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東京が江戸と呼ばれておりました昔の話でございます。
神田明神の近くに唐笠長屋という長屋がございまして、そこに熊五郎という男の家がございました。
「おう!熊さんいるかい。初鰹持って来たぜ。」
「おう!来ると思って待ってたんだ。」
「お前ンとこに一番槍で持って来たんだ。」
「ありがてえ。ありがてえ。」
「高えぞ。」
「高えのは承知でぇ。こちとら江戸っ子だい、変な事言うねい。おう!お光。魚屋、初鰹持って来てくれたんだ、銭ぃ払え!」
奥から出て来た、おかみさんのお光が言う。
「払えったって無いよ。」
「何をぅ!」
「無いんだよ。」
「無いって、お前…初鰹。」
「初鰹ったって無いモノは無いんだよ。」
「…ったく、しゃあねぇな。じゃあ、お前帰りに必ず寄ってくれよ。」
「おう!」
帰り道に立ち寄る約束をして魚屋は行ってしまいました。
「ったくよ、せっかくの初鰹だってぇのに、アイツが帰って来るまでに、どうにかして銭こさえなきゃしょうがねぇ。」
「こさえるったって、どうしてこさえるんだい?」
「だからさぁ、何か質に置いて来いってんだよ!」
「置いて来いったって、置くモノなんかありゃしないよ。」
「何ぃ!」
「ありゃしないよ。」
「何にも無えのか?」
「無いんだよ。」
「…お前、着てるじゃあねぇか。」
「そりゃあ着てますよ。」
「脱げよ。」
「やだよ!お前さんが食べんだろ?お前さんが脱ぎゃいいじゃないか。」
「…そうかい。じゃあ、俺ぁ脱ぐよ。」
という訳で着ている着物を質に入れて鰹の払いを済ませるという、江戸っ子というのは面白いモノでございます。
しばらくすると、熊五郎の弟分の貞吉が訪ねて参りました。
「兄貴、いますか?」
「おう!貞吉じゃねぇか、どうしたい?」
「兄貴、何で裸なんです?」
「うるせぇな、余計な事言うない。何の用だ?」
「へえ、河岸の源蔵親方が兄貴を呼んで来いって。」
「源蔵親方が?何でだ?」
「兄貴、百川で殺しがあったのを知ってますかい?」
「殺し?いや、知らねぇが。百川って浮世小路の料理屋か?日本橋の…」
百川というのは、この当時、江戸でも指折りの懐石料理屋でございまして、明治の初年まで続いた老舗でございました。
「その百川で奉公人の百兵衛って男が殺されたんでさぁ。」
「それが、親方と何の関係があるってんだ?」
「実は、その殺しの下手人だって親方ンとこの若い衆の初五郎と権兵衛が八丁堀の片桐の旦那にしょっ引かれちまったんで。」
「初五郎と権兵衛が?何でだ?」
「それが、その百兵衛ってのが十日程前から奉公に上がってたらしいんですが、初日に店に遊びに行ってた初五郎達と揉めたらしいんですよ。」
「揉めた?」
「何でも、この百兵衛ってのが下総から出て来たばかりの田舎者で、大層訛りが酷いらしく、百川の旦那も三度、四度聞き返さねぇと話が通じねぇんだそうで。」
「それで?」
「そんで、コイツに権兵衛が長谷川町の三光新道の歌女文字を呼びに使いに出しまして…」
「歌女文字?」
「三味線の師匠ですよ。それを奴さん、何を聞き間違えたか鴨池先生って外科の医者を連れて来ちまって、怒った権兵衛がとんでもなく抜けた野郎だと罵ったら、どんくれえ抜けてるか聞き返しやがったてんで、そんで権兵衛がてめぇなんざみんな抜けてるって言い返したら奴さん¨か、め、も、じ。か、も、じ。¨と一文字ずつ指折り数えて、たんとは抜けてねぇ、ほんの一字だけだとほざいたらしいんで。腹ぁ立てた初五郎が奴さんを張り倒したってぇ訳でして。」
「何だよそりゃあ?揉め事ってなあそれか?」
「そうなんで。」
「その程度の揉め事が何だって殺しなんて物騒な事になるんだよ?」
「おいらも分からねぇ。とにかく親方が兄貴呼んで来いって言うから…」
「分かったよ、行くよ。支度するから待ってろ。」
