第2話 賑やかな住人たち
3月9日 昼
首都ロンデニオンを南北に分かつ、大河川イシス川。
その南岸に位置する小さな町、ゲイルニッジ市。
高級感漂う黒い大型車が、買い物で賑わう大通りを緩やかに走っている。
もうじき西の空が山吹色に染まり始めるであろう時刻。
メアリの目に映る通行人は、子供や主婦に混じって、観光客も多いように見えた。
車はオークウッド家の私用車。
運転席には、スーツ姿の大男、庭師でボディガードで運転手の、人狼アーネスト。
特製の遮光ガラスで包まれた後部座席にアルバートとメアリを乗せ、鼻歌を歌いながらご機嫌でハンドルを握っている。
向かう先は、この小さな町の真ん中にある、この地を管轄する唯一神教の教会。
メアリを救い、狂った人狼を撃退したという武装神官と、その教会の責任者、ヘルメス神官長に会うためである。
「……じゃあ、アルバート様は『変身』できないんですか?」
「ええ。血が薄すぎるようでして、半獣人にもなれない体たらくなんです。
せいぜい嗅覚が鋭かったり、歯が頑丈だったり、夜目が利いたりする程度ですね」
車中でメアリとアルバートは、色々な話をした。
アルバートは、人狼はもちろんのこと、メアリのような半獣人にも『変身』できないとのことだった。
もっとも、それは満月の夜の高揚も薄いということ。その一点においては、メアリは羨ましくすら思ってしまう。
メアリにとって『変身』はそれほど気分がいいわけではない。悪い記憶ばかりが有るからではあるのだが。
大方の亜人、ウェアウルフやウェアタイガーなどにとって『変身』は快感を伴うものらしい。
その他には、この地方の話題が多くなった。
孤児院の子供であったメアリは、外出といえば散歩か森歩きくらいしか許されなかったので、街のことなどほぼ知らないと言っていい。
観光客が多いのは、近くに観光名所が多いということ。
特に、最近世界遺産に登録されたという旧王立天文台や、同じように登録を呼びかけている旧王立植物公園などがあること。
大きなオベリスク、様々な博物館、そして川沿いには、たくさんの大きな船が停泊していることなど。
そして、オークウッド家と、この地に住まう、人狼のことも。
まず、アルバートの両親はすでに亡くなっているとのこと。
アルバートの父親──ジリアンは、ギルバート・ヴィシャスという人狼が族長を務めるウェアウルフ氏族の『誰かさん』の私生児なのだという。
ジリアンは父の顔も知らないまま、母と二人で人間社会に生きることを強制され、なかなか苦労も多かったらしい。
ちなみに、ギルバート・ヴィシャス──老ヴィシャスとは、この国の人狼氏族の取り纏めである。
その後ジリアンは、早くに母親を亡くし、町の陶芸職人に弟子入りして暮らした。
修行に励み、若くして一人前の職人になった頃、ジリアンの作品のひとつに目を留めた、とある男爵家の令嬢がいた。
この令嬢こそがアルバートの母親で、彼女は男爵家、オークウッド家の一人娘であった。
そして二人は愛し合うようになり、ジリアンの作品も徐々に人気を得て、とうとう男爵家に結婚を認められた。
やがてアルバートが生まれ、幸せな日々を手に入れた。
しかし、幸せは長くは続かず──
「坊っちゃん、つきやしたぜ」
「おっと残念。続きはまた今度、ですね」
いいところで話を切られて、少々むくれたメアリは、遮光ガラスから外を窺う。
ゆっくりと入った駐車場の向こうに、大きな教会があることに気づいた。
レンガ造りの壁が重厚感を感じさせる、古めかしくもしっかりとした造りの建物。
正面にはステンドグラス。その上の屋根には十字架。
中央付近にある塔の小部屋は、階数で言えば3階に位置し、細長い四角錐の天辺には風見鶏。
