第1話 メイガスの館
はじまりは月夜。
みんなで抜け出して、お庭を夜の散歩と洒落込んだのだ。
あのころ、わたしは年長さん。
ルイスも、ミーシャも、普段はおとなしい子たちだって、見事な満月につられてやってきた。
保母さん──イライザさんには内緒。だって、こういうのは内緒のほうがおもしろい。
でも、あの日、あの時。山から下りてきた小熊を見つけてしまったのが失敗だった。
感激したイリスの大声でみんな起きてきてしまった。
でも当然、小熊なんだから、近くに親がいたわけで、見上げるような黒い母熊がお庭まで入ってきてしまった。
イライザさんも起きてきて、猟銃で果敢に立ち向かった。
でも当たらなくて、ついに、その大きな爪が振るわれた。
腕から真っ赤な血がびっくりするほど噴き出して、義理の母が倒れこむ姿を目の前にして。
その時に、私の中で何かが弾けたんだ。
自分のものとは思えない、凶暴な衝動。
見る間に発達していく筋肉。
禍々しく伸びた牙と爪。
毛むくじゃらの体。
イライザさんを傷つけた怒りを己の牙と爪に乗せて、咆哮とともに躍りかかる私。
でも、よくよく考えれば、あの母熊だって、自分の子供を奪われたと思ったから怒ってたんだよね。
なんでそこに気づかなかったかなあ。もっとも、今になってはもう遅いけれど。
傷だらけになりながら、血だらけになりながら、なんとかわたしは熊親子を追い返した。
でも。
『いやぁ! ばけものっ!』
『うわああっ! あっちいけえ!』
イライザさんも、ルイスも、ミーシャも、イリスも。
みんなみんな、わたしだって気づいてくれなくて。
石をぶつけられているのにちっとも痛くない。でも、心の方はものすごくイタイ。
その時になって、ようやくわたしは、首から上が、完全に狼になっていたと気づいた。
朝になる頃、ようやく姿は戻り始めた。狼の顎は人の顔に、手足の長さも元に戻った。
だけど、牙と爪、耳と尻尾、背中とうなじの体毛は戻らなかった。
それからしばらく、わたしは山を彷徨った。
人としても人狼としても、中途半端なまがい物の姿で。
自分の意思で『変身』を制御できるようになったのは、どれくらいかかったんだろう。
覚えてないけど、たぶん1ヶ月くらいかかった気がする。
あと満月の夜に『変身』すると、完全に人狼になってしまうこともわかった。
これで帰れると嬉しくなった。
もう寂しくて寂しくて、たまらなかったから。
苦い木の実や、生焼けの山鳩なんて、もう食べたくなかったから。
枯れた大木の下や、洞窟なんかより、暖かい毛布に包まれて眠りたかったから。
でも、まだちょっと不安だったわたしは、孤児院のみんなが野良仕事に出る時間にこっそり戻った。
覚悟はしていたつもりだった。
予想していなかったわけじゃない。
だけどやっぱり、その事実はショックだった。
家からは、わたしのものが消えていた。
わたしの寝ていたベッドは誰かに使われて。
靴も、サンダルも、今は他の誰かのもので。
玄関の、孤児院のみんなの手作りの表札にも、わたしの名前はなくて。
失意の中、ふらふらと彷徨いながら、気がつけば孤児院の裏手に回っていた。
そこは、引き取り先が決まらず、病気とかで亡くなった子供を弔った墓地がある。
目に入ったのは、記憶に無い、真新しい墓石がひとつ。
Maryと、わたしの名前は、そこにだけ見つけられた。
人生で、一番たくさんの涙を流したのは、たぶんあの日だろう。
来た時のようにこっそりと孤児院を離れながら、ふと気づいた。
その日は、捨て子だったわたしが拾われた日。
イライザさんが決めてくれた、わたしの誕生日だった──
† † †
3月9日 朝
「……っぁ…………あ、れ?」
メアリの悪夢は、そこで終わりを告げた。
起きたばかりのせいか、少し意識がふわふわしていることを自覚する。
