第5話 下書きフォルダの地図
旧鍵のことを聞かれたのは、昼休みが終わってすぐだった。
窓の外にまだパンの袋の音が残っている時間。皆が席に戻って、チャイムの余韻だけが天井に薄く残っている。文芸部室のドアが閉まり、空気が収束する。朱里が正面に座った。陽斗は壁にもたれ、詩音は画面の前で手を組んでいる。視線は僕に集まっていた。
「皆川、言って。旧鍵、陽斗に渡した?」
「渡していない」
自分の声が思っていたより低く響く。
陽斗の表情は読めない。詩音のまばたきが一度、静かに落ちた。朱里は、視線を外さない。
「ドアの横、消火器の裏に封筒があった」
陽斗が言う。「置いたのは、誰」
「知らない」
「じゃあ、これは」
朱里が、机の上にタブレットを滑らせる。共有サイトの管理画面。僕のアカウントに紐づいた非公開ドラフトが一つ、点滅していた。タイトルは「謝罪の手紙」。
胃の奥が冷える。けれど、誤魔化す選択肢が、もうどこにもない。
「読んだのか」
「タイトルだけ。開くかどうか迷って、閉じた。でも、存在は消えない。皆川、どういう謝罪?」
指先が、机の縁を探す。木目のささくれに爪が引っかかって、少し痛い。その痛みで、説明の順番が見えてくる。
「半年前、アクセス障害があった夜のことは知ってるね」
「知ってる。部のサイトが落ちた。復旧させたのは、君」
「……復旧だけじゃなかった」
言いながら、背筋が固まるのを感じる。
「“海までの地図・第4話”が、投稿待機の状態にあった。サーバが安定したタイミングで、公開した。公開する前に、僕は……こっそり校正をした」
空気が、少し斜めに落ちる。陽斗が壁に肩を押しつけ、音を立てない。詩音は唇を結び、朱里は目を細めた。
「校正って、どこまで」
「誤字脱字、句読点の位置、重複する比喩の切除、言い回しの簡略化。さちの癖を、消した。変換の誤りも、“在るいは”を“或いは”に、“雨粒の点字”を“雨粒の文字”に。彼女が“らしく”つけるズレを、整えた」
「なんで」
朱里の声は震えていなかった。そのこと自体が痛い。
「アクセスが集中していた。期待値が上がっていた。読みやすくすれば、もっと読まれる。そう思った。……いや、言い訳だ。本当は、僕の“正しさ”で彼女を守れると、思い込んだ。粗探しのコメントから、彼女を守れると」
「結果は?」
陽斗。
「反響は増えた。いいねもブックマークも増えた。けれど、コメント欄にいくつか、こう書かれた。“前よりらしさが薄れた気がする”。“丁寧になったけど、刺さらないところがあった”。それを見て、公開後に気づいた罪が胸に沈んだ。でも、打ち明けられなかった。あの夜のことも、校正のことも。謝れば壊れる気がして、怖くて、黙った」
僕の声が、自分に向かって跳ね返ってくる。部室の壁は薄いのに、罪の音は厚い。
「それからすぐ、事故があった」
朱里が言う。言葉の重さを正確に置く人だ。
「君は、謝らないまま、さちを失った」
「だから“謝罪の手紙”を書いた。何度も書いて、送れないまま下書きフォルダに残した。どの言葉も、遅すぎる気がして」
沈黙。
チャイムの名残りが、やっと消える。外の廊下の足音が途切れて、換気扇の低い音だけが残る。詩音が、短く息を吸った。
「皆川先輩。あの夜の第4話、わたし、三回読みました。読みやすくて、きれいでした。でも、たしかに“息継ぎの位置”が違った。……苦しかったのは、きっと、わたしじゃなくて、さち先輩」
詩音の目は、責めてはいない。けれど、事実はやわらかくない。
朱里の視線が、机の端から僕に戻る。怒りと理解が、両方乗っている。
「皆川。君は“作者を守るつもりで、作品から作者を消した”」
正確な言葉ほど、刺さる。うなずけない。けれど、否定もしない。喉が乾く。
陽斗が、壁から離れた。僕に近づきすぎない距離で、立ち止まる。
「じゃあ、今はどうする」
「下書きフォルダを見る」
僕は答え、キーボードに手を置いた。
「僕一人でじゃなく、みんなで。そこに、さちが何を置いたか知るために。僕が消した“癖”とは別の、彼女の意図を拾うために」
朱里が頷き、詩音が画面の角度を変え、陽斗が背後で腕を組む。
管理画面。アーカイブ。非公開。検索欄に「付録」と打つ。反応しない。ならば「extra」「appendix」「note」。ヒットゼロ。