敷地はかなり広い。裏手にはいくつも連なる別棟が見えた。
車を降りたアルバートとメアリは、車の番をするアーネストを残して、教会に向かう。
連れられて来た正面の大きな扉には『神の家』という意味の真言文字が刻まれていた。
「さぁ、つきましたよ。ここがあなたの命の恩人、ヘルメス神官長が勤める、唯一神教の教会です」
唯一神教。
天地を創造したとされる天界の神を崇める、世界最大の宗教である。
世界中どこでも存在し、例外なく大きな規模を持つ。
この国はこれを国教としており、国民のほぼ全てがこれを信仰している。
また、冠婚葬祭のすべてにおいて唯一神教が関わっている。
彼らの崇める『神』は、一般には『主』『主神』『大いなる父』と呼ばれる。
その名は人間には発音できず、また知ろうとしてはならない。
2000年前に存在したという、神の使命を受けた人間『メシア』も同様に崇めている。
教会の聖堂には、異教徒によって磔にされたメシア像が必ず据えられてある。
最も尊きものとして愛を説いており、有名な教えには『汝、隣人を愛せよ』がある。
また、肉欲は罪であるが、婚姻により、欲望を愛へと昇華せよとも説いている。
世界の生命すべては主に愛されているとしているが、これには例外が存在する。
夜闇の民、すなわち魔なるもの、人外の亜人や、悪魔、悪霊などがそれにあたる。
また、魔法、魔導師、魔術師とも折り合いが悪い。
これら人間の敵に対し、神官たちが用いるのは、神霊術と呼ばれる秘法である。
唯一神教の高位の神官が用いるそれは、『神の奇跡』とも呼ばれる。
人外、とくに夜闇の民に対して絶大な効果を発揮するのだという。
他にも、祝福や聖性付加、身体能力の強化や、魔性の遮断・浄化などがある。
中でも肉体治癒と病魔停滞の術は、魔法にはない奇跡と言える。
修得については、魔法ほど難しくはなく、一般教徒でも使用に制限は無い。
しかし、術者、対象者の信仰が深く、一定の修行を行わなければ効果は激減する。
逆に言えば、信仰が深ければ深いほど高い効果を得る。
肉体治癒と病魔停滞の術の存在は、歴史の中で公的医療機関との密接な関係を築いた。
すなわち、優れた神霊術師の神官は、人間社会の中でも強力な発言権と権力を有するのだ。
その、唯一神教の教会。
アルバートの背中を追って恐る恐る入っていったメアリが目にしたのは、別世界だった。
一歩中に足を踏み入れると、重厚な外観とは全くイメージが違う明るい空間。
ドームをはじめ『円』を意識した造りがとても優しい雰囲気を醸し出している。
左には聖歌隊席。右には大きなストーブ。奥に見えるのは、高さ6mはあろうパイプオルガン。
正面には、まず目に入るであろう、磔にされた救世主の像。
そのメシア像の前に、銀縁眼鏡をかけた一人の老神官が待っていた。
聖職者の法衣をまとい、優しく微笑む老神官。メアリはその顔を覚えていた。
メアリがアルバートに視線で問うと、彼は小さく頷いた。
この人物こそが、その恩人──ヘルメス神官長であると。
まず目立つのは、その立ち姿と、次に顔であろう。
上背こそ高くはないが、ぴんと伸びた背筋と広い肩幅。老いによる衰えは窺えない。
皺の多いその顔は高齢を頷かせるが、無数に刻まれた大小の傷跡はいかなる理由によってか。
「ようこそ、神の聖なる家へ」
鍛えこまれた肉体、眼鏡の奥の瞳には、ある種の鋭ささえ滲ませている。
思わず警戒の色を強くしたメアリだったが、自然な柔らかさの感じられる呼びかけに、慌てて応える。
「あ、あの、助けていただいて、ありがとうございました。わたし、メアリと申します」
「うん。素直でいい子だ。ご苦労だったね、セス君」
「ご無沙汰しています。ヘルメス神官長」
(セス……?)