ややあって、暖かく柔らかいものに包まれていることに気づいた。
体を起こそうとも思ったが、その心地よさと気だるさに勝てず、もうしばらく横になっていることにする。
強い疲労感。抜けない倦怠感。
そして思い出す、昨晩の惨劇。途端に湧き上がる喪失感と、深い悲しみ。
たとえ追い出され、ばけものと呼ばれようとも、メアリは家族が大好きだった。あの孤児院が大好きだった。
しかし、それらはすべて、一晩のうちに奪われたのだ。
「うぅ……ひぐ、う、ぇぇぇ……」
柔らかい枕に顔を押し付けて、メアリは声を殺して泣いた。
ようやく涙が枯れたのは、小一時間ほど経ったのち。
落ち着いたのか、次第に今置かれた状況がどうなっているのかが気になってきた。
しかし、心身の疲れからうまく思考がまとまらない。
起き抜けで状況が掴めず、周囲を観察してみると、どうやらメアリはベッドに寝かされているようである。
ベッドの上の天蓋でよくわからないが、とても豪華で広い部屋であることは間違いない。
調度品は高級そうで、複雑な模様のインテリアは上品な印象を受ける。
よく見れば、自分が横になっているベッドも、子供3人は楽に寝られそうなほど大きい。
(ここ、どこなんだろう。でも、気持ちいい……もうちょっと……このままで……)
もう一度目を閉じて、体を休める。
その時、メアリの優れた聴覚が、部屋に近づく何かの音を拾った。
しゅる、しゅる……と、シルクの衣擦れのような音。
野に生きるうちに身についたメアリの第六感は、この音に危険は無いと告げている。
多少不安もあったが、メアリはそのまま目を閉じて待つことにした。
この家の人間が様子を見に来たのかもしれないから。
しばらくして、両開きの立派な扉が開かれた。
しかし、妙だ。衣擦れの音は確かに聞こえるのに、足音がまったく聞こえない。
なのに誰かがいる気配。それはベッドのそばまで来て、メアリの様子を窺っている。
メアリも流石に不安になり、恐る恐る目を開ける。
するとそこには──幽霊のような女性が佇んでいた。
「──……」
「ひ、ひゃあっ!?」
足音がしないのも当然だった。彼女は床からほんの少しだけ『浮いて』いる。
見た目は、旧家の召使の娘。流れるような長髪は、薄い緑。
大胆に肩を晒したシルクの服は朱色。頭には白のシルクを姉さん被りにしている。
両手は上品に前で揃えられ、美人の部類に入るであろうその顔は、イタズラが成功した子供のような笑顔を浮かべていた。
「──……」
「え、なに? なんて言ったの?」
唇の動きで何かを訴える彼女は、どうやら喋ることができないらしい。
いたずらっぽい微笑みは消え、困ったように苦笑している。
そうしてお互い困っていたのち、幽霊は不意に顔を廊下の方に向けた。
メアリもそれで気が付いた。
今度はしっかりとした足音。もう一人、誰かが近づいてきている。
「おはよう。気分はどうですか?」
入ってきたのは、長身痩躯の、地味なスーツの青年だった。
見た目は20代前半、メアリと同じ灰色の髪は前髪を垂らさずに後に流している。
精悍な顔つきを崩して、屈託の無い笑顔を浮かべていた。
「ああ、驚かせてしまったかな。彼女は『妖精シルキー』で、オリビアと言います。心配いりませんよ。うちの使用人の一人です」
「──。──……」
紹介を受け、朧な姿の妖精使用人は、優雅な仕草で一礼した。
その姿に、メアリは昔絵本で読んだ話を思い出した。
妖精シルキー。この国、この地方に伝わる、家付き妖精の名前である。
精霊と幽霊の中間に位置するような妖精で、その名の由来、白や灰色のシルクの服を着て、サラサラと衣擦れの音をさせるという。
外見年齢は様々で、一般的には若い娘の姿が多い。
特定の家に棲み付き、家事全般をこなしてくれるが、その家の住人がシルキーに対して敵対的であれば、嫌がらせで追い出したりもする。
