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第4話 夕闇の襲撃




 3月10日 夕方




 アーネストが運転するオークウッド家私用車は、市街地から少し離れた郊外を進んでいる。

 その車中から、メアリは外に流れる景色を見つめていた。向かっている場所は他でもない、メル・ベリー孤児院である。

 緊張からか、膝の上に乗せた両手はきつく握り締められ、小さく震えてすらいた。


 メアリにとっては、自分が殺されかけた場所。大切な人たちが殺された場所。

 覚悟はしていたものの、いざという段階になると、どうしても震えがくる、といったところか。


「怖いですか」


「……当たり前です」


 アルバートの問いかけに、硬い応えが返される。

 もちろんアルバートは、そんなメアリの雰囲気に気づいていた。どう気分を紛らわせてやろうかと頭を悩ませつつ。


「月並みな台詞で申し訳ないですけど、一応言っておきます。何かあっても大丈夫ですよ。アーネストと僕が付いていれば」


「……そうですか」


 メアリの声音は依然として硬いままであった。

 眉の端を下げ、小さな溜息をひとつ零すアルバート。

 無理もない。そういう問題ではないのだ。この少女が抱えている不安は。


 共に育ち、暮らし、家族となった人達が無惨にも食い殺された現場に赴く。

 それでどうして、気分が沈まずにいられるだろうか。


 アルバートは、運転しているアーネストの頭ごしに前方を覗き見る。

 開けた場所にぽつんと佇む建物の影を認めながら、胸中でそっと呟いた。


(……速めに切り上げて、さっさと帰るとしましょうか)




 † † †




 目的地である建物、メル・ベリー孤児院は、森と小川に挟まれた、小高い丘の上にあった。

 車を降りた一行の前に広がっていたのは、廃墟と見紛うばかりに荒れ果て、全焼した建物だった。


「これは……ひどい」


「そんな……こんな、に」


「……なんとも、同族の仕業とは考えたくねえな」


 健在の頃は、温かな雰囲気の漂う建物だったのだろう。

 木造の、一般家庭の住居規模に近い建物で、入り口前には花壇がある。

 やや広めの庭に、小さな焼却炉と物置らしきものもある。


 しかし、家の方は焼け焦げ、屋根が落ち、何本も見える炭化した柱は斜めに傾き、消火剤を撒き散らされた床上は、見るも無残な状態であった。

 焼け方を見るに、キッチンから燃え広がったのだろう。台所は特にひどく焼けていて、すべてが炭の黒に染まっている。

 襲われた時、夕食時だったのだろうか。多人数向けの大きな鍋と、割れて黒くなった何枚もの皿が散乱している。


 メアリは覚悟していた。しかし、その覚悟をいともたやすく破壊してしまいかねない現実がそこにあった。

 金縛りに遭ったように、その場から動けなくなる。そんなメアリを横目で見ながらアーネストは、ぎり、と奥歯を噛み締めた。


 そんな中、アルバートは冷静だった。いや、むしろ冷たかったと言ってもいい。


 焼け跡へ足を踏み入れ、まるで肉食昆虫のような冷たい目で周囲を観察している。

 立ち尽くしたメアリをそのままにし、焦げた柱をじっと見る。

 一箇所、二箇所。視線は何度も動き、やがてアーネストを呼んだ。


「アーネスト、これを」


 アルバートが指差したのはひとつの傾いた柱だった。柱には、斜めに走った幾筋もの傷がある。

 その傷は固い木材を深く抉っており、どれも平行に近い3本の傷跡が1セットになっている。


「これが……どうしたんで?」


「ここと、ここ。これもそうだ」


 アルバートが次々に指し示していく柱や壁は比較的燃え残っているものばかりで、どの部分にも似た傷跡が走っている。

 見て回るアーネストに、ようやく金縛りから解けたメアリがよろめきながらついていく。


「そうか、確かに……なるほど。わかりやしたぜ、坊っちゃん」


「あの、どういうことですか?」


 状況の掴めないメアリに、アーネストは一瞬だけ顔色を窺う。

 まだショック状態から完全に抜け出せていない。唇は青く、かちかちと小さく歯を鳴らす音が聞こえる。

 だが、それでも足取りはしっかりし始め、悲痛な表情を浮かべてはいるものの、目の光は消えていない。


 心中でメアリの姿を痛々しく思いながら、アーネストは尋ねた。


「お嬢ちゃんよ。変身したことはあるんだよな?