礼ののち、握手を交わす二人は、どうやら旧知の間柄であるらしい。
二人の間柄はどういったものなのか。ヘルメスが呼んだ『セス』という名前は、アルバートのことを指しているのか。
それらが気になるあまり、ついつい二人の顔を見比べてしまうメアリ。
「ああ、僕の洗礼名です。親しい方はこっちで呼びます。
Albert Seth Oakwoodです。改めてよろしく」
そんなメアリの様子に気付いたアルバートが笑って答えた。
メアリがそのもうひとつの名前の意味を訊ねるより早く、二人は奥へ入っていく。
おずおずと後を追うと、その先、小さな中庭をぐるりと囲む廊下の奥、ヘルメスの私室へ通された。
オーク材の大きなデスクの前に置かれた、L字型の高級そうなソファ。
ヘルメスがそこに座ると、ぎぃ、と軋んだ音が響いた。
アルバートとメアリに手を差し出して、正面に座るよう促す。
袖から覗く手には、その顔と同じく大小細かな傷が多く見られる。
「さぁ、座りたまえ。今お茶を淹れるよ」
既に用意してあったティーセットから、ヘルメスは3人分のカップを並べ、ポットを手に取った。
大きなポットを軽々と運ぶその挙措。老いてなお腕力の衰えを知らずか。
失礼しますの一言とともに、アルバートが会釈しつつ座る。
彼に続き、恐る恐る座ったメアリは、ソファの柔らかさに暫時感じ入ってしまった。
「では、まず君のことから話してくれるかね?」
温かい紅茶で僅かに舌を潤すと、ヘルメス神官長は、優しくメアリに問いかけた。
ぎゅっ、と、エプロンドレスのロングスカートを握り締めたメアリは、一度大きく深呼吸。
そして、静かに己の身の上を話し始めた。
「わたしは……たぶん、3年前くらいまであの家、メル・ベリー孤児院に、いました……」
† † †
「そう、か……辛かったのだね。私などが考えている以上に」
話し終え、ぽろぽろと涙の粒をこぼすメアリを、静謐な眼差しで見つめていたヘルメスは、ややあって天を仰いだ。
「強いな、君は。身に降りかかった理不尽な災難にも負けず、孤独にも耐え、今日まで生きてきた」
視線を戻したヘルメスは、皺深き目元を笑みで緩ませると、いたわるように語り掛ける。
「捨てられたことを憎むこともできたろう。呪わしくも思えただろう。だが、君の目からは──」
ヘルメスは涙に濡れるメアリの目を優しく見つめながら、一言一言を噛み締めるように紡ぐ。
我が子を諭して導くような響きに、メアリは顔を上げた。
「──負の感情が窺えない。驚くべき清廉さだ。ただ悲しいのだね。家族を喪ったことが」
ヘルメスの指が持ち上がり、淡い光を放つ。
人差し指と中指が揃えられ、まず縦に一筋、次に水平に一筋。
ゆっくりと十字を切ったそれは、神霊術における、伝統的な簡易式の祝福儀礼である。
「重ねて言おう。君は、強く美しい心を持っている。その清き魂、必ずや大いなる父に祝福されるだろう」
メアリは過去の引き出しから幼き日の記憶を引っ張り出し、目を閉じて両手を組んだ。
孤児院にあった祭壇に祈りを捧げる時の、唯一神教の作法だった。
胸に広がっていくのは、3年分の悲しみ。そして、過ぎ去りし暖かな日々であった。
ヘルメスは、メアリの一礼に頷きと笑顔を返すと、不意に部屋の扉に顔を向ける。
そして、子供をたしなめるような声で、言葉を投げかけた。
「入ってきなさい。立ち聞きとは感心しないな」
「申し訳ありません。ノックする機会を逸してしまいまして……」
ヘルメスの声に応えるドアの向こうからの返事ののち、一人の修道女が入ってきた。
その顔は、ばつが悪そうな渋面を作っていなければ、目の覚めるような美しい少女であった。
「こちらの方は?」
「あの夜出動した武装神官だ。シスター・イーリスという。
まだ18歳の若手だが、本国でも指折りの腕利きだ。事件当夜も、一人で人狼二人を撃退している。
本国からこちらの勤めになったのでね。私のところで面倒を見させてもらっているんだよ」
アルバートの問いに、ヘルメスが自慢げに紹介した。
きり、と、姿勢と表情を正した修道女──シスター・イーリスは、両手を組んで頭を垂れる。唯一神教の独特の礼である。
白絹のヴェールと、正面部分に銀のボタンが首元から裾まで縦一列に並ぶ、黒のカソック。