それだけならまだ可愛い方で、過激な個体となると、住人を殺してしまうものすらいるという。
また、同種族のなかでも『個性』のはっきりした妖精でもあるらしい。
本来シルキーは人前に姿を見せないというのが定説だが、平気で姿を見せているのは、彼女──オリビアの『個性』ということだろうか。
「はじめまして、ウェアウルフ・ハーフのお嬢さん。
僕はこの家の主で、アルバート・オークウッドと言います。オリビア共々、どうぞ、お見知りおきを」
目の前の青年は、隣の妖精に倣ってか、優雅に一礼してみせる。
呆気に取られていたメアリも、慌てて頭を下げるのだった。
「あ……ご、ご丁寧にどうも。私、メアリと言います。その……アルバート、様? と、オリビア……さん」
「メアリ君、ね。OK、気が付いてなによりです。あなたは三日三晩眠っていたんですよ」
「あ、あの、ここはどちらなんですか? あ、いえ、それよりも私!」
「ストップ。それは後にして、まずは……」
アルバートは横に控えるオリビアに笑顔で視線を向ける。
それを受けたオリビアはこれまた優雅に頷いて見せた。
「食事にしましょう。ちょうどできあがったところみたいですから。オリビア、僕の分もここに持ってきてくれるかい?」
いまだ警戒は解けない。解けないがしかし。
その言葉で、メアリは自分が空腹であることに気づいたのだった。
† † †
運ばれてきた食事は、質素ではあったが、メアリの舌と胃を満足させるどころの話ではなかった。
クリームシチュー、温野菜、フルーツ。
パンとパスタはどちらか選べということか。勿論メアリは両方手をつけた。
3年ぶりに活発になった舌の上で、味覚は爆発した。
生焼けの野鳥や、苦い木の実などとは別次元の味の刺激。
じんわりと、体の芯まで暖かさが染み込むような、牛肉がたっぷりのシチュー。
温野菜はひとつひとつが柔らか過ぎず、固すぎない、かぶ、玉ねぎ、キャベツ、大根、人参、ブロッコリー、カリフラワー。
バジルとチキンコンソメ、ツナとマヨネーズ、塩胡椒で食べる野菜。
メアリの心にも、暖かいものが広がる。
こんなにも人間らしい食事をしたのは、いったいいつ以来だろうか。
「おいしいです。ほんとうに、すごく……ぐす。う、ふぇぇ……うぇぇぇぇん……」
久しぶりの人らしい食事は、メアリの凍えた心も温めた。
えっへん、と、豊かな胸を張って満足げなオリビアと、食べながら優しく微笑むアルバート。
口元にドレッシングとパンかすをつけたまま、メアリは、先ほどとは正反対の感情で、はらはらと涙をこぼすのだった。
「──……」
「今日もおいしかったよ、オリビア。彼女も喜んでくれたみたいだ」
もとから健啖家であったか、空腹も手伝ってか、ぺろりと平らげてしまったメアリは、猛烈な照れで何も言えないでいた。
食後の和やかな雰囲気。メアリにとって、これも久しく忘れていた感覚。
しかし次の瞬間、そんな想いが吹っ飛ぶほどに驚くはめになった。
ちょうどそこに入室してきた第三の人物に、メアリはまたも奇声をあげてしまう。
「ひっ!?」
「やや、これは失礼しました」
入ってきたのは、異形の亜人だった。
浅黒い肌に、長い鼻。身長は子供ほどしかない。恐らくは140センチと少し。
メアリも山で暮らしていた頃にたびたび目にしたことがある。
その姿は『ゴブリン』にそっくりだ。
妖精ゴブリン。
体は小さく身長は人間の子供程で、色は浅黒く、人間のように両手足を持ち、体臭がきつい。
鉱山の坑道や深い洞窟等の地下の穴ぐら、家の隅、馬屋、木の洞等の暗闇を好んで住処とする。
太陽の光を嫌い、昼間は日の当たらない場所に隠れている、夜行性の妖精である。
彼等は実にイタズラ好きで知られる妖精で、道しるべを動かして人を迷わせ、誰かが通れば足を引っかけ転ばせる。