 なら、俺らは獲物を仕留める時、どうする? 噛み付くか? 爪を振るうか?」


「……一撃で、息の根を止めます。なるべく喉笛に噛み付いて」


「だよな。俺たちゃ変身中は、獣の本能が強くなる。

 獲物はなるべく一撃で、そして俺たちの一番の武器、この牙でな。

 猫の子みてえに獲物をいたぶって楽しむ趣味は、俺たちにはねえんだ」


 今のメアリには少し過激な表現だが、根が不器用なアーネストは、包んだ言葉や、柔らかい物言いができない性質である。

 己のボディガードの直截な物言いに気づいてはいたアルバートだが、今はあえて無視し、閉じていた口を開いた。


「ところが、ここを襲った者達は、明らかに牙より爪を多く用いている。

 警部補からの情報にも、被害者たちの直接の死因は爪による攻撃とあった。

 ──何故だ。殺戮と破壊を楽しんでいたのか……?」


 腕を組み、顔を伏せ、右拳で口元を隠しながら、アルバートは黙考する。


 人狼の最大の武器とは何か。──刃物を通さぬ銀色の体毛? 大木を引き抜く怪力? 長く伸びた5つの爪?

 否。どれも否。では何か。──答えは、強靭な筋肉と鋭い牙を備えた『顎』である。


 狼神をルーツとする人狼は、知恵や誇りは人間のそれだが、こと『変身』中の戦闘方法に限って言えば、狼としての側面が実に大きい。

 さらに言えば、『変身』を果たした人狼は、先のアーネストの言にあるように、狩猟生物としての本能が強く前面に押し出される。

 戦い、すなわち命の喰らい合いともなれば、雑念などは一切思考から追い出され、ただ確実に、より迅速に、相対した敵を殺すことのみに研ぎ澄まされる。


「いや、それはない。出動した武装神官の報告に、理性を失い、狂っていた、とあった。

 それに、理性を失い狂っているのなら、なおさら獣の本能に従って行動するはず……わからない。やはりこの一連の行動──」


 アルバートはややあって首を振り、己の思い付きを否定した。

 改めて朽ちた孤児院に視線をやり、何を見るでもなく見つめると、『それ』を口にする。


「──実に、人狼らしくない」


 ちょうど、アルバートがその言葉を口にした時。




 かさり。




 その音にまずはアーネストが、次いでメアリも気づいた。

 風に葉が揺れる音。枯れ枝が踏まれる音。そんな音である。


 風に葉が揺れる? だが、風など吹いていない。

 枯れ枝が踏まれる? なら、何によって踏まれた?