やや不揃いで、少し肩にかかる蜂蜜色の金髪。つり目がちでブルーの瞳。物静かで涼やかな雰囲気の美しい少女。
しかしその瞳には、寡黙ながらも強気な輝きを秘めている。
その独特の雰囲気は、メアリも覚えていた。
あの夜、眼前に迫った人狼の爪から守ってくれたシスターだと気が付いたのだ。
「……あの、あの時は、ありがとうございました」
立ち上がって礼を言うメアリに、イーリスは首を横に振った。
その動きに合わせて、艶やかな金の髪がさらさらと踊る。
瞳から怜悧さが消え、かわりに浮かんだのは沈痛な表情。
「礼などいい。私は聖なる使命を遂行したまでだ。ご家族は……残念きわまる。間に合わず、すまなかった」
「と、とんでもありません! あなたのおかげで、わたしは助かったんですから!」
話は聞いていたのだろう。ご家族、イーリスは確かにそう言った。
メアリの気持ちを汲み取って、孤児院の者たちをそう言い換えたシスターに、メアリはあわてて答える。
その心遣いにメアリは、目の前の年上のシスターに大きな好感を持つのだった。
やがてアルバートも席を立った。彼らしい上品な礼ののち、イーリスに向かって挨拶する。
「はじめまして、シスター・イーリス。アルバート・オークウッドです。ヘルメス神官長には大変お世話になって……」
だがイーリスは、メアリに向けていた表情を一変させて、アルバートを睨み付けた。
「話しかけるな。人外」
吐き出された冷たい言葉に、部屋の空気までもが凍りついたようだった。
仇を見るような視線の苛烈さは、その冷たい言葉とは対照的に、炎のような猛りを孕んでいる。
その氷の言葉と炎の視線を真正面から浴びたアルバートはしかし、何の動揺も見せていなかった。
ただその表情には、メアリの見間違いでなければ、わずかな悲しみが浮かんだようにも見えた。
「……シスター・イーリス」
目を伏せたアルバートの、諦観を表すような弱々しい笑みは、ヘルメスがイーリスを叱責するまで消えなかった。
ヘルメスの声に、再び頭を垂れたイーリスだったが、その後はアルバートを見ようともしない。
そして、イーリスの豹変に驚愕していたメアリに改めて向き直り、ささやくように問いかける。
「貴女は知らないのか」
「……え?」
「……いずれわかる」
それだけ言ったイーリスは、もう一度だけ黙礼し、退室していった。
「すまないな、セス君。君の境遇は説明してあるのだが」
大きな溜息とともに、ヘルメスは申し訳なさそうに謝罪した。
「お気になさらないで下さい、神官長。彼女にも、彼女なりの価値観があるのですから。
では、これで失礼しようと思います。この後、メアリ君を連れて、警察にも顔を出しておかなければなりませんので」
「……そうか。こんなことを言っても仕方ないが、あまり気に病まないでくれ。彼女には、私からもう一度話をしておくよ。
すまなかったね。メアリ君。なんのもてなしもできんばかりか、こんな空気で送り出すことになってしまって」
あまりの事態に思考が停止していたメアリは、挨拶もうまくいかず、混乱が治まらないまま教会を後にした。
複雑な心境のまま駐車場に戻ってきたメアリを、車で待っていたアーネストも、首をかしげながら心配そうに見つめる。
が、アルバートが苦笑しながら首を振ると、肩をすくめて運転席に乗り込んだ。
† † †
アルバートたちは、ゲイルニッジ市の警察署を訪れていた。
いまだ表情を曇らせているメアリを連れて、しかし至って普通のアルバートは、若い刑事と話している。
先ほどの一件を知らないアーネストは、そんな二人に挟まれながら、少々居づらそうにしている。
「これは、メイガス・オークウッド。今日はどのようなご用件で?」
「ご無沙汰しております。本日、警部補はこちらに?」
「あ、申し訳ありません……本日は捜査の関係で出ておりまして、戻るのは深夜になります……」
「おや、間が悪かったかな。では、明日の昼にまた伺いますので、よろしくお伝えください。
お忙しいところを申し訳ありませんでした。本日はこれで失礼いたします」
そうしてさっさと車に戻った3人は、会話も少ないまま帰路につく。
いつもと変わらない雰囲気のアルバートと、心配そうに窺うメアリ。
