<自傷する社会の肖像>
長く続いた連載もこれにて終幕となります。
最後はだいぶ趣も変わった話になりますが、これまでの話のプラスアルファとして認識していただけると幸いです。
<自傷する社会の肖像>
この一連の詩の<私>という一人称が社会であること、それは君たちという人間に向かって語りかける、社会の意思であることを改めて今、伝えたいと思う。
心理学の分野で、人間には生へと向かう本能“エロス”と死へと向かう“タナトス”がある。エロスは自己に欠けているものを得ようとする自己実現的な愛である。一方タナトスは自らを苦悩の中に置き、攻撃的なものへと変容させていく意思である。人間はこの二つの本能を振り子のように作用させながら生きている。
しかし一方で生を実感すればこそ死の恐怖に怯え苦しみもするし、死を意識すればするほど本来の生の大切さも実感できる。いわば人間の幸福とは対象的なものでしかない。
人間は自己を第三者的に置き換えて、対象的に捉えることで幸福であるかを分析する。
これはきわめて危険な思想である。
はたして人間に正確な自己の幸福など分析できるのか、それは自己を責める材料にしかならないのではないか、宗教の曖昧化された社会ではそれは顕著に表れるものであることに人間はなかなか気づけない。
人間は自分にとって都合のいい幸福しか求めない。
そしてそれは満足してしまえば、また違った方向性にシフトしていく。
それ以前とそれ以後の定理、もうそれ以前のことなど忘れ、エロスを確実に加速していく。
そして気づかされる自己の限界、幸福の限界、人間は過去に戻ることはできない。徐々に失っていく日々の弾力性。それは歳を重ねるごとに得られないことでタナトスを肥大化させていく。
君はやがて自己が許せなくなり自傷するだろう。
今日もこの世界では膨大な数の人が自らを自傷する。
君がこれ以上傷つかないために、僕が伝えていくこと。
魂の幸福地点。宗教でもスピリチュアルでもない幸福の伝え方。
人は簡単に傷つき苦しみ恨む、そのことは人間自身が一番わかっていること
不安に暮れないように
ゆっくりゆっくりと、生きる生き方を
人と人とが支えあう社会を
君らしく愛らしく世界は回る
長い間お付き合いいただきありがとうございます。
文章の量としては僕の小説の中では少ない方ですが、色々と表現方法や手法を頭の中で言葉遊びを込めながら書いてきました。
初期は前後半に分かれる形で、前文を辿っていくように”エロス”と”タナトス”を巡る詩作を作り上げていく予定でした。
しかし僕の中で「なまえのないうた」を書いていた時期にいろいろとあり、そこのところの心理変化やこれからの作風も含めて、より整理したものにしようと思い至りました。
ちなみに誤解のないように書いておくと前回と今回で自傷という言葉を使っていますが、これは”タナトス”の置き換えであり、その意味するところは死へと向かっていく力であり、その内容にはドラッグや反社会的ギャンブル行為、犯罪行為、暴力行為、そして自傷行為などを含んだものであり、際立って自傷行為だけをさしたものではないので、そこのところは誤解のないようによろしくお願いします。
それではまた、次回作でお会いしましょう。
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ではでは、おつかれさまでした。