 ボディガードとしてアルバートを守るアーネストに、油断は欠片もなかった。

 そもそも、アーネストは純度100%の人狼であり、その嗅覚は人間のおよそ10万倍。

 気配を読まずとも、音に耳を澄まさなくとも、生物の中でも次元違いの超嗅覚が、全方位レーダーを常時展開しているのだ。

 普段であれば、アーネストは対象が敵対行動を起こせば、200メートル離れていてすら察知可能だというのに。


「──坊っちゃん」


「匂いを消していた……? だが、どうやって?」


 確かに匂いは風で流れるもの。例え超嗅覚を誇っても、絶対とは言い切れない。

 まして、怪しい音は、建物裏手の森の方から聞こえた。


 鬱蒼と茂る木々が暴風壁となり、風の流れを封じていることもあっただろう。

 しかし、そうだとしても、アーネストとメアリが聞き取った音は、いくらなんでも近すぎる。

 近づきつつあるその『気配』は、一行から20メートルも離れていないのだ。


「坊っちゃん、お嬢ちゃん、絶対に俺から離れねえで下さい」


「頼りにしてるよ、アーネスト。メアリ、君もいいね?」


 アルバートが呼びかけたが、しかしメアリはそれどころではなかった。

 体はガクガクと震えだし、襲われた時の恐怖が再び呼び覚まされてしまったか、怯えきっている。


「ああ……ああ……!?」


 仕方なく、アルバートが傍に寄ってフォローの意図を示す。

 アルバートはメアリを左脇に庇い、懐からハーフシルバーモデルの拳銃、SIG SAUER P226を抜いた。

 スライドを引いて初弾を薬室に装填、両手でしっかりと保持し、森の向こうに照星フロントサイトを向け、警戒態勢で待機。


 スーツの上着を脱ぎ捨てたアーネストは、靴を脱ぎ、二人を背中に庇ってネクタイを外し、シャツのボタンを胸の下まで外した。

 恐らく敵は4人。アーネストはそう嗅ぎ取った。すでに向こうの気配はこちらに気づいている。


 自分とアルバートだけなら逃げる算段もついただろう。

 が、恐怖に竦んでしまったメアリがいるのではうまくいきそうもない。


「元気な若造が4人。ちと骨かねえ」


 アーネストは、森の奥から漂ってきた臭気によって、相手が自分と同じ人狼であると確信した。

 口元に笑みこそ浮かべているが、目だけはすでに臨戦態勢。相手は、すでに『変身』を終えている。


 目標まであと10メートル。


 めきめきと、アーネストの筋肉が音をたてた。

 灰色の短髪は見る間に伸びていき、口が突き出し、大きく裂ける。

 靴下を破って、鈍く光る鋭い爪は地面に食い込む。

 皮製ベルトのバックルがちぎれて落ちた。

 全身の筋肉も発達し、体が銀色の毛で覆われていく。


 アーネストがウェアウルフの真の姿に『変身』した。その直後。




 森の奥に八つの光。理性をなくした人狼の、金の瞳。

 その金の光が残光のように尾を引き、風を切り裂いて、咆哮とともに襲い掛かった。




「 グルオオオオッ !! 」




 その咆哮は空気を震わせた。離れたところに停めてある車の窓がビリビリと震える。

 10メートルあった距離は一瞬で詰められる。

 4体の狂える人狼は、ただ本能に任せ、バラバラに飛びかかってきた。


 小川を背後に二人を庇い、すべての敵を視界に収めていたアーネストは、刹那の瞬間で1体1体を捕捉。

 その軌道と攻撃方法を確認し切った。


 攻撃方法は全員噛み付き。軌道は馬鹿正直に最短距離を直進。

 近い順に、右、左、中央。──認識修正。

 少し離れて、一番体の小さい者が、前列3体を追いかけ、左手へ回り込みつつ向かってきている。

 後列は後回し。まずは正面、人狼3体。


 アーネストの判断、これは思考ではない。


 そもそも狂っているとは言え、人狼の走行速度は最高速で80km/hにもなり、前列の3体は既にトップスピードに乗っている。

 80km/hという速度は、レーシングサーキットや高速道路などで車中から見る感覚とはまったく違う。

 一般道路の横断歩道などで目の前を横切っていく自動車の速度を思い出して頂きたい。

 その2倍近い速度で、地を這うように突っ込んでくる身長2メートルの怪物。


 ソレに考えてからの行動など間に合うはずもない。

 獣の超反射神経と豊富な実戦経験から、最適な対処法が『勝手に』導き出されただけである。


 最初に突っ込んできた右手の人狼を、アーネストは、アッパーカット気味の右掌低で、大きく開けた顎の下を打ち、同時に、人狼の豪腕で喉輪を締め上げる。