さりながら、当のアルバートはのんきに魔導書など読み始め、一向に変わった様子は見えない。
そんな二人をバックミラーで窺いつつ、ボディガードの人狼は、いつもより安全運転に努めるのだった。
すっかり夕闇に包まれた町外れの街道を進んだ車は、ほどなくしてオークウッド家に到着した。
車庫入れ中のアーネストを待つ間、メアリは周囲を──オークウッドの豪邸を観察していた。
それにつけても静かである。音がないのではなく、遠くに感じるとでも評せばいいだろうか。
夜の闇でも目が利くメアリは、その庭の広さに改めて驚かされる。
アーネストが世話をしているという、綺麗に整えられた庭木や、門から伸びる石畳の車道。
アルバートが言うには、裏庭にはハーブ園まであるという。
その豪邸ぶりにいちいち驚くメアリの姿に、アルバートはこっそりと口元に笑みを浮かばせるのだった。
その時、メアリの耳と鼻は、急速に近づく獣の存在を気づかせた。
ソレは瞬く間に近づいてきた。
やがてその姿が見えてくる。
獣は走る勢いそのままに、その巨体でアルバートに飛びついた。
その獣を確認したメアリは、今日一番の大声をあげて驚いた。
「ひゃあああああああああっ!?」
「おっとっと、やあ、ホリン。ただいま。いい子にしてたかい? まだ紹介してなかったですね。
この子はウチの番犬、妖精犬の『クー・シー』で、ホリンって名前の可愛い奴です。どうです? 可愛いでしょう?」
まずソレは、犬といっても牛ほどの巨大さであった。
体は暗緑色の毛で包まれ、足は人間の脚と同じくらい大きく、丸まった長い尾がある。
メアリは知らないことであったが、この巨大犬は、妖精の丘に棲む『妖精犬』とも言うべき存在である。
鳴き声は小さいが、アルバートの言によれば、吼えることこそ少ないものの、唸り声は遠い海上まで届くという。
クー・シーは妖精の丘を守るのが仕事で、侵入者がある場合に放される、番犬そのものなのだ。
メアリはその獣に驚きつつも、ソレを『可愛い』と評するアルバートに呆れた。
無邪気にじゃれつく巨大犬と遊んでいるアルバートに、ただただ呆然としているメアリ。
故に、その後に現れた『珍客』に気づきもしなかった。
「ィヨーウ! オ邪魔シテルンダゼ、若旦那! トコロデ、コノオ嬢チャンハドコノドイツダ?」
「うひゃああああああっ!?」
「おう、すまねえお嬢ちゃん。驚かしちまったか?」
メアリは、もう何度目かもわからない悲鳴をあげる。
アーネストとともに現れたのは、ふわふわと宙に浮かぶ、カボチャのおばけだった。
黒い三角帽子に、カボチャをくりぬいた目口鼻。黒いマント?を羽織り、手にはランタンを持っている。
「あ、アーネストさん、そ、そちらの方? は……?」
「コイツかい? 夜の間、ウチの周りを見回ってくれる、俺らの友人だ」
「おや、ランタン君。こんばんは。わざわざ出迎えてくれてすまないね。
彼女はメアリ君と言って、今この家に居候しているんだよ。
いつもありがとう。見まわり助かってるよ」
「イイッテコトヨ若旦那! ココハおいらノ安住ノ地デモアルカラナ!」
ようやくホリンをなだめたアルバートは、カボチャのおばけに親しそうに声をかけた。
こちらはメアリも知っていた。絵本でも読んだことがある。
ジャック・オー・ランタン。名前は『ランタン持ちの男』を意味する。
分類は悪霊……なのだが、悪霊とは名ばかりの、気まぐれでお茶目な精霊の一種と解釈してもいい。
手に持つカブのランタンに、ウィルオー・ウィスプと呼ばれる火の玉を封じ込めてフラフラと彷徨う、もと人間の成れの果てであるという。
生前に堕落した人生を送り、悪魔を騙し、死んでも地獄に落ちないという契約を取り付けた男がいた。
が、生前の行いの悪さから天国への入園を天使に拒否されてしまい、仕方なく野菜に憑依し、安住の地を求めてこの世を彷徨い続けている姿だとされている。
「ヤイ小娘! コンゴトモヨロシク! ホッホー!」
「は、はあ、よろしく…… あはははは……はぁ、もう何が出てきてもいいや……」
乾いた笑みを浮かべながら、メアリは疲れたように項垂れた。
そんなメアリの様子に、今まで心配そうだったアーネストも、ようやく笑顔を浮かべる。
