ちとは裏腹に言葉が出ず薫はううっっと唸りながら子供の様に地団太を踏んだ。
そんな薫を見ながら悠二はごめんごめんと笑いながらさらに続けた。
「でもやっぱ色々我慢させてるよな俺」
そう言った悠二の顔はさっきまでの表情とは違い、少し寂しげに薫には映る。
「分かってるんだ薫が我慢してくれてること。でも俺、やっぱり薫といる時が一番ホッとするっていうか、居心地いいから」
だからつい甘えちゃってるってのもあるんだけど、と悠二はいつもとは違い徐々に弱気な声色になった。
薫は咄嗟に返事に困った。
一緒にいて居心地が良いのは自分の方だけだと思っていたのに、悠二も同じだったと聞かされ薫の胸の中は一気に後悔の嵐だ。
悠二の仕事を理解して付き合う事を決めたのは自分だ。尊敬は勿論、消防官の恋人が自慢だとさえ思っていた。なのにほんの僅かな気持ちの揺れに悠二にこんな声まで出させてしまった。あまつさえ普通なら聞き逃していい程度の不満を出した薫を思いやってだ。
「悠二ぃ」
「えっ、ちょっ、何泣いてんの?今泣くとこだった?」
口に出さなくてもよかった小さな不満を口に出した迂闊と、それで悠二をひょっとしたら傷つけたかもしれない後悔と、そんな勝手な自分を優しく思いやってくれた悠二を思うと薫の目が潤む。
確かに泣くところでは無いかもしれないけど、泣いたら余計に心配をさせてしまうかもしれないけれど、それでも涙は溢れだした。
始めから繋がれていた手はずっとそのままに、薫に向き合った悠二は腰を屈め空いている手で薫の頬をぬぐいながら驚かしてしまった事で泣いているのだろうと、何度もごめんを繰り返す。
そんな悠二の手を薫は謝らなくていいという代わりに首を横に振りながらギュッと握り返すと、とぎれとぎれに口を開いた。
「ありがと」
「ん?」
「ドキドキありがとう。あと、ついでにときめきまで貰った!」
最後は勢いまかせに一気にそう発すると、ついではないだろうとぶっきら棒に返す悠二に薫は今さら照れるな!と今度は飛びつくように抱き付いた。
「ちょ、止めろよこんなとこで。人が通ったら恥ずかしいだろが」
「はあ?何今さら!散々こっぱずかしいことして人の事ドキドキさせて」
「デカい声出すなよ。いいから離せって」
悠二は周りをキョロキョロと見回しながら背中に回された薫の両手を引き離すと改めて手を繋ぎ直し、今まで何もなかったように前を向いて歩き出した。
薫はといえば歩きながら手の甲にいきなりキスして人を泣かせるのと自分が抱き付くことの、悠二の恥ずかしいと感じる境界線がよく解からず、しれっと前を向く悠二の顔が可笑しくてククっと小さく喉が鳴った。
「何笑ってんの」
「別に?」
「さっきまで泣いてたくせに」
「それはときめきとドキドキのせいだし」
「くそっ!やっぱ柄じゃないことするもんじゃないな」
「ええ、後悔とかしてるわけ?」
「してないけど」
実は自分も結構ドキドキだったと悠二は頭を掻きながら苦笑いを向けた。それがまた可笑しくてクスクスと笑いが止まらなくなる。
「大好きだよ」
「お、おう!」
「それだけ?」
「おう!」
ああ、通常営業に戻っちゃったかと残念な気持ちは取り敢えず棚上げして、薫は繋いだ手のぬくもりに浸った。
二人で歩きながら見上げた夜空は満月の灯りが柔らかくそして夜風はやっぱり心地よくて、薫はまた寂しくなったら今度は自分から夜の散歩でも誘ってみようと心に決めた。