 さしずめ、プロレスにおけるネックハンギングツリーの片腕版である。

 次に間合いに入った左の敵も同じように掴んで動きを止める。

 この時、アーネストの足は爪によって地面を掴んでいたが、衝撃によってずぶりと沈みこんだ。


 中央の3体目。これを、アーネストは凄まじい荒業で対処した。


 時間差を置いて正面から突っ込んできた人狼のあぎとは、身を沈めて回避。

 同時に首をひねって大きく顎を開き、喉笛に噛み付きながら受け止めたのである。


 まだ歳若く、しかも狂った人狼たちにとっては驚愕の極みであろう。

 数的有利と超速度に物を言わせた3体連続攻撃が、たった1体の敵に、2秒とかからず全て捌かれ、いや、受け止められてしまったのだから。


 しかし、まだ残った1体がいる。

 アーネストの両腕と鋼のあぎとに捕らわれた3体を目隠しに使うように、大きく左へ迂回して、狙いをアルバートかメアリに定めた。


「させない!!」


 これには、アルバートの反応が間に合った。

 迂回した分速度が落ちていたため、人外の血が薄く、常人並みのアルバートでも動きを捉えることができたのだ。

 それでも、恐ろしい速度であることには違いない。

 アルバートは狙いをつけることを放棄し、立て続けのめくら撃ちで迎え撃った。


 耳を劈く轟音。切れ間のない4連続の銃声。排莢され、宙に舞う4つの空薬莢。

 弾頭を純度の高い銀製に代えた9ミリパラベラム弾4発が、人狼の体に降り注いだ。


 しかし、9ミリパラの限界か。その弾丸は、疾走を止めることしかできなかった。

 デビッド警部補が用いているマグナム弾のパワーならいざ知らず、命中した4発の弾丸は、人狼の鋼の筋肉を貫くには至らず。

 だが、その光景を視界の片隅で確認したアーネストが、すかさずフォローに入る。


 どしん、という、まるで間近で交通事故が起きたような轟音。

 両手と顎で3体の人狼を捕らえながら、アーネストは、空手で言うところの左中段足刀蹴りを放ったのだ。

 正確に胸の中央を捉えたアーネストの豪脚。最後の4体目は、カンフー映画のアクションシーンよりも派手に吹っ飛ばされた。


 だが、片足を宙に浮かせたことによって、ふんばりがきかなくなったアーネストは、捕らえていた3体に自由を与えてしまう。

 アーネストとの力の差を知ったか、一度後退、再集結し、喉の奥から低い唸りを吐きつつ、隙を窺い始めた。


「ケッ……仕切り直しかよ。若造ども」


 アーネストは発達した大きな顎で威嚇しつつ吐き捨てた。

 人間とはかけ離れた形状を持つ狼の顎でも、ウェアウルフは『腹話術の要領で人語を扱うことが可能』なのだ。


 4匹の狂える獣は、ここにきて本能を目覚めさせたか。

 今度はじりじりと、隊列を組み直してにじり寄る。


 アーネストは改めて相手を観察する。


 開いた距離は6メートル。

 体格と匂いからして、2体が男、2体が女。

 先ほど、1体だけ後列にいたのは女。体も力も一番低い。狙うならこの女だ。

 しかしなかなか前に出てこない。しばらくは待ちに徹し、隙を見つけて一撃で斃す。


 ただ、心配なのは背後に庇う二人。


 自分の主人は大丈夫だろう。荒事にも慣れているし、援護に徹してもらえば危険も少ない。

 問題はいまだに怯えている半人狼の少女。

 この年頃だ。獲物を狩ったことはあっても殺し合いをしたことなどないのだろう。

 ましてや一度この連中に殺されかけたときている。せめて冷静さを取り戻し、『変身』してくれれば多少は──




 ──不意を、突かれた。




 アーネストがちらりと背後を確認した瞬間、好機到来とばかりに、4体は一斉に飛び掛った。


 一瞬メアリに視線を走らせたのは、半秒もないだろう。

 しかし、相手は人狼である。たとえ狂っているとしても、1秒を10に分けて、なお反応する化け物なのだ。

 まして、今、彼らは『変身』しており、獣の本能が剥き出しの状態。

 さらに言えば、先制攻撃をしかけておいて、完膚なきまでにカウンターで返された格好である。


 狂える獣は貪欲に攻撃を欲し、じっと機会を窺っていた。

 平たく言えば、やりかえしてやりたくて、辛抱たまらなかったのだ。


 完全に対処が遅れた。

 先ほどと同じ前列3体は、今度はほぼ同時に突撃し、狙いをアーネストの手足に定めていた。

 アーネストの右手、左膝、右足首に、深々と突き刺さる人狼の牙。


 後列の1体は、手足を殺した右から回り込む。

 次の狙いは──メアリ。