ホリンとランタンは、何の悩みもなさそうにじゃれあっていた。
「───……」
「おかえりなさいませ、若様。いや、メアリ嬢が参られてから賑やかになりましたなあ」
騒ぎを聞いてか、本邸からグレゴリーとオリビアが現れた。
俗に、家の格式が本物かどうかは、使用人の質によって決まるという。
その点で言えば、この家が見掛け倒しでない事は、そろって見事な物腰で一行を出迎えたこの2名が証明するだろう。
「賑やかなのは大歓迎さ。ただいまグレゴリー。オリビアも出迎えありがとう。全員集合だね。
──さあ、ちょっと遅くなったけど、夕食にしよう。今夜は楽しい食卓になりそうだ」
空に輝き始めたのは三日月。その形は、微笑む時の唇の形にも似て。
オークウッド家は、今夜もいつも通り平和である。
† † †
3月10日 昼
よく晴れた翌日、アルバートとメアリはアーネストの車で予定通り警察を訪れた。
先に下りたメアリが車の外で待っていると、アルバートは珍しいものを取り出した。
開いたドアの隙間から、ぱさ、と、白い日傘が出てきたのだ。
「日傘ですか?」
「はい。僕は肌も弱いので、紫外線対策に」
絹製の表面には繊細で優雅なレース、縁にはフリルと、男性が使うにはやや躊躇うような作りだが、アルバートが持つと中々どうして様になる。
欲を言えば、服装がいつもの地味なスーツなのをどうにかしたい所だが、アルバートは着こなし方がいいので、わりと上品に見える。
アルバートから何か頼まれごとがあるらしいアーネストと一時別れ、市街の真ん中にある、立派ながらも閉塞感のにじむ、真っ白な壁の警察署に入っていく。
コミカルな絵柄のポスターが交通安全を呼びかける横で、指名手配犯の凶悪な人相書きなどが貼られているという光景。
秩序の象徴である建物の中でも、小さな混沌が見つけられる光景は、人間社会を象徴しているとも言えようか。
中へ入ると、無精ひげを生やした刑事が親しげに手を振っていた。
短髪の中肉中背。茶色のトレンチコートに緩めたネクタイというラフな格好。歳は恐らく40前後。
タバコ臭い、いかにもうだつのあがらない不良刑事といった風体で、鼻の利くメアリはわずかに顔をしかめる。
「よう、男爵。こっちもちょうど話が終わったところだ」
「警部補、僕に爵位はありません、って、いつも言ってるじゃありませんか」
「気にすんな。あだ名みたいなもんだ。ところで……お嬢さんの格好、こりゃお前さんの趣味かい?」
「不可抗力ですよ。当家に女性用の服がなかったもので、仕方なく、です」
並び立つ二人の手には、一方はタバコの箱、もう一方は畳んだ日傘。
だらしない格好の彼と、今日もぴしっとしたスーツ姿のアルバートは実に対照的で、それがかえって印象的だった。
「一応名前と住民票、メル・ベリー孤児院の記録から過去10年を洗わせてみちゃあいるが、今んとこ目ぼしいネタはなし。
昨日もらったメールのネタは洗ってるが、正直どこまでつかめるか。ま、こっちは気長にやるしかねえ。焦らず気長に待ってくれ」
「確かに、事件解決の方が優先順位は高いですからね。僕の方もそっちを優先するよう『言われて』ますから、そちらに合わせますよ」
自分の居た孤児院の名前が出たことではっとしたメアリは、つい無遠慮な目で刑事を見てしまう。
彼は気にした風でもなく眠そうにあくびをするだけだった。
そんなメアリの様子を見て取ったアルバートは、すいっ、と自然にメアリに近づいて耳打ちする。
「ミス・メアリ。あなたの生まれを調べてもらっているんですよ」
メアリにとっては意外な話であったが、警察という組織の捜査上、当然の調査である。
アルバートと視線を交し合った刑事は、メアリにひょいと片手を上げて、やはりラフな挨拶をよこした。
「よっ」
「こ、こんにちは……」
「俺ぁ市警のデビッド・プレストン警部補だ。今回の件の捜査をしてる。
詳しい資料はもう受け取ってるんだが、細かいトコ詰めたいんでな。ちょいとティータイムに付き合ってくれや。セス、いいかい?」
及び腰のメアリにかまわず、一息にまくし立てたデビッド警部補は、後ろに控えるアルバートに首を伸ばし、メアリの頭の横から覗き込むようにして話しかける。