それから熊五郎は、鰹の払いの為に脱いだ着物を再び着込んで貞吉と共に日本橋の魚河岸に向かいました。
二人が歩いておりますと、前方から変な格好をした男がひょこひょこ歩いて参ります。
「おい、ありゃあ与太郎じゃねぇか?朝っぱらから妙な格好してやがる。おい!与太公!」
「ああ、熊さん。おはよ。」
「ろくすっぽ声も出やがらねぇ。何でぇ、その格好は。」
「実は夕べ、竹さん達とお女郎買いに行って来たんだよ。」
「お女郎買い?ンなもん、¨お¨なんざ付けなくったっていいんだよ。何だい、女郎買いに行って来たのか?で、その格好は何だ?」
「竹さんが質草になってた一切れ三尺ばかりの錦の切れ端を十枚ばかり借りて来てさ、褌がわりに締めて、いい頃合いになったら皆で裸になってかっぽれでも踊ろうって…」
「馬鹿な事を考えるもんだな。」
「けど、あちきの分が足りねぇから、自分で算段して来いって言うから、お寺の坊さんの袈裟を借りて来て…」
「何でぇ!お前、坊さんの袈裟を褌がわりに締めてんのか!?太ぇ野郎だね。全く…」
「そんで今日、法事があるって言うから、早く返しに行かねぇと、お出入り差し止めになっちゃう。」
「おいおい、法事って汚ねぇ話だな。とっとと返ぇして来い。」
「んじゃ。」
「相変わらず惚けた野郎だ。」
と、ひょこひょこ去って行く与太郎を見送る熊五郎と貞吉でした。
やがて魚河岸の源蔵の家に着きまして、
「ごめんなすって。親方いらっしゃいますか?熊五郎でございます。」
と、声を掛けると奥の方から身の丈五尺余りの小柄な五十絡みの男が現れました。
魚河岸の親方、源蔵でございます。
「ああ、熊五郎。わざわざ済まないね。話は聞いたかい?」
「ええ、貞吉から一通り聞きましたがね、来る道々にも考えたんですが、ちぃとばかしおかしいでしょう?」
「と、言うと?」
「だって、その揉め事が原因てんだったら、その百兵衛が恨んで初五郎達を殺したってんなら分かりやすがね。これじゃあ話があべこべだ。」
「そうそう、それなんだよ。アタシもそうだが、百川の佐兵衛の旦那もおかしいって言うんだが、片桐様は全く取り合っちゃくれないんだよ。」
「いくら八丁堀だからって、そいつぁあんまりにも乱暴な話だ。」
「だけど証拠があるって言うんだよ。」
「証拠?何です?」
「殺しの現場に初五郎の手ぬぐいが落ちてたって言うんだよ。」
「手ぬぐい?初五郎のに間違いねぇんで?」
「どうやら間違いないらしい。」
「証拠があるってのは厳しくありませんか?」
「初五郎が言うには、十日前に揉めた時に百川に忘れて来たって言うんだが、片桐様は言い逃れだって相手にしないんだよ。」
「弱りましたね。」
「それにね、おかしな事があるんだよ。」
と、源蔵が神妙な顔をする。
「おかしな事?」
「その百兵衛って奉公人は百川の二番倉で殺されてたんだがね…」
「二番倉?」
「ほら大きな一番倉の横に物置みたいな小さいヤツが有るだろう?」
「…ああ、有りやしたね。」
「その中で殺されてたんだがね。倉の扉に錠前が掛かってたんだよ。」
「そりゃあ倉ですから錠前くらい掛けるでしょう?」
「死体は中だよ。」
「だから下手人が鍵ぃ掛けてったんでやしょ?」
「それがね、肝心の鍵は百兵衛の着物の袂に入ってたんだよ。」
「ん?どういう事です?」
「倉の鍵は、一番倉と二番倉。全部で二つだ。これは佐兵衛の旦那がいつも首からぶら下げているらしい。それを夕べ鍋に穴が空いたから二番倉に置いてあるヤツと取り替えるって百兵衛が来たんで、旦那が鍵を渡したってんだよ。」
「いくら奉公人だからって無用心でしょう?」
「それが二番倉は、一番倉と違って日用品くらいしか置いてないから、普段から他の使用人にも貸してたってんだよ。」
「じゃあ、誰でも合い鍵が作れるって訳ですね?」
「そうだがね。一番倉の鍵なら分かるが、二番倉の鍵じゃあねぇ…わざわざ合い鍵を作るってのもねぇ。」
「確かに…するってぇと、どうなるんです?」