「いけねえ! 坊っちゃん!」


 3体がかりで抑えられたアーネストが、切迫を告げんと呼びかける。

 その声にいち早く反応したアルバートだったが、一瞬射線がメアリと重なってしまい、射撃が遅れた。


 今度の迂回は先ほどよりもさらに大きい。しかも、疾走の軌道はジグザグ。

 放たれた銃弾は2発ずつを5回。計10発。しかし、かすりもしない。相手も警戒していた。

 残弾はあと1発。アーネストはまだ動けない。


 アルバートは銃による攻撃を諦めた。

 距離まだあるとは言え、人狼の足なら無いも同然。それならば。


「 ZNM ZNTM GL GLD 」


「ひ……嫌ぁあああああ!!」


 ザンマ、ザントマ、ガル、ガルダ。

 アルバートの高速詠唱が終わるのと、メアリの悲鳴は同時。

 慣性を無視したような直角の軌道で、人狼がメアリの眼前に迫ったのもまた同時。


 どん、どん、と、重く響く音が二つ。


 アルバートの右手、揃えた人差し指と中指から放たれたのは空気の弾丸だった。

 物体操作の魔法、その高等技術《物体圧縮》を用いて『圧縮空気の弾丸』を撃ち出す、アルバートの得意技である。


「メアリ!!」


 無理矢理圧縮された周囲の空気は、陣風とも呼べる勢いを以ってメアリも巻き込みながらアルバートへ引き寄せられた。

 その胸にしっかりとメアリを抱いたアルバートは体を入れ替え、背中を盾に少女を庇う。


 1発は命中。ただし左腕。もう1発は──外れた。


 人狼の爪が、迫る。

 ぎゃりりり、と耳障りな音が響く。


 ここでアルバートは、命中した瞬間、自分のスーツに限界出力で《物体強化》をかけていた。

 実はこのスーツ、内側に『ミスリリウム製』の鎖帷子が仕込んである特性の一品である。

 魔法で強化されたそのスーツは鋼すら凌駕する硬度となり、完全に鋭い爪を防いだ。


 だが、その爪を防いでも、伝わる衝撃は防げない。


「がッ……!?」


 推定体重200キログラムオーバーの怪物が怪力で振るった攻撃。

 軽自動車の衝突にも匹敵する衝撃が、右肩甲骨に集中したと同時、体内まで浸透する。

 そのダメージは骨に亀裂を入れるのみならず、アルバートの右肺腑を停止させた。


 自分を抱えているアルバートごと吹っ飛んでいく感覚。

 刹那の中で、メアリの目に映るのは、凄まじい勢いで流れていく風景。

 そして、激痛に歪みながら、メアリの下敷きになるよう体を入れ替えんとするアルバートの顔。


「大丈夫、なんて……大口叩いちゃいましたからね」


(……!?)


 その一言が聞こえた直後、どさり、と、二人分の体重が地に落ちた低い響き。

 アルバートはしっかりとメアリを抱えながら、吹き飛ばされた分の衝撃を、己が背中で受けきった。


「あ、アルバート様ぁっ!!」


「っ!! っがアアアアアアア!! てめえらアアアアアッ!!」


 メアリの悲痛な叫びに、アーネストが吼えた。

 自身を拘束する3体を力任せに振りほどく。


 しかしその時、敵は既にして飛び掛っていた。







 ……狂った人狼が、メアリとアルバートに再び迫る。







 爪が振るわれる。困った事に、メアリは軌道がよく見えた。


 アーネストは、間に合わない。速度と距離が示している。一瞬遅かった。

 アルバートは、まだ動けない。当然だ。昏倒しなかったのが不思議なくらいだ。

 メアリは? そのアルバートの腕に抱かれ、かすり傷ひとつない。


 爪は、メアリとアルバート、もろともに貫き殺すだろう。







 ──あきらめるの?







 メアリの胸中に、不意に浮かんできた自問。


 仕方がないから素直に殺されようと? 自分を守ってくれようとした人も道連れに?

 ちょっとミステリアスで、けっこう怪しげで、でも、なんだか少し寂しげなこの人を?

 化け物の自分に笑顔を向けて、温かい食事と暖かい寝床をくれた、恩人なのに?


 この人も巻き込んで、のみならず自分まで。







 ──こともあろうにカゾクのカタキに、コロさせてもいいの?







 めきり、と、メアリの手足が軋んで鳴った。


 自分のものとは思えない、凶暴な衝動。

 見る間に発達していく筋肉。

 禍々しく伸びた牙と爪。


 鋼の銀毛が包むのは背中とうなじ、手足の外側、一部分。

 耳が変わった。尻尾が下着をつきやぶり、足の爪が靴を破った。

 狼の顎は得られない。だが───




( いいわけ……ない!!!!!! )