発想を変える。作成者名を“鶴見さち”に限定し、ラベルを“画像添付あり”に。日付範囲を事故前の一か月。
ヒットが一件あった。
タイトルは、驚くほど素っ気ない。
「r-map」
朱里が息を呑む。「r、って“reader”?」
開く。
白いページに、灰色の小さな見出し。本文は箇条書きで淡々としている。派手な比喩はない。むしろ、手紙の下書きのように短い行が並ぶ。
――読者のための地図
――校内にある脇道
――BGM(昼の二曲目、ライブ盤。サビ落ちの前にチャイム)
――放課後の匂い(線香と消しゴムの粉、雨の日は湿った掃除用具入れ)
――窓際の席番号(三年四組、窓側三列目のいちばん後ろ。放課後の光)
――海(近い。合言葉は砂の上で)
詩音が思わず声を出す。「……付録だ」
陽斗の耳の後ろの筋肉がぴくりと動く。「BGM、ライブ盤って、俺らが流してるやつと同じじゃん」
朱里は黙って、行間に視線を滑らせる。僕は、胸の奥で何かが崩れる音を聞いた。崩れて、しずかに形が変わる。
「さらに添付がある」
朱里がスクロールを止める。
ページの下部に小さなサムネイル。白い紙に黒いインク。彼女の字。
“窓際の席番号”の文字の隣に、笑っている誰かの写真。構図が見覚えのある手つきで、朱里が撮ったのだと一目でわかる。体育館の脇で撮ったときのクセが、そのまま出ている。
サムネイルをクリック。画像が大きく開いた。
そこに写っているのは、さちの手元。ノートの端。ペン。窓のフレーム。
画面の右上に、ちいさく“情報”のアイコンが出ている。クリック。EXIFの項目が展開した。
撮影日時 16:42:07
カメラ スマートフォン(機種型番)
位置情報 校内(図書室近辺)
16:42。
僕と陽斗が、同時に時計を見る。放送室の壁の時計。
いつも三分遅れている。
サーバ側の時刻で十六時四十五分台にアクセスが記録され、クライアント側のログは十六時四十二分台。
EXIFは、放送室の時計の時間で止まっている。つまり、彼女は生前から“放送室の時間”で、自分の世界を記録していた。
朱里の肩が震えた。「……ずっと、そうだったんだね」
陽斗は低く笑って、すぐ笑いを引っ込めた。「三分遅刻、ほんとに合言葉みたいに使ってる」
詩音はモニターの光の中で、静かに頷いた。
「これは、最初から“読者へ”の作品だったんだ」
僕が口に出す。
声が、自分から離れていく。
「僕らに、道順を置いていた。読むための。来るための。校内の匂いまで、合図だった」
「皆川」
朱里が僕を見る。その視線は、さっきよりやわらかい。けれど、甘さはない。
「校正で“息継ぎ”を整えた君の手は、彼女を消そうとしたんじゃない。たぶん、たどり着く道を少なくしただけ。彼女は、その先に“脇道”を残してた。……読者のための」
言葉が胸に入って、痛みと同時に熱を持つ。
僕は画面に戻り、さらにスクロールする。
付録の末尾に、小さな一文が追加されていた。投稿日時は事故の二日前。
――“もし迷ったら、放送室の音を追ってきてね。海は近い”
詩音が息を吸う。陽斗が肩で笑う。朱里は目を閉じ、開く。
僕は顔を覆った。掌の内側が熱い。
誰にも見せないつもりで残した“謝罪の手紙”より先に、彼女の“招待状”があった。
謝ることより先に、来いと言われている。三分遅れでも、と。
掌から顔を外す。少し、笑えた。
「……僕らは、遅れてる。けど、地図がある」
「地図があるなら、行ける」
陽斗が言う。
「合言葉、覚えてる」
詩音が言う。
「“海で言って”」
朱里が続ける。
言葉がひとつずつ、机の上に並ぶ。
BGM。放課後の匂い。窓際の席番号。そして、海。
地図の記号は、すべて、今ここにある。
画面の端に、点滅する通知が出た。
――読者の脇道に新しい投稿。
クリックする。
〈読んでくれているあなたへ。続きを渡したい〉
さっきと同じ文。けれど、今度は一行、下がっていた。
その空いた一行は、座席の余白みたいに見えた。誰かが座る場所だ。僕らのための。
視界の端で、早坂の影がドアのところに揺れた。
「生徒会から。図書室の監視、今夜だけ許可する。明日はだめ」
「今夜、図書室?」
朱里が訊く。