知能は低く、人間社会に馴染まない。無害ではあるが、とにかく人間にとって傍迷惑な存在である。
で、あるのだが……服装は、どこからどう見ても『執事』のソレだった。
「紹介します。彼も僕の家の使用人で『ホブゴブリン』のグレゴリーです。グレゴリー、ご挨拶を」
「驚かせてしまいまして、申し訳ございません。
わたくし、当家で執事・工房の管理・雑用などを勤めさせて頂いております、グレゴリーと申します。何かあれば、どうぞご遠慮なくお申し付け下さい」
意外なほどに丁寧な口調で、見事に一礼してみせる、執事・グレゴリー。
そう。彼はゴブリンではない。正確には『ホブゴブリン』だったのだ。
ホブゴブリンは確かにゴブリンの一種ではあるが、両者の違いはとても大きい。
まず、ゴブリンの中でも比較的体が大きく、知能も人間並みに高い。
そして、ミルクやバターなどの報酬で人間の手伝いも請け負う。
力は人間よりも強く、手先も非常に器用で、家に憑いた悪質な妖精と戦ってくれることもあるという。
しかし、人がどんなに感謝を示しても、決して人間社会に馴染もうとはしないという。
ゴブリンのように鉱山の坑道や深い洞窟等で、ホブゴブリンだけの集落を作って暮らす、秩序ある種族であった。
「ほ、ほぶごぶりん!? は、初めて見た……え、でも臭くないし、口調もキレイだし──あ、ご、ごめんなさいっ!!」
「いえいえ、無理もありません。どこを探しても、こんなホブゴブリンなどいないでしょうから。
体臭は、消臭効果を持つコレ、腕輪型の魔導機器のおかげでございます。これは若様の手作りの一品でして、私の宝でございます」
そう言って彼、執事グレゴリーは、腕時計を見せるように左腕を出した。
綺麗な銀細工と、魔術文字の刻まれたそれは、魔導機器というよりも、アクセサリーのようである。
「は、はあ、すいませ……魔導機器を、手作り……? じゃ、じゃあ、アルバート様は魔法使いでいらっしゃるのですか!?」
「まあ、魔術師と言っても、今は開店休業状態ですけどね。魔導師にも弟子入りしてないし、魔導器作りと食器作りで細々とやっています」
そう言って微笑んだアルバートは、懐から高価そうな皮の名刺入れを取り出すと、二つ折りのそれを開いて見せてくれた。
上半分に収められている、メアリが初めて目にするそれは、正真正銘本物の『魔術師免許証』である。
下半分には名刺がある。それには《陶器・食器のオークウッド》と、副業の方が大きく書いてあった。
「この家を維持するには、公務員の給料だけでは足りなくて。魔術師は公務員でも一部副業が認められていますからね」
「わ、私、魔導師の方にお会いするの、初めてです……」
「え? ちょ、ちょっと待った。あんな化け物爺さん達と一緒にしないで下さいよ。ひょっとして魔導師と魔術師の違いは知らない?」
「???」
「あ、やっぱり。いいですか、魔導師、魔術師っていうのは……」
アルバートは苦笑しながらメアリに向き直ると、居住まいを正して語り始める。
曰く、魔導師と魔術師の違いは大きいとのこと。
まずは、魔術師。
それは『近代魔法』の習得・使用の許可を与えられた、国立魔導院に所属する、れっきとした『公務員』である。
また、将来魔導師となることを期待された『魔導師の卵』でもあり、学徒でもある。
生まれ持った魔力の高さと高い教養を備える者が、国立魔導院の試験を受けて、同院に認定される。
魔導師の弟子となって研究の手伝いをしたり、魔道機器の製作などを生業とする。
教育機関、警察、軍隊に強い影響力を持ち、絶対に政治に関わってはならない。
魔導管理法により、営利企業の従事許可は出ないが、本業に支障がない範囲で、許可を受ければ、家業や執筆、講演などで報酬を受けられる。
そして、魔導師。
魔術師と同じく国立魔導院に所属する公務員だが、こちらは『国家公務員』である。