 ──つまりは、充分タタカエる、ということ。




 ばん、と、砂塵を撒いて、金の瞳が流星のように尾を引いた。

 振るわれた爪の下を掻い潜り、怒りのすべてよ、ここに集えと拳を握る。

 踏み込んだ左足は地面を窪ませ、視線はまっすぐに心臓へ。


 ぱぁん。高く乾いた音ひとつ。


 音の壁を貫いて放たれた右拳は、襲い掛かった人狼の胸の中央に命中。完璧なカウンター。


 狂った人狼はそれを目で追えただろうか。

 いや、気づくことすらできなかっただろう。

 放物線を描いて森の奥へと飛んでいく敵は、一撃で昏倒していたのだから。




「……ァァァァアアアアアアアアッ!!!!!!」




 絶叫と共に、メアリは再び弾けた。

 エプロンドレスをはためかせ、茜色の空を背負って少女が舞う。




 踏み込みで窪んだ地面を、陸上は短距離走のスターティングブロックの代わりに使い、一足でアーネストへと跳躍。

 狙いは彼の手足を封じていた3匹の狼藉者。


 見れば狼藉者たちは呆然としていた。

 メアリは心中で嘲笑う。無様。実に無様。

 野生の獣が殺し合いの最中に、何を呆けているのかと。


 まず1体は、中段足刀を叩き込んだ。景気良く飛んでいった。

 次の1体は、鼻面に右手刀。その後にサッカーボールキック。

 残る1体は、持ち上げてぶん投げた。


 アーネストさんまで、なに呆然としてるんですか。そんなことを考えながら。


「お嬢ちゃん……!?」


 ついさっきまでの、怯えた仔犬はもういない。

 その身に眠る狼神の血を呼び覚まし、ハーフ・ウェアウルフの少女は夕闇のダンスに加わった。


「ゆるさない……許さない!! 許すもんか!!」


 メアリの背中から、激情が陽炎のように立ち昇る。

 もちろん錯覚だが、今のメアリには正しく当てはまる幻像。


「っか、は……メアリ……?」


 森の奥へ消えた1体を除き、残りは3体。

 アルバートがよろめきながら立ち上がる。動くのに支障はなさそうだった。

 そして、最大戦力であるアーネストは完全に復帰している。


「弟たちも……妹たちも……イライザさんも、木こりの爺やも!!