「IPは、図書室端末。さっきの投稿も。……でも、誰かを捕まえるためじゃない。会うための並び方を、間違えないで」
早坂の言葉は、いつも刃じゃなくて重りだ。浮き上がりそうな心を、静かに地面へ引き戻す。
僕は頷き、机の上に置いたノートを閉じた。
「行こう。今夜、地図の通りに。BGMの時間に、放課後の匂いのする廊下を通って、窓際三列目を横目に図書室に入る。三分遅れでいい。いや、三分遅れで行く」
「鍵は?」
陽斗が僕のポケットを見た。
「返す」
「誰に」
「僕が、持つべきじゃない場所に置いてしまったのは、僕だ。だから、顧問に返す。正面から。……その前に、今夜は図書室だ。扉は開いている」
朱里が立ち上がる。椅子の足が床を擦る音。詩音が鞄の紐を握り直す。陽斗がギターを見て、置いたままにする。今夜は音を出さない。音は明日の昼、チャイムと重ねる。
部屋を出る前に、もう一度、画面を見た。
“r-map”。
読者のための地図。
そこに添えられた写真。EXIFの16:42に、僕は笑う。
三分遅れのまま、ずっと彼女はそこにいた。
放送室の時間で、呼んでいた。
僕らも、同じ時間で、行けばいい。
――視点:朱里――
図書室の匂いは、紙だけじゃない。窓際の観葉植物の湿り気と、カーテンの埃と、古いワックスの甘さが混ざっている。
夜の七時。許可された時間の真ん中。
カウンターには司書の先生がひとり。その奥に端末が三台。
私たちは、並び方を決めて入った。皆川は端末へ。詩音は閲覧席。陽斗は入口の内側。早坂は廊下の角。
誰かを追い詰めないように。
逃げ道を塞がないように。
でも、招待を無駄にしないように。
心臓の音が、いつもより正直だ。
――読者ってね、届くまで読む人だよ。
さちの声が、私の内側でいつも通りに言う。
届くまで、という言葉には、時間が入っている。三分でも、半年でも。
そして、読むという言葉には、目だけじゃなく、足も入っている。匂いも、音も。
地図は、すでに置かれている。
読むのは、私たちだ。
端末の画面が更新される。皆川が身じろぎしない。
“読者の脇道”に、新しい書き込み。
〈あの合言葉を、海で言って。窓際の席で練習して〉
私は無意識に、三年四組の教室の窓際三列目の席を見ていた。今はここは図書室なのに。
あの席に、さちがよく座っていた。頬杖をついて、笑っていた。
撮ったのは私だ。笑って、と言わなくても笑った。
写真のEXIFが、放送室の時間だったこと。
彼女は、最初から、ここにいる誰かの“時間”に寄り添っていた。
それなら、私たちも寄り添える。
謝罪の手紙は、まだ送らなくていい。
今日は、招待状に返事をする番だ。
入口のガラスに、影が映る。
小柄な人影。フード。
肩は細い。歩幅は小さい。
けれど、歩き方は、迷いすぎていない。
招待状を出した人の歩き方。
陽斗が一歩も動かない。詩音も。皆川は立ち上がらない。
私だけが、わずかに顎を上げた。
“気づいているよ”の合図。
影がこちらを見て、ほんの少しだけ会釈する。
そして、返却台に本を置く。
背表紙の“海”の文字。
相手は、まだ名乗らない。
でも、十分だ。
届いた。
地図の上に、ひとつ、旗が立った。
フードの影がゆっくり去る。
追わない。
追えない。
追うのは、合言葉の日。
海で言う、その日。
私たちはその日まで、届くまで、読む。
放送室の時間で。
三分遅れのまま、間に合う歩幅で。
図書室を出ると、風が海の匂いを運んできた。
夜の校舎のガラスが、遠くの街灯を借りて青く光る。
皆川が小さく笑うのが聞こえた。
「地図、見えたね」
「見えた」
私は答える。
「さちが置いた“読者向け付録”は、ずっとここにあった。私たちが、ようやく読める場所に来ただけ」
陽斗がポケットを叩く。鍵の銀色が、一瞬だけ覗いて消えた。
「返す。ちゃんと、返す。……その前に、明日の二曲目」
「ライブ盤で」
詩音が笑う。
「サビ落ちを、チャイムに重ねる」
「三分遅れで、間に合う」
皆川の声が軽くなる。
私たちは、それぞれの足音で階段を降りた。
窓の外に、見えるはずのない水平線が薄く浮かんでいた。
海は近い。
読者のための地図は、たしかに、ここにある。
合言葉の日まで、読み続ける。
届くまで、読む。
届くまで。