『古代魔法』の習得・使用の許可を与えられた『歩く国宝』『生きた化石』と呼ばれ、戦略兵器と同等の存在ともされる。
各国の国立魔導院の最大権力者でもあり、その立場は、国立大学の名誉教授や、警視総監、陸海空の軍隊司令官と肩を並べる。
魔術師から魔導師となるには、いくつか条件がある。
まず魔術師として魔導師に弟子入りし、平均20年ほど修行して師匠から推薦されること。
次に、研究論文が国立魔導院に認められること。
さらに、現代では失われてしまった古代魔法、通称『失伝魔法』を発見すること。
それらを全てクリアしたごく一部の魔術師が、IMMOの審議をパスすれば、女王陛下(国家の代表)から直接認定される。
※ IMMO(国際魔導連盟:International Management Magus Organization)
国家にとって『失伝魔法』の発見と、一人でも多くの魔導師を確保することは急務であるため、各国は魔術師の育成に力を注いでいる。
しかし数は少なく、多い国家で魔術師は200人前後。魔導師は5人ほどだという。
それというのも、各国の国立魔導院、およびIMMOの定める試験をパスすることが非常に困難である事が理由である。
アルバートの話に聴き入るメアリ。その様は、さながら教師と生徒のようであった。
そこへ、いつの間にか退室していたオリビアが、再び入ってきて、グレゴリーに唇だけで何かを伝える。
それに気づいたアルバートが振り返ると、グレゴリーは恭しく一礼しながら言った。
「若様、準備が整いましてございます」
「ああ、ごめんごめん。つい長くなっちゃった。僕の悪い癖だな、これは」
恥ずかしそうに頭をポリポリと掻きながら、教師風を引っ込めたアルバートはおもむろに立ち上がった。
そしてにっこりと笑いながら、優雅な仕草で手袋に包まれた手を差し出しながら告げる。
「湯殿の用意ができましたよ」
その姿にメアリは不覚にも胸がときめいた。が……次の瞬間、それは雲散霧消した。
先立って案内をしようと一歩目を踏み出したところで。
ずでーん、と間抜けな音を響かせて、アルバートは、そのままそこへぶっ倒れたのである。
「──! ──!!」
「え!? え!? アルバート様!?」
驚いた様子のオリビアが、慌てて駆け寄り、助け起こした。
もちろんメアリには何がなんだかわからない。
「はあ……ご心配なさらず。若様はたいへん病弱な上、色々と持病をお持ちですので。
若様、アレルギーなのでガーリックパウダーはいけませんとあれほど……」
「すまない……しびれて動けない……」
グレゴリーが持っているのは、食卓から摘み取ったガーリックパウダーの小瓶。
それを見たオリビアは、抱えていたアルバートの上半身をため息と共に手放す。
ごとん、と痛そうな音を立てた家主を完全に無視して、オリビアはメアリの手を取って浴室へ案内するのだった。
「い、いいのかなぁ……」
「はい。もちろんでございます」
メアリの遠慮がちなつぶやきに、グレゴリーは笑顔で答えるのだった。
† † †
信用できる人たちなのだろうか。メアリはそんなことを考えながら、上品なバスルームに気後れしながら入る。
直後、入ってその脇、備え付けの大きな鏡に映った自分の姿を見て驚いた。
野生的な食生活だったわりに、3年間でいつの間にか育っていた女性的な体は、15の小娘という割には育ちすぎだ。
身長が伸びていたのは自覚できていたが、腰のくびれや膨らんだ胸は、改めて見ると驚いた。
メアリは幼年期の自分が、背伸びしながら『早く大人になりたい』と考えていたのを覚えている。
大きくなったらこんな風になれたらいいなあという姿をおぼろげに浮かべていたが、これならもう2、3年もすれば、昔夢見た理想の女性らしい体になるのかもしれない。
(80、くらい? あるのかな……)