「合い鍵が無いとすると、錠前は外から掛ける、けど鍵は百兵衛の袂の中。誰にも鍵が掛けられない。」
「何です、そりゃあ?」
「だからおかしな事だって言うんだよ。」
「その百兵衛ってのが自害した訳じゃあ無ぇんで?」
「どうやって自分の背中を刺すんだよ。」
「後ろからグッサリですかい?そりゃあ無理ですな。…ところで親方、あっしにどういう用事で?」
「それなんだがね、お前さんの知り合いで何とかって先生いたろう?」
「何とかって先生?」
「ほら、べらぼうに怠けるとか何とか…」
「べらぼうに怠ける?」
「何て言ったかな、あの~ほら、紅屋の隠居とか言う…」
「ああ、紅屋のご隠居。そらあ、紅羅坊名丸って心学の先生でさぁ。」
「そうそう、そんでその先生の所に住み着いてる若いのがいるだろう?失せ物探しとかやってる。」
「惣介ですかい?」
「それなんだよ。その惣介さんは腕は確かなんだろ?」
「そりゃあ、失せ物も人探しも大概、見つけて来やすがね。どうも得体の知れねぇところがございやして…」
「得体の知れない?何だい、そりゃあ?」
「あっしはまあ、名丸先生とは昵懇ですが、惣介とは先生ンとこに居候してるんで顔も会わせやすがね、妙な口の利き方しやがるし、失せ物探しや人探しにも妙ちくりんな見た事も無ぇ樣な道具を使うし、どうも胡散臭いヤツでして…」
「でも腕は確かなんだろ?」
「そうですがね。何です?親方、惣介に何か頼むつもりですかい?」
「実は、人を一人探して貰いたいんだ。」
「誰をです?」
「下手人だよ。」
「ええっ!?親方、いくら失せ物探し人探しを生業にしてるったって殺しの下手人を探すってぇのはどうも…」
「人を探す事には違い無いだろう?」
「そりゃそうですがね…」
「何だい?お前さん、アタシの頼みが聞けないってのかい?」
「親方ぁ…」
「伊勢屋の旦那だけどね。」
「伊勢屋の旦那?何です?」
「あそこの旦那は大層酒が好きで、親類縁者が集まった時には振る舞い酒をするらしい。それで途中で酒が切れちゃいけないってんで、いつも倉に菰っ被り【酒樽】を三本ばかり置いてあるらしいんだが、一月ばかり前かねぇ、倉から菰っ被りが一本失くなったって騒いでたけれども、その前の日に大八車に菰っ被り積んで引っ張ってるお前さんを伊勢屋の近くで見たって初五郎が言っていた樣な…」
「ちょ、ちょっと親方…」
「二月ばかり前にも、物置から沢庵を漬けた樽が八本ばかり失くなったそうな。そう言えば、その前の日にも大八車に樽を八本ぐらい積んで、お前さんが引っ張ってるのを伊勢屋の近くで見たって権兵衛が…」
「ちょっと待って下さいよ親方、あっしはね…」
「伊勢屋の旦那は菰っ被りも樽もまだ探してるらしいから、教えて差し上げた方がいいかねぇ。」
「いや親方、あっしは別に嫌だと言ってる訳じゃあ無ぇんで。」
「そうだよ。大体、お前さんに探せって言う訳じゃあ無い。その惣介さんに頼んでくれって言ってるんだからさ…」
「でも、金に意地汚ねぇ野郎ですぜ。人の足元見やがる。」
「ここに十両あるから…」
「十両!?随分、張り込みますな。」
「そりゃあそうさ。若いったって今の河岸は初五郎と権兵衛が切り盛りしてるんだ。二人いっぺんにしょっ引かれちまったからゴタゴタしてまともに回りゃあしない。それにね、これは軍資金だ。尋ねて回るにも金は掛かるだろう?だから見事に下手人を見つけてくれたら、もう十両出すよ。」
「合わせて二十両ですかい?わかりやした。…けど、偏屈な野郎ですから受けるかどうか…」
「そこをどうにかするのが、お前さんの役目じゃないか。ほら、一両やるよ。惣介さんの口説き賃だ。」
と、源蔵が紙包みを差し出す。
「一両も頂けるんで?良かった、これで初鰹…」
「何だい?初鰹って?」
「いえいえ、こっちの話で、へへ、じゃあちょっくら行って来やす。」
こうして熊五郎は、紅羅坊名丸先生の家に向かったのでございます。