目の前の、初めて目にする刑事という人種。メアリは、その芝居がかったオーバーリアクションにやや辟易するのだった。
「ええ、もちろん。あ、これ拳銃の携行許可書です。忘れないうちにお願いしますよ」
「おっとすまん。……おーい! これ頼まあ。あと、俺ぁちょっと出てくるんでよろしくな!」
振り返ったデビッド警部補は、受付の奥の若い職員に声をかけ、アルバートが渡した大きな封筒を手渡すと、にやつきながら、改めてアルバートに向き直る。
茶目っ気を含んだ目でウィンクの真似事をして見せると、右手の親指と人差し指を立てて拳銃を撃つようなしぐさをして、からかうように話しかけた。
「で、今持ってんのかい? チャカはよ?」
おもちゃを前にした子供のような顔の中年刑事に苦笑したアルバートは、黙って上着のボタンを外し、懐に手を入れる。
取り出されたのは小型のオートマチック。左脇から右手で一挺、右脇から左手で一挺。
メアリの目測だが、右の銃は17、8センチ、左の銃は12、3センチしかないのではなかろうか。
銃のことなどよく知らないメアリは、まず見た目に惹かれた。
まず右手の拳銃。
手の大きくないメアリでもなんとか握れそうな、やや小ぶりの拳銃。
銃身を内部に抱いたスライドと呼ばれる上半分が、輝くシルバーメタリックであるのに対して、下半分とグリップ、それにトリガーが無骨な黒のフレーム。
光り輝くシルバーと、ブラックのツートンカラー。
そして左手。
こちらはさらに小さい。確実にメアリでも握れるだろう。
こちらも同じツートンカラーではあるが、もう一方とは逆に、スライド上半分が黒のフレーム、下半分がシルバーのデザインとなっている。
両方とも形が似通っており、スライドの左側面に『SIG SAUER』という刻印が見える。
逆側の右側面には型番号と思しきものがあり、右手側は『P226』、左手の小さいものは『P228』とあった。
「いつものシグかい。9ミリなんて豆鉄砲、人外相手じゃ役に立つワケないだろうによ」
「弾は儀礼済み銀弾頭ですからご心配なく。僕の細腕じゃこれくらいが限界です。そういう警部補はまたアレですか?」
アルバートの言葉にニヤリとしたデビッドは、腰のホルスターから自分の銃を抜く。
「おうよ。こいつとシルバーマグナム弾の組み合わせさえあれば、人外だってメじゃねえぜ」
まずメアリは大きさに驚いた。恐らく銃身は30センチほどもあるだろう。
細い銃身はスマートな印象があるが、その長さと大きさが逆に剛健なイメージを与える。
茶色のグリップ以外はすべてシルバーメタリック。
輪切りの野菜を思わせる弾倉の隙間から、6発の大きな弾丸が見える回転式拳銃だ。
重そうな撃鉄と大きなトリガーが、この銃の凶悪さを物語っているようである。
拳銃とは、片手でも使用することもあるものだが、この大きさから窺える重量、はたして片手で扱えるものだろうか。
もちろんメアリが『変身』し、人狼の腕力を得れば容易であろうが、人間の状態で、これを片手で撃てと言われれば絶対に躊躇する。
「相も変わらずS&WのM29リボルバー……警部補、外国映画の見すぎですよ」
「うるさいね。今でもキャラハン刑事とイーストウッドは俺のヒーローなんだよ」
デビッドは西部劇のガンマンよろしく、重そうなM29を指一本でくるくる回すと、流れるような慣れた手つきでホルスターに戻した。
メアリの物珍しそうな視線に笑顔で応えた二人は、外出するようである。
使用人のエプロンドレス姿が気にならないわけではないが、ついていくしかないメアリは渋々追従した。
そして外にでた途端、アルバートがへなへなと倒れこんだ。
「きゃー!? あるばーとさまー!?」
「そういやお前さん、持病持ちだったな。何やってんだまったく……」
「んが……ゆ、油断……しました……」
日傘を開き損ねたアルバートは、いつの間にか中天に達していた太陽の直射日光をモロに浴びて、昏倒したのである。
悲鳴をあげたメアリが倒れたアルバートを慌てて助け起こす。
陽光の下で見るアルバートの肌はメアリに負けず劣らずの色白で、額にはうっすらと冷たい汗が滲んでいる。
それを呆れながら見たデビッド警部補は、天を仰ぎ見た。
雲ひとつない快晴の、実にいい天気であった。
- 続 -