自分の胸を無意味に揉みながら、ややボケた事を考えた後、次は自分の顔を見る。
昔はとび色の瞳だったが、いつの間にか変色していた、金の瞳。
人間らしい日中の活動から、獣らしい夜の行動にシフトしたことで、日光を浴びる機会が減っていたせいか、病的なほどに白い肌。
石鹸で垢を落とした肌は、小さな傷跡すら残っていない。
「半人狼か……」
人外──わけても高位の存在である人狼は、自然治癒力が極めて高い。
『変身』している時ならば、負ったばかりの傷でもたちどころに治り、傷跡のひとつも残さず消えてしまうという。
例外は銀の武器で負った負傷のみ。
思えば、山で活動する時は、ほとんど『変身』していた。
もっとも、満月の夜でなければ完全に人狼へと『変身』することはできず、中途半端な半獣人でしかないのだが。
3年前までは考えもしなかった、失われた己の出生の記録。自分の中の亜人の血。
今回自分が襲われたモノと同じものとは考えたくなかった。
人狼。話に聞くような、高潔な種族ではなかった狂える魔物。
メアリは沈んでいく気持ちを吹っ切るように、ぶるぶると頭を振った。
奇しくもその様は、水に濡れた狼が体を震わせて水滴を落とす行為に似ていた。
† † †
「あの……これ……」
「すいません。この家には女性用の服はこれしか置いていなかったもので」
オリビアが着替えとして持ってきてくれたその服。
フリル付きの白いカチューシャ、丈の長い、黒と白のエプロンドレス。
どう見ても使用人──メイドである。
これはこれで可愛らしくもあり、メアリもまんざらではない。しかし、だ。
ニコニコと音が聞こえてきそうな笑顔のアルバートとオリビアのおかげで、実に気恥ずかしくもあり、メアリは終始もじもじしていた。
ひとしきり眺めて満足した様子のアルバートは、ビニールを敷いたスペースに、持ってきた一脚の椅子を置いた。
オリビアはと言えば、大きめの鏡を捧げ持ってきて、アルバートの傍に控えている。
「せっかくの綺麗なアッシュグレーの髪が焦げてしまって台無しですね。
ここに座って。少し切り揃えましょう。あ、カチューシャは少しだけ外して下さいね」
銀のハサミをチャキチャキと、昔どこかで見た、手がハサミになっている怪人映画の主人公のように動かすアルバート。
メアリはやや不安ではあったが、結局素直に従った。
すると意外にも、アルバートは手馴れた様子で見る間に髪を整えてしまった。
「うん、これでよし。ショートボブはお好きですか、お客様?」
律儀にも終わるまで目を閉じていたメアリは、そこでようやく目を開けた。
体を包んでいた切り髪避けの大きな布を外される。
オリビアが持った鏡を覗き込んで、メアリは今日何度目かも忘れてしまった驚きの声をあげる。
そこには、白い肌と金の瞳が印象的ではあるものの、ショートカットの可愛らしい少女が映っていた。
「わあ……」
「よくお似合いですよ、レディ。さ、これで準備は良し。これから君を助けてくれた人に、お礼を言いに行きましょう」
アルバートはそう言って、再びエスコートせんと進み出て、恭しく手を取る。
つい恥ずかしくなって隣にいるはずのオリビアを探したが、彼女は椅子やらビニールやらハサミやらを片付けに、いつのまにか退室していた。
オークウッド家の廊下を、メアリはアルバートに従って歩く。
高級感のある調度品類に、廊下を飾る絵画などの芸術品。
端から端まである朱色の絨毯にはチリひとつ落ちてないように思えてしまう。
落ちつかず、視線を彷徨わせた先の窓の向こう、そこから小さな何かが目に映る。
(あれ……? ひょっとしてフェアリーかな?)
窓の外に見える、透き通った翅を背中から生やした、手のひらほどの小人の娘。
人里ではあまり見られない、妖精フェアリーである。
(誰もいない……ううん、ひょっとしてこのお屋敷、他に人がいない……?)