 すべて奪った……お前たちは! 絶対に……絶対に!!」


 メアリは正面の狂った人狼3匹を睨み付けながら、搾り出すように言葉を吐く。


「絶対にッ!! 許さないッ!!」


 前傾姿勢をとったメアリは、見せ付けるように、鋭い牙を剥き出した。

 小さく開かれた桜色の唇から、熱された白い呼気が漏れ、狼のごとき低い唸り声が吐き出される。

 これこそまさしく、野生の獣が行う威嚇のそれであった。


「アーネストさん……! あの……あ、アルバート様はわたしが守りますッ……!」


 その言葉に籠められた決意と覚悟を読み取ったアーネストは、狼の口をにやりと歪ませた。


「……いいねえ。気に入った。そうだ。半分とは言えお嬢ちゃんにも流れてるんだったなあ」


 嬉しそうなその口調。

 アーネストはメアリの『隣』に歩を進め、彼女と同じく前方を見据える。


「──俺たち人狼の、仁と義の一族の血がよ!!」


 両手を地面につき、まさしく獣の体勢を取ったアーネスト。

 長く伸びた鋭い爪が、大地をしかと掴み、たわんだ四肢は矢を放たんとする弓にも似て。

 彼はついに『最大戦闘速度』を開放しようとしているのだ。


「……メアリ。わかったよ」


 倒れ伏していたアルバートも立ち上がる。

 そして懐からもう一挺の拳銃、SIG SAUER P228を取り出した。

 スライドを引き、初弾を装填してからメアリに向かって投げ渡す。


 セーフティは解除済み。無言のメッセージ。

 振り向いてキャッチしたメアリは無言で頷き、再び視線を前へ。


 深呼吸をひとつすると、魔術師は、左手を天に向かって掲げた。

 体内の魔力を練り上げる。収束させていく。

 そして告げる。人と狼の合いの子らに。


「──二人とも、1分だけ時間を稼いでくれ。その間、無防備になるけど、後は何とかする……頼んだよ」


「合点承知!!」


「……はい!!」


 返答と同時に、二人は動いた。

 メアリはバックステップし、アルバートの正面に。

 アーネストは、顎が地面につくほどの超低姿勢から、爆発的なスピードで突撃した。


 3体の狂った人狼も同時に動いたが、速度の差は歴然だった。

 銀の颶風と化したアーネストは、真正面の人狼に喰らいつく。

 惜しくも首は外したが、そのかわりに腕を取る。

 さらに密着。腰を入れ、全身を使って投げ飛ばした。


 えりをとるかわりに噛み付きを使った、変則人狼一本背負いである。


 もう1体を巻き込みつつ吹き飛ばしたのを確認したアーネストは、ちらと横を窺う。

 視線の片隅で、背後の二人に向かう残った人狼を──あえて見逃した。


 突っ込んだのはもう一人の女の人狼。

 狙いは無防備な人間の男──アルバート。

 しかしメアリが立ち塞がる。


 まず、メアリは受け取った拳銃で、足を狙った。

 だが、自分は銃の素人。撃つなら近く。より近くから。

 『変身』したメアリの目には、相手の動きがどうにか見切れる。


 標的を変更し、狂った人狼はメアリに向かって噛み付こうと突っ込んできた。

 これをメアリは体を沈めて回避し、銃口を押し付けるように、至近距離から膝関節を狙った。


 人狼は『変身』すると膝から下が狼のそれになるが、大腿部と膝関節の形状に限れば人間と変わりない。

 たとえ銀の弾丸であろうとも、9ミリパラベラム弾の威力では人狼の体は貫けないと先ほど知った。

 故にメアリは、人狼のもう一つの武器、つまりは『速度』を奪うことを選択したのだ。


 P228は、トリガーが引かれるままに、3発の弾丸を吐き出した。

 全弾命中、部位は左膝の、側面内側。


「ギャヒィッ!?」


 体勢を崩したのを確認すると同時に、痛烈な右ローキック。

 左膝の、今度は側面外側。内と外から、一箇所集中攻撃。


「せぁああッ!!」


「ギャィ、ッ!?」


 効果は絶大。しかも、速度だけでなく姿勢制御すら奪った。

 敵はたまらず膝をつく。2メートル近い人狼の顔が、ついにメアリの頭の高さまで落ちてくる。


(ここだ!!)