訝りながらフェアリーを横目に流しつつ、メアリが連れてこられたのは玄関前のメインホール。その正面に階段。
見上げてみれば吹き抜けになっており、二階部分がバルコニーのように、ホールをぐるりと囲んでいる。
その大階段をのぼった先の二階正面の壁に、大きな肖像画が飾られている。
貴族調の豪奢なドレスに身を包み、その胸に赤ん坊を抱いて、椅子に腰掛けて微笑む女性。
その婦人の傍らに、同じように立派な服の男性が、身をかがめて彼女の肩を抱き、やはり微笑んでいる。
恐らくは夫婦。そして、赤ん坊は二人の実子であろうか。
男性は、赤ん坊と同じ灰色の髪を、肩にかかるまで荒々しく伸ばしながらも、決して下品ではない。
広い肩幅と太い首、がっしりした体格に威圧感を覚えずにはいられない。
が、その顔が浮かべる笑顔は子供のようで、強く逞しい、しかし家族想いの良い父親といった人物像が窺えた。
そしてその婦人。こちらはなんと表現すればいいのか。
怖いほど美人だが、美人すぎて怖いというか。なにか人間離れした美しさを備えているような印象の顔。
切れ長の目。綺麗な鼻筋。艶めいた唇の紅色。
現実感の無い銀色の長髪。蠱惑的でありながら貞淑さを併せ持つ、矛盾した雰囲気。
たおやかな指、服の上からでもわかる手足の細さ。しかし線の細さに反して、開いた胸元から、まろび出んばかりの豊満な乳房。
肖像を飾る豪華な額には、名前とおぼしき文字が3列並ぶ。
Gillian Oakwood
Camilla Oakwood
Albert Seth Oakwood
(ジリアン・オークウッド……カミラ……アルバート様のお父様とお母様かな……)
肖像画に気を取られてすぐ、外から入ってくる人の気配にメアリが振り向く。
玄関からこちらへ、スーツ姿の大柄な男が近づいてきた。
「アーネスト、いいかい?」
「坊っちゃん、お出かけですかい?」
長身のアルバートより、さらに頭ひとつ大きい大男である。
肖像画のジリアン氏にも劣らない、頑健な体格に、灰色の短髪。
立派なあごひげも灰色で、実にいかつい風貌でありながら、人懐っこい笑顔が印象的だった。
「うん。彼女が目を覚ましたから報告に行く。あと、帰りの足で警察署に行こう。すぐにでも動きたい」
「お嬢ちゃんも一緒で? へい、わかりやした」
アーネストと呼ばれた男は、そこで初めてメアリを見た。
見知らぬ顔と威圧感に、メアリはついついアルバートの背中に隠れてしまったが、彼は気にせず話しかけた。
「よお、すっかり元気になったみてえじゃねえか。俺らの血のおかげかね」
「あ、はい、ありがとうございま……え、血、って……」
「なんでえ、匂いでわからねえかい?」
言われて初めて気が付いた。
ただの人間ではない。かすかに匂う獣の匂い。
これは、この匂いは自分と同じ、しかしもっと強く、もっと剛く──
「あ……」
「彼は庭師のアーネスト。お察しのとおり、純度100%のウェアウルフですよ。
他に、僕のボディガードや、専属運転手として勤めてもらっているんです」
アーネスト氏は、ニカっと豪快な笑顔を見せると、車のキーを指でくるくる回しながら出て行ってしまった。
メアリはなにも言えないまま、その偉丈夫を見送った。
あの夜に見た人狼のような凶暴さは微塵も感じさせず、豪快な中にも確かな理性を秘めた存在。
(あれが、本当のウェアウルフ……)
そしてメアリは、はたと気が付いた。
彼が、人狼のアーネストが出て行った今でも、確かに人狼の、同族の匂いがする。
残り香ではない。
もっと近い。
でも、少し薄い。
「あ、やっと気づいてくれました? 『二つの種族の狭間に生きる者』の苦しみなら、僕にもわかるんです」
この、同族の匂いは、すぐ傍に──
「僕の父もね、ウェアウルフ・ハーフなんですよ。つまり僕自身も、4分の1、ウェアウルフの血が流れているんです」
匂いの主、アルバートは、初めて見た時と同じ、優しい笑顔を見せていた。
- 続 -