 翻る黒のロングスカート。

 ローキックの蹴り足──右足は、左足を軸に逆回しで再び回転。

 後ろ回し上段足刀。メアリの踵が唸りを上げて空気を裂く。


 狙いは勿論、頭上から落ちてきた、長く突き出た狼の顎。

 天を衝くは、白い長柄と黒い槍先。

 長柄はメアリの白い肌。槍先は靴。


 突き上げられた豪脚の餌食となった女人狼は、前方のアーネストの頭上を越えて飛び、投げ飛ばされた人狼二人の上に、追い討ちとなって落下した。


「 Set up 」


 そして、アルバートの詠唱も終わる。

 掲げた左腕をまっすぐに伸ばし、一箇所にまとめられた3体の人狼を指し示す。


「 Go Tridentトライデント Snakeスネイク !! 」


 アルバートの声に従うように、背後の小川が揺らめいた。


 次の瞬間、小川の水は命を与えられたように。その姿は、別個の生物──大蛇のように。

 鎌首をもたげて三叉に分かれると、狂った人狼めがけて飛来した。


 物体操作の魔法は比較的初歩の近代魔法である。

 しかしそれは、操作対象が固形物、固体であることが大前提での話。

 これが液体の操作となると、初歩とは言い難くなる。


 魔術師になりたての初等術者では、カップ一杯の水すら満足に操作し切れない。

 さらに、これが紅茶など、純水ではなく、何かが溶け込んでいる場合はさらに難易度が跳ね上がる。

 純水の流体操作なら容易にクリアできても、スプーン一杯の砂糖を入れただけで操作難度に格段の差が出るのだ。


 水の大蛇は空中をうねるように、しかし速度は風より速く、人狼3体の顔面に絡みついた。

 およそ8リットルの水塊3つに頭部をまるごと包まれた人狼は、呼吸を奪われ苦しみもがき、地面の上をゴロゴロと転げ回る。


 必死に腕で顔面を叩いているが、水とは無形。弾けたそばから再び結集。

 はたかれようが掴まれようが、決して離れることはない。


「──そうか、窒息!」


「なるほどなぁ!! 文字通り息の根を止めるってね!!」


「たとえ人狼といえども、肺呼吸であることに変わりはありません。このまま失神して頂きます」


 ここにきて冴えを見せるアルバートの物体操作。

 オーケストラの指揮者にも似た腕の振りで、水の大蛇を巧みに操り、人狼たちを逃がさない。


 本来高難度であるはずの流体操作を一度に三つ。

 しかも独立した動きを維持し、暴れまわる対象の一部分だけを狙い続ける。

 1分間の集中と、全身の魔力を収束させた、魔術師アルバート・セス・オークウッドの、会心の一手である。


 しかし、人狼たちは暴挙に出た。

 離れぬと知ったその水を、ごくり、ごくりと、音をたてて飲みだしたのだ。




 ──苦しみ方が、変わった。




「……?」


 ただ一人、アルバートだけはそれに気づいた。


 血走った目でおよそ8リットルの水を飲み続ける人狼。たしかに苦しいのは想像に難くない。

 だが、痛みに苦しむような、意に沿わぬ己の行動に嘆くような雰囲気はどうしたことか。

 再び走る違和感。アルバートは水塊の操作を一時停止し、どんな変化も見逃すまいと、目を見開いて観察する。


 ついにすべてを飲み干した狂える獣たちは、悲鳴のような、嘆きのような声を上げながら、森の奥へと逃げ帰っていった。


「アルバート様、凄いです!」


「坊っちゃん、やるじゃないですか!!」


「ん……いや。気のせい……かな」


 逃げ去る人狼たちを、観察の目でそのまま見送るアルバート。

 嬉しそうに駆け寄るメアリとアーネストをそのままに、森の奥を見つめ続けている。


「……? どうしやした?」


「ああ……いや、別に。それよりありがとう。助かったよ。それにメアリも、本当にありがとう。怖かっただろうに」


「おう、そうだ!! いや、見上げたもんだぜ、お嬢ちゃん。よくやったな。偉ぇ!」


「え!? あ、いえ……」


 いきなり礼と賛辞に挟まれたメアリは、思い出したようにあたふたし、顔を赤く染める。

 狼の耳は落ち着き無く動き、尻尾がぶんぶんと左右に揺れる。

 恥ずかしそうに、小さく笑うメアリの顔。恐怖の痕は、見る影も無く消えていた。


 そんな様子に笑顔を浮かべていたアルバートは、ややあってもう一度、森へ視線を走らせる。


「彼ら、随分あっけなく退いてくれたね」


「へ……? はあ、確かにそうですが」


「……何故だ? 明らかに殺しにきていたようだが、今の退き方、どこか不自然な気がする。走り回ってこちらの魔法を振り切るくらいのことはしてくると思ったのに」


 怪訝そうな表情の消えないアルバートに、アーネストとメアリも顔を見合わせる。

 アルバートの言葉に、「う~ん」と腕を組んで考える二人。

 そしてメアリは、しかめっ面をしたまま、なにげなく呟いた。


「う~ん……わかりませんけど、水、そんなに苦しかったのかなあ……」


「……え?」


「……へ!? あ、い、いえ、あてずっぽうです! す、すいません!」


 メアリの言葉に意外なほど反応したアルバートは目を見開いた。

 そして、表情が変わる。デビッドと話していた時のような、仮面のごとき無表情。虚空を見つめる氷の瞳。

 一瞬の閃きを追いかけるように、独り言つ。


「まさか……いや、しかし……仮にそうだとしても、情報が、判断材料が足りない」


 アルバートは呟きながら首を振った。これは、己の思い付きを否定する時の彼の癖なのだろう。

 改めてアーネストに向き直ったアルバートは、早口にまくし立てた。


「アーネスト、明日からちょっと飛び回りましょう。警察、病院、教会、魔導院にもです。

 スケジュールが決まり次第、今週は休みなしで動きます。恐らく、自宅と首都を往復する毎日になりますよ」


「てことは、坊っちゃん、何かわかったんですかい?」


「いえ、まだ想像でしかありません。だからこれから確認を取りに動きます。

 そして、もしも僕の想像通りであったなら……」


 そして、彼の視線はメアリで止まり、無表情は消え、にこやかな顔で告げた。


「メアリのお手柄ですね」


「……え? え?」


 わけがわからない、といった顔のメアリを置いて、アルバートは歩き出した。

 もちろん隣のアーネストも同じ顔だが、諦めたように肩を竦めると、彼に倣って車に向かう。

 歩きながら、アーネストの『変身』は解けていく。顔や体が人のそれに戻っていく。

 落ちていた上着とネクタイ、靴を拾って身につける様が、メアリにはちょっと情けなく見えて苦笑が漏れた。


 そしてメアリも『変身』を解き、二人に続いて歩き出したが──




「……!?」




 突然立ち止まり、顔を真っ赤にして震えているメアリに気づいた二人が、またも怪訝そうな顔で振り返る。


「あの、アーネストさん…… そのズボン、どうなってるんですか……?」


「あん? 尻尾のことか? 後にマジックテープで穴ぁ作ってある。トランクスは人狼用の後ろ開きの市販品だが」


 とうとうメアリはうつむいた。

 もちろん二人は、わけがわからない。

 やがて、メアリは搾り出すように言った。


「………………わたし、ぱんつ、脱げちゃった……」


「「 あ…… 」」


 少し離れているところに、薄い緑の布きれが落ちていた。

 それは普通の人間用の、ちょうど後ろ部分が破けた、メアリの下着だったりする。


 その後、市警に立ち寄り、デビッドに一部始終を報告したのだが、メアリは終始うつむいていたそうな。




 - 続 -






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